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 あたたかな唇が当たり、マスロフスキーが微笑んでいる。今までの人生でもっとも幸福の時を迎えたのだと、メレディスは心の底から感じた。そして、心地の良い夢から目を覚ました。最初、自分がどこにいるのかわからなかった。しかし、ここは自分の部屋だった。起きてしばらくして冷静に考えると、自分は昨日一人で寝室に戻って来て眠った事を思い出した。夢の中の二人は、ベッドを共にしていたが、現実のメレディスとマスロフスキーは未だ清い関係のままである。

 メレディスは顔を覆って唸った。今朝の自分はどうかしている。

(きっと、発情期だ。それで、αのフェロモンにやられてるんだ!)

 メレディスは手帳を開いてカレンダーを確認する。しかし、次の発情期までまだ一月半以上ある。そもそも、Ωはαのフェロモンにやられる事はなかった。フェロモンにいかれるのは、αの方だ。

(それじゃいったい、どう言う事だ……)

 メレディスは頬杖をついて考えた後、鞄の中に手帳を叩きつけて思考を停止した。

(良いや、これは気のせいだ。俺がαにキスされて、くらりとするはずがない!)

 そう結論を出して、ベッドから飛び起きた。ちょうどそこに、召使のリリーがやって来た。

「おはようございます、メレディス様」

 彼女の目の下には、うっすらとクマが出来ていた。まだ、この生活に慣れられていないのだ。
 身支度を手伝ってもらっていると、リリーが声をあげる。

「あら、アレはどこにやったかしら?」

 リリーが衣装箱の中に体を突っ込んで探している。

「どうしたんだ?」
「白の花飾りがあったでしょう? どこにやったかと思って。この赤の礼服には、あの花飾り一番合うのに」

 今、着ている赤の礼服は、特別似合うと言われた事のある服だった。別にマスロフスキーに見せる事を意識したわけではないのだが、久しぶりに袖を通す事にした。

「白の花飾りか……」

 メレディスは花飾りを頭の中に思い浮かべて、部屋の中を見渡した。大きな箪笥の引き出しを開ける。入っていた白い箱を開けると、そこにまさしく白の花飾りが入っていた。

「リリーあったよ」
「あらやだ、そっちに入れていたのね」

 リリーが花飾りを受け取る。

「それにしても、メレディス様は失せ物探しが本当に得意ですよね」
「ふふっ、運が良いだけだよ」

 リリーが、メレディスの胸に花飾りを付けてくれる。

「うん、とっても似合ってますよ」

 リリーが微笑む。
 鏡を見ると、確かに我ながら見栄えのする恰好だと感じた。

「これなら、もうあらゆるαの方が求婚をして来ますよ」

 リリーの言葉に、メレディスは片眉をあげる。

「誰の求婚も受ける気はないけどね」
「『血の番人』よりも、良い方がきっといますよ」

 リリーの言葉を、メレディスは髪を整えながら聞き流した。



 綺麗に服を着飾って食堂に行ったが、そこにマスロフスキーの姿は無かった。

「彼はどうしたんだ?」

 執事のティルに尋ねる。

「マスロフスキー様は、仕事がお忙しいのです」
「それは、伴侶との食事よりも優先すべき事なのか?」
「マスロフスキー様の急な仕事は、大体が国の大事なので仕方ありません」
「まぁ、それならば……仕方がないか」

 『知の番人』、国の大賢者。彼の仕事を少し誇らしく思った。おかげで、着飾った恰好を見せられなかった事を残念に感じたが、その思いを慌てて振り払った。

「メレディス様は、今日はどうお過ごしで?」
「俺は、図書館に行くよ。気になる本がいろいろあったからな」
「それは良い事です」

 朝食を終えてから、大図書館の第一区画に向かった。



 第一区画内で本を見ていると、司書達がチラチラと何度も視線を寄越して来る。メレディスは視線を感じるたびに顔を上げて、笑顔を見せた。すると司書達は視線を反らしてしまう。どうにも彼らに警戒されているような気がした。メレディスは、近くの司書に近づいて声をかける。

「こんにちは、何をなさってるんですか?」

 長い髪を後ろで縛った女性は驚いた顔をする。

「ほ、本を探しているんです」
「なるほど……」

 彼女が見ているメモ紙を隣から見る。

「この本達を探しているんですね」

 メモ紙には、ざっと十以上の本のタイトルが並んでいた。

「お手伝いしますよ」
「い、いえ! そんな! メレディス様の手を煩わせる事では、ありませんので!!」
「物探しは得意なんだ」

 彼女のメモを、横目に見て本棚を眺めた。

「一冊目はコレかな」

 本棚から、一冊本を抜き取って彼女に見せる。

「あ」

 彼女はとても驚いた顔をした。

「二人でやった方がきっと早いですよ」


 彼女は少し考える素振りを見せた後、小さく頷いた。

「では……お願いします」

 メレディスは機嫌よく頷いて、本棚の中を見て回った。半刻もしない内に、二人はメモ紙に書かれた本を全て見つけてしまった。

「メレディス様、助かりました。本当に、探し物が得意なんですね」

 大図書館は、沢山本があるので本はジャンル事に仕分けがしてある。しかし、時に大図書館を利用した一般客が本を別の本棚に移動させてしまう事があった。そうなると、本探しが大変面倒な事になる。彼女……ララが探していたのは、そういう行方不明の本ばかりだった。

「今日は一日、本探しで終わると思っていました。良かったら、カウンターで一緒にお茶を飲みませんか?」

 ララの申し出を受けてカウンター内に行き、出されたお茶を飲む。小皿に盛られた砂糖菓子も食べる。

「メレディス様って、貴族なのに気さくな方なんですね」
「あんまり偉ぶるのは、得意じゃないんだ」

 特に、Ωはαに仕える為に生まれて来たような存在である。偉そうに振る舞う事より、従順にする事を教えられた。メレディス自身は、αに大人しくかしずく事を望んではいなかったが。

「あの……メレディス様は、マスロフスキー様の事が怖くないんですか?」

 その質問に、メレディスはぱちくりと瞬きをしてしまった。
 マスロフスキーを『変わり者』だとは思っても、『怖い』と思った事は一度も無かった。

「怖くはないよ」
「勇気があるんですね……」
「……ララは、マスロフスキーのどういうところが怖いんだ?」
「それは……、まず一度もお会いした事が無いんです」
「一度も?」
「はい。私、ここに努めて二年が経つんでけど、まだ一度もマスロフスキー様に会った事がないんです。それに、先輩達がマスロフスキー様は恐ろしい方だと話すので……」
「先輩達はなんと言ってるんだ?」
「冷徹な方だと。紙面だけで、いつも淡々と命令をされるので、彼には人の情など不要なのだろうと……。それに、マスロフスキー様は禁書を読む権利を持っていらっしゃるので……恐ろしいです」

 メレディスは首を傾げた。

「禁書?」
「国が読むのを禁止した本です。理由は様々ですが、国を乱すような記述の多い本なのだそうです」

 ララは怖そうに首をすくめた。

「なるほど……」

 おそらく、その特殊な本を読む権利を有しているせいで、マスロフスキーに奇妙な噂がたっているのだろう。

(まぁ、何より人前に出て来ないのが問題だけどな……)

 メレディスはララとお茶を飲んだ後、別の本探しを手伝った。厄介な本探しを手伝った事で、ララや他の司書達と少し打ち解けられた気がして嬉しかった。



 夕餉の席で、メレディスはマスロフスキーをチラチラと見る。彼は、やや疲れた様子で食事を口に運んでいた。残念ながら、服への反応はない。

「仕事は終わったのか?」

 マスロフスキーが、メレディスを見る。

「えぇ、つつがなく」

 国の大事は去ったらしい。
 メレディスは、今日あった事をマスロフスキーに話す。彼は、遮る事もなく、それを頷いて聞いた。

「なぁ、提案なんだが。その内、二人で司書達のところに行かないか?」

 すると先ほどまで、穏やかな様子で聞いていたマスロフスキーがフォークの手を止める。

「何故ですか?」
「だって、結婚したんだぞ。あんたこの大図書館で、司書達の上司みたいなもんなんだろう? なら、報告に行くのが普通だろ?」

 しかし、マスロフスキーは眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をした。

「遠慮します」

 スッパリと断ったマスロフスキーは、黙って食事を再開する。

(こりゃ、人間嫌いの根が深いな)

 メレディスは仕方なく別の話題をふって、マスロフスキーの機嫌が良くなるのを待った。なぜ、自分がこの男の機嫌をとっているのかよくわからなかった。ただ、自分の前で眉間に皺を寄せて黙っていてほしくなかった。

「なぁ、マスロフスキー……」
「アレクセイです」

 メレディスはキョトンとした顔をして、彼を見つめる。

「番となったのですから、名を呼んでください」

 伴侶としては当然の提案に戸惑いながら、メレディスは頷いた。

「アレクセイ」
「はい」
「良い名前だな」
「ありがとうございます。私も国の偉人の名前を付けてくれた両親に感謝しています」

 アレクセイが微笑むのがわかった。最初に会った時よりも、彼は表情豊かに見えた。それとも、メレディスが彼のわずかな表情の変化を読めるようになっただけだろうか。小さく笑みを浮かべた彼の口元を見て、メレディスはアレクセイがキスしてくれないかと不意に思った。そして、その思考に自分で驚いた。

 デザートをもうすぐ食べ終わる。しかし、なんだか名残惜しい気がして、メレディスは努めてゆっくりと食べた。

「メレディス、あなたはチェスは出来ますか?」
「チェスは好きだぞ」

 体を動かす遊びより、盤上での遊戯をメレディスは好んだ。

「では、食事後に一局お願いしても?」
「喜んで!」

 メレディスは久しぶりにチェスが楽しめる期待から、笑みを浮かべた。

 チェスの台の置かれた部屋に行き、二人で一局打ってみた。互いに、相手の実力を推し量るような勝負だった。それでも、アレクセイが強い相手なのはよくわかった。

「もう、一局お願いしても?」

 アレクセイの提案を受けて、続けざまに三局打った。互いの実力は拮抗しているように思えた。面白い勝負相手を見つけられた事から、静かな興奮が互いを包んでいる事がわかった。そして、彼の思考の深淵を少し覗いたような気もした。アレクセイは賢い男だ。感情表現は乏しいが、けして冷血漢と言うわけではない。そんな彼が、好き好んで今の立場にいるのが不思議に思われた。頭の良い彼ならば、人に嫌われるより、好かれた方が良い事ぐらいわかっているだろうに。

(わざと、悪評を放置しているのか?)

 生贄のように置かれた歩兵の駒を見て、メレディスは目を細めた。




つづく

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