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■二章

 リグレットは相変わらず図書館に頻繁に通っている。温室でよくアルベルトと本を読んだ。彼はとても読書家だった。
「アルベルトはどうして、たくさん本を読むの?」
「私ですか?」
 温室のテーブルには、互いに持って来た本が積まれている。
「……良い王になりたいからです。しかし、そのための自信が私には無かったので本をたくさん読むようになりました」
「まぁ、そうだったのですね」
 彼の知識量には、リグレットも驚く事があった。自国の事だけでなく、リグレットの祖国ヴィカンデル国の事もよく知っているのだ。
「貴方の広い知見はきっと、王になった後も生かされると思います」
「えぇ、そうなれば良いと私も思っています」
 彼はほほ笑む。
「リグレットはどうして、そんなに本を読むんですか?」
「私は……やはり、皇后になる可能性がありましたから、そのための勉強だと思って読んでいました。こちらに来てからは、貴方に恥じない后になりたくて、本を読んでいます」
「ありがとうございます。私は本当に、素晴らしい方を妻にもらったようです」
 彼がそっと近づいて来て、リグレットの頬にキスをする。
「しかし、今日は少々お互い根を詰めすぎましたね。よければ、休憩にしませんか?」
 既にテーブルには、読み終わった本が三冊並んでいる。夫婦が二人だけの休日にやっている事が読書だけと言うのは味気ない。
「そうね、そうしましょうか」
 アルベルトと手を重ねる。
「少し街の方に行きませんか?」
 意外な提案に少し驚く。
「えぇ、ご一緒します」
 しかし彼と一緒なら、どこにでも行きたい。
「良かった、では着替えて宮廷の前で会いましょう。お忍びなので、できれば庶民のような格好をしてくださいね」
 その提案にまた驚く。
「ふふっ、えぇわかりました」
 『お忍び』と言うのは、わくわくする言葉である。
 部屋に戻り、できるだけ庶民を意識した地味な服を着る。宮殿前で待ち合わせ、馬車に乗り込む。その馬車も、庶民が乗るような地味な馬車が手配されていた。二人馬車に揺られて、街を目指す。
「よく、こうして街に行かれるのですか?」
「えぇ、街の様子を見たくて」
 馬車は街の中に入って行き、途中の道で二人を下ろす。
「さぁ、行きましょう」
 彼と腕を組み、ともに歩く。街にはたくさんの人がいて、市場には色とりどりの食材が山のように積まれている。
「この市場で出回っている食材はヴィカンデル国から輸入されて来た物が多いんですよ」
 確かに、リグレットの見覚えがある食材が並んでいる。
「同じ食材を使っているのに、こちらの料理はクラハト国の物とは少し異なるのは不思議ですね」
「……そうですね。国の気候の違いも反映されるのでしょう」
「気候ですか?」
「えぇ、文献によれば寒い地方は辛い物を好み、熱い地方は甘い物を好む傾向が強いそうです」
 確かに、温暖なクラハト国の料理の味付けは甘く、寒冷なヴィカンデル国は辛い味付けの物が多かった。
「本当だわ、なんだか面白いですね」
「そうですね」
 彼と腕を組んで歩いていると、屋台からいい匂いがする。
「あれは何かしら?」
「あれはロティ・バカールと言う、屋台料理です。本のようにカットしたパンのページにそれぞれチーズや、コンデンスミルク、ジャムなどを一ページずつ塗った後、表面にマーガリンを塗って焼いた物ですね。とてもおいしいんですよ」
「お、おいしそうですね」
 リグレットは屋台をじっと見る。
「食べますか?」
「良いのですか?」
 祖国でも宮廷の外で食事するのは、まれな事だった。屋台料理などは、口にした事もない。
「えぇ、構いませんよ」
 アルベルトが屋台に近づき注文している。リグレットは、小さな屋台の中で魔法のように料理が作られる過程を凝視した。手際がよく、見ているだけで楽しい。焼きあがったロティ・バカールが、五つにカットされた後、紙袋に入れて手渡される。屋台から離れて、人通りの邪魔にならない所でそれを食べる。
「!」
 口の中にコンデンスミルクの味とチーズと甘いジャムの味が混ざり合う。なんとも、罪な味だった。
「おいしいでしょう?」
「えぇ、とっても!」
 これは病みつきになってしまう味だ。
「他にもおいしい屋台料理がいっぱいあるんですよ。覗きに行きますか?」
 リグレットは、首を大きく縦に振ってうなずく。
「ぜひ行きたいです!」
「では、そうしましょう。屋台料理は、作るのも宣伝パフォーマンスの一つなので、見ているだけでも楽しいですよ」
 ロティ・バカールを食べながら、屋台を覗く。買い食いしながら、他の屋台を品定めするなんて初体験だった。それはなんて、心躍る事なのだろう。結局屋台の集まりを抜けた頃には、リグレットはおなかいっぱいになっていた。いい匂いのする串に刺された豚肉、ふわわふの甘い綿菓子、油にぷかぷか浮いた小さなミニドーナツなど、どれもおいしく、見て楽しい物だった。
「とってもおいしかったです」
 最後に、買ったヨーグルトの甘酢っぱいジュースで口休めをする。
「それは良かった」
 アルベルトは満足そうに笑う。
「今度は、こっちを見てみましょう」
 料理の屋台を離れてやって来たのは、ナイフやアクセサリーなどの道具が並ぶ一帯だった。屋台にずらりと並べられた刃物に目を見張る。美しい刃は、なんでも切れてしまいそうだ。隣の屋台には、防具が並んでいる。鉄の鎧は美しい装飾が施されていて、まるで芸術品のようだ。そしてさらに隣には、アクセサリーの屋台がある。店内を埋め尽くすように、指輪やネックレス、髪飾りなどが並べ吊るされている。その光景は壮観である。その中には宮廷では目にする事の無い、素朴なデザインのアクセサリーもある。
「何か気に入る物はありましたか?」
 アルベルトが尋ねる。
「……これなんて、かわいいですね」
 リグレットは、うさぎの形をした木のネックレスを指差す。
「本当だ、かわいいですね」
 彼がそのネックレスを、上から外す。
「これ、一つください」
 店主にお金を渡す。
「はい、どうぞ」
 そのままリグレットの手にネックレスが渡される。
「あ、ありがとうございます」
 リグレットはそのかわいらしい、うさぎのネックレスを首にかける。
「うん、似合ってますよ」
 リグレットは、うれしくて笑みを浮かべる。
 手をつなぎ、彼といろいろな屋台を覗く。屋台を見れば、ヴィカンデル国の事がよくわかった。しかしなによりも、アルベルトともにこの時間を一緒に楽しめているのがうれしい。リグレットは、二十まで恋を知らずに生きて来た。そんなモノは、永遠に縁の無いモノなのだろうと思っていた。それでも、物語の本を読んだ時に、恋とはそれ程、心躍るモノなのかと思いをはせた事もあった。その恋をリグレットは今、胸の中に抱いているのだ。彼と一緒にいるだけでうれしくなり、自然と笑顔が浮かぶ。手をつなげば、それだけで顔が熱くなるような歓喜があった。こんなに心が躍るのは、きっとリグレットが彼に『恋』をしているからに違い無い。
 騒がしい市場を離れて、街の中を歩く。そろそろ、帰る時間だった。お忍びではあるが、近くには私服の兵隊達が着いて二人を守っている。あまり長い時間、ここにはいられないのだ。
「アルベルト、今日はとても楽しかったです」
「私も楽しかったです。また、一緒に行ってくださいますか?」
「もちろんです。何度だって、一緒に行きます」
「ふふっ、そんなにロティ・バカールの味が気に入りましたか?」
 あまりにもおいしかったので、五つあったロティ・バカールの三つをリグレットが食べてしまったのだった。リグレットは羞恥で顔が少し熱い。
「そ、それもあるのですが、貴方と一緒ならどこにだって行きたいです」
「ありがとう。街だけではなく、他のところにも行きましょう。ヴィカンデル国には貴方に見せたい所がたくさんあるんです。……そうだ、いつかマルグリートの滝を見に行きませんか?」
「マルグリートの滝ですか……?」
 滝と言うのは、聞いた事がある。高い土地から水が流れ落ちた場所を言うのだ。
「すごく大きな滝があるんです。見たら感動しますよ」
「まぁ、それはぜひ見てみたいです」
「では、約束です」
 彼がリグレットの手の小指にキスをする。リグレットは、うれしさで胸の中がいっぱいになるのを感じる。
「このネックレスも大事にしますね」
「えぇ、そうしてくださるとうれしいです」
 二人手をつないで、帰りの馬車に乗る。馬車に乗った後も屋台の話や、未来の旅行の話をずっと楽しく続けるのだった。 

***

 森の湖でボートを漕ぎ、リグレットとマティアスは他愛ない話をしていた。
「気持ちの良い場所ですね」
 彼女が、水に触れる。触れた水面が揺れて、日の光を受けて輝く。
「お気にめしましたか?」
「えぇ、とっても」
 リグレットはほほ笑む。その笑みを見ると、マティアスは心臓が跳ね体が喜びで震えるのを感じた。今、彼は恋の嵐のただ中に居た。
「とは言え、クラハト国にも湖はあったのでしょう?」
「えぇ、ありましたよ。ですが、私を乗せてくれる方はいませんでした」
 その返答にマティアスは驚く。
「なぜですか?」
「……私は『鉄の女』でしたから」
 彼女は自嘲気味に笑う。それは、彼女を表して付けられたあだ名だった。マティアスも聞いた事がある。
「それは……どう言う意味なんですか」
「ふふっ。私は長い間、弟と皇位継承権争いをして来ました。実の父に憎まれながら、それでも諦めなかった私を蔑んで付けられた言葉です」
「ひどい話だ……」
「えぇ、おかげで誰も私を湖に誘うなんて事はしませんでした。私も、殺される可能性のある場所には行かなかったでしょうし」
 マティアスは眉を寄せる。
「貴方は、クラハト国ではどんな暮らしをしていたんですか?」
「私ですか? 私は……私はずっと一人でした」
 リグレットは遠くを見る。
「皇后になるために必死に勉強していましたが、父は振り向いてくれませんでした。今、思えば私は父に愛してほしかったんでしょうね。だから、膝を折らず必死に立ち続けた。それが、父の怒りをさらに煽る事だとは気づかずに」
 リグレットは悲しそうに笑う。
「もちろん、民のためと言う気持ちもありました。でも、本当の本音は父に子として認めて欲しかったのだと思います」
 マティアスはオールから手を離して、彼女の背を抱く。小さな背だった。以前話した時にも垣間見えた彼女の孤独の形を見て、マティアスはひどく胸が痛む。その孤独は、マティアスが胸に抱く物とも似ていたからだ。
「大丈夫です。ここでは私が守りますからね」
 リグレットが顔をあげる。
「ありがとうございますアルベルト様」
 その時、マティアスは動揺で目を見開いてしまった。今程、自分が『アルベルト』である事を憎んだ事は無い。
「俺は……」
 はっとして、何かを言おうとした自分の口を閉じる。リグレットが不思議そうに見ている。
「すみません、なんでもありません」
 リグレットの体を強く抱く。
「アルベルト様も、胸に痛みを抱えておられるのですか?」
 その問いにマティアスは驚く。
「どうしてですか?」
「……時折アルベルト様は、孤独を抱えた目をなさいます。今も、また」
 その時、マティアスは彼女に自分の名を伝えたくてたまらなくなった。しかし、それは許されない事だ。双子の秘密は、けして口にしてはならない。リグレットがマティアスの背を優しく抱き返す。
「いつか、私に話してくださいね」
 彼女の柔らかな手を感じながら、マティアスは自分の孤独の心にひびが入るのを感じた。彼女に全て話してしまいたい。けれど、それはできない。
「ね、アルベルト」
―俺はマティアスだ。
 マティアスは目を閉じて、彼女を静かに抱き締めた。

***

 マティアスから湖の話を聞き、アルベルトは屋台での事をマティアスに聞かせる。リグレットに二人の事が気づかれないように、彼女に関する情報の交換は細かく行った。時折、マティアスの方が努めて柔和にふるまったり、アルベルトの方が少しリグレットをからかったりして、互いの性格の差異から生じる違和感を無くすようにしてもいた。愛するリグレットに、夫が二人いる事をけして知られてはいけなかった。
「ほぉ、木のネックレスを彼女は喜んでいたのか」
「えぇ、素朴なデザインが好きなのだと言っていました」
 マティアスは、何かを考えているようだった。
「彼女は俺とおまえ、どちらを好きなのだろうな」
 アルベルトは戸惑う。
「それは……彼女が愛しているのは、ヴィカンデル国の王子です。という事は、私たち二人を愛しているのです」
「違う、俺たちは二人だ。一人ではない」
 マティアスがアルベルトをにらむ。こんな言い争いは初めてだった。
「どうしたのですか、マティアス。私たちは二人で一人です。そんな事は、子どもの時から自覚して生きて来た事でしょう」
「違う……俺は……俺はおまえの影だ」
「マティアス、貴方は影などではありません」
「だが、俺を知る者は家族以外誰もいない」
 マティアスの瞳が揺れて、淀む。アルベルトは、胸の痛みを覚えた。マティアスは、時折こうして不安の淵を覗く事があった。そうした時、アルベルトにも彼を救ってやる事はできなかった。
「……彼女に真実を告げられないだろうか」 
 アルベルトは目を見開く。
「それは危険です」
「だが、おまえも彼女の人となりを知っただろう。理知的な女性だ。双子の迷信など、気にしないかもしれない」
 確かに、リグレットなら宗教を根拠に双子を殺す事をよくは思っていなかもしれない。しかし、問題はもう一つあった。
「『男は一人の女を妻に持ち、女は一人の男を夫とするべきだ』」
 それはハポン教の聖書に書かれた言葉だった。信徒なら、当然守るべき規律の一つである。信徒でなくても、二つの国では常識的に妻と夫は一人ずつなのが普通である。
「真実を知れば、彼女を悩ませてしまうかもしれません」
「……」
 マティアスが、うつむき拳を握る。
 真実を伝えればリグレットは自分が知らぬ間に、二人の男と寝た事を知るだろう。貞淑な妻である彼女が傷つくのは目に見えている。
「もしかしたら、私たちは二人とも彼女の愛を失うかもしれません……」
 怒った彼女は国に帰ってしまうかもしれない。
「ですから、真実は伝えられないのです。それが、不誠実な事だとしても……」
 マティアスが、顔を覆い隠す。
「それでも……俺は……彼女に見て欲しい……」
 弱々しくつぶやかれた言葉に、アルベルトの胸がひどく痛む。
「申し訳ありません……」
 同じ双子のアルベルトにも、彼の孤独を癒やす事はできなかった。


つづく

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