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離縁騒動の翌朝、王都は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
献身的な伯爵夫人が突如として夫を捨てた。
いや、伯爵が妻の命を食い物にしていた。
聖女アメリアと伯爵の距離が近いように感じた。
なんだ、夫婦の痴話喧嘩か。
噂は好き勝手に膨らんだ。
セレフィナは実家フォルナー伯爵家の離れへ戻り、ひとまず王都の喧騒から距離を置くことにした。
父は驚きつつも、娘の顔色を見て何も責めなかった。
母は泣いて抱き締めた。
「ごめんなさい、お母様」
「何を謝るの。あなたが生きて帰ってきてくれただけでいいのよ」
その言葉に、セレフィナは少しだけ泣いた。
前世では、処刑台に立つ時まで親不孝ばかりだったと思ったから。
離れでの生活は静かだった。
温かいスープ。乾いた寝具。薬臭くない部屋。自分のためだけに淹れられたお茶。
それらが信じられないほど愛おしい。
だが、平穏は長く続かなかった。
七日後。
グレイヴァルト公爵家の使者が訪れた。
「公爵閣下がお目通りを願っております」
応接間に現れたディートハルトは、祝賀会の夜と同じく威圧感のある男だった。
高い背。無駄のない動作。切り揃えられた黒髪。冷えたような黒い瞳。
けれど、その目はセレフィナを値踏みしていなかった。
必要以上に近づかず、距離を測るように向かいへ腰掛ける。
「先日はお見事でした」
「褒め言葉として受け取ってよろしいのですか」
「はい。あれ以上利用される前に切ったのは正解です」
ずけずけした物言いなのに、不思議と不快ではない。
慰めでも同情でもなく、ただ事実として言っているからだろう。
「本日は、何のご用でしょう」
「取引を申し込みに参りました」
ディートハルトは一通の書類を机に置いた。
「北辺境で奇病が流行しています。発熱、皮膚の黒変、咳と喀血。通常の治癒では進行を止められない。あなたなら原因の見当がつくかもしれない」
「わたくしの力を使え、と?」
「いいえ」
即答だった。
「必要なのは、あなたの代償つきの治癒ではなく、知識と診断です」
「……どうして、わたくしに」
「あなたは治癒師である前に、研究者でしょう」
セレフィナは目を見張った。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
誰もが彼女を“奇跡の治癒師”か“献身的な伯爵夫人”としてしか見てこなかった。
薬草学と呪術医学に没頭していた少女時代も、診断書と症例記録を好む性格も、皆にとっては些細なことだった。
この男だけが、そこを見ている。
「報酬は望む額を。人員も設備も用意する。護衛もつけます。無論、断ってくださって構いません」
「どうして、そんな好待遇なんですか?力を使わないのに。」
「あなたの知識にそれだけの価値があるからです。それとこれ以上、命を安売りしてほしくない」
淡々とした口調なのに、どこか切実だった。
セレフィナは迷った。
辺境は遠い。危険かもしれない。王都から離れることにも不安はある。
けれど同時に、ここに留まればまた他の誰かに力を、そして命を消費されるかもしれないと思った。
研究者として働く。
誰かの妻ではなく、自分の足で立つ。
「……行きます」
「助かります」
「ただし条件があります」
「伺います」
「わたくしを可哀想な女として扱わないでください」
「心得ました」
「それから、わたくしが無理をしそうになったら止めてください」
「それは」
ディートハルトの口元が、わずかに緩んだ。
「最初から、そのつもりです」
献身的な伯爵夫人が突如として夫を捨てた。
いや、伯爵が妻の命を食い物にしていた。
聖女アメリアと伯爵の距離が近いように感じた。
なんだ、夫婦の痴話喧嘩か。
噂は好き勝手に膨らんだ。
セレフィナは実家フォルナー伯爵家の離れへ戻り、ひとまず王都の喧騒から距離を置くことにした。
父は驚きつつも、娘の顔色を見て何も責めなかった。
母は泣いて抱き締めた。
「ごめんなさい、お母様」
「何を謝るの。あなたが生きて帰ってきてくれただけでいいのよ」
その言葉に、セレフィナは少しだけ泣いた。
前世では、処刑台に立つ時まで親不孝ばかりだったと思ったから。
離れでの生活は静かだった。
温かいスープ。乾いた寝具。薬臭くない部屋。自分のためだけに淹れられたお茶。
それらが信じられないほど愛おしい。
だが、平穏は長く続かなかった。
七日後。
グレイヴァルト公爵家の使者が訪れた。
「公爵閣下がお目通りを願っております」
応接間に現れたディートハルトは、祝賀会の夜と同じく威圧感のある男だった。
高い背。無駄のない動作。切り揃えられた黒髪。冷えたような黒い瞳。
けれど、その目はセレフィナを値踏みしていなかった。
必要以上に近づかず、距離を測るように向かいへ腰掛ける。
「先日はお見事でした」
「褒め言葉として受け取ってよろしいのですか」
「はい。あれ以上利用される前に切ったのは正解です」
ずけずけした物言いなのに、不思議と不快ではない。
慰めでも同情でもなく、ただ事実として言っているからだろう。
「本日は、何のご用でしょう」
「取引を申し込みに参りました」
ディートハルトは一通の書類を机に置いた。
「北辺境で奇病が流行しています。発熱、皮膚の黒変、咳と喀血。通常の治癒では進行を止められない。あなたなら原因の見当がつくかもしれない」
「わたくしの力を使え、と?」
「いいえ」
即答だった。
「必要なのは、あなたの代償つきの治癒ではなく、知識と診断です」
「……どうして、わたくしに」
「あなたは治癒師である前に、研究者でしょう」
セレフィナは目を見張った。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
誰もが彼女を“奇跡の治癒師”か“献身的な伯爵夫人”としてしか見てこなかった。
薬草学と呪術医学に没頭していた少女時代も、診断書と症例記録を好む性格も、皆にとっては些細なことだった。
この男だけが、そこを見ている。
「報酬は望む額を。人員も設備も用意する。護衛もつけます。無論、断ってくださって構いません」
「どうして、そんな好待遇なんですか?力を使わないのに。」
「あなたの知識にそれだけの価値があるからです。それとこれ以上、命を安売りしてほしくない」
淡々とした口調なのに、どこか切実だった。
セレフィナは迷った。
辺境は遠い。危険かもしれない。王都から離れることにも不安はある。
けれど同時に、ここに留まればまた他の誰かに力を、そして命を消費されるかもしれないと思った。
研究者として働く。
誰かの妻ではなく、自分の足で立つ。
「……行きます」
「助かります」
「ただし条件があります」
「伺います」
「わたくしを可哀想な女として扱わないでください」
「心得ました」
「それから、わたくしが無理をしそうになったら止めてください」
「それは」
ディートハルトの口元が、わずかに緩んだ。
「最初から、そのつもりです」
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