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辺境へ戻ってからの春は、驚くほど穏やかだった。
診療所は正式に拡張され、セレフィナの提案で研究棟が建てられることになった。
薬草園も作る。北でも育つ品種を選び、温室の構造を工夫し、若い治癒師たちに栽培法を教える。
「先生、この列は解毒草でいいですか?」
「ええ。そちらは肺機能補助の薬草と分けて植えて」
「公爵様、また土を運んでる」
「領主ですから」
「領主の仕事じゃないですよね?」
「……婚約者の手伝いです」
その一言で周囲が沸いた。
ディートハルトは無表情を装っていたが、耳だけ少し赤い。
セレフィナは笑いをこらえきれず、温室の柱に額を押しつけた。
辺境の人々は、婚約を心から祝ってくれた。
「先生なら絶対そうなると思ってました!」
「公爵様、やっとですか!」
「長かったですねえ」
「お前たちはいつから気づいていたんだ」
「最初からです」
「最初からではありません」
「最初からですよ」
ディートハルトが少しだけ困った顔をする。
そんな顔が見られるのも、今ではセレフィナの密かな楽しみだった。
ある日の夕方。
薬草園の苗を見回っていたセレフィナは、ふと足を止めた。
柔らかな春風が銀髪を揺らす。
見上げれば、高い空がどこまでも澄んでいた。
「公爵様」
「ディートハルトで構いません」
「では、ディートハルト様」
「はい」
「わたくし、今とても幸せです」
隣を歩く彼が、ゆっくりとこちらを見る。
「レオンと結婚していた時は、幸せの形を間違えていました。必要とされることが愛だと思っていた。でも本当は違った」
「……」
「愛って、相手の傷を全部一人で背負うことではないのですね」
「ええ」
「ともに歩んでいくことなのですね」
ディートハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに笑った。
泣きそうなほど優しい、珍しい笑みだった。
「あなたは本当に、強い人だ」
「違います」
セレフィナは首を振る。
「強くなれたのです。ようやく」
彼は立ち止まり、そっとセレフィナの頬に触れた。
大きな手。硬い指。けれど触れ方は驚くほど慎重だ。
「今後、あなたの傷を私にも分けてください」
「引き受けるのではなく?」
「ええ。半分ずつ、です」
セレフィナはくすりと笑い、その手に自分の手を重ねた。
「では約束です」
「約束します」
もう二度と、誰かの都合のいい器にはならない。
もう二度と、愛と搾取を取り違えない。
この手は救うためにある。
ただし今度は、自分も含めて。
薬草園の向こうでは、若い治癒師たちが苗箱を運んでいる。
診療所からは子どもの笑い声が聞こえる。
生きている人の声だ。未来へ続く声だ。
セレフィナはその音を胸いっぱいに吸い込んだ。
死に戻ったあの日、自分は誓ったのだ。
もう二度と、あなたの傷は引き受けないと。
あの誓いは、失うための言葉ではなかった。
自分の人生を取り戻すための、最初の祈りだったのだ。
そして今、彼女はようやく知る。
誰かのために命を捨てることだけが愛ではない。
自分を大切にした上で、それでも誰かと手を取ること。
それこそが、本当に欲しかった幸福なのだと。
春の光の中で、セレフィナはディートハルトと並んで歩き出す。
今度こそ、誰にも奪わせない未来へ。
自分の足で。
自分の意志で。
診療所は正式に拡張され、セレフィナの提案で研究棟が建てられることになった。
薬草園も作る。北でも育つ品種を選び、温室の構造を工夫し、若い治癒師たちに栽培法を教える。
「先生、この列は解毒草でいいですか?」
「ええ。そちらは肺機能補助の薬草と分けて植えて」
「公爵様、また土を運んでる」
「領主ですから」
「領主の仕事じゃないですよね?」
「……婚約者の手伝いです」
その一言で周囲が沸いた。
ディートハルトは無表情を装っていたが、耳だけ少し赤い。
セレフィナは笑いをこらえきれず、温室の柱に額を押しつけた。
辺境の人々は、婚約を心から祝ってくれた。
「先生なら絶対そうなると思ってました!」
「公爵様、やっとですか!」
「長かったですねえ」
「お前たちはいつから気づいていたんだ」
「最初からです」
「最初からではありません」
「最初からですよ」
ディートハルトが少しだけ困った顔をする。
そんな顔が見られるのも、今ではセレフィナの密かな楽しみだった。
ある日の夕方。
薬草園の苗を見回っていたセレフィナは、ふと足を止めた。
柔らかな春風が銀髪を揺らす。
見上げれば、高い空がどこまでも澄んでいた。
「公爵様」
「ディートハルトで構いません」
「では、ディートハルト様」
「はい」
「わたくし、今とても幸せです」
隣を歩く彼が、ゆっくりとこちらを見る。
「レオンと結婚していた時は、幸せの形を間違えていました。必要とされることが愛だと思っていた。でも本当は違った」
「……」
「愛って、相手の傷を全部一人で背負うことではないのですね」
「ええ」
「ともに歩んでいくことなのですね」
ディートハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに笑った。
泣きそうなほど優しい、珍しい笑みだった。
「あなたは本当に、強い人だ」
「違います」
セレフィナは首を振る。
「強くなれたのです。ようやく」
彼は立ち止まり、そっとセレフィナの頬に触れた。
大きな手。硬い指。けれど触れ方は驚くほど慎重だ。
「今後、あなたの傷を私にも分けてください」
「引き受けるのではなく?」
「ええ。半分ずつ、です」
セレフィナはくすりと笑い、その手に自分の手を重ねた。
「では約束です」
「約束します」
もう二度と、誰かの都合のいい器にはならない。
もう二度と、愛と搾取を取り違えない。
この手は救うためにある。
ただし今度は、自分も含めて。
薬草園の向こうでは、若い治癒師たちが苗箱を運んでいる。
診療所からは子どもの笑い声が聞こえる。
生きている人の声だ。未来へ続く声だ。
セレフィナはその音を胸いっぱいに吸い込んだ。
死に戻ったあの日、自分は誓ったのだ。
もう二度と、あなたの傷は引き受けないと。
あの誓いは、失うための言葉ではなかった。
自分の人生を取り戻すための、最初の祈りだったのだ。
そして今、彼女はようやく知る。
誰かのために命を捨てることだけが愛ではない。
自分を大切にした上で、それでも誰かと手を取ること。
それこそが、本当に欲しかった幸福なのだと。
春の光の中で、セレフィナはディートハルトと並んで歩き出す。
今度こそ、誰にも奪わせない未来へ。
自分の足で。
自分の意志で。
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