されど誰(た)が為の恋は続く ー番外編―

DNDD(でぃーえぬでぃーでぃー)

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 ギャップ。成る程。

 それだけは認めざるをえず、シャイズナは目の前の光景をながめた。青年の胼胝たこの浮いた指が、布目ぬのめに引っかかることもなく、見事な手さばきで包帯をっていく。刃物をてのひらに固定しておく物騒な能力にだけ特化しているように見えた彼の五指ごしは、治療を進めるうちに、そうやって次々とシャイズナの思い込みを裏切っていった。湿布しっぷを作る様子も手馴てなれていたが、それを貼付ちょうふしてからの手並みはそれ以上である。もしかしたらこの男は普段、即座に包帯固定だけででも応急的な処置をしなければ間に合わなくなるような場面に遭遇することが多いのかもしれない。

(当然か。旗司誓きしせいとか言ってたもんな)

 その時あわせて彼は、ザーニーイとも名乗った。

 そのどちらもが自称に過ぎなかったが、この手腕を見る限り、少なくとも前者を自称しても疑われないだけの腕前を持っているのは否定できなかった。

 旗司誓きしせいとは、都市部・内政をまも司右翼しうよく、都市部外・内政外を護る司左翼しさよく、これにぐ組織であるとされている。王家ア・ルーゼの支配が完璧とはいいがたい悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんにて、治安維持にまつわる、あるいは治安維持から派生する様々な業務に就く職能集団である。

(職能集団―――ね)

 自分の見つけた言い草に、シャイズナは鼻を鳴らした。確かに彼らは職能にけた者たちだろう……多種多様の暴力を対人関係において有効に発揮する能力を、職能と呼ぶのなら。武装犯罪者が息づきやすい―――というか何と言うか―――悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんにおいて、彼らは当然として武力制裁を取り・取られることに尻込しりごみしない。無論、国からおおやけに武力保有を許されている彼らであるから、理性に根ざした平和的な解決法を用いないこともないのだろうが、世の中の耳目じもくとはおおむね、血みどろの大乱闘といったような派手な醜聞しゅうぶんに集まるようにできている。

 つまりシャイズナらの住むような市街における一般通念上、旗司誓きしせいとは、正義面せいぎづらしている分だけタチの悪いちんぴらだった。

(そんなめんどくさいとこに当の旗司誓きしせいがノコノコ顔を出すなんて……こんな状況、普通は滅多にないんだよな。橙色だいだいいろとか緋色ひいろの制服も着ていないのに帯剣してるなんて、胡散臭うさんくさいこと限りないし)

 この国における、帯剣……合法に基づいた佩剣はいけんとは、正確に言えば、許可ではなく義務に当たる。つまり司右翼しうよく司左翼しさよく旗司誓きしせい等ある種の特殊な職務にく者は、その身分証明の一環を兼ね、なんらかの剣―――ここで言う『剣』とは、刀剣に代表される武器全般のことを示しているのだが―――を身に帯びることを法的に強制されているのである。もっともこれは剣の所有・・・・についてとり決めた法律とは別物である上、非合法に刃物を持つ暴漢のたぐいと私服の旗司誓きしせいとの見分けを困難にし、制服組……主に司右翼しうよくからの「武装犯罪者と混同される存在と我々が同列視されては、佩剣はいけんの品位を損う」との中傷ちゅうしょうあおる火種でもあった。

(だから街からの依頼のほとんどは、街に配置した下部組織を―――義賊ぎぞくを介して請け負うんだ。おかしな話だよな。他の国との商売とかを重視してやりくりすれば、悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんにいるだけで生活できるはずなのに、自分たちを邪険に扱う街からも依頼を受け続けてるなんて。なんでだろ? 原因は簡単だ。旗司誓きしせいの―――)

「器用貧乏な性分、だろうな」

 生前、父はそう告げてから、更に付け加えたのだ。

「品性とも言うか。現代では」

 旗司誓きしせいについて思い出すどれもは父親からの受け売りだったが、それらが的外れであるはずはない。父は悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんを行き交う商売も手がけていたのだから、義賊や旗司誓きしせいとは切っても切れない縁があってしかるべきだ。

 とはいえ、そんなもろもろの予備知識を軽く見ざるをえないほど、いやにとげとげしい雑念が絶えないこともまた事実だった。ザーニーイの面構えを見やって、うめく。

(……旗司誓きしせいってのもザーニーイって名前も、全部丸ごと、女の人に取り入るためのデマかもしれないし)

 結婚けっこん詐欺師さぎしというやつは、多少ならず品行方正から外れた歌舞伎者かぶきものを気取ることが多いと聞いたことがある―――

 とはいえ、ただの思い付きを、眼前の治療風景を否定する論拠ろんきょまで昇華しょうかできるはずもなく、シャイズナは再び無音でうめいた。どことなくにごった気分で、旗司誓きしせいを見詰める。最後に包帯のはしを固定する作業にふける彼の横顔は、はたから見ても無駄に均整が取れていた―――正面に引き寄せた椅子の上でザーニーイが足を組み、その膝頭ひざがしらに手の先を置かされてから治療が始まったことに、手の持ち主の姉が過緊張をもよおすほどに。それ自体は下心があってのことではなく、単に作業のしやすい高さに対象を安置し、尚且なおかつ両手を治療に費やすための合理的措置なのだろうが。

 異性など身内程度にしか身近に接しなかった彼女にとっては、拷問に近い。

「そんなに丁寧になさらなくても……放っておいてもいい位のあざですし……」

 その声音は、なんだかうわずっている気がする。

(姉ちゃん……父様とうさまだって言ってただろ? 旗司誓きしせいは地理的にも混血しやすいし、そもそも捨て子の時に粒選つぶよりされてからそこに来て育ったって連中だってありふれてるから、見栄えする野郎が多いんだってば……)

 つと、変なものを見た気がしてそこを見やると、ももの上でにぎり締められた彼女の右手が、痒掻感そうようかんでも覚えたかのようなもじもじとした動きを繰り返していた。

 俄然がぜんこちらまで居心地が悪くなり、シャイズナは姉の肩越しに見ていたその光景から顔を背けた。家にふたつしかない椅子はこの二人に占領されているので、自分は姉の椅子の背もたれにくっつくようにして立ったままである。顔どころか、どこをどう動かしたところで支障はない。

 対するザーニーイの応答は、治療の沈黙を紛らわす以上の意図をまじえていなかった。包帯により動きに過度の制限が起こっていないかを確認するため、姉に軽い手首の運動をしてみるよう手振りで促してから、言ってくる。

「それを分かってくれるのがじょうちゃんの旦那だんなまで範疇はんちゅうかどうか分からねぇ以上、きちんとやっとくに越したこたぁねぇだろ。大概、女は持ってない財産を手に入れるのに敏感だが、男は持ってる財産が損ねられるのに敏感に出来てるもんだからな」

「……旦那?」

 てのひら回外かいがい運動をはたと止めて彼女が聞き返すと、その動きを注視していたザーニーイの視線もこちらへと移った。ついで、きょうだいのきょとんとした気配から勘違いを察したらしく、軽く握った拳で、もう一方の手をぽんと打ってみせる。

「あ。まだ結婚しちゃいないのか。死んだら夫になれないって言ってたもんな」

「アデュバなんか、死んでも姉ちゃんの旦那なんか御免だ!」

 思わず、怒鳴りつけていた。

「シャイズナ」

 姉が、とがった気配で名を呼んでくる。大声を上げたときに掌まで力ませてしまったせいで、握りこんだ背もたれが、シャイズナの手の中でわずかにきしんだ。そこを忌避きひするように肩を浮かせてこちらに振り返ってくる姉の動作は、わずかに遅い―――続けられた、ザーニーイの言葉より。

「死んでもってのは、どいつのことを指して言ってる? お前か? 姉ちゃんか? アデュバって野郎か?」

 彼は、組んだままの足にひじをついて、上体をかたむけていた。その肘の先―――あごから顔の下半分にあてがった指先で、せりふの真意ごとくちびるを隠している。少なくとも、そう感じる。不快感に触発され、シャイズナは口を開いた。

「アデュバに決まって―――!」

「シャイズナ!」

 完全にこちらへ向き直った姉が、今度こそはっきりとこちらを威嚇いかくする意で声を発する。ザーニーイに応えるにつれてつのっていた苛立いらだちは、あっさりと彼女への反発に転がった。間近にある相手の顔面へと、感情の矛先ほこさきひるがえす。

「姉ちゃんはおかしい! 俺の話を聞いて、吟遊詩人ぎんゆうしじんだって言ってたじゃないか! 霹靂へきれきならば穿うがつであろう、って! あの霹靂へきれきが相手にするって、吟遊詩人が言ったんだよ!?」

「流れの者の気紛きまぐれな相槌あいづちに、そこまで入れ込むものではありません!」

「吟遊詩人の証言なら信じていい」

 ザーニーイのつぶやきが、口論に鎮静をした。

 不自然なほど自然に会話を制されて、ぎょっとそちらを見やる。彼は、テーブルの上にある薬箱に、使い終えた物品を片付けているだけだった。会話同様、片手間にこなす以上に特別なことなどしていないとでもいうように、ちょうど手にしたはさみの先端へ興味のなさげな視線を留めている。恐らくこの男は、猛襲のすきを突いて敵の喉仏のどほとけへとその刃物を滑らせる際も、これと同じ態度でいるのだろう―――ふとした連想に気味が悪くなるが、相手の声の調子は、あくまで軽いものだった。続ける。

「勘違いされやすいが、あいつらは伝承歌人でんしょうかじんとは違う、れっきとした学識経験者だ。やってることがまどろっこしい上に、クリンツ派とクリンチェ派の二大派閥はばつ間の方向性の違いやら何やらが拍車をかけてるとかで、誤解されがちになっちまってるらしいけどな。ただし、信じるっつっても、信用する程度にしとけ。信頼すると肩すかし食らうぞ」

 と、はさみを最後に薬箱に収めて、肩をすくめた。

「つまり、霹靂へきれきってのはそのまんま空から降ってくる雷のことで、本物のワルなら天罰くらってオダブツになるでしょうって言ってんのかも知れねぇってことだよ。連中の言葉は徹頭徹尾てっとうてつび、暗号化されてるんだ。正確な解読は、当人の心中以外に望むべくもない」

「だとしても、関係ない! お天道てんと様から天誅食らうようなクソ野郎を、旗司誓きしせい霹靂へきれきだって放っておくはずがないんだから! そうだろ!?」

「そうなのか?」

 怒声の論拠ろんきょを求めた相手は、こちらではなく姉である。問いかけを受けて、姉は遠回しに抗議するように苛々いらいらと繰り返していた身じろぎをやめた。

霹靂へきれきというのは、吟遊詩人のうたい名です。その人は悔踏かいとう区域くいき外輪がいりんに住まう旗司誓きしせいで、義に厚く、またそれを貫き通す腕前をお持ちであるとか。仕事の際には、己の異名に見合う、稲妻いなずまを……空を走る稲光いなびかりのように鋭く鍛え上げられた剣を所望するとも」

 それに聞き入るように沈黙し、数秒。ザーニーイは、軽く目を上向かせるようにしてこちらを見やった。

「そいつで合点がいった。だから剣さえ用意すりゃ、あとは万事オーケイだと思ったわけか? シャイズナ」

 臆面おくめんなく指摘され、ぎくりと全身が引きつる。その反応を見るザーニーイが素知そしらぬ風体であった分、何も知らない姉が見せたいぶかしげな表情は際立って見えた。睫毛まつげの数も分かる至近距離で、彼女の眉根に刻まれる影が深まり、徐々に暗さを帯びていく。というか、彼女の反応がその程度で済んでいることは、むしろ奇跡的だと言えただろう……先刻、自分からザーニーイとの関係について口にできるはずもなく、ザーニーイはザーニーイで怪我けがの手当てを理由に自己紹介もそこそこで済ませたのである。つまり姉は、シャイズナとザーニーイの間柄など、これっぽっちも知らないのだ。そこに投げかけられたザーニーイのせりふは、不審極まる事情を推測する材料となったに違いない。

 それでも、シャイズナから仔細しさいを自白するには、犯した事実は―――結果的に未遂とは言え―――重すぎた。言いよどんでうつむき、沈黙のもたらすじわじわとした責め苦に息をひそめる。と。

「……ほこりが立ってしまいましたね。窓を開けましょう。立つついでに、お外のお掃除をしてまいります」

 言って、姉が席を立った。急に前の荷重を失った椅子いすが、シャイズナのよしかかる後脚あとあしだけで立って、後ろに傾く。そこから慌てて身を起こすと、その先で直立した姉と視線がぶつかった。彼女の両目には、もとよりこちらに何らかの回避を許すような隙は存在していなかったが、それを更に完璧にり固めるように、静かに命令を落下させてくる。

「シャイズナ。ザーニーイさんにお茶をお出ししなさい。決して失礼の無いよう」

 つまり、彼女から与えられた猶予時間は、茶の一杯分ということだ。

「……はい」

 心もとなさに、胸元に両手をまとめながら、うなずく。それを見届けると、姉はザーニーイに軽く会釈えしゃくしてから、外へ向かった。そういった心棒でも入っているようなまっすぐな姿勢をゆるませもせず、静かに引き戸を開閉させて、屋内から立ち去る。まあその所作の静けさは、彼女の性質はもとより、この家の特性を重々承知してのことだろうが。

 不意にザーニーイが軽薄な調子で口笛を鳴らし、片目をつむって笑いかけてきた。いたままの剣と手斧ちょうなが自然な位置にくる浅い着座姿勢は変えないままで、組んでいた足をほどく。

「いい女だな。あれの弟なんて、ひたすら恵まれてっぞ、お前」

「知らねえよ、そんなん。姉ちゃん以外の弟になったことなんかねえもん。比べようが無いじゃん」

「そいつもそうか」

 かこん。と。

 あっさり聞き入れたザーニーイが虚空を見上げるのと、その背後で、そんな安い音を立てて窓が開いたのは、同じタイミングだった。外からそちらへと回った姉が、窓の戸板を外側から引っ張り上げたのである。窓の大きさからいって、胸から上の彼女の姿がそこに現れてもよさそうなものだったが、下開きの戸のつっかえ棒を手繰たぐる腕の先が見えただけだった。そしてそのまま、壁の影へと去ってしまう。裏の方に、外用の掃除道具でも取りに行ったのだろう。

 採光や換気に使えそうな窓はとうに開けていたため、部屋がこれ以上明るくなるということもない。それでもどこか気が抜けて、シャイズナは吐息した。

「にしても、こいつはまた、随分立派な薬箱だな」

 ザーニーイが、医薬品が失せて閑散かんさんとしたテーブルの上で、そこに置いたままの薬箱を小突こづいた。

 まあ、それ自体は、言われても世辞せじとは思わない。改めて見るまでもなかったが、シャイズナは薬箱へ熟視をくれた。それは薬箱というより、薬箪笥くすりだんすといったほうが近かろう―――持ち運ぶ取っ手が付いてはいるものの、姿かたちからすると、良家のひと間にでも安置されている方が似合いである。大人でも容易に一抱ひとかかえにはできない大きさで、大小六段の引き出しが開く直方体であり、材質は黒壇こくだんよりもつやを帯びた古木こぼく。持ち手と四隅よすみ蜘蛛蔓くもかずらした関白銀かんぱくぎんの細工で統一されており、横倒しにすれば、そこらへんの代物より余程立派なぜんに使えそうだった。

 ザーニーイの示した話題は適当なものだったのだろうが、緊張を引きずった心境では過分に皮肉な味を覚えてしまう。シャイズナはくちびるを曲げた。

「ここんに比べて、って言いたいんだろ? どうせ掘っ立て小屋だよ。屋根は雨漏あまもり、壁だって隣にまで音が筒抜つつぬけだ」

 そのあたりで自虐じぎゃくするのにも飽き、シャイズナは家の中を見渡した。ひと部屋しかないのだから、ただそれだけで全てを一望できる。

 姉も承知しているこの家の特性とは、つまりはこれだ―――いても一向に手垢てあかが取れず、薄汚れたままの扉と窓。柱が目に見えて傾いているようなことはなかったが、むしろそうなった方が、飛び出た分だけ日当たりがよくなるのではないかと思えないこともない。たたまれた寝具や食器の重ねられた手桶ておけが、肩身もせまそうに壁へ押し付けられている。低い屋根はむき出しでそのまま天井になっており、貧しい家ではえさを求める羽虫が迷い込むこともなく、はりの上で蜘蛛くもせていた。どれだけ掃き出しても砂利じゃりのなくならない床は、多分、粗悪な敷石が踏みこまれるたびに砕けているからに違いない。卓と椅子は前の住人が置き去りにしていった家具で、手作りにしては悪くなかったが、二人で使うには不便だった。卓は部屋の面積に対して大きすぎるし、椅子はどう座ってもしりが落ち着かない程度にかしいでいる。そしてどちらであれ、両方とも脚の高さがそろっていないため、体重をかけると危なげに揺れるのである。これがここに置き去りにされていたのは、つまりはそういった理由だったのだと、入居して半日経たずのうちにシャイズナは身をもって悟っていた……要は、持ち出す労力に見合うだけの価値がないのだ。

 鬱々うつうつとした内心をし量れなかったということではなかろうが、とりあえずザーニーイがコメントしたのは、家の内装についての追随ついずいではなく、シャイズナのせりふへの質問だった。自分の背後で開かれた窓を、見もしないくせに正確に親指で指し示して、眉を上げる。

「音が筒抜けったって、隣ン家とは隙間あるだろ。ほれ。嬢ちゃんは、その隙間通ってあの窓開けたんだし」

「あったところで、お互いの家の壁とも無能だったら、物音の方がり勝つに決まってるだろ」

「無能までいうか」

「家からしたらさぞ不服な評価かもしんないけど、あいにく俺は建築物じゃなくて人間だから、共感して涙ながらに撤回てっかいしてやる義理なんてこれっぽっちもないね」

「なんつーか、お前の二言三言ふたことみことのわめき声が血相変えた姉ちゃんをすっ飛んで来させた理由が分かった気がするぞ」

 なにやら冷めた半眼でつぶやいてくるが、シャイズナは聞かずに不平を続けた。

「俺らだって本当は、もっと立派な屋敷に住んでたんだぞ。代々続く薬の会社で、食う物も着る物も困らなかったし。アデュバの野郎さえいなけりゃ、この薬箱だけ持って家を出ることなんかなかったのに……」

 言い訳がましくなるにつれて意気がたなくなり、結局は途中までしか続かない。尻すぼみに小声になっていく様子は奇妙だったろうが、ザーニーイは特に態度を変えはしなかった。飄々ひょうひょうとした面構つらがまえのままで、ふところから鈍色にびいろのシガレットケースを取り出してみせる。素材の金属をむき出しにしたそれは、彼の両手に包まれ、長年さらされた指と紫煙しえんやに年輪ねんりんのような模様を浮かばせていた。軽くもてあそぶようにしてそれをこちらへ示し、シャイズナが嫌がらないと見ると、その小箱を口元まで持ってきて軽く振り―――ぴょんと飛び出した一本の煙草たばこを、器用に唇だけで釣り上げる。

 ザーニーイはそれを定位置らしい左の口のに落ち着けてから、こちらをちらりと見やった。同じくケースから取り出した発火布はっかふをこよりにするため、注意はすぐにそちらへ戻されたが。

「そういやお前、名前は?」

「なに言ってんだよ。姉ちゃんが呼んでるだろ。俺はシャイズナ―――」

「フルネームだよ」

 信じられず、その場で固まる。

 座ろうと椅子の正面へ向かっていた足が動揺に揺れたせいで、見当違いにつま先を向けた足跡を床につけるはめになった―――今起こったことの中で、最もどうでもいいことだが。見やれば、当のザーニーイは目を伏せつつ、摩擦まさつで火をともした指先の発火布に、煙草の先で接吻せっぷんしている。どうやら詮索せんさくに、悪い意味での他意は無いらしい。

 それを悟っても、何となく、名乗り直すことは躊躇ためらわずにはいられなかった。煙草にたっぷりとあかりが宿るまで沈黙を費やしてから、ようやっと声をふりしぼる。

「……シャイズナ・ワーフェン・アウフ」

「あー、それでワーエラウフか。ワーフェン族アウフ家ってのを混ぜたんだな。商業において法の保護を一家単位で受けるには、家名の一部を明確にして、諸々もろもろを登記する必要があるから。昨今さっこんじゃ貴族が商売すんのは珍しくもねぇが、代々ってのはおったまげるぜ。お前で何代目なんだ?」

「……知らない。もともとうちは、お金とか気位きぐらいとか……名前のつづり以外に、そういった貴族っぽいものなんか、ひとつも持ってなかったらしいんだ。だから、誰がいくつ目の後を継いだかとかも、気にしてないんじゃないかな。そのおかげで、昔から普通の人に混じって商売するのもへっちゃらだったし、普通の人からすれば貴族が相手だから信頼も厚かったって。だから、ここまで続いてこれたって聞いたけど」

「貴族っぽいものを放り出せずにおまんま食い上げちまってる連中からすりゃ、貴族っぽいものと換金しては長々と食いつないでいくお前ン家は、心の底からくそくらえだろうな。ま、それこそ俺らが言えた義理じゃねぇか」

「なんでシャイズナだけじゃないって分かったんだ? 俺、こんなだぜ?」

 やっとこさ椅子に座り込み、シャイズナは皮肉をこめて自分の喉元のどもとを人差し指でこすりあげた。色褪せて伸びきった服の襟首えりくびから、痩せこけた首筋が伸びている。本当は、こうして一部分を示すまでも無い話だと、分かってはいた……この生活に追い詰められてひと月足らず、どこをどう見たところで貴族の面影など残っているはずが無いことくらい、自嘲じちょうともども自覚している。

 そんなこと、それこそ他人には自明の理だと思って疑っていなかったのだが。ザーニーイはシガレットケースを自分の胸元へしまい直して、返す掌で卓上の薬箱へと触れてみせた。

「確信したのはこいつのおかげだ」

「どういうことだよ?」

「触りゃ一発で分かる。千獣王せんじゅうおうみゃく模様だ。さすがに使ってる材質は石じゃないが、質感からいって、それに負けず劣らずの木材に間違いない。そいつをわざわざ、こうやって宵蜜種よいみつしゅ綺羅きら無しあぶらで黒くコーティングしてやがるんだ。大方、石じゃないと上手く出てこないひだ紅色べにいろの光沢を誤魔化ごまかそうとしたってとこだろうが―――こんな、色に満足いかないってだけで一級品を窒息ちっそくさせるような真似まねすんのは、俺が知ってる限り三パターンしかない」

 言いながら、ザーニーイは顔を薬箱へと転じた。自分の指先に視線を先導させるように、箱の角を伝わせるつめの動きを目で追いながら、説明していく。

「ひとつ、本家本元の貴族を気取りきれていない貴族。連中はたびたび、高貴な完璧主義ってやつを履き違えることがある。本家本元ならそもそも完璧な品を発注するんだろうが、そこまで気取ることが経済的にできないやつが、お粗末に取り繕おうとしてやらかす典型だな」

 と、声と紫煙をりながら、頭をかく。

「ふたつ、本家本元の貴族を気取りたがる成金。こいつは、金をかけることと自分自身を洗練することをドッキングさせちまった典型と言えるだろ。ブランド品を、ブランド品だからって上辺うわべだけで買いあさる短絡馬鹿と同じさ。ゼニを浪費するほどに、自分がランクアップすると信じてる。そのモノを持つことで間接的に経済力の豊かさを主張することが目的だから、それの使い方が本当に正しいかどうかなんざ、興味がねぇんだ……もちろん、自分のとんちんかんっぷりが、いかにトンマなのかについてさえな」

 彼が、こちらを向いた。

 しゃべるたびに、くわえ煙草がひょこひょこ揺れている。やはり経時的に尻がずれたのだろう。椅子に軽く座り直してから、相手はシャイズナに茶目ちゃめっ気けの漂う目玉を向けた。

「みっつ、貴族も成金も関係なく、そんなもん気取るなんざ下らねぇって分かってる奴―――モノってのは、使うそいつが使いやすいように使えばいい。言うはやすしだが、この理屈を、千獣王せんじゅうおうみゃく模様相手に気に入らないから塗る・・・・・・・・・・なんつーかたちでやらかした相当なセンスにゃ、俺でさえ目をくけどな」

「その言い方だと、フルネームを聞いてきたあんたにとっちゃ、俺は最初のケースに当てはまるみたいじゃんか」

「いんや。最後に持ち出した例さ」

「なんで?」

「こいつの趣味が最高だ」

 ここまで断言されると、なんとも言いようが無い。

 なにやら気分よさげに薬箱から手を離したザーニーイの前で、こちらも椅子の上で腰の位置を整えながら、シャイズナは口をつぐんだ。無意味に上を眺めて、頬をさする―――まかり間違っても、そこが紅潮こうちょうしているということなどは、ありえないだろうけれど。

 すると相手は、意外な言葉を口にした。

「こう言っちゃ、お前に失礼だったか?」

「え?」

「最高なのは、趣味じゃなくて、趣味の持ち主の方だろうからな。お前の受け取り方によっては、失言になったかと思っただけだ」

「別に、……そんなこと、ないよ。言われたら、父様もうれしいと思う」

 自分でも口当たりがいいことを言っていると分かってはいたが、告げておく。ザーニーイは再度、その卓の主といわんばかりにでんと鎮座した黒塗りの箱を、まじまじと眺めた。それからそれをこちらへ押しやって、小首を傾げる。

「父様? こいつは親父おやじの持ち物なのか?」

「うん。でも、どうかな? ついこないだ、死んじゃったからさ。俺、相続とか分かんないし、今は誰のものなのか知らないけど、生きてる時は父様の物だったよ」

 こちらに来た薬箱を、何となく卓上から膝の上へ移して、シャイズナは注視までも落とした。抱えた箱はずしりと重く、乗せたももかどが食い込んでくる。千獣王せんじゅうおう脈模様みゃくもようとやらが古びた木肌にたゆたって、黒くつやの出た油膜の下で逆巻さかまいていた。

「これをずっと持ち歩いててさ、会うたびに、いっぱい色んな話をしてくれたんだ。やたら難しくて、ほとんど俺にはちんぷんかんぷんだったけど、姉ちゃんは真剣に聞いてた。そんで、今でもよく父様のことを引き合いに出して、それにならってる。お父様ならこうするはず、ああするはずって」

「じゃあ決定だな。こいつは親父の持ち物だ」

「? 何で?」

「いい女が聞きれる話をする野郎だぜ? いい男じゃねぇか。趣味も最高で疑いようがないだろ」

 やはり断言され、反応するにできない。と。

 唐突とうとつだった。ザーニーイが背後へ振り返る。そしてその頭部の動きに連動するように、身体からだを反転させて立ち上がり―――そしてその時には、外部から沸き立つ物音が、単なる騒音以上に乱暴な気配を帯びていることは、こちらにも明らかとなっていた。

「姉ちゃん!?」

 叫び、箱を抱えたままで椅子から飛び降りる。

 が、その頃にはザーニーイが、窓から飛び出していた。

 先程、姉が開けた窓である。ハードルでも跳ぶように、窓枠まどわくに指を掛けることすらなく跳躍ちょうやくし、外へと……明らかに暴力慣れした男たちの影がちらりと見えた、その窓の外へと飛び出していく。ぎょっとするが、薬箱を抱えたままで彼に追従するわけにもいかず―――それを適当に置き去りにすればいいだけの話だと気付いたのは、出入り口から外へ回ってからだった。今から置いてこようか、躊躇ちゅうちょする。が。

「姉ちゃん……!」

 口にすれば、決心は早かった。そのまま駆け出す。
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