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承章
承章 1
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ギャップ。成る程。
それだけは認めざるをえず、シャイズナは目の前の光景を眺めた。青年の胼胝の浮いた指が、布目に引っかかることもなく、見事な手さばきで包帯を繰っていく。刃物を掌に固定しておく物騒な能力にだけ特化しているように見えた彼の五指は、治療を進めるうちに、そうやって次々とシャイズナの思い込みを裏切っていった。湿布を作る様子も手馴れていたが、それを貼付してからの手並みはそれ以上である。もしかしたらこの男は普段、即座に包帯固定だけででも応急的な処置をしなければ間に合わなくなるような場面に遭遇することが多いのかもしれない。
(当然か。旗司誓とか言ってたもんな)
その時あわせて彼は、ザーニーイとも名乗った。
そのどちらもが自称に過ぎなかったが、この手腕を見る限り、少なくとも前者を自称しても疑われないだけの腕前を持っているのは否定できなかった。
旗司誓とは、都市部・内政を護る司右翼、都市部外・内政外を護る司左翼、これに次ぐ組織であるとされている。王家ア・ルーゼの支配が完璧とはいいがたい悔踏区域外輪にて、治安維持にまつわる、あるいは治安維持から派生する様々な業務に就く職能集団である。
(職能集団―――ね)
自分の見つけた言い草に、シャイズナは鼻を鳴らした。確かに彼らは職能に長けた者たちだろう……多種多様の暴力を対人関係において有効に発揮する能力を、職能と呼ぶのなら。武装犯罪者が息づきやすい―――というか何と言うか―――悔踏区域外輪において、彼らは当然として武力制裁を取り・取られることに尻込みしない。無論、国から公に武力保有を許されている彼らであるから、理性に根ざした平和的な解決法を用いないこともないのだろうが、世の中の耳目とは概ね、血みどろの大乱闘といったような派手な醜聞に集まるようにできている。
つまりシャイズナらの住むような市街における一般通念上、旗司誓とは、正義面している分だけタチの悪いちんぴらだった。
(そんなめんどくさいとこに当の旗司誓がノコノコ顔を出すなんて……こんな状況、普通は滅多にないんだよな。橙色とか緋色の制服も着ていないのに帯剣してるなんて、胡散臭いこと限りないし)
この国における、帯剣……合法に基づいた佩剣とは、正確に言えば、許可ではなく義務に当たる。つまり司右翼・司左翼・旗司誓等ある種の特殊な職務に就く者は、その身分証明の一環を兼ね、なんらかの剣―――ここで言う『剣』とは、刀剣に代表される武器全般のことを示しているのだが―――を身に帯びることを法的に強制されているのである。もっともこれは剣の所有についてとり決めた法律とは別物である上、非合法に刃物を持つ暴漢の類と私服の旗司誓との見分けを困難にし、制服組……主に司右翼からの「武装犯罪者と混同される存在と我々が同列視されては、佩剣の品位を損う」との中傷を煽る火種でもあった。
(だから街からの依頼のほとんどは、街に配置した下部組織を―――義賊を介して請け負うんだ。おかしな話だよな。他の国との商売とかを重視してやりくりすれば、悔踏区域外輪にいるだけで生活できるはずなのに、自分たちを邪険に扱う街からも依頼を受け続けてるなんて。なんでだろ? 原因は簡単だ。旗司誓の―――)
「器用貧乏な性分、だろうな」
生前、父はそう告げてから、更に付け加えたのだ。
「品性とも言うか。現代では」
旗司誓について思い出すどれもは父親からの受け売りだったが、それらが的外れであるはずはない。父は悔踏区域外輪を行き交う商売も手がけていたのだから、義賊や旗司誓とは切っても切れない縁があってしかるべきだ。
とはいえ、そんなもろもろの予備知識を軽く見ざるをえないほど、いやにとげとげしい雑念が絶えないこともまた事実だった。ザーニーイの面構えを見やって、うめく。
(……旗司誓ってのもザーニーイって名前も、全部丸ごと、女の人に取り入るためのデマかもしれないし)
結婚詐欺師というやつは、多少ならず品行方正から外れた歌舞伎者を気取ることが多いと聞いたことがある―――
とはいえ、ただの思い付きを、眼前の治療風景を否定する論拠まで昇華できるはずもなく、シャイズナは再び無音でうめいた。どことなく濁った気分で、旗司誓を見詰める。最後に包帯のはしを固定する作業に耽る彼の横顔は、はたから見ても無駄に均整が取れていた―――正面に引き寄せた椅子の上でザーニーイが足を組み、その膝頭に手の先を置かされてから治療が始まったことに、手の持ち主の姉が過緊張をもよおすほどに。それ自体は下心があってのことではなく、単に作業のしやすい高さに対象を安置し、尚且両手を治療に費やすための合理的措置なのだろうが。
異性など身内程度にしか身近に接しなかった彼女にとっては、拷問に近い。
「そんなに丁寧になさらなくても……放っておいてもいい位の痣ですし……」
その声音は、なんだか上ずっている気がする。
(姉ちゃん……父様だって言ってただろ? 旗司誓は地理的にも混血しやすいし、そもそも捨て子の時に粒選りされてからそこに来て育ったって連中だってありふれてるから、見栄えする野郎が多いんだってば……)
つと、変なものを見た気がしてそこを見やると、腿の上で握り締められた彼女の右手が、痒掻感でも覚えたかのようなもじもじとした動きを繰り返していた。
俄然こちらまで居心地が悪くなり、シャイズナは姉の肩越しに見ていたその光景から顔を背けた。家にふたつしかない椅子はこの二人に占領されているので、自分は姉の椅子の背もたれにくっつくようにして立ったままである。顔どころか、どこをどう動かしたところで支障はない。
対するザーニーイの応答は、治療の沈黙を紛らわす以上の意図をまじえていなかった。包帯により動きに過度の制限が起こっていないかを確認するため、姉に軽い手首の運動をしてみるよう手振りで促してから、言ってくる。
「それを分かってくれるのが嬢ちゃんの旦那まで範疇かどうか分からねぇ以上、きちんとやっとくに越したこたぁねぇだろ。大概、女は持ってない財産を手に入れるのに敏感だが、男は持ってる財産が損ねられるのに敏感に出来てるもんだからな」
「……旦那?」
掌の回外運動をはたと止めて彼女が聞き返すと、その動きを注視していたザーニーイの視線もこちらへと移った。ついで、きょうだいのきょとんとした気配から勘違いを察したらしく、軽く握った拳で、もう一方の手をぽんと打ってみせる。
「あ。まだ結婚しちゃいないのか。死んだら夫になれないって言ってたもんな」
「アデュバなんか、死んでも姉ちゃんの旦那なんか御免だ!」
思わず、怒鳴りつけていた。
「シャイズナ」
姉が、尖った気配で名を呼んでくる。大声を上げたときに掌まで力ませてしまったせいで、握りこんだ背もたれが、シャイズナの手の中でわずかに軋んだ。そこを忌避するように肩を浮かせてこちらに振り返ってくる姉の動作は、わずかに遅い―――続けられた、ザーニーイの言葉より。
「死んでもってのは、どいつのことを指して言ってる? お前か? 姉ちゃんか? アデュバって野郎か?」
彼は、組んだままの足に肘をついて、上体を傾けていた。その肘の先―――顎から顔の下半分にあてがった指先で、せりふの真意ごと唇を隠している。少なくとも、そう感じる。不快感に触発され、シャイズナは口を開いた。
「アデュバに決まって―――!」
「シャイズナ!」
完全にこちらへ向き直った姉が、今度こそはっきりとこちらを威嚇する意で声を発する。ザーニーイに応えるにつれて募っていた苛立ちは、あっさりと彼女への反発に転がった。間近にある相手の顔面へと、感情の矛先を翻す。
「姉ちゃんはおかしい! 俺の話を聞いて、吟遊詩人だって言ってたじゃないか! 霹靂ならば穿つであろう、って! あの霹靂が相手にするって、吟遊詩人が言ったんだよ!?」
「流れの者の気紛れな相槌に、そこまで入れ込むものではありません!」
「吟遊詩人の証言なら信じていい」
ザーニーイの呟きが、口論に鎮静を注した。
不自然なほど自然に会話を制されて、ぎょっとそちらを見やる。彼は、テーブルの上にある薬箱に、使い終えた物品を片付けているだけだった。会話同様、片手間にこなす以上に特別なことなどしていないとでもいうように、ちょうど手にした鋏の先端へ興味のなさげな視線を留めている。恐らくこの男は、猛襲の隙を突いて敵の喉仏へとその刃物を滑らせる際も、これと同じ態度でいるのだろう―――ふとした連想に気味が悪くなるが、相手の声の調子は、あくまで軽いものだった。続ける。
「勘違いされやすいが、あいつらは伝承歌人とは違う、れっきとした学識経験者だ。やってることがまどろっこしい上に、クリンツ派とクリンチェ派の二大派閥間の方向性の違いやら何やらが拍車をかけてるとかで、誤解されがちになっちまってるらしいけどな。ただし、信じるっつっても、信用する程度にしとけ。信頼すると肩すかし食らうぞ」
と、鋏を最後に薬箱に収めて、肩をすくめた。
「つまり、霹靂ってのはそのまんま空から降ってくる雷のことで、本物のワルなら天罰くらってオダブツになるでしょうって言ってんのかも知れねぇってことだよ。連中の言葉は徹頭徹尾、暗号化されてるんだ。正確な解読は、当人の心中以外に望むべくもない」
「だとしても、関係ない! お天道様から天誅食らうようなクソ野郎を、旗司誓の霹靂だって放っておくはずがないんだから! そうだろ!?」
「そうなのか?」
怒声の論拠を求めた相手は、こちらではなく姉である。問いかけを受けて、姉は遠回しに抗議するように苛々と繰り返していた身じろぎをやめた。
「霹靂というのは、吟遊詩人の謳い名です。その人は悔踏区域外輪に住まう旗司誓で、義に厚く、またそれを貫き通す腕前をお持ちであるとか。仕事の際には、己の異名に見合う、稲妻を……空を走る稲光のように鋭く鍛え上げられた剣を所望するとも」
それに聞き入るように沈黙し、数秒。ザーニーイは、軽く目を上向かせるようにしてこちらを見やった。
「そいつで合点がいった。だから剣さえ用意すりゃ、あとは万事オーケイだと思ったわけか? シャイズナ」
臆面なく指摘され、ぎくりと全身が引きつる。その反応を見るザーニーイが素知らぬ風体であった分、何も知らない姉が見せた訝しげな表情は際立って見えた。睫毛の数も分かる至近距離で、彼女の眉根に刻まれる影が深まり、徐々に暗さを帯びていく。というか、彼女の反応がその程度で済んでいることは、むしろ奇跡的だと言えただろう……先刻、自分からザーニーイとの関係について口にできるはずもなく、ザーニーイはザーニーイで怪我の手当てを理由に自己紹介もそこそこで済ませたのである。つまり姉は、シャイズナとザーニーイの間柄など、これっぽっちも知らないのだ。そこに投げかけられたザーニーイのせりふは、不審極まる事情を推測する材料となったに違いない。
それでも、シャイズナから仔細を自白するには、犯した事実は―――結果的に未遂とは言え―――重すぎた。言いよどんで俯き、沈黙のもたらすじわじわとした責め苦に息を潜める。と。
「……埃が立ってしまいましたね。窓を開けましょう。立つついでに、お外のお掃除をしてまいります」
言って、姉が席を立った。急に前の荷重を失った椅子が、シャイズナのよしかかる後脚だけで立って、後ろに傾く。そこから慌てて身を起こすと、その先で直立した姉と視線がぶつかった。彼女の両目には、もとよりこちらに何らかの回避を許すような隙は存在していなかったが、それを更に完璧に塗り固めるように、静かに命令を落下させてくる。
「シャイズナ。ザーニーイさんにお茶をお出ししなさい。決して失礼の無いよう」
つまり、彼女から与えられた猶予時間は、茶の一杯分ということだ。
「……はい」
心もとなさに、胸元に両手をまとめながら、頷く。それを見届けると、姉はザーニーイに軽く会釈してから、外へ向かった。そういった心棒でも入っているようなまっすぐな姿勢を緩ませもせず、静かに引き戸を開閉させて、屋内から立ち去る。まあその所作の静けさは、彼女の性質はもとより、この家の特性を重々承知してのことだろうが。
不意にザーニーイが軽薄な調子で口笛を鳴らし、片目をつむって笑いかけてきた。佩いたままの剣と手斧が自然な位置にくる浅い着座姿勢は変えないままで、組んでいた足をほどく。
「いい女だな。あれの弟なんて、ひたすら恵まれてっぞ、お前」
「知らねえよ、そんなん。姉ちゃん以外の弟になったことなんかねえもん。比べようが無いじゃん」
「そいつもそうか」
かこん。と。
あっさり聞き入れたザーニーイが虚空を見上げるのと、その背後で、そんな安い音を立てて窓が開いたのは、同じタイミングだった。外からそちらへと回った姉が、窓の戸板を外側から引っ張り上げたのである。窓の大きさからいって、胸から上の彼女の姿がそこに現れてもよさそうなものだったが、下開きの戸のつっかえ棒を手繰る腕の先が見えただけだった。そしてそのまま、壁の影へと去ってしまう。裏の方に、外用の掃除道具でも取りに行ったのだろう。
採光や換気に使えそうな窓はとうに開けていたため、部屋がこれ以上明るくなるということもない。それでもどこか気が抜けて、シャイズナは吐息した。
「にしても、こいつはまた、随分立派な薬箱だな」
ザーニーイが、医薬品が失せて閑散としたテーブルの上で、そこに置いたままの薬箱を小突いた。
まあ、それ自体は、言われても世辞とは思わない。改めて見るまでもなかったが、シャイズナは薬箱へ熟視をくれた。それは薬箱というより、薬箪笥といったほうが近かろう―――持ち運ぶ取っ手が付いてはいるものの、姿かたちからすると、良家のひと間にでも安置されている方が似合いである。大人でも容易に一抱えにはできない大きさで、大小六段の引き出しが開く直方体であり、材質は黒壇よりも艶を帯びた古木。持ち手と四隅は蜘蛛蔓を模した関白銀の細工で統一されており、横倒しにすれば、そこらへんの代物より余程立派な膳に使えそうだった。
ザーニーイの示した話題は適当なものだったのだろうが、緊張を引きずった心境では過分に皮肉な味を覚えてしまう。シャイズナは唇を曲げた。
「ここん家に比べて、って言いたいんだろ? どうせ掘っ立て小屋だよ。屋根は雨漏り、壁だって隣にまで音が筒抜けだ」
そのあたりで自虐するのにも飽き、シャイズナは家の中を見渡した。ひと部屋しかないのだから、ただそれだけで全てを一望できる。
姉も承知しているこの家の特性とは、つまりはこれだ―――拭いても一向に手垢が取れず、薄汚れたままの扉と窓。柱が目に見えて傾いているようなことはなかったが、むしろそうなった方が、飛び出た分だけ日当たりがよくなるのではないかと思えないこともない。畳まれた寝具や食器の重ねられた手桶が、肩身も狭そうに壁へ押し付けられている。低い屋根はむき出しでそのまま天井になっており、貧しい家では餌を求める羽虫が迷い込むこともなく、梁の上で蜘蛛が痩せていた。どれだけ掃き出しても砂利のなくならない床は、多分、粗悪な敷石が踏みこまれるたびに砕けているからに違いない。卓と椅子は前の住人が置き去りにしていった家具で、手作りにしては悪くなかったが、二人で使うには不便だった。卓は部屋の面積に対して大きすぎるし、椅子はどう座っても尻が落ち着かない程度に傾いでいる。そしてどちらであれ、両方とも脚の高さが揃っていないため、体重をかけると危なげに揺れるのである。これがここに置き去りにされていたのは、つまりはそういった理由だったのだと、入居して半日経たずのうちにシャイズナは身をもって悟っていた……要は、持ち出す労力に見合うだけの価値がないのだ。
鬱々とした内心を推し量れなかったということではなかろうが、とりあえずザーニーイがコメントしたのは、家の内装についての追随ではなく、シャイズナのせりふへの質問だった。自分の背後で開かれた窓を、見もしないくせに正確に親指で指し示して、眉を上げる。
「音が筒抜けったって、隣ン家とは隙間あるだろ。ほれ。嬢ちゃんは、その隙間通ってあの窓開けたんだし」
「あったところで、お互いの家の壁とも無能だったら、物音の方が競り勝つに決まってるだろ」
「無能までいうか」
「家からしたらさぞ不服な評価かもしんないけど、あいにく俺は建築物じゃなくて人間だから、共感して涙ながらに撤回してやる義理なんてこれっぽっちもないね」
「なんつーか、お前の二言三言のわめき声が血相変えた姉ちゃんをすっ飛んで来させた理由が分かった気がするぞ」
なにやら冷めた半眼で呟いてくるが、シャイズナは聞かずに不平を続けた。
「俺らだって本当は、もっと立派な屋敷に住んでたんだぞ。代々続く薬の会社で、食う物も着る物も困らなかったし。アデュバの野郎さえいなけりゃ、この薬箱だけ持って家を出ることなんかなかったのに……」
言い訳がましくなるにつれて意気が保たなくなり、結局は途中までしか続かない。尻すぼみに小声になっていく様子は奇妙だったろうが、ザーニーイは特に態度を変えはしなかった。飄々とした面構えのままで、懐から鈍色のシガレットケースを取り出してみせる。素材の金属をむき出しにしたそれは、彼の両手に包まれ、長年さらされた指と紫煙の脂で年輪のような模様を浮かばせていた。軽く弄ぶようにしてそれをこちらへ示し、シャイズナが嫌がらないと見ると、その小箱を口元まで持ってきて軽く振り―――ぴょんと飛び出した一本の煙草を、器用に唇だけで釣り上げる。
ザーニーイはそれを定位置らしい左の口の端に落ち着けてから、こちらをちらりと見やった。同じくケースから取り出した発火布をこよりにするため、注意はすぐにそちらへ戻されたが。
「そういやお前、名前は?」
「なに言ってんだよ。姉ちゃんが呼んでるだろ。俺はシャイズナ―――」
「フルネームだよ」
信じられず、その場で固まる。
座ろうと椅子の正面へ向かっていた足が動揺に揺れたせいで、見当違いにつま先を向けた足跡を床につけるはめになった―――今起こったことの中で、最もどうでもいいことだが。見やれば、当のザーニーイは目を伏せつつ、摩擦で火を灯した指先の発火布に、煙草の先で接吻している。どうやら詮索に、悪い意味での他意は無いらしい。
それを悟っても、何となく、名乗り直すことは躊躇わずにはいられなかった。煙草にたっぷりとあかりが宿るまで沈黙を費やしてから、ようやっと声をふり絞る。
「……シャイズナ・ワーフェン・アウフ」
「あー、それでワーエラウフか。ワーフェン族アウフ家ってのを混ぜたんだな。商業において法の保護を一家単位で受けるには、家名の一部を明確にして、諸々を登記する必要があるから。昨今じゃ貴族が商売すんのは珍しくもねぇが、代々ってのはおったまげるぜ。お前で何代目なんだ?」
「……知らない。もともとうちは、お金とか気位とか……名前の綴り以外に、そういった貴族っぽいものなんか、ひとつも持ってなかったらしいんだ。だから、誰がいくつ目の後を継いだかとかも、気にしてないんじゃないかな。そのおかげで、昔から普通の人に混じって商売するのもへっちゃらだったし、普通の人からすれば貴族が相手だから信頼も厚かったって。だから、ここまで続いてこれたって聞いたけど」
「貴族っぽいものを放り出せずにおまんま食い上げちまってる連中からすりゃ、貴族っぽいものと換金しては長々と食いつないでいくお前ン家は、心の底からくそくらえだろうな。ま、それこそ俺らが言えた義理じゃねぇか」
「なんでシャイズナだけじゃないって分かったんだ? 俺、こんなだぜ?」
やっとこさ椅子に座り込み、シャイズナは皮肉をこめて自分の喉元を人差し指でこすりあげた。色褪せて伸びきった服の襟首から、痩せこけた首筋が伸びている。本当は、こうして一部分を示すまでも無い話だと、分かってはいた……この生活に追い詰められてひと月足らず、どこをどう見たところで貴族の面影など残っているはずが無いことくらい、自嘲ともども自覚している。
そんなこと、それこそ他人には自明の理だと思って疑っていなかったのだが。ザーニーイはシガレットケースを自分の胸元へしまい直して、返す掌で卓上の薬箱へと触れてみせた。
「確信したのはこいつのおかげだ」
「どういうことだよ?」
「触りゃ一発で分かる。千獣王の脈模様だ。さすがに使ってる材質は石じゃないが、質感からいって、それに負けず劣らずの木材に間違いない。そいつをわざわざ、こうやって宵蜜種の綺羅無し油で黒くコーティングしてやがるんだ。大方、石じゃないと上手く出てこない襞の紅色の光沢を誤魔化そうとしたってとこだろうが―――こんな、色に満足いかないってだけで一級品を窒息させるような真似すんのは、俺が知ってる限り三パターンしかない」
言いながら、ザーニーイは顔を薬箱へと転じた。自分の指先に視線を先導させるように、箱の角を伝わせる爪の動きを目で追いながら、説明していく。
「ひとつ、本家本元の貴族を気取りきれていない貴族。連中はたびたび、高貴な完璧主義ってやつを履き違えることがある。本家本元ならそもそも完璧な品を発注するんだろうが、そこまで気取ることが経済的にできないやつが、お粗末に取り繕おうとしてやらかす典型だな」
と、声と紫煙を繰りながら、頭をかく。
「ふたつ、本家本元の貴族を気取りたがる成金。こいつは、金をかけることと自分自身を洗練することをドッキングさせちまった典型と言えるだろ。ブランド品を、ブランド品だからって上辺だけで買い漁る短絡馬鹿と同じさ。ゼニを浪費するほどに、自分がランクアップすると信じてる。そのモノを持つことで間接的に経済力の豊かさを主張することが目的だから、それの使い方が本当に正しいかどうかなんざ、興味がねぇんだ……もちろん、自分のとんちんかんっぷりが、いかにトンマなのかについてさえな」
彼が、こちらを向いた。
喋るたびに、咥え煙草がひょこひょこ揺れている。やはり経時的に尻がずれたのだろう。椅子に軽く座り直してから、相手はシャイズナに茶目っ気けの漂う目玉を向けた。
「みっつ、貴族も成金も関係なく、そんなもん気取るなんざ下らねぇって分かってる奴―――モノってのは、使うそいつが使いやすいように使えばいい。言うは易しだが、この理屈を、千獣王の脈模様相手に気に入らないから塗るなんつーかたちでやらかした相当なセンスにゃ、俺でさえ目を剥くけどな」
「その言い方だと、フルネームを聞いてきたあんたにとっちゃ、俺は最初のケースに当てはまるみたいじゃんか」
「いんや。最後に持ち出した例さ」
「なんで?」
「こいつの趣味が最高だ」
ここまで断言されると、なんとも言いようが無い。
なにやら気分よさげに薬箱から手を離したザーニーイの前で、こちらも椅子の上で腰の位置を整えながら、シャイズナは口をつぐんだ。無意味に上を眺めて、頬をさする―――まかり間違っても、そこが紅潮しているということなどは、ありえないだろうけれど。
すると相手は、意外な言葉を口にした。
「こう言っちゃ、お前に失礼だったか?」
「え?」
「最高なのは、趣味じゃなくて、趣味の持ち主の方だろうからな。お前の受け取り方によっては、失言になったかと思っただけだ」
「別に、……そんなこと、ないよ。言われたら、父様も嬉しいと思う」
自分でも口当たりがいいことを言っていると分かってはいたが、告げておく。ザーニーイは再度、その卓の主といわんばかりにでんと鎮座した黒塗りの箱を、まじまじと眺めた。それからそれをこちらへ押しやって、小首を傾げる。
「父様? こいつは親父の持ち物なのか?」
「うん。でも、どうかな? ついこないだ、死んじゃったからさ。俺、相続とか分かんないし、今は誰のものなのか知らないけど、生きてる時は父様の物だったよ」
こちらに来た薬箱を、何となく卓上から膝の上へ移して、シャイズナは注視までも落とした。抱えた箱はずしりと重く、乗せた腿に角が食い込んでくる。千獣王の脈模様とやらが古びた木肌にたゆたって、黒く艶の出た油膜の下で逆巻いていた。
「これをずっと持ち歩いててさ、会うたびに、いっぱい色んな話をしてくれたんだ。やたら難しくて、ほとんど俺にはちんぷんかんぷんだったけど、姉ちゃんは真剣に聞いてた。そんで、今でもよく父様のことを引き合いに出して、それに倣ってる。お父様ならこうするはず、ああするはずって」
「じゃあ決定だな。こいつは親父の持ち物だ」
「? 何で?」
「いい女が聞き惚れる話をする野郎だぜ? いい男じゃねぇか。趣味も最高で疑いようがないだろ」
やはり断言され、反応するにできない。と。
唐突だった。ザーニーイが背後へ振り返る。そしてその頭部の動きに連動するように、身体を反転させて立ち上がり―――そしてその時には、外部から沸き立つ物音が、単なる騒音以上に乱暴な気配を帯びていることは、こちらにも明らかとなっていた。
「姉ちゃん!?」
叫び、箱を抱えたままで椅子から飛び降りる。
が、その頃にはザーニーイが、窓から飛び出していた。
先程、姉が開けた窓である。ハードルでも跳ぶように、窓枠に指を掛けることすらなく跳躍し、外へと……明らかに暴力慣れした男たちの影がちらりと見えた、その窓の外へと飛び出していく。ぎょっとするが、薬箱を抱えたままで彼に追従するわけにもいかず―――それを適当に置き去りにすればいいだけの話だと気付いたのは、出入り口から外へ回ってからだった。今から置いてこようか、躊躇する。が。
「姉ちゃん……!」
口にすれば、決心は早かった。そのまま駆け出す。
それだけは認めざるをえず、シャイズナは目の前の光景を眺めた。青年の胼胝の浮いた指が、布目に引っかかることもなく、見事な手さばきで包帯を繰っていく。刃物を掌に固定しておく物騒な能力にだけ特化しているように見えた彼の五指は、治療を進めるうちに、そうやって次々とシャイズナの思い込みを裏切っていった。湿布を作る様子も手馴れていたが、それを貼付してからの手並みはそれ以上である。もしかしたらこの男は普段、即座に包帯固定だけででも応急的な処置をしなければ間に合わなくなるような場面に遭遇することが多いのかもしれない。
(当然か。旗司誓とか言ってたもんな)
その時あわせて彼は、ザーニーイとも名乗った。
そのどちらもが自称に過ぎなかったが、この手腕を見る限り、少なくとも前者を自称しても疑われないだけの腕前を持っているのは否定できなかった。
旗司誓とは、都市部・内政を護る司右翼、都市部外・内政外を護る司左翼、これに次ぐ組織であるとされている。王家ア・ルーゼの支配が完璧とはいいがたい悔踏区域外輪にて、治安維持にまつわる、あるいは治安維持から派生する様々な業務に就く職能集団である。
(職能集団―――ね)
自分の見つけた言い草に、シャイズナは鼻を鳴らした。確かに彼らは職能に長けた者たちだろう……多種多様の暴力を対人関係において有効に発揮する能力を、職能と呼ぶのなら。武装犯罪者が息づきやすい―――というか何と言うか―――悔踏区域外輪において、彼らは当然として武力制裁を取り・取られることに尻込みしない。無論、国から公に武力保有を許されている彼らであるから、理性に根ざした平和的な解決法を用いないこともないのだろうが、世の中の耳目とは概ね、血みどろの大乱闘といったような派手な醜聞に集まるようにできている。
つまりシャイズナらの住むような市街における一般通念上、旗司誓とは、正義面している分だけタチの悪いちんぴらだった。
(そんなめんどくさいとこに当の旗司誓がノコノコ顔を出すなんて……こんな状況、普通は滅多にないんだよな。橙色とか緋色の制服も着ていないのに帯剣してるなんて、胡散臭いこと限りないし)
この国における、帯剣……合法に基づいた佩剣とは、正確に言えば、許可ではなく義務に当たる。つまり司右翼・司左翼・旗司誓等ある種の特殊な職務に就く者は、その身分証明の一環を兼ね、なんらかの剣―――ここで言う『剣』とは、刀剣に代表される武器全般のことを示しているのだが―――を身に帯びることを法的に強制されているのである。もっともこれは剣の所有についてとり決めた法律とは別物である上、非合法に刃物を持つ暴漢の類と私服の旗司誓との見分けを困難にし、制服組……主に司右翼からの「武装犯罪者と混同される存在と我々が同列視されては、佩剣の品位を損う」との中傷を煽る火種でもあった。
(だから街からの依頼のほとんどは、街に配置した下部組織を―――義賊を介して請け負うんだ。おかしな話だよな。他の国との商売とかを重視してやりくりすれば、悔踏区域外輪にいるだけで生活できるはずなのに、自分たちを邪険に扱う街からも依頼を受け続けてるなんて。なんでだろ? 原因は簡単だ。旗司誓の―――)
「器用貧乏な性分、だろうな」
生前、父はそう告げてから、更に付け加えたのだ。
「品性とも言うか。現代では」
旗司誓について思い出すどれもは父親からの受け売りだったが、それらが的外れであるはずはない。父は悔踏区域外輪を行き交う商売も手がけていたのだから、義賊や旗司誓とは切っても切れない縁があってしかるべきだ。
とはいえ、そんなもろもろの予備知識を軽く見ざるをえないほど、いやにとげとげしい雑念が絶えないこともまた事実だった。ザーニーイの面構えを見やって、うめく。
(……旗司誓ってのもザーニーイって名前も、全部丸ごと、女の人に取り入るためのデマかもしれないし)
結婚詐欺師というやつは、多少ならず品行方正から外れた歌舞伎者を気取ることが多いと聞いたことがある―――
とはいえ、ただの思い付きを、眼前の治療風景を否定する論拠まで昇華できるはずもなく、シャイズナは再び無音でうめいた。どことなく濁った気分で、旗司誓を見詰める。最後に包帯のはしを固定する作業に耽る彼の横顔は、はたから見ても無駄に均整が取れていた―――正面に引き寄せた椅子の上でザーニーイが足を組み、その膝頭に手の先を置かされてから治療が始まったことに、手の持ち主の姉が過緊張をもよおすほどに。それ自体は下心があってのことではなく、単に作業のしやすい高さに対象を安置し、尚且両手を治療に費やすための合理的措置なのだろうが。
異性など身内程度にしか身近に接しなかった彼女にとっては、拷問に近い。
「そんなに丁寧になさらなくても……放っておいてもいい位の痣ですし……」
その声音は、なんだか上ずっている気がする。
(姉ちゃん……父様だって言ってただろ? 旗司誓は地理的にも混血しやすいし、そもそも捨て子の時に粒選りされてからそこに来て育ったって連中だってありふれてるから、見栄えする野郎が多いんだってば……)
つと、変なものを見た気がしてそこを見やると、腿の上で握り締められた彼女の右手が、痒掻感でも覚えたかのようなもじもじとした動きを繰り返していた。
俄然こちらまで居心地が悪くなり、シャイズナは姉の肩越しに見ていたその光景から顔を背けた。家にふたつしかない椅子はこの二人に占領されているので、自分は姉の椅子の背もたれにくっつくようにして立ったままである。顔どころか、どこをどう動かしたところで支障はない。
対するザーニーイの応答は、治療の沈黙を紛らわす以上の意図をまじえていなかった。包帯により動きに過度の制限が起こっていないかを確認するため、姉に軽い手首の運動をしてみるよう手振りで促してから、言ってくる。
「それを分かってくれるのが嬢ちゃんの旦那まで範疇かどうか分からねぇ以上、きちんとやっとくに越したこたぁねぇだろ。大概、女は持ってない財産を手に入れるのに敏感だが、男は持ってる財産が損ねられるのに敏感に出来てるもんだからな」
「……旦那?」
掌の回外運動をはたと止めて彼女が聞き返すと、その動きを注視していたザーニーイの視線もこちらへと移った。ついで、きょうだいのきょとんとした気配から勘違いを察したらしく、軽く握った拳で、もう一方の手をぽんと打ってみせる。
「あ。まだ結婚しちゃいないのか。死んだら夫になれないって言ってたもんな」
「アデュバなんか、死んでも姉ちゃんの旦那なんか御免だ!」
思わず、怒鳴りつけていた。
「シャイズナ」
姉が、尖った気配で名を呼んでくる。大声を上げたときに掌まで力ませてしまったせいで、握りこんだ背もたれが、シャイズナの手の中でわずかに軋んだ。そこを忌避するように肩を浮かせてこちらに振り返ってくる姉の動作は、わずかに遅い―――続けられた、ザーニーイの言葉より。
「死んでもってのは、どいつのことを指して言ってる? お前か? 姉ちゃんか? アデュバって野郎か?」
彼は、組んだままの足に肘をついて、上体を傾けていた。その肘の先―――顎から顔の下半分にあてがった指先で、せりふの真意ごと唇を隠している。少なくとも、そう感じる。不快感に触発され、シャイズナは口を開いた。
「アデュバに決まって―――!」
「シャイズナ!」
完全にこちらへ向き直った姉が、今度こそはっきりとこちらを威嚇する意で声を発する。ザーニーイに応えるにつれて募っていた苛立ちは、あっさりと彼女への反発に転がった。間近にある相手の顔面へと、感情の矛先を翻す。
「姉ちゃんはおかしい! 俺の話を聞いて、吟遊詩人だって言ってたじゃないか! 霹靂ならば穿つであろう、って! あの霹靂が相手にするって、吟遊詩人が言ったんだよ!?」
「流れの者の気紛れな相槌に、そこまで入れ込むものではありません!」
「吟遊詩人の証言なら信じていい」
ザーニーイの呟きが、口論に鎮静を注した。
不自然なほど自然に会話を制されて、ぎょっとそちらを見やる。彼は、テーブルの上にある薬箱に、使い終えた物品を片付けているだけだった。会話同様、片手間にこなす以上に特別なことなどしていないとでもいうように、ちょうど手にした鋏の先端へ興味のなさげな視線を留めている。恐らくこの男は、猛襲の隙を突いて敵の喉仏へとその刃物を滑らせる際も、これと同じ態度でいるのだろう―――ふとした連想に気味が悪くなるが、相手の声の調子は、あくまで軽いものだった。続ける。
「勘違いされやすいが、あいつらは伝承歌人とは違う、れっきとした学識経験者だ。やってることがまどろっこしい上に、クリンツ派とクリンチェ派の二大派閥間の方向性の違いやら何やらが拍車をかけてるとかで、誤解されがちになっちまってるらしいけどな。ただし、信じるっつっても、信用する程度にしとけ。信頼すると肩すかし食らうぞ」
と、鋏を最後に薬箱に収めて、肩をすくめた。
「つまり、霹靂ってのはそのまんま空から降ってくる雷のことで、本物のワルなら天罰くらってオダブツになるでしょうって言ってんのかも知れねぇってことだよ。連中の言葉は徹頭徹尾、暗号化されてるんだ。正確な解読は、当人の心中以外に望むべくもない」
「だとしても、関係ない! お天道様から天誅食らうようなクソ野郎を、旗司誓の霹靂だって放っておくはずがないんだから! そうだろ!?」
「そうなのか?」
怒声の論拠を求めた相手は、こちらではなく姉である。問いかけを受けて、姉は遠回しに抗議するように苛々と繰り返していた身じろぎをやめた。
「霹靂というのは、吟遊詩人の謳い名です。その人は悔踏区域外輪に住まう旗司誓で、義に厚く、またそれを貫き通す腕前をお持ちであるとか。仕事の際には、己の異名に見合う、稲妻を……空を走る稲光のように鋭く鍛え上げられた剣を所望するとも」
それに聞き入るように沈黙し、数秒。ザーニーイは、軽く目を上向かせるようにしてこちらを見やった。
「そいつで合点がいった。だから剣さえ用意すりゃ、あとは万事オーケイだと思ったわけか? シャイズナ」
臆面なく指摘され、ぎくりと全身が引きつる。その反応を見るザーニーイが素知らぬ風体であった分、何も知らない姉が見せた訝しげな表情は際立って見えた。睫毛の数も分かる至近距離で、彼女の眉根に刻まれる影が深まり、徐々に暗さを帯びていく。というか、彼女の反応がその程度で済んでいることは、むしろ奇跡的だと言えただろう……先刻、自分からザーニーイとの関係について口にできるはずもなく、ザーニーイはザーニーイで怪我の手当てを理由に自己紹介もそこそこで済ませたのである。つまり姉は、シャイズナとザーニーイの間柄など、これっぽっちも知らないのだ。そこに投げかけられたザーニーイのせりふは、不審極まる事情を推測する材料となったに違いない。
それでも、シャイズナから仔細を自白するには、犯した事実は―――結果的に未遂とは言え―――重すぎた。言いよどんで俯き、沈黙のもたらすじわじわとした責め苦に息を潜める。と。
「……埃が立ってしまいましたね。窓を開けましょう。立つついでに、お外のお掃除をしてまいります」
言って、姉が席を立った。急に前の荷重を失った椅子が、シャイズナのよしかかる後脚だけで立って、後ろに傾く。そこから慌てて身を起こすと、その先で直立した姉と視線がぶつかった。彼女の両目には、もとよりこちらに何らかの回避を許すような隙は存在していなかったが、それを更に完璧に塗り固めるように、静かに命令を落下させてくる。
「シャイズナ。ザーニーイさんにお茶をお出ししなさい。決して失礼の無いよう」
つまり、彼女から与えられた猶予時間は、茶の一杯分ということだ。
「……はい」
心もとなさに、胸元に両手をまとめながら、頷く。それを見届けると、姉はザーニーイに軽く会釈してから、外へ向かった。そういった心棒でも入っているようなまっすぐな姿勢を緩ませもせず、静かに引き戸を開閉させて、屋内から立ち去る。まあその所作の静けさは、彼女の性質はもとより、この家の特性を重々承知してのことだろうが。
不意にザーニーイが軽薄な調子で口笛を鳴らし、片目をつむって笑いかけてきた。佩いたままの剣と手斧が自然な位置にくる浅い着座姿勢は変えないままで、組んでいた足をほどく。
「いい女だな。あれの弟なんて、ひたすら恵まれてっぞ、お前」
「知らねえよ、そんなん。姉ちゃん以外の弟になったことなんかねえもん。比べようが無いじゃん」
「そいつもそうか」
かこん。と。
あっさり聞き入れたザーニーイが虚空を見上げるのと、その背後で、そんな安い音を立てて窓が開いたのは、同じタイミングだった。外からそちらへと回った姉が、窓の戸板を外側から引っ張り上げたのである。窓の大きさからいって、胸から上の彼女の姿がそこに現れてもよさそうなものだったが、下開きの戸のつっかえ棒を手繰る腕の先が見えただけだった。そしてそのまま、壁の影へと去ってしまう。裏の方に、外用の掃除道具でも取りに行ったのだろう。
採光や換気に使えそうな窓はとうに開けていたため、部屋がこれ以上明るくなるということもない。それでもどこか気が抜けて、シャイズナは吐息した。
「にしても、こいつはまた、随分立派な薬箱だな」
ザーニーイが、医薬品が失せて閑散としたテーブルの上で、そこに置いたままの薬箱を小突いた。
まあ、それ自体は、言われても世辞とは思わない。改めて見るまでもなかったが、シャイズナは薬箱へ熟視をくれた。それは薬箱というより、薬箪笥といったほうが近かろう―――持ち運ぶ取っ手が付いてはいるものの、姿かたちからすると、良家のひと間にでも安置されている方が似合いである。大人でも容易に一抱えにはできない大きさで、大小六段の引き出しが開く直方体であり、材質は黒壇よりも艶を帯びた古木。持ち手と四隅は蜘蛛蔓を模した関白銀の細工で統一されており、横倒しにすれば、そこらへんの代物より余程立派な膳に使えそうだった。
ザーニーイの示した話題は適当なものだったのだろうが、緊張を引きずった心境では過分に皮肉な味を覚えてしまう。シャイズナは唇を曲げた。
「ここん家に比べて、って言いたいんだろ? どうせ掘っ立て小屋だよ。屋根は雨漏り、壁だって隣にまで音が筒抜けだ」
そのあたりで自虐するのにも飽き、シャイズナは家の中を見渡した。ひと部屋しかないのだから、ただそれだけで全てを一望できる。
姉も承知しているこの家の特性とは、つまりはこれだ―――拭いても一向に手垢が取れず、薄汚れたままの扉と窓。柱が目に見えて傾いているようなことはなかったが、むしろそうなった方が、飛び出た分だけ日当たりがよくなるのではないかと思えないこともない。畳まれた寝具や食器の重ねられた手桶が、肩身も狭そうに壁へ押し付けられている。低い屋根はむき出しでそのまま天井になっており、貧しい家では餌を求める羽虫が迷い込むこともなく、梁の上で蜘蛛が痩せていた。どれだけ掃き出しても砂利のなくならない床は、多分、粗悪な敷石が踏みこまれるたびに砕けているからに違いない。卓と椅子は前の住人が置き去りにしていった家具で、手作りにしては悪くなかったが、二人で使うには不便だった。卓は部屋の面積に対して大きすぎるし、椅子はどう座っても尻が落ち着かない程度に傾いでいる。そしてどちらであれ、両方とも脚の高さが揃っていないため、体重をかけると危なげに揺れるのである。これがここに置き去りにされていたのは、つまりはそういった理由だったのだと、入居して半日経たずのうちにシャイズナは身をもって悟っていた……要は、持ち出す労力に見合うだけの価値がないのだ。
鬱々とした内心を推し量れなかったということではなかろうが、とりあえずザーニーイがコメントしたのは、家の内装についての追随ではなく、シャイズナのせりふへの質問だった。自分の背後で開かれた窓を、見もしないくせに正確に親指で指し示して、眉を上げる。
「音が筒抜けったって、隣ン家とは隙間あるだろ。ほれ。嬢ちゃんは、その隙間通ってあの窓開けたんだし」
「あったところで、お互いの家の壁とも無能だったら、物音の方が競り勝つに決まってるだろ」
「無能までいうか」
「家からしたらさぞ不服な評価かもしんないけど、あいにく俺は建築物じゃなくて人間だから、共感して涙ながらに撤回してやる義理なんてこれっぽっちもないね」
「なんつーか、お前の二言三言のわめき声が血相変えた姉ちゃんをすっ飛んで来させた理由が分かった気がするぞ」
なにやら冷めた半眼で呟いてくるが、シャイズナは聞かずに不平を続けた。
「俺らだって本当は、もっと立派な屋敷に住んでたんだぞ。代々続く薬の会社で、食う物も着る物も困らなかったし。アデュバの野郎さえいなけりゃ、この薬箱だけ持って家を出ることなんかなかったのに……」
言い訳がましくなるにつれて意気が保たなくなり、結局は途中までしか続かない。尻すぼみに小声になっていく様子は奇妙だったろうが、ザーニーイは特に態度を変えはしなかった。飄々とした面構えのままで、懐から鈍色のシガレットケースを取り出してみせる。素材の金属をむき出しにしたそれは、彼の両手に包まれ、長年さらされた指と紫煙の脂で年輪のような模様を浮かばせていた。軽く弄ぶようにしてそれをこちらへ示し、シャイズナが嫌がらないと見ると、その小箱を口元まで持ってきて軽く振り―――ぴょんと飛び出した一本の煙草を、器用に唇だけで釣り上げる。
ザーニーイはそれを定位置らしい左の口の端に落ち着けてから、こちらをちらりと見やった。同じくケースから取り出した発火布をこよりにするため、注意はすぐにそちらへ戻されたが。
「そういやお前、名前は?」
「なに言ってんだよ。姉ちゃんが呼んでるだろ。俺はシャイズナ―――」
「フルネームだよ」
信じられず、その場で固まる。
座ろうと椅子の正面へ向かっていた足が動揺に揺れたせいで、見当違いにつま先を向けた足跡を床につけるはめになった―――今起こったことの中で、最もどうでもいいことだが。見やれば、当のザーニーイは目を伏せつつ、摩擦で火を灯した指先の発火布に、煙草の先で接吻している。どうやら詮索に、悪い意味での他意は無いらしい。
それを悟っても、何となく、名乗り直すことは躊躇わずにはいられなかった。煙草にたっぷりとあかりが宿るまで沈黙を費やしてから、ようやっと声をふり絞る。
「……シャイズナ・ワーフェン・アウフ」
「あー、それでワーエラウフか。ワーフェン族アウフ家ってのを混ぜたんだな。商業において法の保護を一家単位で受けるには、家名の一部を明確にして、諸々を登記する必要があるから。昨今じゃ貴族が商売すんのは珍しくもねぇが、代々ってのはおったまげるぜ。お前で何代目なんだ?」
「……知らない。もともとうちは、お金とか気位とか……名前の綴り以外に、そういった貴族っぽいものなんか、ひとつも持ってなかったらしいんだ。だから、誰がいくつ目の後を継いだかとかも、気にしてないんじゃないかな。そのおかげで、昔から普通の人に混じって商売するのもへっちゃらだったし、普通の人からすれば貴族が相手だから信頼も厚かったって。だから、ここまで続いてこれたって聞いたけど」
「貴族っぽいものを放り出せずにおまんま食い上げちまってる連中からすりゃ、貴族っぽいものと換金しては長々と食いつないでいくお前ン家は、心の底からくそくらえだろうな。ま、それこそ俺らが言えた義理じゃねぇか」
「なんでシャイズナだけじゃないって分かったんだ? 俺、こんなだぜ?」
やっとこさ椅子に座り込み、シャイズナは皮肉をこめて自分の喉元を人差し指でこすりあげた。色褪せて伸びきった服の襟首から、痩せこけた首筋が伸びている。本当は、こうして一部分を示すまでも無い話だと、分かってはいた……この生活に追い詰められてひと月足らず、どこをどう見たところで貴族の面影など残っているはずが無いことくらい、自嘲ともども自覚している。
そんなこと、それこそ他人には自明の理だと思って疑っていなかったのだが。ザーニーイはシガレットケースを自分の胸元へしまい直して、返す掌で卓上の薬箱へと触れてみせた。
「確信したのはこいつのおかげだ」
「どういうことだよ?」
「触りゃ一発で分かる。千獣王の脈模様だ。さすがに使ってる材質は石じゃないが、質感からいって、それに負けず劣らずの木材に間違いない。そいつをわざわざ、こうやって宵蜜種の綺羅無し油で黒くコーティングしてやがるんだ。大方、石じゃないと上手く出てこない襞の紅色の光沢を誤魔化そうとしたってとこだろうが―――こんな、色に満足いかないってだけで一級品を窒息させるような真似すんのは、俺が知ってる限り三パターンしかない」
言いながら、ザーニーイは顔を薬箱へと転じた。自分の指先に視線を先導させるように、箱の角を伝わせる爪の動きを目で追いながら、説明していく。
「ひとつ、本家本元の貴族を気取りきれていない貴族。連中はたびたび、高貴な完璧主義ってやつを履き違えることがある。本家本元ならそもそも完璧な品を発注するんだろうが、そこまで気取ることが経済的にできないやつが、お粗末に取り繕おうとしてやらかす典型だな」
と、声と紫煙を繰りながら、頭をかく。
「ふたつ、本家本元の貴族を気取りたがる成金。こいつは、金をかけることと自分自身を洗練することをドッキングさせちまった典型と言えるだろ。ブランド品を、ブランド品だからって上辺だけで買い漁る短絡馬鹿と同じさ。ゼニを浪費するほどに、自分がランクアップすると信じてる。そのモノを持つことで間接的に経済力の豊かさを主張することが目的だから、それの使い方が本当に正しいかどうかなんざ、興味がねぇんだ……もちろん、自分のとんちんかんっぷりが、いかにトンマなのかについてさえな」
彼が、こちらを向いた。
喋るたびに、咥え煙草がひょこひょこ揺れている。やはり経時的に尻がずれたのだろう。椅子に軽く座り直してから、相手はシャイズナに茶目っ気けの漂う目玉を向けた。
「みっつ、貴族も成金も関係なく、そんなもん気取るなんざ下らねぇって分かってる奴―――モノってのは、使うそいつが使いやすいように使えばいい。言うは易しだが、この理屈を、千獣王の脈模様相手に気に入らないから塗るなんつーかたちでやらかした相当なセンスにゃ、俺でさえ目を剥くけどな」
「その言い方だと、フルネームを聞いてきたあんたにとっちゃ、俺は最初のケースに当てはまるみたいじゃんか」
「いんや。最後に持ち出した例さ」
「なんで?」
「こいつの趣味が最高だ」
ここまで断言されると、なんとも言いようが無い。
なにやら気分よさげに薬箱から手を離したザーニーイの前で、こちらも椅子の上で腰の位置を整えながら、シャイズナは口をつぐんだ。無意味に上を眺めて、頬をさする―――まかり間違っても、そこが紅潮しているということなどは、ありえないだろうけれど。
すると相手は、意外な言葉を口にした。
「こう言っちゃ、お前に失礼だったか?」
「え?」
「最高なのは、趣味じゃなくて、趣味の持ち主の方だろうからな。お前の受け取り方によっては、失言になったかと思っただけだ」
「別に、……そんなこと、ないよ。言われたら、父様も嬉しいと思う」
自分でも口当たりがいいことを言っていると分かってはいたが、告げておく。ザーニーイは再度、その卓の主といわんばかりにでんと鎮座した黒塗りの箱を、まじまじと眺めた。それからそれをこちらへ押しやって、小首を傾げる。
「父様? こいつは親父の持ち物なのか?」
「うん。でも、どうかな? ついこないだ、死んじゃったからさ。俺、相続とか分かんないし、今は誰のものなのか知らないけど、生きてる時は父様の物だったよ」
こちらに来た薬箱を、何となく卓上から膝の上へ移して、シャイズナは注視までも落とした。抱えた箱はずしりと重く、乗せた腿に角が食い込んでくる。千獣王の脈模様とやらが古びた木肌にたゆたって、黒く艶の出た油膜の下で逆巻いていた。
「これをずっと持ち歩いててさ、会うたびに、いっぱい色んな話をしてくれたんだ。やたら難しくて、ほとんど俺にはちんぷんかんぷんだったけど、姉ちゃんは真剣に聞いてた。そんで、今でもよく父様のことを引き合いに出して、それに倣ってる。お父様ならこうするはず、ああするはずって」
「じゃあ決定だな。こいつは親父の持ち物だ」
「? 何で?」
「いい女が聞き惚れる話をする野郎だぜ? いい男じゃねぇか。趣味も最高で疑いようがないだろ」
やはり断言され、反応するにできない。と。
唐突だった。ザーニーイが背後へ振り返る。そしてその頭部の動きに連動するように、身体を反転させて立ち上がり―――そしてその時には、外部から沸き立つ物音が、単なる騒音以上に乱暴な気配を帯びていることは、こちらにも明らかとなっていた。
「姉ちゃん!?」
叫び、箱を抱えたままで椅子から飛び降りる。
が、その頃にはザーニーイが、窓から飛び出していた。
先程、姉が開けた窓である。ハードルでも跳ぶように、窓枠に指を掛けることすらなく跳躍し、外へと……明らかに暴力慣れした男たちの影がちらりと見えた、その窓の外へと飛び出していく。ぎょっとするが、薬箱を抱えたままで彼に追従するわけにもいかず―――それを適当に置き去りにすればいいだけの話だと気付いたのは、出入り口から外へ回ってからだった。今から置いてこようか、躊躇する。が。
「姉ちゃん……!」
口にすれば、決心は早かった。そのまま駆け出す。
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