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39.無価値な奇跡4

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 夕食作りはルイーゼが頑張ったので、後片付けはエルウィンが請け負った。大きな手で食器を片手に持ち直し、こちらを軽く振り返りながら洗い場に姿を消すエルウィンの後ろ姿さえ、ルイーゼにはかっこよく見えてたまらない。
 成長してから、これほどまでに長い間ともに……しかも二人っきりでいたことがあっただろうか?

 ダイニングのソファーに座り、エルウィンが戻ってくるのを待っていたルイーゼは彼が戻ってくると両手を上げて迎え入れた。無防備なその姿にエルウィンが戸惑いの表情を見せるが、ルイーゼはその原因に気づかない。

「平民の暮らしってどのようなものなのかしら? 炊事洗濯ってどんな感じで――」
 夢と不安をないまぜにした未来を語るのに一生懸命だ。そんなルイーゼを暖かい眼差しで見つめながら、エルウィンは彼女の髪を小さく弄ぶ。ルイーゼとしては、髪なんかで満足していないで、あと一歩強引に踏み込んでほしいところだが……。

「俺の給料でも、メイドくらいは雇えるから、焦らないで良いよ」
「そうなの……? うーん……?」
 エルウィンの答えはルイーゼにはちょっと不満だ。『世間知らず』を考慮に入れていると思ったから。自分の力で、エルウィンの隣に立てることを照明したい。兄に、父に……そして特に母と義妹に! 母に至ってはグーで殴りたい気持ちだ。
 今度あんな下劣な真似をしたら本当にグーで殴ってやる。


「……疲れた?」
 心配そうに自分の顔を覗き込んでくるエルウィンに気づいて驚いた。
「えっと……あれ?」
 ――さっきまで普通に、のんびりとお喋りを楽しんでいたような気がするんだけど……私、眠ってたの???

 無意識のうちにうつらうつらとしていたらしい。自分はエルウィンが手綱を握っていた間、荷台で寝こけていたのに! 自分には緊張感が足りないのかもしれない。こちらを見るエルウィンの顔には不安が色濃く浮かんでる……私のせい……かな?
  
「一応湯浴みの用意はしてきたけど……明日にするか?」
「エルウィンが用意したの? ……ごめんなさい、明日は私がやるから……」
「無理はしなくていい」
 ……無理?
 私は無理なんかしてない。でも、エルウィンには私が無理をしているように見えるのかな? ああ、だから……エルウィンは不安そうな顔をしているの?

 エルウィンは穏やかな口調でルイーゼを甘やかす。
 けれど、その甘い優しさの中には、どこか縋るような苦みが紛れ込んでいる。それが分かるのに……人生経験がまだまだ足りないルイーゼには、苦みをピンポイントで包み込むことも取り除くこともできない。

「……あのね、私も沢山頑張るから……」
「ああ」
「ちょっとくらいの無理ならいくらでもできるから、大丈夫だから、一人で抱え込んだりしないで……」
「……うん、ありがとうルイーゼ」
 眠い目をこすりながらの言葉には、説得力がないかもしれない。けれど、エルウィンから眠りを誘導するような優しい手を差し伸べられて、そろそろ限界だった。


 ◇

 自分の肩に頭をもたれかかりながら、小さく寝息を立て始めたルイーゼを見下ろし、エルウィンは安堵とも言えない溜め息をついた。自分の中の些末な不安など、彼女に見せたくはない。情けない男だとは思われたくない……これは小さな男の意地でしかないけれど。
 起こさないようにゆっくりと彼女を抱き上げ、寝室へと運んだ。起こさないように、大事に、丁寧に。
 時間がなかったから、寝室は一部屋しか掃除することができなかった。共に眠るのはまだ少し敷居が高いから……押し問答になる前に、彼女を眠らせることができたのは幸運だったか。

 眠る彼女の髪に、頬に、指を滑らせて彼女の疲労の度合いを探る――なんて言い訳を自分にして、彼女に触れたいという我が儘を通そうとしている。ルイーゼに無理を強いていることは嫌と言うほどに分かっているのに。

 でも……欲しい。
 他の誰でもなく、彼女だけが欲しかった。他に何をどれだけ用意されたって、彼女に適うものなどない。

 市街のインフラは、数十年前に錬金術師達が整えており、日々の生活に苦しむような環境下にはない。労働者階級の人々も、昔ほど劣悪な環境に苦しんでいるわけではない。場所によっては危険な場所はあるが、一度市井に叩き出されれば生きる道はない――などということはない。

 エルウィン一人ならば、市井での生活などどうということはない。恐らくは……ソフィアも問題なく過ごせるだろう。
 どうでもいい――むしろ嫌悪の対象ですらある連中はいとも簡単に超えてしまう壁が、最も側にいて欲しいルイーゼにばかり立ちはだかる。


 眠る彼女に卑怯な真似をしてしまいそうで、一刻も早く寝室を出なければと思っているのに、なかなか踏ん切りがつかない。こんな小さな決断さえ、自分にはできない。

 ソフィア・メーベルトからは遠く離れた場所にいると、彼女にこの場所が分かるはずがないと、どれほど自分に言い聞かせても……まるで、今もすぐ後ろにいるかのようなプレッシャーを感じる。
 この場にいない彼女の気配なと感じたくもないのに、絡みついて離れない。

 彼女はかつて、自分も『精霊』を見ることができると言ってこちらに近づいてきた。死んでも死にきれない亡者を『精霊』と輝いた目で崇め奉る彼女と……何を共有しろと言うんだ。
 そんなもの、見えない方がまだましだ。
 精霊がいてよかったと……思えたことなど、ただの一度もない。
 ルイーゼはソフィアと違い、何も見えなくてもこちらの価値観を理解しようとしてくれていた。ソフィアはかつて、ルイーゼは精霊に疎まれていると言っていた。それはおそらく、自分が精霊を疎んじているからだ。自分の精霊に対する思いを無意識下で感じ取り、彼女も同じような嫌悪を向けてしまったのかもしれない……無意識の内に。彼女は優しい人だから。



 ◇◆◇


 翌日、ルイーゼは慣れないベッドの中で、メイド服姿のまま目を覚ました。メーベルト邸の自室やジェヒュー邸よりも薄いカーテンからは、いつもより強い朝の光が入ってきていた。これに刺激されて目を覚ましたようだ。
 隣にエルウィンが寝ている様子はない……貴重なチャンスを無駄にしてしまった、と落胆を覚えていたが寝室の端に置かれているソファに眠っているエルウィンを見つけると、知らず笑みを浮かべていた。

 ――ぐっすり眠ってるみたい。昨日は朝早くから馬を駆ったり色々力仕事したりしていたんだろうし……疲れていたのよね。じゃあ、今日は村娘の姿で街に繰り出して、私にもできる仕事を探そうかな? 兄様の別荘じゃあ、そう遠くないうちに見つかってしまうかもしれないし。

 ベッドから這い出し、腕を組んで椅子に腰かけたまま熟睡しているエルウィンの足下に音を殺して歩み寄る。まぶたを落として深く眠り込むエルウィンを目の当たりにするこの状況は……ルイーゼにとっては新鮮だった。

 疲れているエルウィンを前にして、どうやって彼を元気づけ――或いは癒やそうかと考える。いつも彼がルイーゼの髪を弄ぶように、自分も彼の髪を一房、指に絡めてみる。なんとも心地よい手触りに、彼の気持ちが少し分かった気がした。

 ――私、結構寝顔を見られているのよね……なんだか恥ずかしい。私の寝顔を見つめていた時の彼が、今の私と同じように、少しでも穏やかに……幸せを感じていてくれたならよいのだけれど。


「……ルイーゼ?」
 やがて、まぶたの間からいつもの水色の瞳がルイーゼを捕らえた。寝ぼけ眼の彼というのは珍しくて、なんだかとても可愛らしいと思ってしまう。はじめは焦点が合っていなく、どこか少年らしささえ感じさせる顔つきが、いつもの精悍な顔つきに戻る。その変化さえ……愛しいと思う。

 ……でも、今日はまだ湯浴みをしていないから、あんまり近づいたらダメなのよ。

 寝ぼけている振りをしながら、こちらに手を伸ばしてくるエルウィンから逃れながら。
「私、湯浴みをしたいんだけど……エルウィンはどうするの?」
「……誘われてる?」

 一瞬、エルウィンが何を言おうとしているのか分からないルイーゼだったが、数秒後、思い至り顔に朱が走る。
「もう、知らないっ!」
 譲り合いに発展する間もなく、ルイーゼは恥ずかしがって先に浴室に向かってから……してやられたことに気づいた。自分に先番を譲るためのしょうもない茶番。

 ……いつかは、普通に……その、一緒に…………なのかしら?


 ルイーゼは幸せだった。これから先の、二人だけの輝く未来を手に入れられると信じて疑わなかった。不安なのは、エルウィンが気後れしてしまっていること。ルイーゼを心配するあまり、退いてしまうこと。諦めてしまうこと。

 それだけが心配だったから、 湯浴みを終えて村娘の格好に着替えている最中に、多少の物音がしても、見知らぬ誰かの声が聞こえても、それは新しい生活に必要な……ルイーゼが知らない何かなのだと思い、それ以上深くは考えなかった。
 分からないことは後で聞けばいい。これが噂のご近所付き合いなのかもしれないとさえ思った。
 何も考えずに、着替えを済ませてまっすぐにダイニングへ向かった。エルウィンが湯浴みをしている間に、朝食を完成させたら驚くだろうか……そんなことを考えていた。

 本当に自分は何も分かってなかった。


「――わたしとエルウィン様は、龍神様が認める奇跡の恋人――ううん。運命で結ばれた婚約者なんですから……」

 ダイニングの扉を開けたその瞬間……聞き覚えのある声が、耳に飛び込んできた。その瞬間の感情は、どんな言葉で表現できるだろう。聞こえてこないはずの声だった。聞こえたら最後だと、嫌というほど分かっている声だった。

 ――彼は私の婚約者よ! ずっとずっと昔から……!




 
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