小説家

つくねこだま

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 いくつもの華やいだネオンが、夜の霧雨ににじんでいた。上機嫌の酔っ払いが外れた声で歌っている。いかがわしい看板の下で、派手な服を着た男が、スーツを着た二人組に声をかける。明かりのこぼれる窓からは、時折静寂せいじゃくをはさみながら、笑い声が聞こえている。
 昼間は小さな飲食店と個人経営の本屋、そしてコンビニエンスストアくらいが開いている程度のこの通りも、日が暮れるとともに、別の顔をのぞかせる。良くも悪くも、人の集まる場所には、常に喧騒がつきまとう。
 そんな夜の賑わいをよそに、裏通りを少し入った路地…その一角に小さな店があった。黄色く濁ったライトに店の名が浮かび上がる。
「BAR LASTMISTERY」
〝ラストミステリー〟と銘打たれた看板は古く、所々かすれていた。その年季の入り具合は、バー自体をミステリアスに演出しているかのようだった。
 そんなバーに続く地下への階段を、一人の男が下りていく。年の頃は四十くらいだろうか。大柄な体躯で、ライトブラウンの帽子とロングコートを着込み、心持ち猫背気味に、しかし軽快に歩みを進めていった。コツコツとかすかに響く靴音が、レンガ造りの階段とゆるい霧雨にとけていった。
コロン、コロン…
 小気味よいベルでドアが開くと、マスターの低い声が響いた。
「いらっしゃいませ」
 男は軽く目礼すると帽子を取り、コートのしずくをぬぐった。近場のハンガーにかけられた帽子とコートは、程なく店の壁に溶けるようになじんだ。
 さほど広くない店内は淡いライトで飾られ、ほのかな煙草と酒の香り、そして軽快なジャズとかすかな談笑で満たされていた。
 男はカウンターを一瞥いちべつすると、中ほどの椅子に腰掛けた。ギッと鈍く椅子がきしむ。
「キルテサージュを…ロックで」
「…はい…お待ちください…」
 男の注文に、マスターは酒を探すそぶりをする。
「…いや、すまない。銘柄は任せるので、バーボンをロックで」
「はい、かしこまりました、少々お待ちを…」
 少しの間、静かな喧騒が流れる。無意識に耳へと入ってくる音楽は、昔どこかで聞いたことがあるような気がした。
「お待たせしました。」
 男はグラスを受け取ると、軽く会釈し、その琥珀を一口味わった。丸い氷がグラスの中で揺れた。

「キルテサージュ…ですか。それは、私とあなたにしか分からない酒ですね…」
 不意に、カウンターの隣の席に座っていた男がそんなことをもらした。淡いライトの下で、彼は軽く微笑んでいるように見えた。壮年のかもし出す、落ち着いた微笑だった。
「よく、ここがわかりましたね。」
 隣の男は視線を動かさないままで、そう続けた。
 バーボンの男は、またグラスを傾けると、静かに口を開いた。
「聞き込みをしたのさ。…それこそ、仕事そっちのけでな。」
「そうですか…さすがですね。」
 隣の男はフッと笑った。
「それほど難しくはなかったよ。このあたりで〈優鬼の伊澤〉といえば、わりと通った名だったからな…沈着冷静で一見穏やかだが、凶悪犯罪者には容赦しない〈優しき鬼〉…だが一方じゃ私生活が不透明で不思議だという噂も、耳にしていたよ。」
「噂…ですか。」
 伊澤と呼ばれた男は、小さくつぶやいた。
「よく調べていらっしゃる。」
「大半はもともと、私が知っていたことさ。」
「…そうでしたね。」
 しばらく、二人の間には少しの緊張が流れた。バーボンに馴染んだ氷の溶けていく音が、ゆっくりと聞こえる気がした。

「なあ…そろそろ戻らないか、伊澤。みんなのところへ…来てくれないか。」
 静寂を裂いたのはバーボンの男の言葉だった。伊澤はそれに反応したようだったが、相変わらず視線は動かないままだった。
「みんな、戻ったんですね…?津田も、陣内も。」
 伊澤は男の質問には答えず、ただゆっくりと話し始めた。
「ああ。津田は話をしたら分かってくれた。陣内も…それほど無理解だった訳じゃない。すぐに戻ってくれたよ。」
 フッと伊澤は笑みをこぼした。
「そうすると、小谷は大変だったんじゃないですか?彼は血気盛んですからねぇ。」
「ああ、あいつはずっと喰ってかかってきてなぁ。二、三度殴られそうになったよ。〝俺はここにいたいんだ〟ってな。…でも、先に出会った岸に手伝ってもらう形で、一緒に戻ってもらったよ。」
「小谷は、温厚な岸がベスト・パートナーですからね。さすがに折れるしかなかったんでしょう。」
 微笑みながらゆっくりと語る伊澤の言葉には、まるで自分の息子について話すような柔らかさが含まれていた。
「そう…植村は?彼も素直に帰るタマじゃなかったでしょう。」
 男は少し、言葉を濁した。
「実は…植村は…捜査の途中で犯人とおぼしきヤツに刺されててな…。正義感の裏返しだ。見つけたときには、病院のベッドで虫の息だった。とは言え、幸いなことに命を落とす前に見つけることができたから、問題はなかったがね。」
「そうですか、それは、一安心ですね」
 軽い安堵のため息が伊澤からもれた。いくら命の危険があっても、でも、この男の元に戻れば心配はないと確信しているかのようだった。
「一番厄介だったのは、辺見だよ。あいつ、あろうことか彼女ができていてね…。」
「あの奥手がですか?…いったいどういう風の吹き回しです?」
 伊澤は初めて驚いた様子を見せた。
「俺も正直びっくりしたよ。張り込みで使ってた喫茶店の店員らしくて…小柄で、とても可愛い娘だ。―彼女も説得しなきゃならなかったから、一苦労だったよ。辺見には、戻ったら同じ娘が隣にいられるように約束したがね。」
 やれやれ、といった風で男は言葉を切った。伊澤はそれを見ると、また少し笑った。
「みんな、自慢の部下たちですよ。個性的で、まっすぐで、正義感にあふれている…だからこそ、〝こちら側〟に出てきてしまったんでしょう。理不尽な事件が未解決のままでいる現実世界に…」
 伊澤はそこまで言うと、男のほうに向き直った。その眼差まなざしは、自信と、決意と、そして少しの淋しさを含んでいた。
「あなたには、感謝していますよ。私たちを生み出してくれたのですから…魂を、分けてくださったといってもいい。」
 男はそれに答えず、一度静かに瞬きした。
「ここにはやり残したことがたくさんある…。しかしそれも、時間切れのようですね。…とはいえ、ちょうど携わっていたヤマが解決したところです。」
 伊澤は、一度言葉を切った。
「私たちの想いがこの世界に伝わるような作品を世に送り出してください…そして、一人でも多くの人を救ってください。…私たちは、今までと変わらず、あなた共に事件を解決していきたいと願っていますから…。」
 壮年の、細かいしわが刻まれた拳を握りしめ、冷静で評判の男、伊澤は一気に思いを語った。
「…伊澤、ありがとう。みんな揃ったら、またよろしく頼む。これからは多くの人を救えるような作品を書いていくと、約束しよう。」
 男は背広の内ポケットから一冊の文庫本を取り出すとカウンターに置き、そして伊澤と握手を交わした。
「ありがとう、辻木さん…」
 潤んだように見えた伊澤の瞳は、その体とともに、ふっと消え失せた。
 また、静かな喧騒が場を支配した。

「…ここにいらした方、お帰りですか?」
 店の奥から顔を出したマスターが男に聞いた。いつの間にお帰りだったのか…そんな調子だった。
「ああ、彼は私の連れなんだ。彼はもう戻ったよ…。一緒に、勘定してくれ。」
 氷の溶けきった、薄いバーボンを飲み干すと、男は財布を取り出した。
「いつの間にお帰りでしたか?気がつきませんでしたよ。」
「つい今しがただよ。みんなのところへ、ね。」
「そうですか…」
 男はコートを着込み、帽子をかぶると、店を後にしようとした。
「あ、お客さん…その、不躾ですが…」
 マスターが声をかけた。
「なんだい?」
「その本、もしかして今話題の小説じゃないですか?」
 男は笑顔で軽くうなずくと、大切そうに持ち直した。
「そうだよ。私の代表作なんだ。」
「え、ああ、あなたがお書きになったんですね。たしか、続編が雑誌掲載されていたのに、最近になって突然休載されたとか…あ、失礼しました…。」
 私情に入り込みすぎたと察したのか、マスターは恐縮する。
「そう、しばらく所用でね。でも、今日ここでみんなが揃ったんだ。だから、連載再開さ。」
「はあ…。」
 マスターが気の抜けた相槌を打つ。
「〝ラストミステリー〟素敵な店名だね。ここで揃ったのも、何かの運命かも知れないね。マスター、ありがとう。」
 男が大事そうに持つその本には、推理小説らしきタイトルが銘打たれていた。
『七人の刑事』



 未来の小説家 辻木康平に捧ぐ。
           
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