鬼の花嫁は役行者に隷属契約されました~

藤森瑠璃香

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第十六話:蕭索の山路、囁かれる神隠し

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 町での束の間の休息は、朱音(あかね)のささくれ立っていた心に、柔らかな陽だまりのような温もりを残してくれた。役小角(えんのおづぬ)様が不機嫌そうに、けれどどこか満足げに団子を頬張る姿は、朱音の記憶に鮮やかな色彩を添え、思い出すたびにくすりと笑みが漏れてしまうほどだった。

 一行は再び旅路に戻り、役小角様が告げた次なる目的地――この険しい山々を越えた先にあるという、古い都の跡地を目指していた。彼がそこで何を成そうとしているのか、朱音には想像もつかない。ただ、彼の大きな背中を、義王(ぎおう)の頼もしい気配をすぐ後ろに感じながら、一歩一歩、懸命に足を運ぶだけだ。

 山道に踏み入ると、町の賑わいが嘘のように遠ざかり、辺りは深い静寂に包まれた。木々は鮮やかな紅葉の盛りをとうに過ぎ、今はそのほとんどが葉を落とし、寒々とした枝を空に向けて突き上げている。踏みしめる枯葉がカサリと乾いた音を立て、厚く積もったそれは朱音の足取りをさらに重くした。吹き抜ける風は日ごとに冷たさを増し、肌を刺すような鋭さで冬の訪れが間近であることを告げている。遠くに見える峰々は、既にうっすらと白い雪化粧を纏い始めていた。その蕭索(しょうさく)とした景色は、美しくもどこか物悲しく、朱音の心に小さな不安の影を落とす。

「はぁ…はぁ…っ…」
 続く登り坂に、朱音の息はすぐに切れ切れになった。額には玉のような汗が滲み、足は鉛のように重い。荷物のほとんどは義王がその屈強な肩に負ってくれているとはいえ、幼い頃からろくに食べ物も与えられず、虐げられてきた身には、この山越えは想像以上に過酷だった。

(しっかりしなくちゃ…役小角様や義王様に、これ以上ご迷惑はかけられない……)
 そう思う心とは裏腹に、足は思うように前に進まない。
 先頭を行く役小角様は、そんな朱音の苦闘などどこ吹く風といった様子で、涼しい顔で淡々と歩を進めている。その健脚ぶりは、もはや人間業とは思えないほどだ。けれど、朱音が大きく遅れそうになると、彼は何も言わずに、しかし明らかにその歩む速度をふっと緩めてくれる。その無言の配慮に、朱音は胸の奥がきゅっと締め付けられるような感謝を感じつつも、自分の不甲斐なさがもどかしくてたまらなかった。

 ふと、役小角様が前を向いたまま、静かに声をかけた。

「それでも鬼の子か、情けないな。だが、気を抜けば喰われるぞ、朱音」
 その言葉はいつものように厳しかったが、どこか案じるような響きを含んでいるように朱音には聞こえた。そして、彼が続ける。

「だが、お前のその赤い瞳が捉えるものは、時に俺の目よりも確かだ。周囲の気を常に探れ。この寂しい山道ほど、良くないものが好んで隠れ潜んでいるものだからな」
「は、はいっ!」

 朱音は背筋を伸ばし、彼の言葉を胸に刻む。自分のこの忌まわしいと思っていた力が、彼の役に立つかもしれない。その事実は、朱音にとって何よりも大きな励みとなった。淵女(ふちめ)の一件以来、ほんの少しだけだけれど、以前よりも空気の澱みや微かな妖気を捉えやすくなったような気がしていた。

 日が西の稜線へと傾き始め、空が茜色に染まる頃、一行は長く続いた坂道をようやく登り切り、峠の頂上近くへと差し掛かった。そこには、まるで忘れ去られたように、ぽつんと一軒だけ古びた茶屋が風雪に耐えるようにして建っていた。煤けた暖簾(のれん)がかかり、戸は所々傷んで木の肌が剥き出しになっている。囲炉裏から立ち上る煙の匂いだけが、かろうじてここが人の営む場所であることを示していた。

「ふむ、ここで少し休むか。お前のその顔色では、今夜の仕事に差し支える」
 役小角様がそう言うと、一行は茶屋の中へと足を踏み入れた。薄暗い土間の店内には、黒光りする太い梁の下に、使い込まれた囲炉裏と粗末な木の長椅子があるだけ。奥の薄暗がりから、腰の深く曲がった老婆が一人、小さな足音と共にゆっくりと姿を現した。皺だらけの顔には人の良さそうな笑みが浮かんでいるが、その瞳の奥には、長い年月を生きてきた者特有の深い疲れと、どこか諦観にも似た影が宿っているように見えた。

「あらまあ…いらっしゃいませ。このような寂れた峠に、お若い旅のお方とは…珍しいことですな」
 老婆は、久しぶりの客人に少し驚いた様子で、それでも温かく三人にお茶を勧めてくれた。古びた湯呑から立ち上る湯気が、冷え切った朱音の体を芯から温めてくれる。その素朴な優しさが、ありがたかった。

「婆さん、一つ尋ねたいのだが」役小角様は、出された茶を一口静かに啜ると、単刀直入に切り出した。「最近、この峠で何か変わったことはなかったか? 例えば、人が忽然と姿を消したとか、妙な物音を聞いたとか、あるいは…何か良くないものの気配を感じたとか」
 その言葉に、老婆の顔からふっと笑みが消え、びくりと肩を震わせた。そして、恐ろしげに声を潜め、周囲を憚るようにして語り始めた。

「……ああ、お若いお方…よくぞ、聞いておくんなさった。実は……ここひと月ばかりのうちに、この寂し峠を通った旅の衆が、もう何人も…何人も、ぷっつりと姿を消しておるんじゃよ……」
 老婆の声は、恐怖で微かに震えていた。
 彼女の話によると、消えたのはいずれも日が暮れてから峠に差し掛かった者たちばかりで、残された荷物や金品には一切手がつけられておらず、ただ人だけが、まるで神隠しにでもあったかのように忽然と消え失せてしまうのだという。最初は悪辣な山賊の仕業かとも思われたが、それにしてはあまりにも不可解な点が多すぎた。

「村の衆は、この峠に棲むという古狐の仕業じゃとか、あるいは長年祀られていない山の神様の祟りじゃとか、口々に噂しておりますが……本当のところは、誰にも分かりゃしません。わしが若い頃にも、似たようなことがあったやもしれぬと、古老は申しておりましたが…。ただ、恐ろしくて、もう日が落ちてからは、誰もこの峠道を通ろうとはせんのじゃ……」
 老婆は、皺だらけの手で自身の細い腕をさすりながら、遠い目をして語った。その瞳には、拭いきれない恐怖と、どうすることもできない無力感が色濃く浮かんでいる。

「ふむ……ただの神隠し、というわけでもなさそうだな」
 役小角様の黒い瞳が、鋭い光を帯びる。彼はちらりと朱音に視線を向けた。その眼差しは、試すようでもあり、そしてどこか信頼を寄せているようでもある。

「朱音、どうだ? 何か感じるか?」
 促され、朱音はゆっくりと目を閉じた。意識を集中させると、確かにこの茶屋の周囲、そして峠全体に、薄いが粘りつくような、重苦しく冷え冷えとした気配が漂っているのを感じた。それは、淵女の時とはまた違う、もっと古く、湿り気を帯びたような……執念深い何か。人の強い悪意のようでもあり、純粋な妖気とも少し違う、複雑で、そしてひどく嫌な感じだ。

「はい……何か、います。はっきりとは……分かりませんが……それは、まるで深い悲しみと、満たされぬ飢えが渦巻いているような…とても、嫌な気配を感じます。この茶屋のすぐ近くからも…そして、峠の奥の方からも…」
 朱音がそう報告すると、役小角様は彼女の肩にそっと手を置いた。その手は少し冷たかったが、朱音には確かな温もりとして感じられた。

「お前のその力、やはり磨かれてきたようだな。その感覚を信じろ」
 そして、彼の口元に、ほんのりと不敵な笑みが浮かぶ。

「どうやら、ただの神隠しではなさそうだ。今宵、その正体、この俺が暴いてくれようぞ」
 その言葉には、朱音の力を認め、頼りにしているという響きが確かにあった。朱音は、胸の奥が熱くなるのを感じながら、力強く頷いた。
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