傷みはあの日に色をつけた

一式鍵

文字の大きさ
1 / 1

傷みはあの日に色をつけた

しおりを挟む
 三十年くらい昔の話だ。

 中学生だった僕には片思いの女の子がいた。僕たちは同じ道場に通う少年剣士というやつだった。ちなみに今はどうかは知らないが、当時は「少年剣士」はあっても「少女剣士」という呼び名はなかったと思う。

 僕とその子――仮にアスカと呼ぶことにする――は、実は同じクラスだった。それどころか、小学校三年生から中学校三年生のその時に至るまで、僕たちはずっと同級生だった。だけど僕らは道場以外ではほとんど会話をしなかった。同じ体育委員になった時ですら、必要最低限の会話しかしなかった。

 アスカは僕とは違ってとても練習熱心だった。僕たちは中学二年で初段をとったが、アスカは道場でも、剣道部の活動の中でも、間違いなく最強だった。どういうわけか全市大会で優勝したにも関わらず、全道大会を辞退したりもしていたが。

 中学三年の半ばで、僕らは部活動を終えた。塾の高校入試対策が本格的になり、道場とも次第に疎遠になっていく。必然、僕はアスカと話す機会をどんどんと失っていった。

 その時になって、僕はようやく、今まで自分は何をしていたんだと思った。英語の問題集を解いていたのに、僕は何度も集中力を途切れさせてしまった。

 僕はアスカのことが好きだったのだと、愚かにも僕はその時ようやく気が付いた。これはさながら天啓のようなものだったと今の僕は思う。

 ああ、そうそう。当時は今とは違って、スマートフォンはおろか、携帯電話もなかった。ポケベルでさえなかったし、もしあったとしても僕たち中学生が持てる代物ではなかった。思い立ったらすぐ連絡――なんてことはできなかった。電話をしても、使うのはいわゆる家電いえでんだ。本人が出てくれることを祈りながら掛ける……そんな勇気は僕にはなかった。きっとアスカのお母さんが出るだろうし、だとしたらなんていうか気恥ずかしいじゃないか。

 そんなわけで、僕がアスカと連絡を取れる可能性があるのは、明日の道場だった。しばらく顔を出していなかったが「勉強の気分転換」といえば道理は通るはずだと、当時の僕は考えた。それになにより、あの練習熱心なアスカが道場をサボるとは考えにくかった。もし土曜日を逃したら、次に会えるのは月曜日なんてことになる。それまで僕はこの浮ついた気持ちのまま過ごすハメになる。それは避けたかった。

 その夜、僕は寝付けなかった。

 というか、そもそもアスカに会ってどうするっていうんだろう。道場なんて耳目の多い場所で、僕たちは何か特別な会話をするのか? そもそもアスカはそんなことを望んでいないんじゃないか。アスカにとっては、練習が一番だ。練習していないときは勉強している。僕のこの一方通行になり得る気持ちは、アスカには騒音ノイズになってしまうかもしれない。

 僕はアスカのことを尊敬している。当時の僕には「好き」という語彙しかなかったが、今となってはそれは尊敬とか憧憬しょうけいに近い感情だったのかもしれない。

 文武両道、容姿端麗、公明正大。僕にとってはアスカは完璧な人間だった。口数は少なく、誰かとつるんでいることもないが、やるべきことはやるし、言うべきことは言う人だった。

 そして土曜日の午後。久しぶりに竹刀と防具をかついで、秋風の中道場に向かった僕は、颯爽と自転車に乗ってきたアスカと玄関近くで鉢合わせた。

「アスカ」
「こんにちは」

 アスカは僕に小さく頭を下げた。僕もつられて頭を下げる。アスカはとても礼儀正しい。それは僕に対しても、彼女の友人たちに対しても同様だ。食事のときは必ず手を合わせて「いただきます」と言うことも僕は知っていた。

「あのさ――」
「練習始まっちゃうよ」

 僕の言葉は、練習開始時間の壁に阻まれようとしていた。僕は幼馴染の特権を活かして――その特権を初めて使ったが――アスカと並んで靴を脱ぎながら言った。

「アスカ、ちょっといい?」
「なに、白鳥くん」

 その時のアスカの表情はいまいち思い出せない。さっぱりとしたショートカットと、くっきりした目。今の僕は情けないことにそんな漠然とした姿しか思い出せないんんだけど、とにかくアスカは僕にとっては世界一美しい人だった。

「アスカはこれからも剣道続けるの?」
「ううん。高校ではやらないよ」
「えっ?」
「高校入ったら色々やりたいこともあるし」
「色々?」
「友達作りたいんだ」

 その言葉に、僕は驚いた。

「剣道と勉強頑張ってたら、友達作る余裕なんてなくて。私、不器用だから」
「あの、俺さ」
「白鳥くんは幼馴染ポジだからね。ちょっと特別」

 アスカがここまで喋るのは少し意外だった。一年分くらいは言葉を交わしたかもしれない。

「私さ」
「う、うん」
「来月転校するんだよね」
「え……!?」

 僕は僕の言葉を見失った。

「お父さんの仕事でね。イギリス」
「い、いぎりす!?」

 途方もない話に、僕の目は回る。

「ごめんね」
「ごめんって……」
「白鳥くんさ」

 アスカは僕の肩に触れた。身長差は実はほとんどなかった。

「私のこと、好きでしょ」
「な、う、えっと」
「道場で出会ってもう十年だよ。そのくらいわかるって」

 アスカは笑った。

「今日、最後なんだ、道場。だからここで会えてよかった。学校でも会えるけどね、まだ」
「そんなの……」

 あんまりじゃないか。

 僕は首を振った。頭が痛くなるくらい奥歯を噛み締めていた。

「今日、私と試合して、白鳥くんが勝ったら。私、泣きながらお父さんに駄々こねてみようと思うよ」
「そんなの」
「無駄かもしれない。たぶん、無駄だと思う。でも、だからって何もしなかったら、きっと私は後悔するし、白鳥くんだって悔しいと思う。違う?」
「でも……」
「さ、試合試合。やることやってから考えよ」

 アスカは僕の背中を叩きながら、「急いで着替えなきゃ」と道場へと入っていった。

 師範に頼んで僕とアスカは試合をした。二本先取で勝ちといういつもの試合だ。

 最初の一本は開始五秒で取られた。アスカの得意とする速攻だ。こちらが腕を動かす前に面を打たれた。毎度のことながら、何が起きたのかわからない一撃だ。

 次の一本は奇跡的に僕が取った。アスカが面を狙ってきたところを死物狂いで小手を打った。アスカの手が振り上がり切る前に、僕の一撃が決まっていた。我ながら神速だった。こんな一撃は出したことがなくて、僕が誰よりも驚いたに違いない。

 三本目はなかなか決着がつかなかった。延長二回目で、お互いにスタミナが尽きてくる。延長三回目ともなると、運動不足だった僕は竹刀を持ち上げるのも億劫になってくる。足取りも重い。アスカにはまだ余力はあるようだったが、防御に全力を注いでいる僕を打ち崩すには至らない。

 アスカの打ち込みを僕は竹刀を叩きつけるようにして防ぐ。その時、僕は頬に鋭い痛みを覚えて右手を上げた。いわゆる「タイム」だ。

「どうしたの?」

 アスカが心配そうに僕を追ってくる。僕は場外に出て面を外して、アスカに「ここ、なんかなってない?」といた。

「うわ」

 アスカが声を上げて、師範を振り返る。師範は落ち着いた声で「うむ」と頷いた。

が刺さってるな」
「げぇ……」

 僕はげんなりする。というのは、竹刀の破片のようなものだ。今と違ってカーボン素材ではなかった竹刀は本当にで出来ていた。ということはつまり、衝撃によって繊維の方向に裂けるのだ。それが細かい針のようになって飛んでくることが稀にある。

「でも目に刺さらなくてよかった」

 僕はアスカにそう強がった。アスカは「ほんとだね」と頷いた。その間に、師範がピンセットで慎重にを抜き、消毒してくれた。

 アスカは僕の肩に手を置いて、かすれた声で言った。

「試合は引き分けだね」
「悔しいな」

 僕の言葉に、アスカは笑った。


―――――


 結果としてアスカはイギリスに行ってしまった。泣いて駄々をこねてくれたのかどうかは、結局のところ、今でもわからない。

 そんな僕は、今、ロンドンに住んでいる。

 目の下の怪我なんて三日もつ頃には跡形もなく消えてしまったけど――。でも、あの時のには僕は感謝している。そのおかげで、あの日はにとって忘れられない日になったからだ。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。

true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。 それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。 これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。 日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。 彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。 ※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。 ※内部進行完結済みです。毎日連載です。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。

石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。 だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった 何故なら、彼は『転生者』だから… 今度は違う切り口からのアプローチ。 追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。 こうご期待。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...