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赤黒イ其ノ影ハ、水槽ノ内ニテ刮目スル――。
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それの歪んだ青い瞳が、私を多湿的に凝視している。
私はそれを抱えて走っていた。奴らが追いかけてくる。人の言葉の通じない、暴力的な奴らが、私とそれを追いかけてくる。捕まればただでは済まされない。手の内にあるこれのように、私は醜く拉げさせられてしまうだろう。これを棄てたところで、今さら奴らは私を逃したりはしないだろう。奴らは獰猛で、そして、執念深い。私はそう知っている。人の姿をした、されど人ならざるもの。人の皮を被っただけの、悪だ。
奴らは大声を上げながら、まるで狩りを楽しむかのように私たちを追ってくる。彼らは酔歩していた。それ故にそのスピードは速くはない。しかし――絶望的なことに――遅くもなかった。このままでは私の体力がもたない。デスクワーカーである私は、体力には自信がなかった。
恐怖と不安で涙が出そうになる。後ろから奇声が迫ってくる。奴らの言葉の意味がわからないのが恐ろしい。話の通じない脅威ほど、恐ろしいものはない。
私の手の中でそれがもぞりもぞりと動く。その度にぬらりぬらりと体液が零れ、私の掌を滑らせる。それの裏側にてびちびちと脈打つものは内臓だろうか。仄かな温かさと共に、怖気が背骨を一段飛びで駆け上がる。
白々しく光るコンビニを遣り過ごし、街灯を幾つも潜り抜け、私は道路の真ん中で一息ついた。というより、つかざるを得なかった。肺が潰れそうだったし、太ももも上がらなかったからだ。脛の皮が剥がれそうなほどに痛む。呼吸音と心音が、私の聴覚をべっとりと塗り潰す。
私には抱えているそれを見る勇気はなかった。奴らから必死の思いで救出したそれを。思えば何故そこまでして必死にそんな行動をとったのか、私は思い出せなかった。自分の生命の危機を招いてまでするほどのことだっただろうか。
しかし後悔しても遅い。奴らの金切り声が迫ってくる。逃げ場はない。逃げる力もない。自宅までは依然として遠い。
車のヘッドライトが私を照らす。私は慌てて歩道に逃げた。信号機はない。安全地帯はない。声が迫る。足音が寄ってくる。私の頭上の街灯が不意に消えた。私の周囲が影で潰される。
どうしよう、奴らが近付いてきた。
私の焦燥に応じるかのようにそれがじわりと動き、私の掌に向けて体温を放出する。
その時――。
「おい、お前」
闇が私に呼びかけてきた。
心臓が止まるかと思うほど、私は驚いた。
闇に沈んだ路地の一角に、その館はあった。館は大きな立方体だった。こんな建物は記憶になかった。しかし、明らかに立方体のそれは、何百年も昔からそこにあったかのようにしっくりしていた。その立方体の玄関の前に、その男は立っていた。こんな真夜中に、どういうわけか白衣を着ている、眼鏡の男。痩身にして長身、神経質そうなその表情と、鋭く尖った声。そして何より、男は普通ではなかった。白衣はともかく、その有り様が普通ではなかった。どのように異常なのかを表現する術を私は知らない。しかしとにかく男は普通ではなかった。
男はただそこにいた。ずっと昔からそうであったかのように、男はそこに立っていた。
「どうした、そのままそこに突っ立っていたら、奴らに捕まるぞ」
「え……と」
「それにお前、その手の中のそれをどうするつもりだ」
「ど、どうって」
言われて初めて私はそれに意識が及ぶ。思えばこんなものを持ち帰って、どうにかできるはずもない。私は獣医の類ではないのだ。最悪、埋める場所も思い当たらない。明日、私の働く研究所に連れていけばあるいは誰か――。
「これだからお前らは困る」
男は呆れたように、しかし、鋭く言った。
「意気地も後先もない。近付いては離れていく。そのくせ簡単に路頭に迷う。泣き言を言う割に前に進まない。進めない理由ばかり並べ立てる能力には、まことに秀でているがね」
男の嫌味も、私の脳を素通りしていく。それほどまでに、男は普通ではなかった。私の手の中に在るそれと同様に。
「俺の館で時間を潰せ。奴らも直に去る」
選択肢はなかった。
立方体のその館。その玄関扉の脇には、大きな黒い看板がいつの間にか置かれていた。そこには動脈血の如き色で、四つの漢字が書かれている。
美味兎屋――。
ビミウサギヤ、だろうか。
なんと読むにしても、それはおかしな文字列だった。私の手の中にいるそれと同じほどに、珍妙な文字列だった。
「ミミトヤだ」
「え?」
「ビミウサギヤ、ではない。ミミトヤだ」
上下も強弱もない口調で言いながら、男は奥まった一室へと私を通した。どういうわけか靴は履いたままだ。
「なんで」
「お前らは皆、そう読もうとする。単純な推論だ」
男は部屋の奥にあったソファにどっかりと腰を下ろす。その尊大とも言える仕草に、私は知らぬ間に圧倒されている。いや、臆していた。手の中のそれはびちびちと微温くのたくっている。
部屋の中は種々雑多な品々で埋め尽くされていた。壁一面の書棚はいいとして、思いつく限りの家電や、大人が余裕で入れるほどの巨大な空の水槽、大小様々な工具類、見たこともないような画材、金管楽器の類すら無造作に置かれていた。一言で言って、我楽多の山だ。
「我楽多とは失礼な奴だな」
「何も言ってません」
「どいつもこいつもそう言うが、どいつもこいつもそう考えていることを俺は知っている」
確かに我楽多とは思った。だからこの男の推測に誤りはない。私は唇を噛む。男は傲然と口角を上げた。
「お前らという連中は、自分を客観視できていると思いこんでいるくせに、他人にそれを曝かれると途端にそれを打ち消そうとする。結局思考すら主体的に行えない、脆弱な意思主体、それがお前らだ」
男はそう言うと立ち上がる。
一瞬の後、男は私の手の中にあるそれを摘み上げていた。ひたひたと何かが零れて、床に大きな水溜りを形成した。
「これは、随分と手酷くやられたものだな」
男はそれに向かってそう言った。それは男に摘まれたまま、ぶるぶると震えていた。
「な、治せるんですか」
「治す?」
男は眼鏡越しに私を見る。
「まぁ、そうだな。修理すことはできる。だが」
男の目が細められる。私は蛇に睨まれた蛙のように、立ち尽くしたまま身動きができない。男の手の中でそれが奇怪に踊る。
男はそれに、どこかからか取り出した白い布を慣れた様子で乱雑に巻いた。じわりじわりと布が赤く染まっていく。信じ難い程の赤。おそらく今までに見てきたありとあらゆる赤よりも赤い。意識に刺さる赤だった。
そしてその赤い布の隙間から覗くのは、黒い鼻、何枚かの白い舌、拉げた青い眼球、赤黒い何か。
「さて、これでいいだろう」
「これでって……布を巻いただけじゃ」
「問題でも?」
男の挑発するような口調に、私は押されて一歩後退った。
男はそれを私に投げ渡すと、一仕事終わったと言わんばかりにソファに戻ってしまう。私はそれを受け止め――目が合った。
青いゼリー状の眼球はぐにゃりと私を映している。私のシルエットは見たことがないほど歪んでいた。全身の骨が溶けて失くなってしまったかのように、私の身体は撓んでいた。全身が冷え、震えが来る。
それは舌を突き出して、鳴いた。
にゃあ――。
その声は私の聴覚を抉り出そうとするかのように、鋭く長い声だ。
にゃあ――。
「どうした?」
男の問い。私の目の前には啾啾と音を立てる布がいる。にゃあと鳴く何かがいる。それが鳴く度に、私の記憶が曖昧になっていく。恐怖によって塗り込められていく。
極端に度の合わない眼鏡をかけているかのように。世界の全てが光と色で覆われてしまっている。赤、赤、赤……悉皆が赤である。
「これは、なぜにゃあと鳴く……」
「そう鳴いたのか」
「聞こえたでしょう」
「いや」
男の簡潔な否定に私は目を剥いた。
くぅん――。
それが鳴いた。今度はくぅんと鳴いた。
共存し得ない二つの鳴き声が、不規則に並ぶ。
「あ、ありえない」
「ほう」
男は面白そうに私を見ている。無性に腹が立ったが、私は何故腹を立てていたのかを忘れている。そもそもここはどこだ。どうして私はここにいる。私の手の中に居てほーほけきょと鳴いているこれは何だ? 嘴のない鳥か。凸凹の青い眼球が私をきょろりと見た。
『いひ』
それが嗤った。
人間の声で嗤った。
私はそれを取り落とし、腰を抜かす。
人間の声で嗤う、人ならざる赤い布。啾啾と繰り返される呼吸音に、私は恐怖を覚える。生命の危機なんて言葉が生ぬるいほどの、そう、存在の危機だ。
「それは、いったい、なんなんだ」
私の問いかけに、男は沈黙で答える。男はもはや私に関心を持っていないようだった。男は赤い布とともにそれをひょいと持ち上げる。
「何にでもなれるが、何にもなれないもの」
男は述べる。
「この上なく醜悪で、救いようのないほど不気味なもの」
「だ、だからそれは」
「歪んだ目でしか世の中を見れず、幾枚もの舌を器用に使いこなし、自らの不完全性を他者のせいにしようとする低劣卑陋な意識」
「だから、その動物はなんなんだ」
「動物? 動物に見えるのか」
「そうでなければ何だ」
「こんなもの、お前たちの世界には存在すまい」
男は赤い布のそれを空の水槽の中に放り入れた。それは水槽の中でひっくり返って暴れた。
「つまり、これはお前だ」
「そんな馬鹿な話があるか。私はここにいる」
「お前はどこにもいない」
即座に男は否定する。私は奥歯が噛み合わないのをどうにかして押さえつける。
「わ、私はここに――」
私はふと水槽を見た。
赤い布が解けていた。
赤黒い男がそこにいた。
その顔はじっと私を見ていた。
まるで鏡を覗き込むかのように。
「いひ」
嗤ったのは――。
私はそれを抱えて走っていた。奴らが追いかけてくる。人の言葉の通じない、暴力的な奴らが、私とそれを追いかけてくる。捕まればただでは済まされない。手の内にあるこれのように、私は醜く拉げさせられてしまうだろう。これを棄てたところで、今さら奴らは私を逃したりはしないだろう。奴らは獰猛で、そして、執念深い。私はそう知っている。人の姿をした、されど人ならざるもの。人の皮を被っただけの、悪だ。
奴らは大声を上げながら、まるで狩りを楽しむかのように私たちを追ってくる。彼らは酔歩していた。それ故にそのスピードは速くはない。しかし――絶望的なことに――遅くもなかった。このままでは私の体力がもたない。デスクワーカーである私は、体力には自信がなかった。
恐怖と不安で涙が出そうになる。後ろから奇声が迫ってくる。奴らの言葉の意味がわからないのが恐ろしい。話の通じない脅威ほど、恐ろしいものはない。
私の手の中でそれがもぞりもぞりと動く。その度にぬらりぬらりと体液が零れ、私の掌を滑らせる。それの裏側にてびちびちと脈打つものは内臓だろうか。仄かな温かさと共に、怖気が背骨を一段飛びで駆け上がる。
白々しく光るコンビニを遣り過ごし、街灯を幾つも潜り抜け、私は道路の真ん中で一息ついた。というより、つかざるを得なかった。肺が潰れそうだったし、太ももも上がらなかったからだ。脛の皮が剥がれそうなほどに痛む。呼吸音と心音が、私の聴覚をべっとりと塗り潰す。
私には抱えているそれを見る勇気はなかった。奴らから必死の思いで救出したそれを。思えば何故そこまでして必死にそんな行動をとったのか、私は思い出せなかった。自分の生命の危機を招いてまでするほどのことだっただろうか。
しかし後悔しても遅い。奴らの金切り声が迫ってくる。逃げ場はない。逃げる力もない。自宅までは依然として遠い。
車のヘッドライトが私を照らす。私は慌てて歩道に逃げた。信号機はない。安全地帯はない。声が迫る。足音が寄ってくる。私の頭上の街灯が不意に消えた。私の周囲が影で潰される。
どうしよう、奴らが近付いてきた。
私の焦燥に応じるかのようにそれがじわりと動き、私の掌に向けて体温を放出する。
その時――。
「おい、お前」
闇が私に呼びかけてきた。
心臓が止まるかと思うほど、私は驚いた。
闇に沈んだ路地の一角に、その館はあった。館は大きな立方体だった。こんな建物は記憶になかった。しかし、明らかに立方体のそれは、何百年も昔からそこにあったかのようにしっくりしていた。その立方体の玄関の前に、その男は立っていた。こんな真夜中に、どういうわけか白衣を着ている、眼鏡の男。痩身にして長身、神経質そうなその表情と、鋭く尖った声。そして何より、男は普通ではなかった。白衣はともかく、その有り様が普通ではなかった。どのように異常なのかを表現する術を私は知らない。しかしとにかく男は普通ではなかった。
男はただそこにいた。ずっと昔からそうであったかのように、男はそこに立っていた。
「どうした、そのままそこに突っ立っていたら、奴らに捕まるぞ」
「え……と」
「それにお前、その手の中のそれをどうするつもりだ」
「ど、どうって」
言われて初めて私はそれに意識が及ぶ。思えばこんなものを持ち帰って、どうにかできるはずもない。私は獣医の類ではないのだ。最悪、埋める場所も思い当たらない。明日、私の働く研究所に連れていけばあるいは誰か――。
「これだからお前らは困る」
男は呆れたように、しかし、鋭く言った。
「意気地も後先もない。近付いては離れていく。そのくせ簡単に路頭に迷う。泣き言を言う割に前に進まない。進めない理由ばかり並べ立てる能力には、まことに秀でているがね」
男の嫌味も、私の脳を素通りしていく。それほどまでに、男は普通ではなかった。私の手の中に在るそれと同様に。
「俺の館で時間を潰せ。奴らも直に去る」
選択肢はなかった。
立方体のその館。その玄関扉の脇には、大きな黒い看板がいつの間にか置かれていた。そこには動脈血の如き色で、四つの漢字が書かれている。
美味兎屋――。
ビミウサギヤ、だろうか。
なんと読むにしても、それはおかしな文字列だった。私の手の中にいるそれと同じほどに、珍妙な文字列だった。
「ミミトヤだ」
「え?」
「ビミウサギヤ、ではない。ミミトヤだ」
上下も強弱もない口調で言いながら、男は奥まった一室へと私を通した。どういうわけか靴は履いたままだ。
「なんで」
「お前らは皆、そう読もうとする。単純な推論だ」
男は部屋の奥にあったソファにどっかりと腰を下ろす。その尊大とも言える仕草に、私は知らぬ間に圧倒されている。いや、臆していた。手の中のそれはびちびちと微温くのたくっている。
部屋の中は種々雑多な品々で埋め尽くされていた。壁一面の書棚はいいとして、思いつく限りの家電や、大人が余裕で入れるほどの巨大な空の水槽、大小様々な工具類、見たこともないような画材、金管楽器の類すら無造作に置かれていた。一言で言って、我楽多の山だ。
「我楽多とは失礼な奴だな」
「何も言ってません」
「どいつもこいつもそう言うが、どいつもこいつもそう考えていることを俺は知っている」
確かに我楽多とは思った。だからこの男の推測に誤りはない。私は唇を噛む。男は傲然と口角を上げた。
「お前らという連中は、自分を客観視できていると思いこんでいるくせに、他人にそれを曝かれると途端にそれを打ち消そうとする。結局思考すら主体的に行えない、脆弱な意思主体、それがお前らだ」
男はそう言うと立ち上がる。
一瞬の後、男は私の手の中にあるそれを摘み上げていた。ひたひたと何かが零れて、床に大きな水溜りを形成した。
「これは、随分と手酷くやられたものだな」
男はそれに向かってそう言った。それは男に摘まれたまま、ぶるぶると震えていた。
「な、治せるんですか」
「治す?」
男は眼鏡越しに私を見る。
「まぁ、そうだな。修理すことはできる。だが」
男の目が細められる。私は蛇に睨まれた蛙のように、立ち尽くしたまま身動きができない。男の手の中でそれが奇怪に踊る。
男はそれに、どこかからか取り出した白い布を慣れた様子で乱雑に巻いた。じわりじわりと布が赤く染まっていく。信じ難い程の赤。おそらく今までに見てきたありとあらゆる赤よりも赤い。意識に刺さる赤だった。
そしてその赤い布の隙間から覗くのは、黒い鼻、何枚かの白い舌、拉げた青い眼球、赤黒い何か。
「さて、これでいいだろう」
「これでって……布を巻いただけじゃ」
「問題でも?」
男の挑発するような口調に、私は押されて一歩後退った。
男はそれを私に投げ渡すと、一仕事終わったと言わんばかりにソファに戻ってしまう。私はそれを受け止め――目が合った。
青いゼリー状の眼球はぐにゃりと私を映している。私のシルエットは見たことがないほど歪んでいた。全身の骨が溶けて失くなってしまったかのように、私の身体は撓んでいた。全身が冷え、震えが来る。
それは舌を突き出して、鳴いた。
にゃあ――。
その声は私の聴覚を抉り出そうとするかのように、鋭く長い声だ。
にゃあ――。
「どうした?」
男の問い。私の目の前には啾啾と音を立てる布がいる。にゃあと鳴く何かがいる。それが鳴く度に、私の記憶が曖昧になっていく。恐怖によって塗り込められていく。
極端に度の合わない眼鏡をかけているかのように。世界の全てが光と色で覆われてしまっている。赤、赤、赤……悉皆が赤である。
「これは、なぜにゃあと鳴く……」
「そう鳴いたのか」
「聞こえたでしょう」
「いや」
男の簡潔な否定に私は目を剥いた。
くぅん――。
それが鳴いた。今度はくぅんと鳴いた。
共存し得ない二つの鳴き声が、不規則に並ぶ。
「あ、ありえない」
「ほう」
男は面白そうに私を見ている。無性に腹が立ったが、私は何故腹を立てていたのかを忘れている。そもそもここはどこだ。どうして私はここにいる。私の手の中に居てほーほけきょと鳴いているこれは何だ? 嘴のない鳥か。凸凹の青い眼球が私をきょろりと見た。
『いひ』
それが嗤った。
人間の声で嗤った。
私はそれを取り落とし、腰を抜かす。
人間の声で嗤う、人ならざる赤い布。啾啾と繰り返される呼吸音に、私は恐怖を覚える。生命の危機なんて言葉が生ぬるいほどの、そう、存在の危機だ。
「それは、いったい、なんなんだ」
私の問いかけに、男は沈黙で答える。男はもはや私に関心を持っていないようだった。男は赤い布とともにそれをひょいと持ち上げる。
「何にでもなれるが、何にもなれないもの」
男は述べる。
「この上なく醜悪で、救いようのないほど不気味なもの」
「だ、だからそれは」
「歪んだ目でしか世の中を見れず、幾枚もの舌を器用に使いこなし、自らの不完全性を他者のせいにしようとする低劣卑陋な意識」
「だから、その動物はなんなんだ」
「動物? 動物に見えるのか」
「そうでなければ何だ」
「こんなもの、お前たちの世界には存在すまい」
男は赤い布のそれを空の水槽の中に放り入れた。それは水槽の中でひっくり返って暴れた。
「つまり、これはお前だ」
「そんな馬鹿な話があるか。私はここにいる」
「お前はどこにもいない」
即座に男は否定する。私は奥歯が噛み合わないのをどうにかして押さえつける。
「わ、私はここに――」
私はふと水槽を見た。
赤い布が解けていた。
赤黒い男がそこにいた。
その顔はじっと私を見ていた。
まるで鏡を覗き込むかのように。
「いひ」
嗤ったのは――。
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