稲木 柊哉の人生録〜GEO Japan編〜

雨沢 大紀

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第8章

始動、Re:action Park

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 黒坂が去ったあと、福岡プロジェクトは静かに、しかし確実に動き始めた。
 真鍋副社長からの“黙認”という形での承認。正式な稟議の通過には時間がかかるが、現場の空気は明るさを取り戻していた。



 仮設事務所の会議室。

 秋葉がホワイトボードの前に立つ。

 「ここからは“夢”を“形”にする段階や。
  Re:action Park――おもろいもん作ろうや」

 稲木が手を挙げた。

 「はい。“現場主導”でいきましょう。
  広報も、企画も、施工側との距離感ゼロで。
  “企画が描く夢”と“現場が積み上げる現実”の間に、もうズレは要らないです」



 金城優香が静かに笑って、ノートをめくる。

 「ほな、ウチは人事とスタッフ教育まわり、動くわ。
  統一教育ガイドラインのVTR、次フェーズに進めよか」

 「よっしゃ、ワイはスポンサー交渉!ご当地企業から攻めたる!」
 梅澤がやる気に満ちた声をあげた。



 それぞれが、それぞれの持ち場で“再出発”に向けて準備を進めていた。
 そんな中、清水が事務所のポストを覗き、不思議そうな顔をした。

 「おい稲木……なんか変な封筒、届いてんぞ?」

 差出人はなかった。
 白い便箋に一言、万年筆のインクでこう書かれていた。



 > “その場所に、まだ届いていない声があります。
 > その声を聞いてくれるなら、きっと笑顔は残ると思います”



 稲木はそれを読んだ後、黙って便箋を見つめた。

 「これ……誰から?」

 「不明。でも、“まだ届いてない声”ってのは、
  ……これから会いに行く人たちのことかもしれんな」



 その日、福岡の空は優しく晴れていた。

 Re:action Park――
 化学メーカー初のテーマパークが、今まさに、ゆっくりと幕を上げようとしていた。

福岡・西鉄高宮駅の近くにある、小さな喫茶店。
 稲木は、金城優香と向かい合っていた。

 日曜の午後。店内は穏やかなジャズが流れ、窓から差す光がカップの影を伸ばしていた。



 「……なあ、金城さん。いや、優香」
 稲木は、正面から彼女を見据えて言った。

 「なんで……福岡にいるん?」

 金城は、少しだけ間を置いてから、カップをゆっくり置いた。



 「ウチ、GEO……辞めたんよ」



 その言葉が、コーヒーの湯気よりも速く、稲木の胸に突き刺さった。

 「え……なんで?」

 「理由は、いくつかある。
 けど一番大きいのは――自分の本音に、ずっと嘘ついとったからや」



 優香の声は穏やかだったが、その目は少しだけ揺れていた。

 「倉敷で、人事で、育成も採用もやって……うちはうちで、必死やった。
 でも、気づいてもうたんよ。“これ、ほんまに自分がやりたかったことか?”って」



 彼女は続けた。

 「ほんで、最後に見たのが、あんたの背中やった。
 あのライブのあとも、プロジェクトの途中も……柊哉の“本気”に触れてもうたんよ」

 「……」

 「だから辞めて、福岡に来た。あんたと、もう一回同じ場所に立ちたかったからや」



 稲木は、言葉をなくした。
 ただ、心のどこかで――それが“本当の理由”だと、ずっと感じていた気もした。



 「でもウチ、別に“助けに来た”んちゃう。
 ただ、ほんまの気持ちを言える場所を、今度こそ逃したくなかっただけ」



 その瞬間、稲木のスマホが震えた。
 画面には《アユニ・D》の名と一通のLINE。



 > 「その人、まだ逃げてないよ。
 > 自分の言葉、ちゃんと届いてるみたい」



 稲木は笑った。
 金城も、つられて笑った。



 「ウチ、もう一回、そっちのチームに入れてくれるか?」

 「……当たり前やろ。
 “さよならの代わりに、今ここにいる”って、それだけで十分や」



 その日の夕暮れ、福岡の街に一筋のオレンジが差し込んでいた。
 静かに、でも確かに――ふたりの距離は近づいていた。

翌朝、仮設事務所のドアが開いた瞬間、梅澤が思わず手にしていた缶コーヒーを落としかけた。

 「えっ……金城さん!?」

 「せやで、戻ってきたで」
 金城優香はスーツに身を包み、以前と同じ口調でにやりと笑った。



 秋葉がメモ帳をめくりながら言う。

 「退職してた人が“戻ってくる”って、どういう理屈やねん」

 「非常勤扱いやけど、プロジェクト特例で雇ってもらうことにしたんよ」
 金城はそう言って、稲木を一瞬だけ見た。



 「これからは“社員”やのうて、“仲間”としてな」
 そう言う金城の背中を、稲木はどこか誇らしげに見つめていた。



 プロジェクトは新たな体制を迎えていた。

 ・秋葉は建設現場との調整とリスク管理を一手に引き受け
 ・梅澤は地場スポンサーの獲得と企画提案を継続
 ・金城は「教育・人事ユニット」を立ち上げ、スタッフ研修と理念形成を担当
 ・稲木は全体統括と社外連携――そして、夢の可視化を担っていた



 そんな中、仮設事務所に届いた一通のメール。

 差出人は「GEO Japan本社 経営企画部」。

 件名は――
 『Re:action Parkに関するPR・メディア展開における特例承認について』



 内容はこうだった。

 > 「本プロジェクトに対し、当社として“映像ドキュメンタリー”形式でのPR展開を認可する」
 > 「外部制作会社“F-works”との共同企画が進行中。詳細は追って通知する」



 「F-works……って、たしかアユニ・Dが所属してた事務所のグループ会社じゃ?」
 清水が目を丸くする。

 「まさか、あいつ……」
 稲木の胸に、昨日届いたLINEがよぎった。



 > 「その人、まだ逃げてないよ」
 > 「自分の言葉、ちゃんと届いてるみたい」



 プロジェクトは加速していた。
 “夢”は少しずつ形になり、“仲間”は戻ってきた。

 そして福岡の夏が、音もなく始まっていた。

第八十六章:F-worksから来た男

 午後2時、仮設事務所の会議室。

 「こんにちは~、おじゃまします」

 軽快なドアの音と共に現れたのは、白Tに黒のワイドパンツ、耳には銀のピアスをつけた男だった。
 年齢は30前後、眼鏡の奥の目は鋭いが、笑っていた。



 「F-worksの外部ディレクター、**百田 慎一郎(ももた・しんいちろう)**です。
 アユニちゃんから聞いて来ました、“夢の現場”ってやつを」



 その場にいた全員が、目を見合わせる。

 「アユニちゃんって……アユニ・D?」
 清水が確認すると、百田はニヤッと笑った。

 「そうそう。あの子、今は裏方寄りなんだけどね。
 “そっちの現場の空気、映像にしたらおもろいかも”って、言われたわけ」



 秋葉がメモを片手に聞いた。

 「で、F-worksはうちらの何を撮るつもりなん?」

 「全部、です」
 百田は躊躇なく言った。

 「工事現場、チーム会議、缶コーヒーのゴミ箱、ミスった資料、泣きそうな顔、笑ってる顔……
 “うそついてないもの全部”撮ります。じゃないと“夢”なんか、伝わんないでしょ?」



 梅澤が苦笑いした。

 「クセ、つっよ……」

 しかし、稲木は黙っていた。



 その後、百田は仮設事務所の一角にカメラとPCを設置し、すぐに回し始めた。
 金城が会議中にこぼした「やっぱ育成って“心やと思うんよな”」という独り言まで拾っていた。



 その夜。

 帰り道、稲木と百田は屋台で焼き鳥をつまんでいた。

 「なぁ、稲木くん」
 「ん?」

 「“テーマパーク”って、何のために作ってんの?」

 稲木は少し考えて、ゆっくり言った。

 「……“現実”を背負ってる人に、もう一回“夢”を見せるため。
 誰かが“まだ遅くない”って思える場所を、作りたいだけ」



 百田は笑った。

 「そっか。“遅くない”か……」
 「それ、俺のカメラで切り取ってやるよ」



 福岡の夏は、熱を増していた。
 夢は、現実の中にあった。


 福岡市・赤坂のギャラリーカフェ。
 百田慎一郎は、展示されていたフィルム写真の前で小さくあくびをしながら、スマホを確認していた。

 「……遅いな」

 扉のベルが鳴く。現れたのは、ナチュラルなワンピースに小ぶりのピアス。
 まっすぐな目と、少し気の強そうな口元――倉間結衣だった。



 「ごめん、仕事ちょっと押してて」
 「大丈夫、写真眺めながらぼーっとしてた」

 二人は軽くキスを交わしてから、ソファ席に座る。
 店員が運んできたアイスコーヒーに、倉間が視線を落としたまま言った。

 「……あんた、また“稲木柊哉”と絡んでるんでしょ?」



 百田が少し驚いた顔をする。

 「なんだ、知ってたの?」

 「……あいつのSNS、たまに覗くのよ」



 百田は少し目を細めて笑った。

 「結衣って、“未練ゼロ”みたいな顔して、わりと見てんのな」

 「未練とは違うの。
 ……でも、柊哉が今、どんな顔して“夢”を追ってるのか、気にならないわけがないじゃん」



 百田はグラスを回しながら、ふっと真顔になった。

 「俺ね、今回の撮影、たぶん何かが“残る”気がしてるんだよ。
 この人たち、口だけじゃない。足で稼いで、手で築いて、時に心でぶつかって……」

 倉間は黙って聞いていた。



 「お前も、一回見に来いよ。あいつの“現場”」
 「……やだよ、気まずい」

 「気まずいのは“向き合ってない証拠”だって、誰かが言ってた」

 「……誰?」

 「アユニ・D」

 「……うわ、なんかムカつくな」
 そう言って、ふたりは小さく笑った。



 一方その頃、稲木たちは次なるプレゼン準備で忙殺されていた。
 百田がまたカメラを回しにくると聞き、清水がぼやいた。

 「なんかアイツ、撮る時の目が“元カノの新しい男”っぽいんよな……」

 稲木は一瞬、何かを感じて、スマホを見た。
 しかしそこに、結衣の名前はなかった。



 「まぁええやろ。俺は、俺のやることやるだけや」
 彼はそう言って、次の資料を開いた。

福岡・那珂川沿いの仮設現場。

 稲木は新しい研修施設の進捗確認を終え、ヘルメットを外して汗をぬぐっていた。
 そのとき、視界の端に“懐かしい横顔”が映った。



 「……え?」

 白いシャツ、ベージュのパンツ。長い黒髪。
 まぎれもなく――倉間結衣だった。



 「久しぶり、稲木くん」

 彼女は、まっすぐこちらを見ていた。
 その視線は、あの頃と同じように、強くて少し寂しかった。

 「……なんで、ここに?」

 「百田に連れてこられたの。
 “現場の顔、ちゃんと見てこい”って」



 少し沈黙が流れた。

 稲木は、少し息を吐いて言った。

 「元気そうで、何よりや」

 「そう見える?……でも、あたし、ずっと“逃げてた”気がする。
 仕事にも、恋にも、自分にも」



 稲木は、一歩前に出た。

 「……オレもや。あのとき、お前に“向き合う余裕”がなかった。
 どっかで、仕事に逃げとった」



 結衣は微笑んだ。それは、少し大人になった笑みだった。

 「でもさ、ちゃんと見れてよかったよ。
 “今の柊哉”の顔」



 遠くで、金城優香が稲木の方へ歩いてきた。

 途中で倉間と目が合った。
 二人の視線がぶつかる。金城は、一瞬止まったあと、ゆっくりと歩み寄ってきた。



 「この人、昔の……?」
 金城が訊いた。

 「うん。でも今は――未来に向かってる人」



 金城は頷いて、結衣に笑顔を見せた。

 「せやったら、うちは負けへんで」

 結衣も、ふっと笑った。



 そして3人の沈黙の中、百田が少し離れた場所でカメラを構えていた。

 「……ええやん。
 これが、“夢と過去と現実”が交わる瞬間か」



 夏の風が、仮設現場の空気を揺らしていた。
 再会は、確かに過去を揺らした。でも、それぞれの“次の一歩”を静かに促していた。


8月初旬、福岡。気温36度。
 午後、プロジェクト現場に黒塗りのセダンが静かに滑り込んだ。

 降りてきたのは、白いシャツに濃紺のスラックス姿の男――GEO Japan本社社長・古川徳彦だった。



 現場の空気が一瞬で変わる。
 秋葉は眉を上げ、梅澤は汗を拭きながら身なりを整えた。

 稲木はすぐに駆け寄り、深く一礼した。

 「本日はご足労いただき、誠にありがとうございます」

 古川は帽子を外し、ゆっくりと辺りを見渡した。



 「……これが“化学メーカーが手がける初のテーマパーク”か」
 「はい、まだ粗削りですが、魂は込めています」



 仮設会議室にて、稲木、秋葉、金城、百田らによる簡易ブリーフィングが行われた。
 古川は黙って資料に目を通し、ときどき百田のカメラをちらりと見る。



 報告が終わったあと、静けさが落ちた。

 その中で、古川が口を開いた。

 「……正直、私はこの計画がここまで進むとは思っていなかった。
 GEOが“遊び”に手を出すということに、未だ社内には抵抗もある」



 稲木は緊張の面持ちで、一言だけ返した。

 「それでも、自分は――このプロジェクトに人生を賭けています」



 沈黙。
 だが次の瞬間、古川は立ち上がり、静かに微笑んだ。

 「いいだろう。稲木君。
 ――このプロジェクトを“かたち”にしたら、君を本社に戻す。
 それだけじゃない。“昇進”の対象として正式に検討する」



 会議室に一瞬、息を呑む音が広がった。

 稲木は驚きと共に、深く頭を下げる。

 「……ありがとうございます」

 「君の熱量は伝わってきた。だが、これからは“数字”と“影響力”も求められる。
 現場の汗と夢――それを“経営”に変える力、見せてみなさい」



 古川はカメラに向かって小さく笑い、百田に言った。

 「この映像、ドキュメンタリーとして社内に見せたら、みんな黙るかもな」



 その日、稲木はプロジェクトという“夢”の先に、もう一つの“現実”を手に入れた。

 それはただの昇進ではない。
 自分が信じた道が、誰かの決断を動かしたという証明だった。

古川徳彦の言葉――「プロジェクトを成功させたら昇進させる」。

 それは、稲木柊哉にとって念願のチャンスだった。
 だが同時に、それは“チームの空気”に微かな変化を生んだ。



 福岡本部、昼。
 秋葉が白板の前でプロジェクトの進捗資料を整理していた。

 「……お前さ、昇進するんやってな」
 そう切り出したのは、梅澤だった。

 「誰から聞いた?」
 「誰からでもええわ。こういう話、先に言っといてくれや。俺ら、同じ現場で汗かいてんねんで」



 稲木は何も言い返さなかった。
 黙ってペンを置き、立ち上がった。

 「……俺は、昇進したいからこのプロジェクトやってるわけちゃう。
 ただ、“証明”したかっただけや。――この会社でも、夢は見られるってことを」



 秋葉が書類の手を止めて、ふっと言った。

 「けど、“昇進”ってのはな、夢より人間関係を壊す力の方が強い時があるで」



 同じ頃、金城優香はひとり美術館にいた。

 リンリンの展示をぼんやり眺めながら、心の奥に鈍い焦りを感じていた。

 「……柊哉、遠く行ってまうんかな」

 彼女はスマホを開き、稲木の名前を見つめたが、メッセージは打たなかった。



 その夜、百田が屋台で稲木と話していた。

 「お前さ、あの社長の言葉、どう受け取った?」

 「期待と、プレッシャーと、ちょっとの恐怖やな」

 「だろうな。
 でも俺は、お前がトップに行く姿、ちょっと見てみたいって思ってる」



 稲木は笑わなかった。
 ただ、串を口に運びながら静かに言った。

 「俺がトップ行ったとて、ひとりじゃなんもできへん。
 せやから、ちゃんと見とかなあかん。“誰と一緒に登るか”をな」



 翌朝、金城からメッセージが届いた。

 > 「ほんまに昇進するんやったら……うちも、それなりの覚悟せなあかんな。
 > その時、隣におる資格、うちにあるんか、ちゃんと見せてな」



 稲木は返信を打たず、スマホを握りしめたまま会議室へ向かった。

 “上に行く”ということは、
 同時に“誰かを置いていく”ことでもある――。

 9月初旬、スイス・バーゼル。

 金城優香と稲木柊哉は、GEO Japanの特命視察として、現地化学大手「ヴェルナー・ファルマ社」が運営するテーマパークを訪れていた。



 白銀のアルプスを背にしたその施設は、ガラスと木材を大胆に組み合わせた未来的な構造。
 “科学を体験し、感性で記憶する”をコンセプトに、子どもから大人までが夢中になるアトラクションが並んでいた。



 「……まるで、分子構造の中を歩いてるみたいやな」
 金城が呟いた。

 「感性に訴えかける設計や。日本じゃこうはできへん……けど、真似だけはしたくない」

 稲木は、メモ帳ではなく自分の感情に残るものを必死に吸収しようとしていた。



 案内役のひとりとして現れたのが、オリビア・シュミット。
 身長170センチ、ブロンドの髪にグレーのスーツ。
 だが話す言葉は流暢な英語と、ときおり混ざる片言の日本語。



 「こんにちは、イナキさん、カネシロさん。ようこそ、“Emotion Lab”へ」

 彼女は、この施設の“感情科学ラボ”の主任研究員であり、同時にブランド体験設計チームのリーダーでもあった。



 ツアーが進む中、稲木はオリビアに訊ねた。

 「どうして、化学メーカーがこんなテーマパークを?」

 オリビアは笑った。

 「子どもが『楽しかった!』って帰るでしょ?
 その裏に“学んだこと”が残ってれば、それがブランドの未来を支えるの。
 遊びの中に科学を染み込ませることが、企業の最強の記憶装置になるのよ」



 その言葉に、稲木の背筋が少しぞくりとした。
 まるで、彼がこれまで言葉にできなかった“夢の定義”を言い当てられたようだった。



 ツアーのあと、オリビアが二人を中庭のカフェに案内する。
 アルプスの風が、柔らかく吹いていた。



 「イナキさんの夢は、どこにあるの?」
 とオリビアが訊ねた。

 「“まだ夢を見たい”って思える大人を増やしたい。
 俺にとっての夢は、希望の再起動ボタンみたいなもんや」



 オリビアは静かに頷いた。

 「面白いわね。
 あなたのその言葉、もうすでに“科学”じゃなくて、“哲学”に近いわ」



 その夜、ホテルのロビー。
 金城が稲木に言った。

 「……あのオリビアさん、ええ女やな」

 「そやな。頭も、芯もある」

 「うち、ちょっと嫉妬したわ」



 エレベーターの前で、金城は一歩だけ近づいて言った。

 「でも、あんたが見てる“未来”の景色……うちも、一緒に見たいんよ」

 稲木は小さく笑いながら、ボタンを押した。

 「ほな、一緒に“証明”しようか。あの景色が日本でも咲くって」



 異国の夜が、ふたりの言葉を静かに包んだ。

スイス・バーゼル、視察最終夜。

 昼間の公式レポートを終え、稲木と金城はホテルのロビーで別れた。
 金城は早朝の便に備えて部屋へ戻り、稲木はひとり、バーゼル旧市街の裏手にあるジャズバーに向かった。

 そこに、オリビアがいた。



 「偶然ね」とオリビアは言ったが、互いに偶然ではないことを理解していた。
 グラスには深い赤のワイン。空気には、香り立つ重みと静けさがあった。

 「あなたは、言葉にする前に“理解”してしまう人なのね」
 そう言ったオリビアの声は、昼間とは違っていた。



 ふたりは店を出て、オリビアの案内でライン川沿いの古い石畳を歩いた。
 9月の夜風はひんやりと肌を撫でる。



 「夫は、2年前に亡くなったの」
 オリビアがふと口にした。

 「医師だった。分子医学の研究者。けど、誰よりも“子どもの感情”に興味を持ってたわ」

 稲木は静かに頷く。それ以上、何も訊かなかった。



 ホテルの部屋の灯りは落とされ、夜景が薄く反射していた。

 互いに身を寄せ合ったとき、言葉はなかった。
 ただ静かに、感情だけが流れていた。



 翌朝、金城がロビーに現れたとき、稲木はもうチェックアウトを終えていた。

 「はやいやん」
 「なんか、寝られへんかっただけや」

 嘘ではないが、本当でもなかった。



 オリビアはその日、別の会議があると言ってホテルには姿を見せなかった。
 だが、渡された一通の手紙だけが残されていた。



 > 柊哉へ
 >
 > あなたに出会えて、私の中の「科学」がまた少しだけ、生き返ったように思います。
 > これは記憶であり、秘密です。
 > そして、私は未来に進みます。
 >
 > Olivia



 日本へ戻るフライトで、稲木はその手紙を何度も読み返した。
 けれど、金城には何も話さなかった。

 帰国してから3日。
 福岡本部のプロジェクトルームには、再び重たい空気が立ち込めていた。



 「“感情が記憶を支配する”……ねぇ」
 梅澤大輝が冷笑を交えて言った。

 「スイス帰りで浮かれてんのはええけどな、こっちは現場で地べた這って数字と格闘してるんや。『夢』はいい、けどそれ“稟議通るんか”?」

 「通すよ。通させる」
 稲木の声はぶれなかった。



 稲木が提案したのは、化学の仕組みを“体験型のアート”に昇華したゾーン設計。
 だが、開発費用は想定の1.8倍。ROI(投資利益率)は未知数。

 現場を預かる豊田も渋い顔をした。

 「……科学と芸術を融合させるって、響きは美しいけどな。
 今のGEOに、それだけの“遊び”ができる余裕、あると思うか?」



 そのとき、秋葉が口を開いた。

 「――問題は、遊びかどうかやなく、“残るかどうか”やろ。
 誰が来て、何を感じて、どんな未来に繋がるか。それが事業の根っこや」



 部屋の空気が一瞬で変わった。

 秋葉が、稲木側についたのだった。



 「柊哉の言うことは、ようわかる。……でもな」
 金城が穏やかな声で口を挟んだ。

 「アンタ、ちょっと変わったわ。
 スイスで何があったか知らんけど――一人で走りすぎてへん?」



 その言葉に、稲木は目を伏せた。

 ――たしかに、今の自分は“誰か”の言葉が頭の中で鳴っていた。

 > 「あなたのその言葉、もう科学じゃなくて、哲学に近いわ」

 オリビアの声が、心の奥底で残響していた。



 プロジェクトは、大きな方向転換を迫られていた。
 だが、その代償として、
チームのバランスにわずかな歪みが生じていた。



 その夜、金城とふたり、屋上から福岡の街を見下ろした。

 「アンタ、ええ男やと思う。でもな、ひとりで“良いもの”つくろうとしても、意味あらへんで」

 稲木は金城の横顔を見ながら、静かに答えた。

 「――分かってる。せやから、信じてほしい。“一緒に行ける”って」



 だが彼は、まだ知らなかった。

 スイスの夜に残された“静かな秘密”が、
 いつかこのプロジェクトそのものを揺るがす火種になることを。

秋の空気が、福岡の空を少しだけ乾かしていた。

 プロジェクトチームは、微妙な均衡の上に成り立っていた。
 稲木の提案した“感情設計”は、革新的である一方、現実的な数字に裏打ちされていなかった。



 「……稲木さんが言ってること、間違ってないと思うんですよ」
 櫻井結衣が会議後にぽつりと言った。

 「でも……あの人が見てる未来に、私たちが必要かどうか、ちょっとわかんなくなってきました」



 その言葉に、梅澤も同調するようにうなずく。
 「一人で高いとこばっか見てると、チームの地面が見えへんようになるんや」

 仲間の間に、わずかな“ズレ”が生まれていた。



 そんな中、東京からある報せが入った。

 「狼元輝が動いた」と。



 元輝は本社に残っていたものの、独自に進めていたVR教育システム案を役員会に提出。
 しかもその中に、GEO福岡プロジェクトを揶揄するような記述が含まれていた。

 > 「“感情教育”という感覚論に依存した古典的発想では、次世代人材は育たない」



 豊田はその報告を聞いて眉をしかめた。
 「いよいよアイツ、本気でこっち潰しに来るつもりやな……」



 一方、金城は黙って稲木を見ていた。

 「……アンタ、ほんまにあの狼って男と、また戦う気なん?」

 「戦わなあかんのは、“あいつ”ちゃう。“あいつの作ろうとしてる未来像”や」



 その夜、ひとり資料室にこもっていた稲木のスマホに、1件のLINE通知が届いた。

 From:アユニ・D
 > 「“今、誰の声を聞くべきか”って、たまに考えた方がええよ。
 >  近くにいるからこそ、遠くなることもある。」



 そして、翌朝。

 金城がいなかった。
 机の上には、連絡メモひとつだけ。

 > 「今日は現場に行ってきます。ちょっと一人になりたい日もあるやろ?」



 稲木は、静かにそのメモをたたんだ。

 理想のために、なにを差し出すのか。
 そして、誰と、どう生きていくのか。

 「答えを出すには、まだちょっと足りひんな……」

 稲木は独り言のようにつぶやき、今日も会議室のドアを開いた。

さ」



 会議室の端、いつもなら金城優香が座るはずの席が空いていた。

 「……金城さん、今日は?」
 櫻井がぽつりと尋ねる。

 「現場対応や。……しばらく、会議は不参加になるって」
 秋葉が簡潔に答える。

 誰もが理由を深く聞こうとはしなかったが、
 その空席が、やけに重たく感じられた。



 稲木はプレゼンに立っていた。
 スイスで見た体験設計、オリビアから学んだ「感情の記憶化」、それらを独自に翻訳した新案をスライドに落とし込んでいた。

 「……体験とは、五感で記憶を定着させるプロセスや。
 うちは化学メーカーやけど、“心に残る実験”ができたら、化学はもっと愛される」



 静寂。
 だが、その沈黙を破ったのは――豊田だった。

 「……稲木。お前の言うこと、正直カッコええと思う。
 けど、これは夢の話や。俺らは現場や。金も、人も、期限も、現実や。
 今のお前は、空中に絵を描いてるだけに見える」



 その瞬間、プロジェクトルームの空気がピンと張り詰めた。

 「それでもやらな、意味ないんですよ」
 稲木が静かに言う。

 「数字を追ってるだけやったら、誰の心も動かせへん。
 俺らがやるべきなんは、“忘れられん体験”を提供することや」



 その言葉に反応したのは、秋葉だった。

 「――じゃあ、お前が証明してみせろよ。“数字”と“感情”、両方手に入れる方法を」

 「……やります」



 会議後、ひとり資料室に戻った稲木は、
 オリビアからの手紙をもう一度だけ読み返していた。

 > これは記憶であり、秘密です。

 彼女の“秘密”が、なぜ今になって重く響いてくるのか。
 その理由はまだ、稲木自身もわかっていなかった。



 その夜。

 LINEの通知が鳴った。
 From:アユニ・D

 > 「心って、弱くなると“見えてくる人”が変わるから不思議よね」
 > 「今、誰を思い出してるの?」

 稲木は、スマホを静かに伏せた。

 金城の不在。
 オリビアの記憶。
 狼元輝の影。
 ――そして、プロジェクトの未来。

 答えは、まだ遠かった。

工場裏手の休憩所。
 陽射しは強くなかったが、秋の風がコンクリの壁にやわらかくあたっていた。

 金城優香は、作業着姿のまま缶コーヒーを手にしていた。
 ヘルメットの跡が髪に残っていることも気にせず、空を見上げた。



 「あいつ……ほんま、よう変わったな」
 ぽつりと呟く。

 稲木柊哉。
 気づけば、いつの間にか“追いかける存在”になっていた。



 ――あの日、スイス視察の帰り道。
 彼の横顔は、どこかもう“自分だけのものではない”気がした。

 夢を語る姿に、迷いはなかった。
 けどそのぶん、金城の胸に芽生えたのは、寂しさだった。



 「アンタは、前しか見ぃひんからなぁ……」

 ふと、スマホに未読のLINEが一件。

 From:櫻井結衣

 > 「金城さん、今日も来ないんですか? 皆ちょっと不安そうです」

 金城はスマホを伏せた。



 “今の自分が行ったら、たぶん――”

 心のどこかで、それがチームのバランスを乱すと感じていた。
 稲木に“好き”という感情がある限り、
 そしてそれが相手にとって“重荷”になる可能性がある限り。



 その夜、彼女はひとり、福岡市内の古いギャラリーに足を運んでいた。

 BiSH元メンバー、リンリンのアート個展。
 何気なく入ったその空間で、金城はある作品の前で立ち止まった。



 《無音の応援》

 タイトルの下には、こんな言葉が添えられていた。

 > 「黙って離れるのも、ひとつの応援です。
 >  ただし、それは“信じている人”にしかできない」



 金城の目に、ふと涙が浮かんだ。
 「……あんた、これ描いたん? ほんま、ズルいわ」

 気づけば、ハシヤスメ・アツコが背後から声をかけていた。

 「アイナ・ジ・エンドも観に来てたよ。あんた、愛されてんなぁ」



 金城はアツコと短い会話を交わし、ギャラリーを後にした。

 背中で小さく呟いた。

 「うち、もう少しだけ、“信じる”側でおるわ……」



 そしてその頃。
 プロジェクトルームでは、狼元輝の新提案書がFAXで届いていた。

 表紙にはこう書かれていた。

 > 「最終提案:教育の再定義案・狼案ver3.0」
 >
 > ~現場ではなく、論理で未来を変える~



 稲木は、静かにその紙を握りしめた。

 金城がいない今、自分がどこまで踏み込めるのか――
 “孤独な勝負”が、いよいよ始まろうとしていた。

福岡本部、プロジェクトルーム。

 誰もが疲れた表情でパソコンの画面を見つめていた。
 空気は重く、狼元輝からの提案書がチームの士気を蝕んでいた。

 そのとき――

 「おーい、入っていい? あれ、これ……空気ヤバくない?」

 扉を開けて入ってきたのは――

 清水遼太郎だった。



 「え、清水!?」「うそやろ!?」「北海道ちゃうんか!」

 チームがどよめく中、清水はいつものグレーニット帽を脱ぎながら言った。

 「いやー、向こうで“ダルビッシュと翔平の間くらいの扱い”やったわ、
 でもやっぱこっちが性に合ってる!」



 清水は何も言われなくても席に着き、
 PCを開いて、勝手にプレゼン資料を見始めた。

 「なるほどな。狼のヤツ、数字は綺麗に見えるけど、
 MLBで言ったら“OPS.900だけど守備ザル”みたいな提案やん」

 「それ褒めてるんか貶してるんか分からん」
 豊田が苦笑しながら言うと、清水はにやっと笑った。



 「てか、柊哉……お前、なんか“色気”ついたな?」

 「……は?」

 「うん、完全に“スイッチヒッターの目”してる。
 あ、女やな。ひとりじゃない。たぶん3人くらい絡んでるやろ?」

 その場が凍りつく。
 清水の“勘”はMLB級なのだ。



 「ま、色恋はええ。問題はこのプロジェクトや」

 清水は、稲木の“感情設計”プランを見て一言。

 「これ、“逆張りの最先端”や。俺がアメリカなら“指名打者”に抜擢するわ」

 稲木は思わず笑った。
 「わけわからん例えやけど、ちょっと嬉しいわ」



 そんな中、櫻井が新たな報告を持って現れた。

 「狼さん、またメディアに出たらしいです。
 “若手主導の再教育改革”として、経済誌に特集組まれてます」



 狼の顔写真の横には、

 > 『データと仕組みで、人は変えられる』
 > ――狼元輝(GEO JAPAN・企画推進本部)

 という見出しが躍っていた。



 稲木はそれを見て、ゆっくりと立ち上がった。

 「ええやん。盛り上がってきたな」
 「……勝てるんか?」
 秋葉が静かに問いかける。

 稲木は答えた。

 「勝たな意味ない。……ここからが、“真のプロジェクト”や」



 その夜。清水とふたり、屋上で缶ビールを開けながら、稲木が呟いた。

 「……よう帰ってきたな」

 清水は笑いながら、こう返した。

 「そっちのが面白そうやったからな。
 あと、金城さんおらん間に何か起きたらヤバいやろ。
 お前、“チームの主砲”が不在の時こそ、“代打デラクルーズ”ってとこ、見せなあかんやろ?」



 稲木は、少しだけ目を細めた。

 「……その例え、ほんま最高やな」

会議室に漂う静寂。

 壁には「全社統一教育ガイドライン 最終案 公開レビュー」と書かれたポスター。
 今まさに、福岡チームと東京本部が激突する“前哨戦”の火蓋が切られようとしていた。



 秋葉が淡々と言った。

 「公開プレゼンまで、あと2日。狼チームはすでに会場入り済み。
 こっちは稲木と清水を軸に、全力で叩きにいく」

 「言い方よ」
 櫻井が小さく突っ込むが、誰も笑わない。



 稲木は、清水とともに最終スライドをチェックしていた。

 「ここの“再現性”の部分、MLBで言うなら?」
 「ベリンジャーやな。調子ええときはホームラン王、悪いときは.180」
 「要するに、論理を超えた熱やな」
 「そう、それが人間や」



 そのときだった。

 スマホが一斉に鳴った。

 “速報:GEO JAPAN 東京本社社員・狼元輝氏、出張先の移動中に交通事故死”

 読み上げたのは金城優香だった。
 彼女は、会議室の入り口に静かに立っていた。



 「……うそやろ」
 誰かの声が漏れた。

 画面には、社員証の写真が載った狼のニュース記事。
 冷たい雨の中、信号のない交差点で、タクシーに巻き込まれたという。



 秋葉が呟いた。

 「こんな形で終わるんか……あいつ、まだ27やろ……」



 稲木は黙って記事を見つめていた。
 彼との対決は、逃げることなく“正面からぶつかる”つもりだった。
 なのに、それが奪われた。



 金城が言う。

 「……あいつ、間違ってるとこも多かったけど、
 本気で“教育の再定義”を信じとったんやろな」

 「……せやな」
 稲木は、目を伏せて言った。

 「せやからこそ、倒したかった。
 生きて、認め合いたかったわ」



 その日、プロジェクトルームは早めに解散となった。

 ひとり残った稲木は、狼からの最後のメールを読み返していた。

 > 稲木へ
 >
 > あんたとやるの、正直楽しみやった。
 > データと情熱、どっちが人を変えるか。
 > 2日後、俺らで証明しようや。



 「……お前は、もう答えを見つけたんか?」

 稲木は、ひとり問いかけた。
 空席のままの、対決の場に。

 「ちょっと、聞いた……?」
 昼休みの社内チャットがざわついていた。

 福岡のプロジェクトルーム。
 いつものように机に座っていた清水が、タブレットを見ながら顔を曇らせる。

 「……マジかよ」



 「なにがあったん?」

 金城が訊ねると、清水はそっと画面を見せた。
 そこには見慣れた男の顔――本郷の名前と共に、こう記されていた。

 > 【速報】GEO JAPAN社員を窃盗容疑で逮捕
 > 同社プロジェクト関係者の私物および業務用機器の持ち出しが確認され…



 「なんで……」
 稲木が小さく呟いた。

 本郷は、社長のコネ入社組だった。
 どこか浮いた存在でありながら、現場に来れば明るく、笑いをとっていた。
 裏で仲間をバカにしていた節もあったが、まさか、こんな形で姿を消すとは。



 「一部でさ、狼とつながってたって話も出てる」
 秋葉が低く言った。

 「情報売った可能性もある。
 プレゼン直前のこのタイミング……偶然にしちゃ出来すぎてる」



 静まり返る部屋。

 稲木は立ち上がり、ホワイトボードに書かれた**“教育再定義案”**の文字をじっと見つめた。

 「……裏切りも、想定に入れなあかんのか」
 「でも柊哉、あいつはお前の言葉にちょっとずつ動いてた。
 アイツなりに、何か変わろうとしてた気がすんねん」
 金城の言葉に、稲木は一度だけ目を閉じた。



 「でも、今となっては――全部意味ないわ」

 稲木はそう言い切った。
 その声には、怒りでも悲しみでもなく、ただ淡い虚無だけが混じっていた。



 その夜。
 屋上にて、稲木と清水がまた缶ビールを開けていた。

 「なあ、柊哉」
 「ん?」
 「これがメジャーやったら、本郷は絶対“解雇&永久追放”や。
 でも俺ら、チームやろ? そういう奴がいたって、前に進まなあかんのがリアルや」



 「せやな」
 稲木は遠くを見ながら言った。

 「……やるしかないんよ。信頼を失った分、やれること全部やって証明せなあかん」
 「つまり、“俺たちがGEOを背負う”ってことやな」
 清水が缶を掲げる。



 その瞬間、背後から声がした。

 「だったら、ちゃんと迎えに来いや」
 振り返ると、そこには――

 金城優香が、スーツ姿で立っていた。

 「口だけやないってとこ、ちゃんと見せてな」
 「……帰ってきてくれるんか?」
 「うん、うちが信じてるチームに」



 稲木は、ようやく心から缶を掲げた。
 静かに、力強く。

 次は――100章へ。

金城が戻った福岡チームには、かすかな希望の灯がともっていた。

 狼元輝の急逝、本郷の逮捕――
 それでも前を向こうと、清水も、秋葉も、そして稲木自身も、動き始めていた。

 プレゼン本番まで、あとわずか。



 その日、プロジェクトルームには異様な緊張感が漂っていた。

 清水がつぶやく。

 「……なんか、システムに妙なアクセス履歴がある。
 スライドのデータ、漏れてるかもしれん」

 「え……?」

 金城が顔をこわばらせた。



 稲木はすぐに技術管理室と連絡を取り、アクセスログを確認させた。
 そこに表示されたログインIDは――

 TTOYODA1992



 「……豊田、やんけ」

 秋葉が一歩だけ前に出た。

 稲木も清水も、言葉を失った。

 「嘘やろ……」
 「ありえへん……」



 そのとき、プロジェクトルームの扉が静かに開いた。

 入ってきたのは――豊田真也。
 スーツ姿、いつもと変わらぬ表情。



 「……あかんか。バレたんやな」

 静かな声だった。
 だがその一言で、全員が理解した。

 清水が言った。

 「……なんでや、豊田。お前、あの時“チームのために”って――」



 「チームのため、やってたつもりや。
 でもな……結局、評価されるんは“目立つやつ”ばっかや。
 お前らみたいな、“エース”が全部持ってくんやろ?」



 金城が声を荒げる。

 「……そんなん、アンタの被害妄想や!」

 「ちゃうよ。現実や」



 豊田はスマホを取り出した。
 「もう全部、送った。東京の残党チームに。
 あんたらが出そうとしてる“再定義案”も、感情設計も――まるごと、や」



 静寂が走った。

 稲木は前に出た。

 「……それで、何が残るんや? お前に」

 豊田は一瞬だけ目を伏せて、そして言った。

 「何も残らんかもしれん。
 でもな、俺も、誰かの“デラクルーズ”になってみたかってん」



 そのまま、豊田は管理部へ連行された。
 背筋を伸ばしたまま、背中を向けて。



 静まり返った部屋。
 金城が、泣きそうな声で言った。

 「……信じてたのに」

 稲木は拳を握った。

 「信じてたから、悔しい。でももう、前に進むしかないんよ」



 秋葉が言った。

 「……次は誰が裏切るんや? そういう目で、全員を見るか?」



 稲木はゆっくり首を横に振った。

 「違う。俺は“誰を信じるか”を、選ぶ」



 窓の外は、雷雲。
 だがその奥に、確かな光があった。


 福岡支店。
 かつて、夢と挑戦の象徴だった場所は、ただの灰と焦げた鉄骨の残骸となっていた。



 火元は、サーバールーム。

 ――深夜2時17分。
 突然の電源ショートから引火。
 非常電源の誤作動、老朽化した消火設備。
 すべてが最悪のタイミングで重なった。

 そして、福岡支店は完全に沈黙した。



 午前4時、現場に駆けつけた稲木は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 「……うそやろ……」

 隣で清水も絶句する。

 「スライドも……機材も……全部、燃えてる」



 消防隊員が言った。

 「残念ですが、建物の7割が全焼です。
 人的被害はありませんが、データはほぼ復旧不可能かと」



 秋葉が、拳を握りしめた。

 「……まるで、狼と豊田が組んでたみたいやな」



 金城は、じっと焼け焦げた鉄の扉を見つめていた。

 「……うち、何のために戻ってきたんやろ……」



 稲木は、現場の中心――
 かつてチームで輪になって話し合った“あの丸テーブル”の位置へと歩いた。

 もう、そこには何もない。

 灰と、燃え尽きたイスの脚だけが、冷たく並んでいた。



 清水が、震える声で言った。

 「……でも、なあ柊哉。
 これ、メジャーで言ったら――」

 「リビルドの始まりやな」
 稲木が、ゆっくりと答えた。



 「……火の海になったって、また積み上げたらええ。
 それが“俺らのGEO”や」



 その言葉に、誰もが顔を上げた。

 秋葉が苦笑しながら言った。

 「やっぱお前、よう言うわ……
 焼け跡からでも立つ気か」



 稲木は一歩、焼け焦げた地面を踏みしめた。

 「ここからや。
 ――全部、焼き払われた今こそ、“本物”を作るしかない」



 そして彼らは、灰の中からまた歩き出す。

 福岡支店の再建。
 東京チームへの対抗。
 そして、狼も豊田も見られなかった“完成形”へ向けて―

第102章「君と、もう一度 始めよう」



焼け跡の福岡支店。
炭化した柱の隙間から、やがて陽が差し込んだ午後。

稲木と金城は、焼け残った中庭のベンチに並んで座っていた。
その場所だけ、奇跡のように無傷だった。

「……ようやく、静かになったな」
稲木がぽつりとつぶやく。

「うん。燃えるもん、全部燃えてもうたからやろな」
金城がふっと笑った。



ふたりの間に、しばらく沈黙が流れる。

やがて、金城が口を開いた。

「なあ、柊哉。うちはな、ずっと思ってたことがあるんよ」

「……ん?」

「アンタといると、何回でも始められる気がするねん。
 なんか失っても、また笑える気ぃするねん。
 そんなん、うちの人生であんただけやってん」



稲木は視線を落とし、指先で焦げたベンチの木目をなぞった。

「俺もな、最初はようわからんまま走ってた。
 出会った頃は、ただの“先輩”やと思ってた。
 けど今は……気づいたら、何かあるたび、真っ先に顔が浮かんどった」



金城が少しだけ、口元を緩めた。

「何が言いたいん?」

稲木は、ゆっくり立ち上がった。

「俺と、結婚してくれへんか」



風が吹いた。
灰と希望の匂いが混ざった空気の中で、金城は瞳を細めた。

「……もう、うちのこと諦めるんちゃうん?」

「諦めへん。何回失敗しても、火事になっても、
 俺は絶対、もう一度やり直す。――あんたとやったら、何回でもできるから」



金城は立ち上がり、そっと稲木の胸に額を寄せた。

「そんなん言われたら……仕方ないやんか」

「じゃあ……」

「うちも、そろそろ名字変えてもええかなって、思ってたとこや」



二人の影が、再建途中の鉄骨の上に重なる。

その影は――これまでで一番、力強く、まっすぐだった。



再び始まる“ふたりの人生”。

名もなき中庭のベンチが、静かにその記憶を刻んでいた。
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