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小学生編
七(2010、秋)
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母は、伸び切った味噌ラーメンを、意地のように完食した。晶はと言えば、食欲がなく、ほとんど卵がゆを残してしまった。樹は、自分で選んだチャーシュー麺を幸せそうに食べ、(おいひい、おかあさんすごい、と絶賛した)、晶が残した卵がゆをほしそうにしているので譲ってやると、これまた喜んで口に運んだ。
母は、立てた膝の上に頬杖をつき、なにか痛みを堪えるように、樹の姿を見守っていた。彼の姿は、おそらくは晶が使った匙を共用した影響で、またしてもかなり人間の子どもらしく見えた。
「樹くんの言うとおりね……食べたら、少し元気が出たみたい」
母が言うと、樹は嬉しそうに笑った。母は、ちょっと微笑み、晶に向き直った。
「じゃあ、やりましょうか。話し合いを」
じっと晶を見つめる。「何があったのか教えてちょうだい」
晶は、唇を舐めた。
全部話し終わるには長い時間がかかり、満腹になった樹は畳の上で丸くなって寝てしまった。
話が終わった時、母は、晶がこれまで聞いた中で、一番長く重いため息を吐いた。
「それで……終わり? あとはもうない?」
「ないよ……」
「そう。話してくれたのは、嬉しい。けどね」
母は、もう一度同じだけのため息をついた。
「あんたは、今度のことで、三回……四回は、調査室に連行されてもおかしくないのよ。連行されるどころか……そのまま、なかったことにされても」
「俺は……ほかにどうしようもなかっただけだよ」
「穢狗相手に受血することが?!」
「こいつは人間だ」
晶は母を睨みつけた。「母さんも分かってるだろ」
押し殺した息を吐いて、母は晶の目を見返した。「あんたを守りたいの。必要があるなら、その子も」
「……ほんとうに?」
「約束する」
晶は、顔をゆがめながら、母を見た。「……母さんが、嘘つきなのは、……分かってる」
母は傷ついた顔をしたが、反論しなかった。
「でも……それに、理由があることも、分かる……」
低い声で、母は告げた。「あんたを守るためなら、嘘くらいいくらでもつくわよ。誰に対しても」
「うん……」
「とりあえず、あんたの身を守るために言わなきゃいけないことを言うわね」
母は指を立てた。
「今回のことは、誰にも言わないこと。外で話すのも駄目」
「今回のことって……」
「穢狗に受血したこと、穢狗の血を受けたこと、穢狗が……人間であること」
彼女は顔をしかめながら続けた。「家の中で夜蟲と戦ったこと、一人で変化したこと、勝手にアイゲンメーヤー法を使ったこと」
「アイゲンメーヤー法」
「他人と血管をつなげて治療することよ……原法では、静脈もつなげて血液を循環させるけど。そうすれば、貧血にならない」
「どうしてやっちゃ駄目なの」
「もう一度言うわ。禁忌なのよ」
「今、かあさんが言ったことは、全部そうなの……? 禁忌?」
「そう」
「樹に……受血することも?」
「そうよ」
「じゃあ、なぜ、禁忌なのかも分かったよな。こいつが……穢狗が、人間だってことが、分かったらまずいからだろ。狗と見下して、奴隷扱いしているこいつらが……病さえ癒えれば人間だって、分かったらまずいから!!」
苦しげに、母は囁いた。「ときどき、あなたがそこまで聡い子じゃなかったら、と思う事があるわ……」
「だって、おかしいだろ、そんな」
「晶」
少年の両肩に手を置き、母は静かに言った。
「いい機会だから言っておくわ。穢狗のことだけじゃない。この町は……この社会は、嘘と欺瞞に満ちている。でも、ここで生きていく以上、ここのルールで生きるしかないのよ」
「嫌……だったら?」
「そうね、月にでも暮らす?」
母の声は、小さく、顔を突き合わせていても、聞き取るのがやっとだった。
「今まで、一度も話したことがない話をするわ、晶。本当は、これをあなたに告げることも、禁忌なのだけれど……」
至近で見つめてくる母の顔が、歪んだ。「あなたには、姉さんがいるの。名前は……」彼女の唇が震え、声は口の中に消えた。
「名前は……?」
「もう、ないわ……」
その声は掠れていた。
「母であるわたしさえも……もう、あの子の名を呼べない。誰も、あの子のことを覚えていない。なかったことにされたから……でも、わたしは、思い出したのよ。あなたが父さんのことを思い出したように。名前を、呼んですら……やれないけど……あの子は、確かにいたの。わたしが産んだのよ、おっぱいをやって育てたの。な、なかったことに、されてしまった、けれど」
肩に食い込む指の強さに、晶は小さく声を立てた。母の声は震えていた。
「あなたまで、そんなことにしたくない。晶。晶」
「母さん……」
「晶、あなたのことを、忘れたくない」
母は、波打つ胸を鎮めるように大きく息を吸い込んで、息子から手を離した。
「……ごめんね。取り乱したわ」
背を向け、卓上を片付け始める。残り汁を三角コーナーに通して流し、どんぶりを洗い始めた。
晶は、まだ衝撃から立ち直れないでいた。
自分に姉がいた。それも、存在を、名前を奪われた姉が……口酸っぱく諭された「やってはいけないこと」をやったときに、ほんとうにどうなるのかは、誰も教えてくれなかった。
(決まりを守らない子には、うそりよだかが来るのよ……)
いつか聞いた噂が耳によみがえる。そう、あれは恵梨花だった。
(わたしのいとこのお姉ちゃんがね、うそりよだかを見たんだって)
そう言っていた、恵梨花は……そうだ、その後しばらくして、「この間言っていたいとこの人の話だけど」と晶が話を振った時、恵梨花は言ったのだ。
(わたし、いとこなんていないよ……)
存在が、消されている。
確かにいたはずの人間が……なかったことに、されているのだ。
晶は、さっき母が握りしめた自分の肩に触れ、きつく力を込めた。
穢狗だけではない。理不尽に奪われ、支配されているのは、自分たちもなのだ。
(それなのに、どうやってこいつを守ったらいいんだろう……)
座布団に丸くなり、腫瘍のためにヒューヒューとくぐもった呼吸音を立てながら眠る樹の横顔を見ながら、晶はそっとその髪を撫でた。病に無残に歪められた姿でありながら、その髪は、昨日洗って乾かしてやった時同様、滑らかで美しかった。
「あきや……」
夢うつつに、樹はつぶやき、歪んだ顔に幸せそうな微笑みを浮かべた。
母は、立てた膝の上に頬杖をつき、なにか痛みを堪えるように、樹の姿を見守っていた。彼の姿は、おそらくは晶が使った匙を共用した影響で、またしてもかなり人間の子どもらしく見えた。
「樹くんの言うとおりね……食べたら、少し元気が出たみたい」
母が言うと、樹は嬉しそうに笑った。母は、ちょっと微笑み、晶に向き直った。
「じゃあ、やりましょうか。話し合いを」
じっと晶を見つめる。「何があったのか教えてちょうだい」
晶は、唇を舐めた。
全部話し終わるには長い時間がかかり、満腹になった樹は畳の上で丸くなって寝てしまった。
話が終わった時、母は、晶がこれまで聞いた中で、一番長く重いため息を吐いた。
「それで……終わり? あとはもうない?」
「ないよ……」
「そう。話してくれたのは、嬉しい。けどね」
母は、もう一度同じだけのため息をついた。
「あんたは、今度のことで、三回……四回は、調査室に連行されてもおかしくないのよ。連行されるどころか……そのまま、なかったことにされても」
「俺は……ほかにどうしようもなかっただけだよ」
「穢狗相手に受血することが?!」
「こいつは人間だ」
晶は母を睨みつけた。「母さんも分かってるだろ」
押し殺した息を吐いて、母は晶の目を見返した。「あんたを守りたいの。必要があるなら、その子も」
「……ほんとうに?」
「約束する」
晶は、顔をゆがめながら、母を見た。「……母さんが、嘘つきなのは、……分かってる」
母は傷ついた顔をしたが、反論しなかった。
「でも……それに、理由があることも、分かる……」
低い声で、母は告げた。「あんたを守るためなら、嘘くらいいくらでもつくわよ。誰に対しても」
「うん……」
「とりあえず、あんたの身を守るために言わなきゃいけないことを言うわね」
母は指を立てた。
「今回のことは、誰にも言わないこと。外で話すのも駄目」
「今回のことって……」
「穢狗に受血したこと、穢狗の血を受けたこと、穢狗が……人間であること」
彼女は顔をしかめながら続けた。「家の中で夜蟲と戦ったこと、一人で変化したこと、勝手にアイゲンメーヤー法を使ったこと」
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「他人と血管をつなげて治療することよ……原法では、静脈もつなげて血液を循環させるけど。そうすれば、貧血にならない」
「どうしてやっちゃ駄目なの」
「もう一度言うわ。禁忌なのよ」
「今、かあさんが言ったことは、全部そうなの……? 禁忌?」
「そう」
「樹に……受血することも?」
「そうよ」
「じゃあ、なぜ、禁忌なのかも分かったよな。こいつが……穢狗が、人間だってことが、分かったらまずいからだろ。狗と見下して、奴隷扱いしているこいつらが……病さえ癒えれば人間だって、分かったらまずいから!!」
苦しげに、母は囁いた。「ときどき、あなたがそこまで聡い子じゃなかったら、と思う事があるわ……」
「だって、おかしいだろ、そんな」
「晶」
少年の両肩に手を置き、母は静かに言った。
「いい機会だから言っておくわ。穢狗のことだけじゃない。この町は……この社会は、嘘と欺瞞に満ちている。でも、ここで生きていく以上、ここのルールで生きるしかないのよ」
「嫌……だったら?」
「そうね、月にでも暮らす?」
母の声は、小さく、顔を突き合わせていても、聞き取るのがやっとだった。
「今まで、一度も話したことがない話をするわ、晶。本当は、これをあなたに告げることも、禁忌なのだけれど……」
至近で見つめてくる母の顔が、歪んだ。「あなたには、姉さんがいるの。名前は……」彼女の唇が震え、声は口の中に消えた。
「名前は……?」
「もう、ないわ……」
その声は掠れていた。
「母であるわたしさえも……もう、あの子の名を呼べない。誰も、あの子のことを覚えていない。なかったことにされたから……でも、わたしは、思い出したのよ。あなたが父さんのことを思い出したように。名前を、呼んですら……やれないけど……あの子は、確かにいたの。わたしが産んだのよ、おっぱいをやって育てたの。な、なかったことに、されてしまった、けれど」
肩に食い込む指の強さに、晶は小さく声を立てた。母の声は震えていた。
「あなたまで、そんなことにしたくない。晶。晶」
「母さん……」
「晶、あなたのことを、忘れたくない」
母は、波打つ胸を鎮めるように大きく息を吸い込んで、息子から手を離した。
「……ごめんね。取り乱したわ」
背を向け、卓上を片付け始める。残り汁を三角コーナーに通して流し、どんぶりを洗い始めた。
晶は、まだ衝撃から立ち直れないでいた。
自分に姉がいた。それも、存在を、名前を奪われた姉が……口酸っぱく諭された「やってはいけないこと」をやったときに、ほんとうにどうなるのかは、誰も教えてくれなかった。
(決まりを守らない子には、うそりよだかが来るのよ……)
いつか聞いた噂が耳によみがえる。そう、あれは恵梨花だった。
(わたしのいとこのお姉ちゃんがね、うそりよだかを見たんだって)
そう言っていた、恵梨花は……そうだ、その後しばらくして、「この間言っていたいとこの人の話だけど」と晶が話を振った時、恵梨花は言ったのだ。
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穢狗だけではない。理不尽に奪われ、支配されているのは、自分たちもなのだ。
(それなのに、どうやってこいつを守ったらいいんだろう……)
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「あきや……」
夢うつつに、樹はつぶやき、歪んだ顔に幸せそうな微笑みを浮かべた。
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