銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

序章 羽を切る夜明け



夜明け前の街道は、まだ誰のものでもない。

 森の影は青黒く沈み、濡れた土の匂いが低く漂っている。遠くには、魔石灯の淡い光を抱いた城壁。夜を食むように黒く、それでも確かに人の息づかいを宿した王都がある。

 ノクティルム。

 黒い王都へ続く最後の橋の手前で、ジルは足を止めた。

 橋の下から、暗い水音が聞こえる。

 規則正しくはない。石へ当たり、砕け、また闇の中へ流れていく。背後の街道には誰の足音もなかった。追手の気配も、呼び止める声もない。

 今のところは。

 ジルは一度だけ周囲を見た。

 森へ戻る道。橋の向こうの城門。街道脇の低い草。夜明け前の風向き。

 逃げ道を数えることは、もう呼吸と変わらない。

 ここへ来るまでに、いくつかの街を越えた。

 宿の名も、門番の顔も、夜明け前に飲んだ薄い茶の味も、ジルは覚えていない。覚えているのは、背後の足音が本物だったかどうかを数え続けた夜だけだった。

 どこにも長く留まらなかった。

 留まれば、足跡になる。

 それでも、銀の髪だけは消せなかった。

 長い銀髪が、外套の背へ落ちていた。

 白い王都では、それは目印だった。

 夜の中でも月光を拾い、暗がりでも誰かの記憶に残る。美しいと褒められたこともある。任務では邪魔だと言われたこともあった。

 どちらにせよ、他人の目に残るための色だった。

 もう要らない。

 ジルは腰の短剣を抜く。

 鞘を離れた刃が、夜明け前の光を細く返した。

 よく手入れされた刃。何度も命を奪い、命令を果たし、必要とされた場所へ向けられてきたもの。

 だが今は、人を斬るためではない。

 ジルは銀の束を片手で掴んだ。

 背を覆ってきた髪の重みが、指の間へ集まる。

 そのまま刃を当てかけて、わずかに止まった。

 名を呼ぶ声が、記憶の奥で揺れた気がした。

 穏やかで、優しくて。

 拒む理由まで聞いてくるくせに、最後には逃げ道を塞ぐ声。

 ジルは静かに息を吐いた。

「……黙れ」

 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。

 刃を引く。


   髪の束を断つ、ごく微かな摩擦が指へ伝わった。

 音らしい音はしなかった。

 ただ、重みが消える。

 長く背を覆っていた銀が、掌の中でほどけた。切り落とされた髪は、夜明け前の薄闇の中でも白い。

 羽にも似ていた。

 誰かが与えた名のために纏い、誰かの命令で広げ、誰かの手元へ戻るための羽。

 ジルは、掌の中の銀を見下ろした。

 髪を切ったところで、過去は消えない。

 顔も、名も、刃も、捨てられないものがある。身体へ染みついた足運びも、眠りの浅さも、背後の気配を数える癖も残る。

 それでも、見つけられやすいものから捨てることはできる。

 少なくとも、誰かに決められる前に。

 ジルは髪の束を握ったまま、橋の欄干へ歩み寄った。

 下を流れる水が、石へ低く当たっている。

 黒い城壁の方から風が吹いた。

 白い王都で焚かれていた香木も、磨かれた床の匂いも、整えられた部屋の静けさも、ここにはない。

 湿った土。

 古い石。

 魔石灯の煤。

 そして、まだ知らない街の匂い。

 知らない匂いであることが、今は都合よく思えた。

 ジルは指を開く。

 切り落とされた銀髪が、風にほどけた。

 ひと房、またひと房。

 橋の下へ落ちるものもあれば、街道脇の濡れた草へ引っかかるものもある。いくつかは風に攫われ、黒い王都の方へ細く流れていった。

 すべては消えない。

 白い羽のような髪が、夜と朝の境目に散っていく。

 けれど、もうひとつの束として背へ戻ることはない。

 残った髪は、肩を少し越えるほどの長さになっていた。不揃いで、切り口も粗い。それでも、背へ流れる銀の目印ではなくなっている。

 ジルは短剣についた髪を指で払い、鞘へ戻した。

 金具が小さく鳴る。

 橋の向こうでは、黒い王都の門が開き始めていた。

 鎖が巻き上げられる重い音。石と鉄が擦れ、夜の終わりを押し開く。

 門の内側から、荷車の車輪と、朝の仕込みを始める者たちの声が微かに届いた。

 眠らない街ではない。

 夜の者だけの街でもない。

 誰かが働き、食べ、眠り、また朝を迎える場所。

 少なくとも今は、ジルを呼び止める声も、行く先を決める手もなかった。

 ノクティルムへ来たのは、ただ逃げ込むためではない。

 まだ終わらせるものがある。

 まだ手放していないものがある。

 外套の内側で、防水革に包んだ薄い束が、歩くたび胸元へ硬く触れた。

 名前をつければ、それはすぐ追手の理由になる。

 今はまだ、ただの重みでよかった。

 そして、それをどうするかは、今度こそ自分で決める。

 ジルは外套の襟を上げた。

 一度も振り返らず、最後の橋を渡る。

 夜明けの薄い光の中、切られた白い羽だけを背後へ残して。

 自分の足で、黒い王都ノクティルムへ踏み入れた。

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