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第1部 魔族王都編
第1話 雨の日に覚えた匂い
ノクティルムへ入ってから、いくつかの夜を越えた頃。
黒い王都には、細い雨が降っていた。
雨は弱いくせにしつこく、石畳の隙間へ溜まった水を絶えず揺らしている。魔石灯の赤紫が水面で崩れ、路地を通る荷車の車輪がそれを細く踏み潰していった。
昼のノクティルムは、商人と荷と声に満ちている。
王城へ続く大通りには馬車が並び、広場では屋台の鍋が湯気を上げる。焼いたパン、香草肉、油、果実酒。城門から入る者と出る者を警備兵が見張り、荷運び人の怒鳴り声が石壁に跳ね返っていた。
夜になれば、別の流れが動く。
酒場の裏口。
賭場へ続く細い階段。
荷札を裏返したまま入ってくる荷車。
屋根の高さ。水路へ降りる鉄梯子。雨樋の位置。表通りからは見えない裏口。
それまでに歩き回ったことで、ジルは街の形をある程度まで頭へ入れていた。
まだ、暮らす場所とは思っていない。
ノクティルムは、いくつもの退路が重なった街に見える。
その中で、最も人の秘密に寛容そうな場所を選んだ。
《月燈館》。
男性専門の会員制社交館。
赤みを帯びた魔石灯と、厚い布の壁。酒と香草煙。上品な会話を求める客もいれば、それより深い夜を買いに来る者もいる。
働く者にも、客にも、過去を語りたがらない男が多い。
ジルには都合がよかった。
短期の働き口を探していると告げると、店の者は銀髪とエルフの耳を一度見た。それ以上は聞かなかった。
代わりに、店へ面倒を持ち込まないことだけを求められた。
守れる保証はない。
それでも、守るつもりはあった。
今夜の仕事を終え、ジルは月燈館の裏口から雨の路地へ出た。
肩を少し越す銀髪は、首の後ろで緩く束ねている。自分で切った毛先はまだ不揃いだが、背へ流れていた頃より目立たない。
黒い外套の襟を立てる。
表通りの喧騒は遠い。
酒と煙と濡れた石の匂い。雨樋から落ちる水音。建物の隙間から漏れる低い笑い声。
誰も他人の事情へ首を突っ込まない。
ジルには、その方がよかった。
月燈館から安宿まで、同じ道は使わない。
今夜は西へ二本進み、水路沿いを避けてから北へ戻る。背後をついてくる足音はない。屋根にも気配はなかった。
歩きながら、逃げ道をひとつずつ拾っていく。
外套の内側には、防水革で包んだ紙束。
白い王都から持ち出したもの。
中身をここで数える必要はない。白梟が欲しがっていることだけは分かっていた。追われる理由としては、それで十分だ。
ただの移住者ではいられない。
ただの客商売の男にもなれない。
それでも、そう見えなければならなかった。
「……面倒な街だな」
低く呟いた時だった。
路地の奥から、小さな音が聞こえた。
石を引っ掻く爪。
金具が擦れる、かすかな音。
その後に、濡れた布の奥から漏れたような鳴き声。
「きゅ……」
ジルは足を止めた。
雨粒が錆びた樋を叩いている。
聞き間違いかとも思った。
もう一度、細い声が震えた。
「きゅう……っ」
苦しげだった。
ジルは動かなかった。
助ける義理はない。
この街では、弱いものから消えていく。人間でも、魔族でも、獣でも同じだ。首を突っ込めば面倒が増える。
面倒は足を止める。
足が止まれば、追手に追いつかれる。
ジルは視線を路地の出口へ戻した。
その瞬間、低い唸り声が雨音を割る。
獣のものではない。
魔獣の声。
ジルは無言で目を細めた。
倒れた木箱と錆びた鉄柵の隙間に、黒いものがいる。
猫ほどの小さな身体。
濡れてしぼんだ黒い毛並み。頭へ張りつくように伏せられた長い耳。太い尾は雨水を吸い、石畳へ重く落ちていた。
片方の前足には、細い鎖が絡んでいる。
小動物用の捕獲具。
黒い毛玉はそこから逃れようとしたらしく、足元には爪で引っ掻いた痕が残っていた。鎖が食い込んだ部分から血が滲み、泥と雨水へ混じっている。
首には細い首輪があった。
黒銀の小札が下がっているが、泥と濡れた毛に貼りつき、意匠までは読み取れない。首輪の革も一部が擦れ、切れかけていた。
飼われているのか。
誰かの元から逃げたのか。
それを考えるより先に、魔獣が姿を現す。
狼に似た四足の獣。
ただし、背には硬い棘が並び、口元からは紫色の唾液が垂れていた。野良の魔獣にしてはひどく飢えている。
捕獲具へかかった獲物を横取りするつもりらしい。
黒い毛玉は、鉄柵の隙間で身体を縮めていた。
濡れた毛の下で、小さな肋が速く上下している。浅い呼吸を繰り返すたび、身体ごと震えた。
「きゅう……」
ジルは深く息を吐く。
「俺に鳴くな」
黒い毛玉が、濡れた目でジルを見た。
伏せていた耳が、声を拾うようにわずかに動く。
「きゅ……」
「見るな」
ジルはそう言った。
次の瞬間には、もう動いていた。
魔獣が地を蹴る。
水溜まりが弾けた。
ジルの外套が雨の中で翻る。
足音を残さず、魔獣の正面から半歩だけ外へずれた。爪が頬のすぐ脇を通り過ぎる。
抜いた短剣は、暗がりでも光を拾いにくい黒い刃。
だが、刃先は使わない。
柄が魔獣の顎を打ち上げた。
骨と硬い柄が触れる低い音が、雨に濡れた壁へ吸われる。
獣の頭が上がる。
空いた首の横へ手刀を入れ、神経の集まる一点を打った。
魔獣の脚から力が抜ける。
巨体が濡れた石畳へ落ち、水が鈍く跳ねた。
殺してはいない。
だが、すぐには起き上がれない。
魔獣は棘の並ぶ背を震わせ、喉の奥で唸った。
ジルは短剣の切っ先を、その鼻先へ向ける。
「次に跳んだら殺す」
言葉が通じたわけではない。
殺気は通じたらしい。
魔獣は棘を逆立てたまま身を引き、脚を引きずるようにして雨の向こうへ消えた。
ジルは足音が遠ざかるまで待つ。
短剣を収める。
そこで立ち去ればよかった。
視線を鉄柵の隙間へ戻す。
「……まだ生きているな」
黒い毛玉は顔を上げようとして、すぐに力を失った。
「返事はしなくていい」
近づくと、小さな身体が強張る。
逃げようと身を引き、鎖が足へ食い込んだ。喉の奥から、かすれた息が漏れる。
捕獲具は、獲物を傷つけず捕まえるためのものではない。
暴れれば締まり、痛みで諦めさせる仕組み。
ジルは片膝をついた。
鎖の張力と、足へ食い込んでいる位置を確かめる。
「動くな」
「きゅ……」
「切る場所を間違えれば、足ごといく」
黒い毛玉が震える。
「脅しているんじゃない。事実だ」
耳だけが、雨音とジルの声の間で小さく動いた。
それ以上は暴れない。
ジルは袖口から薄刃を抜く。
濡れた金具の噛み合わせへ、刃先を滑らせた。
鎖そのものを切れば、反動で傷口が広がる。先に張力を逃がし、留め具だけを外さなければならない。
黒い毛玉の前足へ指を添える。
冷たい。
息を止め、金具の一点を押した。
ち、と細い音が鳴る。
鎖が緩んだ。
黒い前足が解放される。
だが、すぐには引き寄せられない。痺れているのか、傷ついた足は石畳へ伸びたまま力が入らなかった。
「きゅう……」
「鳴くな。まだ終わっていない」
傷は深くない。
それでも雨と泥に汚れ、このままなら膿む。
見なかったことにすれば、ここまで手を出した意味がなくなる。
ジルは外套の内側から、小さな薬包を取り出した。
自分用の薬草。
安くはない。
今のジルにとっては、なおさらだった。
「高い薬だぞ」
包みを開くと、苦みを含んだ青い匂いが雨の中へ流れた。
黒い鼻先が、わずかに動く。
「理解しなくていい」
まず、携帯していた水で傷口の泥を流す。
濡らした布で血を拭い、傷の深さを確認する。それから薬草を潰し、薄く塗った。
黒い毛玉は最初だけ大きく身を震わせた。
傷ついた足を引こうとする。
ジルが関節の上を静かに支えると、それ以上は暴れなかった。
薬草の匂いを確かめるように、鼻先を何度も動かしている。
濡れた目は、ジルの指先から離れない。
「見るなと言った」
「きゅう」
「……返事だけはいいな」
自分の袖口から細く布を裂く。
傷の縁を圧迫しないように巻き、きつすぎず、緩すぎない位置で結んだ。
黒い毛玉は、結び終わるまで動かなかった。
声だけは冷たくできる。
指先まで雑にはできなかった。
ジルは小さな身体を持ち上げる。
両手が塞がるほどの重さではない。
濡れた毛がしぼみ、実際よりずっと小さく見える。持ち上げられた瞬間だけ身体を固くしたが、やがて力を抜いた。
傷ついた足だけが、頼りなく垂れている。
首輪の黒銀札が、ジルの手首へ小さく触れた。
「飼い主がいるなら、自分で帰れ」
「きゅ……」
「俺を見るな」
少し先の軒下へ運ぶ。
雨が当たらず、魔獣からも見えにくい場所。壊した捕獲具は踏み潰し、留め具を排水溝へ落とした。
黒い毛玉を布の上へ置く。
傷ついた足を庇いながら、太い尾を身体へ寄せた。
「ここなら、すぐには死なない」
長い耳がジルの声へ向く。
「礼はいらない」
ジルは背を向けた。
三歩。
五歩。
七歩。
背後で、小さな足音がした。
濡れた石畳を、ぺた、かり、と不揃いに踏む音。
片方は柔らかな足裏。
もう片方は、痛む足を浮かせた拍子に爪先だけが石へ触れている。
ジルは足を止めた。
聞かなかったことにはできなかった。
振り返る。
黒い毛玉が、ぎこちなくこちらへ歩いてくる。
巻いた布が少しずれていた。傷ついた足を庇いながら、それでもついてくる。
「……来るな」
「きゅう」
「来るなと言っている」
黒い毛玉は一度止まった。
ジルが歩き出すと、また不揃いな爪音が続く。
「話を聞いていないだろ」
靴先まで来ると、その場へ座った。
そして、濡れた頭を革靴へ押しつける。
耳は伏せたまま。
浅い呼吸が、革越しに伝わった。
ジルは無言で見下ろす。
雨が外套の肩を濡らしていく。
「俺は飼わない」
「きゅう」
「返事をするな」
路地の向こうから、複数の足音が近づいてきた。
「こっちだ。鳴き声がした」
「罠は?」
「外れてる。誰かが触ったんだ」
ジルの目が冷える。
黒い毛玉の身体が跳ねた。
耳が頭へ張りつき、太い尾が石畳へ低く縮む。逃げようにも、傷ついた足へ力が入らない。
ジルは一瞬だけ考え、外套の前を開いた。
「入れ」
「きゅ?」
「早くしろ」
黒い毛玉は、迷うように見上げてくる。
「死にたいなら、そこにいろ」
声の温度を感じ取ったのか、小さな身体が外套の内側へ潜り込んだ。
濡れた毛が腹へ触れる。
冷えた震えが布越しに伝わってきた。
雨。
泥。
薬草。
小さな獣の体温。
狭い外套の内側へ、いくつもの匂いがこもる。
黒い鼻先が、ジルの服へ一度触れた。
薬包を入れていた場所を確かめるように。
片手で外套を押さえなければならない。
使える刃がひとつ減った。
それでもジルは外套を閉じ、何食わぬ顔で歩き出す。
曲がり角から男が三人現れた。
粗い革の外套。
腰の短剣。
獣を捕るための道具。
先頭の男が、ジルを見て足を止める。
「おい、そこのエルフ」
ジルは面倒そうに視線だけを向けた。
「何だ」
「黒い獣を見なかったか。小さいやつだ」
「見ていない」
「本当か?」
「雨の中で獣を探す趣味はない」
男の目が、ジルの外套へ落ちる。
濡れた布の前が、不自然に重くなっている。
気づいたらしい。
薄い笑みを浮かべ、一歩近づいた。
「その外套の中、見せてもらおうか」
「断る」
「こっちは仕事なんだよ。その獣は値がつく。逃がしたら困る」
「なら、自分の腕の悪さを呪え」
男の顔が歪む。
「いいから見せろ」
手が伸びてきた。
ジルは避けない。
伸びた手首を掴む。
ただ、それだけ。
男の顔色が変わった。
「っ、あ……!」
骨は折っていない。
まだ。
関節の向きと、力の逃げ場を潰している。少し力を加えれば折れることは、掴まれた本人にも分かったらしい。
ジルは静かに言った。
「雨の日に他人の服を覗くのが、この街の礼儀か?」
「てめえ……」
「答えろ」
指へ力を加える。
男の膝が石畳へ落ちた。
残る二人が武器へ手をかける。
ジルは男の手首を離さず、視線だけを向けた。
左の男は踏み込みが浅い。
右の男は、短剣を抜く前に肩が上がる。
どちらも殺す必要はない。
掴んだ男を前へ押し出す。
左の男の間合いが崩れた。
右の男が短剣を抜きかける。
ジルの靴先が水溜まりを跳ねた。
泥水が男の目へ入る。
怯んだ一拍で距離を詰め、鳩尾へ肘を入れる。
息が潰れた。
短剣が石畳へ落ち、浅い水を跳ねさせる。
最後の一人は、ジルの目を見て動きを止めた。
ジルは外套の内側を片手で押さえたまま問う。
「まだ探すか?」
誰も答えない。
「なら消えろ」
男たちは倒れた仲間を引きずり、罵声を残しながら雨の向こうへ下がっていった。
足音が消えるまで、ジルは動かなかった。
外套の中でも、黒い毛玉は鳴かない。
小さな前足だけが、ジルの服を掴んでいる。
震えは続いていた。
だが、暴れる気配はない。
ようやく、かすかな息が漏れた。
「きゅ……」
「鳴くな。見つかる」
黒い鼻先が、服へ押しつけられる。
「返事もするな」
外套の内側で、身体がさらに小さく丸まった。
震えは、先ほどより少しだけ弱くなっている。
ジルは雨の向こうへ目を向けた。
「……本当に面倒なものを拾ったな」
*
ジルの仮住まいは、裏通りの外れにある安宿だった。
寝台と椅子。
簡素な机。
水差し。
暖炉代わりの小さな魔石炉。
壁は薄く、隣室の咳が聞こえる。だが、窓から路地へ降りられる。扉の蝶番も古く、細工をすれば侵入者の有無を確かめられた。
逃げるには悪くない。
部屋へ入ると、まず扉へ簡易の仕掛けを施す。
次に窓と雨戸を確認し、通りを見下ろした。
追手はいない。
そこでようやく、外套の内側から黒い毛玉を出す。
濡れた身体は、ジルの両手の中で小さく震えていた。
傷ついた足は身体へ引き寄せきれず、薬布を巻いたまま頼りなく浮いている。
「そこまで震えるなら、ついてくるな」
「きゅ……」
「分かったなら動くな」
古い布を取り出し、身体を包む。
水を拭おうとして、傷のある足へ触れかけた。
小さな身体が強張る。
ジルの手が止まった。
少しだけ力を緩める。
傷の周囲を避け、水を吸った毛を押さえるように拭いていく。
布の隙間から、黒い目がじっと見上げていた。
「見るな」
鼻先が、布の外へ少し出る。
「……本当に聞かないな」
魔石炉へ火を入れた。
石の内側で魔石が低く鳴り、部屋へ淡い熱が広がる。
炉の近くへ置くと、黒い毛玉は最初こそ身を縮めていた。耳は伏せられ、尾も身体の下へ巻き込まれている。
熱が濡れた毛へ染み込むにつれ、強張った背が少しずつ緩んだ。
伏せていた耳がわずかに持ち上がる。
身体の下に隠れていた尾も、布の上へ重く落ちた。
濡れて細くなっていた毛並みが、ゆっくりとふくらみを取り戻していく。
ジルは外套を脱ぎ、防水革に包んだ紙束を確認する。
濡れてはいない。
それを確かめてから、ようやく息をついた。
視線を感じる。
黒い毛玉が、魔石炉の前からこちらを見ていた。
「何だ」
長い耳が声へ向く。
「飯はない」
言ってから、鞄の中を探った。
乾燥肉が少しだけある。
保存食。
今のジルには、余分な食料ではなかった。
肉と黒い毛玉を見比べる。
「……少しだけだ」
「きゅう」
「喜ぶな。高い薬に続いて食料まで消える。お前、かなり高くついているぞ」
黒い毛玉は意味を理解していない顔で、乾燥肉を受け取った。
傷ついた前足を使わず、片方だけで肉を布へ押さえようとする。うまく固定できず、何度か転がした。
それでも必死に追いかけ、端からかじっていく。
ジルは椅子の背へ身体を預けた。
白い王都から逃げた。
髪を切り、外見を変え、紙束を抱え、黒い王都の裏を歩いている。
誰も信用しない。
誰にも踏み込ませない。
そのために来たはずだった。
それなのに、雨の中で罠へかかった獣を拾い、自分の薬と食料を使っている。
馬鹿げている。
「明日には出ていけ」
黒い毛玉が、肉をかじる動きを止めた。
耳だけがジルへ向く。
「ここはお前の寝床じゃない」
「きゅ」
「不満そうにするな」
乾燥肉を食べ終えると、黒い毛玉は布の中で丸くなった。
傷ついた足を腹の下へ入れないよう、少し歪な姿勢。
太い尾を鼻先へ寄せる。
やがて、小さな寝息が聞こえ始めた。
魔石炉の内側で魔石が弾ける音。
窓の外を濡らす雨。
その間に混じる、細い呼吸。
ジルはしばらく耳を傾けていた。
白い王都では、こんな音へ意識を預けたことはない。
預けたところで、翌朝には命令が来た。
あるいは、穏やかな声で名前を呼ばれる。
その声を聞き逃さないように眠る癖は、まだ抜けていなかった。
ジルは目を伏せる。
「……面倒だ」
黒い毛玉は眠っている。
伏せていた耳だけが、ジルの声へ一度動いた。
それでも、目は開かなかった。
雨。
薬草。
乾いた布。
濡れた外套。
魔石炉の熱。
眠りながら、黒い鼻先が薬草の残る布へわずかに寄る。
ジルはそれを見て、また目を逸らした。
*
翌朝、黒い毛玉はいなくなっていた。
窓が、少しだけ開いている。
ジルは寝台の端へ腰掛けたまま、その隙間を見た。
仕掛けは壊されていない。
器用に抜け出したらしい。
足の怪我で、よくやる。
窓枠には、乾ききっていない足跡が残っていた。傷ついた側だけが薄い。
机の上へ目を向ける。
残していた乾燥肉が、ひとつ消えている。
「……」
ジルはしばらく無言だった。
やがて、低く呟く。
「泥棒め」
追いはしなかった。
追う理由がない。
飼う気もない。
助けたのは、ただの気まぐれだ。
雨の夜に妙な鳴き声を聞いただけ。
自分とは関係のない獣が、勝手についてきて、勝手に眠り、勝手に食料を盗んで消えた。
それで終わり。
そう思うことにした。
窓の外には、雨上がりのノクティルムが広がっている。
濡れた石畳へ朝の淡い光が滲み、裏通りの酒と煙の匂いを少しだけ薄めていた。
ジルは窓を閉める。
使った器を洗い、余った薬草を包み直す。
黒い毛が、布へ一本だけ残っていた。
指で摘まみ、捨てようとする。
少しだけ止まった。
結局、机の端へ置いたまま外套を羽織る。
そして、黒い毛玉のことを忘れた。
忘れたつもりだった。
*
同じ朝。
黒い毛玉は、黒燈ギルド本部にあるルシの部屋の窓を、残った力で引っ掻いていた。
かり。
かり、かり。
弱い爪音。
浅い眠りの中にいたルシは、二度目の音で目を開けた。
「……クロ?」
窓を開ける。
濡れた黒い身体が、窓枠から部屋の中へ転がり込んだ。
「おい」
ルシの声から、眠気が消えた。
黒い毛並みは泥で汚れ、前足には細い薬布。首輪の革は擦れ、黒銀の登録札にも新しい傷がついている。
クロは一歩だけ進み、傷ついた足を浮かせた。
「きゅ……」
「何してきたんだよ、お前」
抱き上げようとすると、クロの身体が小さく強張る。
ルシはすぐに手を止めた。
「悪い。足だな」
片手を腹の下へ入れ、傷へ触れないよう持ち上げる。
濡れた毛から、知らない匂いがした。
雨と泥。
それから、薬草。
黒燈の医務室で使うものとは違う。
苦みの強い青葉と、乾燥させた根の匂い。旅人が携帯する止血薬に近いが、配合は少し違う。
薬布も黒燈のものではなかった。
細く裂いた布。
結び目は小さく、きつすぎない。だが、傷ついた足が動いても外れにくい位置へ巻かれている。
「誰かに手当てされたのか?」
「きゅう」
「誰に」
「きゅ」
「返事だけはいいな」
ルシはクロを寝台へ下ろし、薬布をすぐには外さず傷の周囲を確認した。
捕獲具らしい擦過傷。
泥は落とされ、薬も塗られている。
処置は早い。
少なくとも、傷つけた相手が気まぐれで布を巻いたわけではなさそうだった。
「お前、自分から知らない奴についていったんじゃないだろうな」
「きゅう」
「その鳴き方、否定に聞こえない」
クロの鼻先が、ルシの袖へ触れる。
それから、部屋の中を確かめるように一度上がった。
探している匂いがないと分かったのか、耳が少しだけ伏せられる。
ルシはその動きを見逃さなかった。
「……気に入ったのか?」
「きゅ」
「早いな」
軽く言った声は、少しだけ低かった。
ルシはクロの首輪を直し、泥のついた黒銀札を布で拭う。灯火紋の縁に新しい擦り傷があった。
ただし、札の表はなぞらない。
それは伝令を頼む時の合図だ。
今のクロに走らせる気はなかった。
「まず寝ろ。起きたら医務室だ」
「きゅ……」
「嫌でも行く。走るのはしばらく禁止」
クロの耳が目に見えて下がった。
「そんな顔しても駄目」
「きゅう……」
「怪我して帰ってきた奴に決定権はない」
言いながら、乾いた布を掛ける。
クロは布の中で丸くなろうとした。
その前に一度だけ、鼻先を前足の薬布へ寄せる。
薬草の匂いを確かめるように。
それから、ルシの手の下で目を閉じた。
眠りへ落ちる直前、喉の奥で小さく鳴く。
「きゅう」
それが誰へ向けられた声なのか、ルシには分からなかった。
*
クロが戻ってから、数日が過ぎた。
戻ったばかりの頃は、歩くたびに傷ついた前足を庇っていた。
窓へ近づこうとするたび、ルシに首根っこを掴まれ、寝台へ戻される。伝令にも出さず、しばらくは室内で過ごさせた。
やがて傷は塞がり始め、薬布も外れた。
短い距離なら走れるまでに戻ったものの、完全に治ったわけではない。高い場所から降りる時や、雨の匂いが濃くなる夜には、傷ついた前足をほんの一瞬だけ浮かせる。
強く着地した後も、動きがわずかに止まった。
ルシは、その小さな変化を見逃さなかった。
ただクロの回復を待っていたわけでもない。
治療に使われた薬草。
薬布の繊維と、細い結び目。
クロが戻ってきた方角。
西区から月燈館周辺へ続く裏路地。
拾えるものを、ひとつずつ拾っていった。
薬草自体は珍しいものではない。
旅人や傭兵、裏稼業の者が携帯していることもある。布の繊維や結び方だけで、治療者を特定することもできなかった。
それでも、確かなことはある。
誰かが雨の中で傷ついたクロを拾った。
自分の薬を使い、傷を洗い、きつすぎない薬布を巻いた。そして、治療した後も閉じ込めず、クロが自分の意思で帰れるようにした。
その誰かを、クロは嫌っていない。
むしろ、あの夜の匂いを探しているように見えた。
*
同じ頃、ジルは月燈館で働いていた。
客へ酒を運び、空いたグラスを下げ、店の動線を覚えていく。
表口。
裏口。
厨房から続く細い廊下。
二階の非常窓。
客が荒れた時、店の者を逃がせる経路。
働き始めたばかりの男としては、少し覚えすぎている。
だが、店の者は深く聞かなかった。
ジルも、雨の夜の黒い毛玉を探さなかった。
雨樋が鳴れば、一度だけ視線を上げる。
黒い毛が残っていた机の端へ目を向ける。
それだけだった。
クロの前足から薬布が外れる頃には、ジルより遅れて、白い噂もノクティルムへ入り始めていた。
*
ノクティルムの夜は、黒い。
だが、ただ暗いだけではない。
濡れた石畳には魔石灯の赤紫が滲み、裏通りの酒場からは低い笑い声と酒の匂いがこぼれている。
煙草。
香草肉。
雨上がりの土。
古い紙。
秘密を抱えた者たちが、その匂いへ紛れて歩いていた。
ルシは、そういう夜が嫌いではない。
黒い王都の夜は、隠すものを隠す。
だが、完全には消さない。
足音。
視線。
噂の端。
拾う気があれば、闇の底にはいくらでも手掛かりが落ちている。
「きゅう」
肩の上で、クロが鳴いた。
長い耳と太い尾を持つ、小さな黒い幻獣。
豊かな毛並みは乾き、雨の夜に戻ってきた時より一回り大きく見える。クロはルシの肩へ器用に身体を収め、尾を背へ沿わせていた。
前足に薬布はない。
それでも、雨の匂いが強くなると、その足を一度浮かせる。
「痛むか?」
「きゅ」
「問題ない、って返事には聞こえないな」
「きゅう」
「返事だけはいい」
ルシは肩越しに、黒い頭を指先で軽く撫でた。
「次は勝手に消えるなよ。怪我する前にオレを呼べ」
クロはそれ以上、何も教えない。
人語を話さない相棒は、肝心なところでいつも黙っている。
いや、普段から黙ってはいるのだが。
ルシは苦笑した。
今夜追っているのは、白い噂だった。
白い王都から流れてきた荷。
封緘具。…文書・箱・契約書などを封じ、勝手に開けられないようにする道具。
記録札。…荷、部屋、人物、証拠品などを管理するための小さな札。
香木。…焚くと静かな香りを出す木片。
剥がされた白い封蝋。
そして、銀髪のエルフを捜しているという、妙に整った噂。
最初に拾ったのは、西区の古紙屋だった。
店主は、ルシの顔を見るなり嫌そうに眉を寄せた。金を置くと、さらに嫌そうな顔をしながら、奥の引き出しから白い封蝋の欠片を出した。
羽を広げた梟。
美しく、冷たく、整いすぎた紋。
《白梟ギルド》。
エルフ王都アルシェリアの裏で名を知られる、白いアサシンギルド。
かつては、法の届かない悪を裁く白き梟と呼ばれた組織。
だが、ノクティルムへ流れてきた噂は、そんなに綺麗なものではない。
白梟は、一人のエルフを捜している。
長い銀髪。
冷たい目。
名前は、ジル。
元は白梟の実働員。
かなり腕が立つ。
ある時から白い王都を離れ、機密文書か、それに近いものを持って逃げたらしい。
写し。
索引。
暗号片。
あるいは原本。
そこまではまだ見えない。
白梟側が、その男を《回収対象》と呼んでいることだけは分かった。
「回収ねえ」
ルシの声から、わずかに軽さが消える。
生きた相手へ使う言葉ではない。
人間でも、エルフでも、魔族でも。
裏稼業の人間であっても同じだ。
肩の上で、クロの耳が伏せられた。
「きゅう……」
「お前も嫌いか、その言い方」
「きゅ」
「だよな」
ルシは懐から似顔絵を取り出した。
紙の中の男は、こちらを見ていない。
長い銀髪の横顔。
細い輪郭。
冷えた目元。
粗い絵ではあるが、特徴は掴んでいる。
逃げているだけの男には見えなかった。
追われている。
それでも、まだ何かを諦めていない顔。
そう見える理由までは、粗い線から読み取れない。
だからこそ、気にかかった。
似顔絵と同じ頃から、別の噂も入っている。
月燈館へ、銀髪のエルフが新しく入った。
髪は似顔絵より短い。
肩を少し越す程度。
無愛想で、客へ笑っても目までは笑わない。
名乗っている名前は、ジル。
同じ名前だけなら偶然で済む。
銀髪だけでも、まだ足りない。
白梟の噂がノクティルムへ届いた時期と、新入りが月燈館へ入った時期も、完全には一致していない。
だからこそ、本人より噂が遅れてきた可能性があった。
厄介な相手だと、勘が告げている。
カインがこの件に気づけば、危険だと判断して先に動くだろう。
兄はそういう男だ。
弟を遠ざけ、自分の方が危険な場所へ踏み込む。
だから、その前に拾えるものは拾っておく。
情報屋として。
弟として。
その両方で。
ルシは路地の角を曲がった。
細い雨が、また降り始めていた。
魔石灯の赤紫が濡れた石畳に伸び、足元で揺れている。
その先に、赤みを帯びた灯りの建物が見えた。
《月燈館》。
男性専門の会員制社交館。
上品な会話と酒を売る場所であり、同時に、それより深い夜を求める男も集まる。
秘密を抱えた者が身を潜めるには、悪くない。
月燈館へ近づくにつれ、クロが落ち着かなくなっていった。
肩の上で身を乗り出す。
鼻先を上げる。
長い耳が、店の方角へ真っ直ぐ向いた。
「お前、ここに何かあるって顔してるな」
「きゅう」
「治してくれた奴か?」
クロは答えない。
ただ、鼻先を何度も動かしている。
戻ってきた朝、クロの毛には、苦い薬草と濡れた外套の匂いが残っていた。
治療者の顔までは分からない。だが、あの夜に覚えた何かが、扉へ近づくほど濃くなっているらしい。
「勝手に相手へ懐くなよ」
「きゅ?」
「その顔は、やる顔だな」
クロは答える代わりに、ふわふわの尾を揺らした。
ルシは似顔絵を懐へ戻す。
白い封蝋。
白梟ギルド。
長い銀髪のエルフ。
月燈館へ入った、髪の短い同名の男。
クロの前足へ巻かれていた細い薬布。
知らない薬草の匂い。
まだ、ひとつの線だと断定するには早い。
だが、点は揃い始めていた。
ルシは月燈館の扉を見上げる。
赤い灯りが、雨の中へ滲んでいる。
いつもの軽い笑みを作った。
「さて」
黒い王都の夜の奥で、白い噂が羽音を立てている。
「嘘つきの顔でも見に行きますか」
クロが、小さく鳴いた。
先ほどより、わずかに高い声。
「きゅう」
閉ざされた扉の向こうに、似顔絵の男がいるのか。
クロを救った治療者がいるのか。
ルシには、まだ分からない。
分かるのは、クロが名ではなく、何かの匂いを追っていることだけだ。
雨の夜。痛みと冷たさの向こうで触れたものが、すぐ近くにあるらしい。
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