銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第1話 雨の日に覚えた匂い

 


ノクティルムへ入ってから、いくつかの夜を越えた頃。

 黒い王都には、細い雨が降っていた。

 雨は弱いくせにしつこく、石畳の隙間へ溜まった水を絶えず揺らしている。魔石灯の赤紫が水面で崩れ、路地を通る荷車の車輪がそれを細く踏み潰していった。

 昼のノクティルムは、商人と荷と声に満ちている。

 王城へ続く大通りには馬車が並び、広場では屋台の鍋が湯気を上げる。焼いたパン、香草肉、油、果実酒。城門から入る者と出る者を警備兵が見張り、荷運び人の怒鳴り声が石壁に跳ね返っていた。

 夜になれば、別の流れが動く。

 酒場の裏口。

 賭場へ続く細い階段。

 荷札を裏返したまま入ってくる荷車。

 屋根の高さ。水路へ降りる鉄梯子。雨樋の位置。表通りからは見えない裏口。

 それまでに歩き回ったことで、ジルは街の形をある程度まで頭へ入れていた。

 まだ、暮らす場所とは思っていない。

 ノクティルムは、いくつもの退路が重なった街に見える。

 その中で、最も人の秘密に寛容そうな場所を選んだ。

 《月燈館げっとうかん》。

 男性専門の会員制社交館。

 赤みを帯びた魔石灯と、厚い布の壁。酒と香草煙。上品な会話を求める客もいれば、それより深い夜を買いに来る者もいる。

 働く者にも、客にも、過去を語りたがらない男が多い。

 ジルには都合がよかった。

 短期の働き口を探していると告げると、店の者は銀髪とエルフの耳を一度見た。それ以上は聞かなかった。

 代わりに、店へ面倒を持ち込まないことだけを求められた。

 守れる保証はない。

 それでも、守るつもりはあった。

 今夜の仕事を終え、ジルは月燈館の裏口から雨の路地へ出た。

 肩を少し越す銀髪は、首の後ろで緩く束ねている。自分で切った毛先はまだ不揃いだが、背へ流れていた頃より目立たない。

 黒い外套の襟を立てる。

 表通りの喧騒は遠い。

 酒と煙と濡れた石の匂い。雨樋から落ちる水音。建物の隙間から漏れる低い笑い声。

 誰も他人の事情へ首を突っ込まない。

 ジルには、その方がよかった。

 月燈館から安宿まで、同じ道は使わない。

 今夜は西へ二本進み、水路沿いを避けてから北へ戻る。背後をついてくる足音はない。屋根にも気配はなかった。

 歩きながら、逃げ道をひとつずつ拾っていく。

 外套の内側には、防水革で包んだ紙束。

 白い王都から持ち出したもの。

 中身をここで数える必要はない。白梟が欲しがっていることだけは分かっていた。追われる理由としては、それで十分だ。

 ただの移住者ではいられない。

 ただの客商売の男にもなれない。

 それでも、そう見えなければならなかった。

「……面倒な街だな」

 低く呟いた時だった。

 路地の奥から、小さな音が聞こえた。

 石を引っ掻く爪。

 金具が擦れる、かすかな音。

 その後に、濡れた布の奥から漏れたような鳴き声。

「きゅ……」

 ジルは足を止めた。

 雨粒が錆びた樋を叩いている。

 聞き間違いかとも思った。

 もう一度、細い声が震えた。

「きゅう……っ」

 苦しげだった。

 ジルは動かなかった。

 助ける義理はない。

 この街では、弱いものから消えていく。人間でも、魔族でも、獣でも同じだ。首を突っ込めば面倒が増える。

 面倒は足を止める。

 足が止まれば、追手に追いつかれる。

 ジルは視線を路地の出口へ戻した。

 その瞬間、低い唸り声が雨音を割る。

 獣のものではない。

 魔獣の声。

 ジルは無言で目を細めた。

 倒れた木箱と錆びた鉄柵の隙間に、黒いものがいる。

 猫ほどの小さな身体。

 濡れてしぼんだ黒い毛並み。頭へ張りつくように伏せられた長い耳。太い尾は雨水を吸い、石畳へ重く落ちていた。

 片方の前足には、細い鎖が絡んでいる。

 小動物用の捕獲具。

 黒い毛玉はそこから逃れようとしたらしく、足元には爪で引っ掻いた痕が残っていた。鎖が食い込んだ部分から血が滲み、泥と雨水へ混じっている。

 首には細い首輪があった。

 黒銀の小札が下がっているが、泥と濡れた毛に貼りつき、意匠までは読み取れない。首輪の革も一部が擦れ、切れかけていた。

 飼われているのか。

 誰かの元から逃げたのか。

 それを考えるより先に、魔獣が姿を現す。

 狼に似た四足の獣。

 ただし、背には硬い棘が並び、口元からは紫色の唾液が垂れていた。野良の魔獣にしてはひどく飢えている。

 捕獲具へかかった獲物を横取りするつもりらしい。

 黒い毛玉は、鉄柵の隙間で身体を縮めていた。

 濡れた毛の下で、小さな肋が速く上下している。浅い呼吸を繰り返すたび、身体ごと震えた。

「きゅう……」

 ジルは深く息を吐く。

「俺に鳴くな」

 黒い毛玉が、濡れた目でジルを見た。

 伏せていた耳が、声を拾うようにわずかに動く。

「きゅ……」

「見るな」

 ジルはそう言った。

 次の瞬間には、もう動いていた。

 魔獣が地を蹴る。

 水溜まりが弾けた。

 ジルの外套が雨の中で翻る。

 足音を残さず、魔獣の正面から半歩だけ外へずれた。爪が頬のすぐ脇を通り過ぎる。

 抜いた短剣は、暗がりでも光を拾いにくい黒い刃。

 だが、刃先は使わない。

 柄が魔獣の顎を打ち上げた。

 骨と硬い柄が触れる低い音が、雨に濡れた壁へ吸われる。

 獣の頭が上がる。

 空いた首の横へ手刀を入れ、神経の集まる一点を打った。

 魔獣の脚から力が抜ける。

 巨体が濡れた石畳へ落ち、水が鈍く跳ねた。

 殺してはいない。

 だが、すぐには起き上がれない。

 魔獣は棘の並ぶ背を震わせ、喉の奥で唸った。

 ジルは短剣の切っ先を、その鼻先へ向ける。

「次に跳んだら殺す」

 言葉が通じたわけではない。

 殺気は通じたらしい。

 魔獣は棘を逆立てたまま身を引き、脚を引きずるようにして雨の向こうへ消えた。

 ジルは足音が遠ざかるまで待つ。

 短剣を収める。

 そこで立ち去ればよかった。

 視線を鉄柵の隙間へ戻す。

「……まだ生きているな」

 黒い毛玉は顔を上げようとして、すぐに力を失った。

「返事はしなくていい」

 近づくと、小さな身体が強張る。

 逃げようと身を引き、鎖が足へ食い込んだ。喉の奥から、かすれた息が漏れる。

 捕獲具は、獲物を傷つけず捕まえるためのものではない。

 暴れれば締まり、痛みで諦めさせる仕組み。

 ジルは片膝をついた。

 鎖の張力と、足へ食い込んでいる位置を確かめる。

「動くな」

「きゅ……」

「切る場所を間違えれば、足ごといく」

 黒い毛玉が震える。

「脅しているんじゃない。事実だ」

 耳だけが、雨音とジルの声の間で小さく動いた。

 それ以上は暴れない。

 ジルは袖口から薄刃を抜く。

 濡れた金具の噛み合わせへ、刃先を滑らせた。

 鎖そのものを切れば、反動で傷口が広がる。先に張力を逃がし、留め具だけを外さなければならない。

 黒い毛玉の前足へ指を添える。

 冷たい。

 息を止め、金具の一点を押した。

 ち、と細い音が鳴る。

 鎖が緩んだ。

 黒い前足が解放される。

 だが、すぐには引き寄せられない。痺れているのか、傷ついた足は石畳へ伸びたまま力が入らなかった。

「きゅう……」

「鳴くな。まだ終わっていない」

 傷は深くない。

 それでも雨と泥に汚れ、このままなら膿む。

 見なかったことにすれば、ここまで手を出した意味がなくなる。

 ジルは外套の内側から、小さな薬包を取り出した。

 自分用の薬草。

 安くはない。

 今のジルにとっては、なおさらだった。

「高い薬だぞ」

 包みを開くと、苦みを含んだ青い匂いが雨の中へ流れた。

 黒い鼻先が、わずかに動く。

「理解しなくていい」

 まず、携帯していた水で傷口の泥を流す。

 濡らした布で血を拭い、傷の深さを確認する。それから薬草を潰し、薄く塗った。

 黒い毛玉は最初だけ大きく身を震わせた。

 傷ついた足を引こうとする。

 ジルが関節の上を静かに支えると、それ以上は暴れなかった。

 薬草の匂いを確かめるように、鼻先を何度も動かしている。

 濡れた目は、ジルの指先から離れない。

「見るなと言った」

「きゅう」

「……返事だけはいいな」

 自分の袖口から細く布を裂く。

 傷の縁を圧迫しないように巻き、きつすぎず、緩すぎない位置で結んだ。

 黒い毛玉は、結び終わるまで動かなかった。

 声だけは冷たくできる。

 指先まで雑にはできなかった。

 ジルは小さな身体を持ち上げる。

 両手が塞がるほどの重さではない。

 濡れた毛がしぼみ、実際よりずっと小さく見える。持ち上げられた瞬間だけ身体を固くしたが、やがて力を抜いた。

 傷ついた足だけが、頼りなく垂れている。

 首輪の黒銀札が、ジルの手首へ小さく触れた。

「飼い主がいるなら、自分で帰れ」

「きゅ……」

「俺を見るな」

 少し先の軒下へ運ぶ。

 雨が当たらず、魔獣からも見えにくい場所。壊した捕獲具は踏み潰し、留め具を排水溝へ落とした。

 黒い毛玉を布の上へ置く。

 傷ついた足を庇いながら、太い尾を身体へ寄せた。

「ここなら、すぐには死なない」

 長い耳がジルの声へ向く。

「礼はいらない」

 ジルは背を向けた。

 三歩。

 五歩。

 七歩。

 背後で、小さな足音がした。

 濡れた石畳を、ぺた、かり、と不揃いに踏む音。

 片方は柔らかな足裏。

 もう片方は、痛む足を浮かせた拍子に爪先だけが石へ触れている。

 ジルは足を止めた。

 聞かなかったことにはできなかった。

 振り返る。

 黒い毛玉が、ぎこちなくこちらへ歩いてくる。

 巻いた布が少しずれていた。傷ついた足を庇いながら、それでもついてくる。

「……来るな」

「きゅう」

「来るなと言っている」

 黒い毛玉は一度止まった。

 ジルが歩き出すと、また不揃いな爪音が続く。

「話を聞いていないだろ」

 靴先まで来ると、その場へ座った。

 そして、濡れた頭を革靴へ押しつける。

 耳は伏せたまま。

 浅い呼吸が、革越しに伝わった。

 ジルは無言で見下ろす。

 雨が外套の肩を濡らしていく。

「俺は飼わない」

「きゅう」

「返事をするな」

 路地の向こうから、複数の足音が近づいてきた。

「こっちだ。鳴き声がした」

「罠は?」

「外れてる。誰かが触ったんだ」

 ジルの目が冷える。

 黒い毛玉の身体が跳ねた。

 耳が頭へ張りつき、太い尾が石畳へ低く縮む。逃げようにも、傷ついた足へ力が入らない。


 ジルは一瞬だけ考え、外套の前を開いた。

「入れ」

「きゅ?」

「早くしろ」

 黒い毛玉は、迷うように見上げてくる。

「死にたいなら、そこにいろ」

 声の温度を感じ取ったのか、小さな身体が外套の内側へ潜り込んだ。

 濡れた毛が腹へ触れる。

 冷えた震えが布越しに伝わってきた。

 雨。

 泥。

 薬草。

 小さな獣の体温。

 狭い外套の内側へ、いくつもの匂いがこもる。

 黒い鼻先が、ジルの服へ一度触れた。

 薬包を入れていた場所を確かめるように。

 片手で外套を押さえなければならない。

 使える刃がひとつ減った。

 それでもジルは外套を閉じ、何食わぬ顔で歩き出す。

 曲がり角から男が三人現れた。

 粗い革の外套。

 腰の短剣。

 獣を捕るための道具。

 先頭の男が、ジルを見て足を止める。

「おい、そこのエルフ」

 ジルは面倒そうに視線だけを向けた。

「何だ」

「黒い獣を見なかったか。小さいやつだ」

「見ていない」

「本当か?」

「雨の中で獣を探す趣味はない」

 男の目が、ジルの外套へ落ちる。

 濡れた布の前が、不自然に重くなっている。

 気づいたらしい。

 薄い笑みを浮かべ、一歩近づいた。

「その外套の中、見せてもらおうか」

「断る」

「こっちは仕事なんだよ。その獣は値がつく。逃がしたら困る」

「なら、自分の腕の悪さを呪え」

 男の顔が歪む。

「いいから見せろ」

 手が伸びてきた。

 ジルは避けない。

 伸びた手首を掴む。

 ただ、それだけ。

 男の顔色が変わった。

「っ、あ……!」

 骨は折っていない。

 まだ。

 関節の向きと、力の逃げ場を潰している。少し力を加えれば折れることは、掴まれた本人にも分かったらしい。

 ジルは静かに言った。

「雨の日に他人の服を覗くのが、この街の礼儀か?」

「てめえ……」

「答えろ」

 指へ力を加える。

 男の膝が石畳へ落ちた。

 残る二人が武器へ手をかける。

 ジルは男の手首を離さず、視線だけを向けた。

 左の男は踏み込みが浅い。

 右の男は、短剣を抜く前に肩が上がる。

 どちらも殺す必要はない。

 掴んだ男を前へ押し出す。

 左の男の間合いが崩れた。

 右の男が短剣を抜きかける。

 ジルの靴先が水溜まりを跳ねた。

 泥水が男の目へ入る。

 怯んだ一拍で距離を詰め、鳩尾へ肘を入れる。

 息が潰れた。

 短剣が石畳へ落ち、浅い水を跳ねさせる。

 最後の一人は、ジルの目を見て動きを止めた。

 ジルは外套の内側を片手で押さえたまま問う。

「まだ探すか?」

 誰も答えない。

「なら消えろ」

 男たちは倒れた仲間を引きずり、罵声を残しながら雨の向こうへ下がっていった。

 足音が消えるまで、ジルは動かなかった。

 外套の中でも、黒い毛玉は鳴かない。

 小さな前足だけが、ジルの服を掴んでいる。

 震えは続いていた。

 だが、暴れる気配はない。

 ようやく、かすかな息が漏れた。

「きゅ……」

「鳴くな。見つかる」

 黒い鼻先が、服へ押しつけられる。

「返事もするな」

 外套の内側で、身体がさらに小さく丸まった。

 震えは、先ほどより少しだけ弱くなっている。

 ジルは雨の向こうへ目を向けた。

「……本当に面倒なものを拾ったな」

     *

 ジルの仮住まいは、裏通りの外れにある安宿だった。

 寝台と椅子。

 簡素な机。

 水差し。

 暖炉代わりの小さな魔石炉。

 壁は薄く、隣室の咳が聞こえる。だが、窓から路地へ降りられる。扉の蝶番も古く、細工をすれば侵入者の有無を確かめられた。

 逃げるには悪くない。

 部屋へ入ると、まず扉へ簡易の仕掛けを施す。

 次に窓と雨戸を確認し、通りを見下ろした。

 追手はいない。

 そこでようやく、外套の内側から黒い毛玉を出す。

 濡れた身体は、ジルの両手の中で小さく震えていた。

 傷ついた足は身体へ引き寄せきれず、薬布を巻いたまま頼りなく浮いている。

「そこまで震えるなら、ついてくるな」

「きゅ……」

「分かったなら動くな」

 古い布を取り出し、身体を包む。

 水を拭おうとして、傷のある足へ触れかけた。

 小さな身体が強張る。

 ジルの手が止まった。

 少しだけ力を緩める。

 傷の周囲を避け、水を吸った毛を押さえるように拭いていく。

 布の隙間から、黒い目がじっと見上げていた。

「見るな」

 鼻先が、布の外へ少し出る。

「……本当に聞かないな」

 魔石炉へ火を入れた。

 石の内側で魔石が低く鳴り、部屋へ淡い熱が広がる。

 炉の近くへ置くと、黒い毛玉は最初こそ身を縮めていた。耳は伏せられ、尾も身体の下へ巻き込まれている。

 熱が濡れた毛へ染み込むにつれ、強張った背が少しずつ緩んだ。

 伏せていた耳がわずかに持ち上がる。

 身体の下に隠れていた尾も、布の上へ重く落ちた。

 濡れて細くなっていた毛並みが、ゆっくりとふくらみを取り戻していく。

 ジルは外套を脱ぎ、防水革に包んだ紙束を確認する。

 濡れてはいない。

 それを確かめてから、ようやく息をついた。

 視線を感じる。

 黒い毛玉が、魔石炉の前からこちらを見ていた。

「何だ」

 長い耳が声へ向く。

「飯はない」

 言ってから、鞄の中を探った。

 乾燥肉が少しだけある。

 保存食。

 今のジルには、余分な食料ではなかった。

 肉と黒い毛玉を見比べる。

「……少しだけだ」

「きゅう」

「喜ぶな。高い薬に続いて食料まで消える。お前、かなり高くついているぞ」

 黒い毛玉は意味を理解していない顔で、乾燥肉を受け取った。

 傷ついた前足を使わず、片方だけで肉を布へ押さえようとする。うまく固定できず、何度か転がした。

 それでも必死に追いかけ、端からかじっていく。

 ジルは椅子の背へ身体を預けた。

 白い王都から逃げた。

 髪を切り、外見を変え、紙束を抱え、黒い王都の裏を歩いている。

 誰も信用しない。

 誰にも踏み込ませない。

 そのために来たはずだった。

 それなのに、雨の中で罠へかかった獣を拾い、自分の薬と食料を使っている。

 馬鹿げている。

「明日には出ていけ」

 黒い毛玉が、肉をかじる動きを止めた。

 耳だけがジルへ向く。

「ここはお前の寝床じゃない」

「きゅ」

「不満そうにするな」

 乾燥肉を食べ終えると、黒い毛玉は布の中で丸くなった。

 傷ついた足を腹の下へ入れないよう、少し歪な姿勢。

 太い尾を鼻先へ寄せる。

 やがて、小さな寝息が聞こえ始めた。

 魔石炉の内側で魔石が弾ける音。

 窓の外を濡らす雨。

 その間に混じる、細い呼吸。

 ジルはしばらく耳を傾けていた。

 白い王都では、こんな音へ意識を預けたことはない。

 預けたところで、翌朝には命令が来た。

 あるいは、穏やかな声で名前を呼ばれる。

 その声を聞き逃さないように眠る癖は、まだ抜けていなかった。

 ジルは目を伏せる。

「……面倒だ」

 黒い毛玉は眠っている。

 伏せていた耳だけが、ジルの声へ一度動いた。

 それでも、目は開かなかった。

 雨。

 薬草。

 乾いた布。

 濡れた外套。

 魔石炉の熱。

 眠りながら、黒い鼻先が薬草の残る布へわずかに寄る。

 ジルはそれを見て、また目を逸らした。

     *

 翌朝、黒い毛玉はいなくなっていた。

 窓が、少しだけ開いている。

 ジルは寝台の端へ腰掛けたまま、その隙間を見た。

 仕掛けは壊されていない。

 器用に抜け出したらしい。

 足の怪我で、よくやる。

 窓枠には、乾ききっていない足跡が残っていた。傷ついた側だけが薄い。

 机の上へ目を向ける。

 残していた乾燥肉が、ひとつ消えている。

「……」

 ジルはしばらく無言だった。

 やがて、低く呟く。

「泥棒め」

 追いはしなかった。

 追う理由がない。

 飼う気もない。

 助けたのは、ただの気まぐれだ。

 雨の夜に妙な鳴き声を聞いただけ。

 自分とは関係のない獣が、勝手についてきて、勝手に眠り、勝手に食料を盗んで消えた。

 それで終わり。

 そう思うことにした。

 窓の外には、雨上がりのノクティルムが広がっている。

 濡れた石畳へ朝の淡い光が滲み、裏通りの酒と煙の匂いを少しだけ薄めていた。

 ジルは窓を閉める。

 使った器を洗い、余った薬草を包み直す。

 黒い毛が、布へ一本だけ残っていた。

 指で摘まみ、捨てようとする。

 少しだけ止まった。

 結局、机の端へ置いたまま外套を羽織る。

 そして、黒い毛玉のことを忘れた。

 忘れたつもりだった。

     *

 同じ朝。

 黒い毛玉は、黒燈ギルド本部にあるルシの部屋の窓を、残った力で引っ掻いていた。

 かり。

 かり、かり。

 弱い爪音。

 浅い眠りの中にいたルシは、二度目の音で目を開けた。

「……クロ?」

 窓を開ける。

 濡れた黒い身体が、窓枠から部屋の中へ転がり込んだ。

「おい」

 ルシの声から、眠気が消えた。

 黒い毛並みは泥で汚れ、前足には細い薬布。首輪の革は擦れ、黒銀の登録札にも新しい傷がついている。

 クロは一歩だけ進み、傷ついた足を浮かせた。

「きゅ……」

「何してきたんだよ、お前」

 抱き上げようとすると、クロの身体が小さく強張る。

 ルシはすぐに手を止めた。

「悪い。足だな」

 片手を腹の下へ入れ、傷へ触れないよう持ち上げる。

 濡れた毛から、知らない匂いがした。

 雨と泥。

 それから、薬草。

 黒燈の医務室で使うものとは違う。

 苦みの強い青葉と、乾燥させた根の匂い。旅人が携帯する止血薬に近いが、配合は少し違う。

 薬布も黒燈のものではなかった。

 細く裂いた布。

 結び目は小さく、きつすぎない。だが、傷ついた足が動いても外れにくい位置へ巻かれている。

「誰かに手当てされたのか?」

「きゅう」

「誰に」

「きゅ」

「返事だけはいいな」

 ルシはクロを寝台へ下ろし、薬布をすぐには外さず傷の周囲を確認した。

 捕獲具らしい擦過傷。

 泥は落とされ、薬も塗られている。

 処置は早い。

 少なくとも、傷つけた相手が気まぐれで布を巻いたわけではなさそうだった。

「お前、自分から知らない奴についていったんじゃないだろうな」

「きゅう」

「その鳴き方、否定に聞こえない」

 クロの鼻先が、ルシの袖へ触れる。

 それから、部屋の中を確かめるように一度上がった。

 探している匂いがないと分かったのか、耳が少しだけ伏せられる。

 ルシはその動きを見逃さなかった。

「……気に入ったのか?」

「きゅ」

「早いな」

 軽く言った声は、少しだけ低かった。

 ルシはクロの首輪を直し、泥のついた黒銀札を布で拭う。灯火紋の縁に新しい擦り傷があった。

 ただし、札の表はなぞらない。

 それは伝令を頼む時の合図だ。

 今のクロに走らせる気はなかった。

「まず寝ろ。起きたら医務室だ」

「きゅ……」

「嫌でも行く。走るのはしばらく禁止」

 クロの耳が目に見えて下がった。

「そんな顔しても駄目」

「きゅう……」

「怪我して帰ってきた奴に決定権はない」

 言いながら、乾いた布を掛ける。

 クロは布の中で丸くなろうとした。

 その前に一度だけ、鼻先を前足の薬布へ寄せる。

 薬草の匂いを確かめるように。

 それから、ルシの手の下で目を閉じた。

 眠りへ落ちる直前、喉の奥で小さく鳴く。

「きゅう」

 それが誰へ向けられた声なのか、ルシには分からなかった。

     *

 クロが戻ってから、数日が過ぎた。

 戻ったばかりの頃は、歩くたびに傷ついた前足を庇っていた。

 窓へ近づこうとするたび、ルシに首根っこを掴まれ、寝台へ戻される。伝令にも出さず、しばらくは室内で過ごさせた。

 やがて傷は塞がり始め、薬布も外れた。

 短い距離なら走れるまでに戻ったものの、完全に治ったわけではない。高い場所から降りる時や、雨の匂いが濃くなる夜には、傷ついた前足をほんの一瞬だけ浮かせる。

 強く着地した後も、動きがわずかに止まった。

 ルシは、その小さな変化を見逃さなかった。

 ただクロの回復を待っていたわけでもない。

 治療に使われた薬草。

 薬布の繊維と、細い結び目。

 クロが戻ってきた方角。

 西区から月燈館周辺へ続く裏路地。

 拾えるものを、ひとつずつ拾っていった。

 薬草自体は珍しいものではない。

 旅人や傭兵、裏稼業の者が携帯していることもある。布の繊維や結び方だけで、治療者を特定することもできなかった。

 それでも、確かなことはある。

 誰かが雨の中で傷ついたクロを拾った。

 自分の薬を使い、傷を洗い、きつすぎない薬布を巻いた。そして、治療した後も閉じ込めず、クロが自分の意思で帰れるようにした。

 その誰かを、クロは嫌っていない。

 むしろ、あの夜の匂いを探しているように見えた。

     *

 同じ頃、ジルは月燈館で働いていた。

 客へ酒を運び、空いたグラスを下げ、店の動線を覚えていく。

 表口。

 裏口。

 厨房から続く細い廊下。

 二階の非常窓。

 客が荒れた時、店の者を逃がせる経路。

 働き始めたばかりの男としては、少し覚えすぎている。

 だが、店の者は深く聞かなかった。

 ジルも、雨の夜の黒い毛玉を探さなかった。

 雨樋が鳴れば、一度だけ視線を上げる。

 黒い毛が残っていた机の端へ目を向ける。

 それだけだった。

 クロの前足から薬布が外れる頃には、ジルより遅れて、白い噂もノクティルムへ入り始めていた。

     *

 ノクティルムの夜は、黒い。

 だが、ただ暗いだけではない。

 濡れた石畳には魔石灯の赤紫が滲み、裏通りの酒場からは低い笑い声と酒の匂いがこぼれている。

 煙草。

 香草肉。

 雨上がりの土。

 古い紙。

 秘密を抱えた者たちが、その匂いへ紛れて歩いていた。

 ルシは、そういう夜が嫌いではない。

 黒い王都の夜は、隠すものを隠す。

 だが、完全には消さない。

 足音。

 視線。

 噂の端。

 拾う気があれば、闇の底にはいくらでも手掛かりが落ちている。

「きゅう」

 肩の上で、クロが鳴いた。

 長い耳と太い尾を持つ、小さな黒い幻獣。

 豊かな毛並みは乾き、雨の夜に戻ってきた時より一回り大きく見える。クロはルシの肩へ器用に身体を収め、尾を背へ沿わせていた。

 前足に薬布はない。

 それでも、雨の匂いが強くなると、その足を一度浮かせる。

「痛むか?」

「きゅ」

「問題ない、って返事には聞こえないな」

「きゅう」

「返事だけはいい」

 ルシは肩越しに、黒い頭を指先で軽く撫でた。

「次は勝手に消えるなよ。怪我する前にオレを呼べ」

 クロはそれ以上、何も教えない。

 人語を話さない相棒は、肝心なところでいつも黙っている。

 いや、普段から黙ってはいるのだが。

 ルシは苦笑した。

 今夜追っているのは、白い噂だった。

 白い王都から流れてきた荷。

 封緘具ふうかんぐ。…文書・箱・契約書などを封じ、勝手に開けられないようにする道具。

 記録札。…荷、部屋、人物、証拠品などを管理するための小さな札。

 香木。…焚くと静かな香りを出す木片。

 剥がされた白い封蝋。

 そして、銀髪のエルフを捜しているという、妙に整った噂。

 最初に拾ったのは、西区の古紙屋だった。

 店主は、ルシの顔を見るなり嫌そうに眉を寄せた。金を置くと、さらに嫌そうな顔をしながら、奥の引き出しから白い封蝋の欠片を出した。

 羽を広げた梟。

 美しく、冷たく、整いすぎた紋。

 《白梟はくきょうギルド》。

 エルフ王都アルシェリアの裏で名を知られる、白いアサシンギルド。

 かつては、法の届かない悪を裁く白き梟と呼ばれた組織。

 だが、ノクティルムへ流れてきた噂は、そんなに綺麗なものではない。

 白梟は、一人のエルフを捜している。

 長い銀髪。

 冷たい目。

 名前は、ジル。

 元は白梟の実働員。

 かなり腕が立つ。

 ある時から白い王都を離れ、機密文書か、それに近いものを持って逃げたらしい。

 写し。

 索引。

 暗号片。

 あるいは原本。

 そこまではまだ見えない。

 白梟はくきょう側が、その男を《回収対象》と呼んでいることだけは分かった。

「回収ねえ」

 ルシの声から、わずかに軽さが消える。

 生きた相手へ使う言葉ではない。

 人間でも、エルフでも、魔族でも。

 裏稼業の人間であっても同じだ。

 肩の上で、クロの耳が伏せられた。

「きゅう……」

「お前も嫌いか、その言い方」

「きゅ」

「だよな」

 ルシは懐から似顔絵を取り出した。

 紙の中の男は、こちらを見ていない。

 長い銀髪の横顔。

 細い輪郭。

 冷えた目元。

 粗い絵ではあるが、特徴は掴んでいる。

 逃げているだけの男には見えなかった。

 追われている。

 それでも、まだ何かを諦めていない顔。

 そう見える理由までは、粗い線から読み取れない。

 だからこそ、気にかかった。

 似顔絵と同じ頃から、別の噂も入っている。

 月燈館へ、銀髪のエルフが新しく入った。

 髪は似顔絵より短い。

 肩を少し越す程度。

 無愛想で、客へ笑っても目までは笑わない。

 名乗っている名前は、ジル。

 同じ名前だけなら偶然で済む。

 銀髪だけでも、まだ足りない。

 白梟はくきょうの噂がノクティルムへ届いた時期と、新入りが月燈館へ入った時期も、完全には一致していない。

 だからこそ、本人より噂が遅れてきた可能性があった。

 厄介な相手だと、勘が告げている。

 カインがこの件に気づけば、危険だと判断して先に動くだろう。

 兄はそういう男だ。

 弟を遠ざけ、自分の方が危険な場所へ踏み込む。

 だから、その前に拾えるものは拾っておく。

 情報屋として。

 弟として。

 その両方で。

 ルシは路地の角を曲がった。

 細い雨が、また降り始めていた。

 魔石灯の赤紫が濡れた石畳に伸び、足元で揺れている。

 その先に、赤みを帯びた灯りの建物が見えた。

 《月燈館げっとうかん》。

 男性専門の会員制社交館。

 上品な会話と酒を売る場所であり、同時に、それより深い夜を求める男も集まる。

 秘密を抱えた者が身を潜めるには、悪くない。

 月燈館へ近づくにつれ、クロが落ち着かなくなっていった。

 肩の上で身を乗り出す。

 鼻先を上げる。

 長い耳が、店の方角へ真っ直ぐ向いた。

「お前、ここに何かあるって顔してるな」

「きゅう」

「治してくれた奴か?」

 クロは答えない。

 ただ、鼻先を何度も動かしている。

 戻ってきた朝、クロの毛には、苦い薬草と濡れた外套の匂いが残っていた。

 治療者の顔までは分からない。だが、あの夜に覚えた何かが、扉へ近づくほど濃くなっているらしい。

「勝手に相手へ懐くなよ」

「きゅ?」

「その顔は、やる顔だな」

 クロは答える代わりに、ふわふわの尾を揺らした。

 ルシは似顔絵を懐へ戻す。

 白い封蝋。

 白梟はくきょうギルド。

 長い銀髪のエルフ。

 月燈館へ入った、髪の短い同名の男。

 クロの前足へ巻かれていた細い薬布。

 知らない薬草の匂い。

 まだ、ひとつの線だと断定するには早い。

 だが、点は揃い始めていた。

 ルシは月燈館の扉を見上げる。

 赤い灯りが、雨の中へ滲んでいる。

 いつもの軽い笑みを作った。

「さて」

 黒い王都の夜の奥で、白い噂が羽音を立てている。

「嘘つきの顔でも見に行きますか」


 クロが、小さく鳴いた。

 先ほどより、わずかに高い声。

「きゅう」

 閉ざされた扉の向こうに、似顔絵の男がいるのか。

 クロを救った治療者がいるのか。

 ルシには、まだ分からない。

 分かるのは、クロが名ではなく、何かの匂いを追っていることだけだ。

 雨の夜。痛みと冷たさの向こうで触れたものが、すぐ近くにあるらしい。
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