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第1部 魔族王都編
第3話 黒燈の情報屋
ルシが《黒燈ギルド》へ戻った時、すでに夜は深かった。
ノクティルムの裏通り、そのさらに奥。
表向きは、とうに廃業した古物商である。傾いた看板。埃を被った壺。脚の欠けた椅子や、買い手のつきそうにない古い燭台。夜になれば窓は暗く、通りを歩く者がわざわざ足を止める理由もない。
その店の奥に、地下へ続く石段が隠されている。
一段降りるたび、表の王都の音が遠ざかった。
酒場の笑い声。
荷車の車輪。
雨樋を叩く雫。
代わりに聞こえてくるのは、乾いた紙をめくる音と、革手袋を外す音。通信符が低く震え、手入れを終えた刃が鞘へ戻る。
魔石灯は低い。
石壁へ落ちる影は濃い。
暗いが、冷えてはいなかった。
食堂の方角からは、遅い時間まで残された煮込みと香草茶の匂いが流れてくる。任務帰りの男が湯気の立つ器を受け取り、別の者が包帯を巻いた腕を庇いながら医務室へ向かっていた。
闇を扱う者たちの場所。
同時に、闇から戻ってきた者を迎える場所でもある。
ルシは最後の段を降りた。
肩の上で、クロの首輪札が小さく鳴る。
黒銀が金具へ触れた、細い音。
「ただいまー」
いつもの軽い声を投げる。
奥の作戦卓にいた男が、ゆっくりと顔を上げた。
カインだった。
青みを帯びた長い黒髪を後ろでひとつに束ね、左目を黒い眼帯で覆っている。黒衣の上からでも分かる引き締まった体格。残された右目は鋭く、ルシが扉をくぐった瞬間から、すでに全身を見ていた。
顔。
首。
肩。
袖口。
足運び。
傷や血の有無を、本人へ尋ねるより先に確かめる兄の目。
その左側には、ゼルが座っている。
深い黒髪には、魔石灯を受けて紫の艶が浮かんでいた。右手には細身の銀筆。広げた報告書へ印を入れていたらしく、筆先が紙の上で止まっている。
ゼルが先に口を開いた。
「おかえり、ルシ。クロも一緒だね」
「きゅう」
クロが答える。
「ただいま、ゼルさん。兄貴も、そんな怖い顔しないでよ」
「遅い」
「第一声がそれ?」
「遅い」
「二回言わなくていいだろ」
カインの視線が、ルシの肩へ移る。
「クロは」
「見ての通り元気」
「きゅう」
「前足は」
「強く着地した時だけ、まだ少し浮かせる。走らせてないし、無茶もさせてない」
カインの目が細くなる。
「月燈館まで歩かせたのか」
「途中は肩に乗せてたって」
「途中は?」
「兄貴、細かい」
「答えろ」
「ほとんど肩です」
ルシが素直に言い直すと、ゼルが小さく笑った。
「カイン、帰ってきたばかりだよ。報告を聞いてからでも遅くない」
「報告の前に、怪我の有無を確認する」
「弟の?」
「両方だ」
「はいはい。オレもクロも無傷」
ルシは両手を軽く広げた。
その拍子にクロの身体が揺れ、長い耳が不満そうに伏せられる。
「きゅ」
「悪い悪い」
ルシが黒い背を撫でる。
カインはまだ何か言いたげだったが、別の足音が近づいてきたことで口を閉ざした。
低い。
一歩ごとに石床へ重みが落ちる。
奥の通路から現れたのは、ダリウスだった。
黒燈ギルド長。
大柄な魔族の男で、短く太い角には古傷のような筋が入っている。豪奢な装飾はない。黒い外套にも、目立つ紋章はついていなかった。
それでも、彼が入ってくるだけで、作戦卓の周囲にあった小さな音がひとつずつ静まった。
声を荒らげる必要がない男だった。
「戻ったか」
「見れば分かるだろ、ギルド長」
「報告しろ」
「おかえりくらい言ってくれてもよくない?」
「報告が終われば言う」
「順番が厳しい」
「ルシ」
カインの声が低くなる。
「はいはい。仕事します」
ルシはクロを肩から下ろした。
クロは作戦卓の端へ前足を掛けようとして、傷めた方の足を一瞬だけ浮かせる。
ゼルがすぐに気づき、隣の椅子へ柔らかな布を敷いた。
「ここへおいで」
「きゅう」
クロは素直に椅子へ飛び乗った。
着地の直後、わずかに動きを止める。
ゼルは足へ触れず、その様子だけを確かめた。
「まだ完全には戻っていないね」
「本人は走れるつもりだけどな」
「きゅ」
「返事だけはいい」
ルシはクロの頭を一度撫で、懐から紙を取り出した。
白梟が流した似顔絵の写し。
長い銀髪のエルフが、横顔をこちらへ向けている。
それを黒い木の卓へ置く。
紙の白さが、周囲から浮いた。
「月燈館のジルに会ってきた」
カインが紙へ目を落とす。
「同一人物か」
「かなり近い」
「曖昧だな」
「本人だと決めるには、まだ足りない」
カインの指先が、似顔絵の端を押さえる。
「反応は」
「似顔絵を見た瞬間、呼吸が一拍だけ遅れた」
「顔には?」
「出してない。かなり訓練されてる」
ゼルが銀筆を紙の横へ置く。
金属が木へ触れる、ごく小さな音。
「呼吸だけで本人と決めるのは危険だね」
「もちろん」
ルシは似顔絵の隣へ、白い封蝋の欠片を置いた。
羽を広げた梟の紋。
「白梟の名を出したら、知ってた。反応が早すぎる」
「エルフなら知っていても不自然ではない」
ゼルの声は穏やかだ。
「うん。だから、それも単独じゃ証拠にならない」
「なら、他は」
ダリウスが促す。
ルシは椅子の背へ片手を置いた。
普段なら軽口を挟むところだが、今は拾ってきたものを順に並べる。
「知らないとは言わなかった」
カインの目が細くなる。
「何と言った」
「似た奴なら昔見たことがある。噂程度に知っている。名前は知らない」
「否定を避けたのか」
「そう。こっちへ嘘だと分からせたうえで、認める線だけは越えなかった」
ゼルが静かに考える。
「こちらが何を知っているか、逆に測られた可能性があるね」
「オレもそう見た」
「武器は」
カインが問う。
「袖口に薄刃。腰に短剣。たぶん靴にも一本。部屋へ入った時点で、扉、窓、オレの利き手まで見てた」
「殺気は」
「一度だけ」
カインの右目が鋭くなる。
「いつだ」
「似顔絵を出した時」
「なぜ先に言わない」
「今言ってるだろ」
「ルシ」
「大丈夫だって。ほんの一瞬。逃げるか、オレを止めるか、計算した程度だと思う」
「それを大丈夫とは言わん」
「兄貴なら、もっと露骨に殺気出すじゃん」
「比べるな」
「はい」
ゼルがルシへ視線を向ける。
「それで、ジルは刃を抜いた?」
「抜いてない。外套の内側へ手も入れなかった」
「なぜだと思う」
ルシは椅子の上のクロを見る。
クロは話の流れに構わず、前足を布の上へ揃えていた。長い耳だけが、ルシの声へ向いている。
「クロを抱いてたから」
沈黙が落ちた。
通信符の低い震えが、遠くで一度鳴る。
カインが聞き返した。
「抱いていた?」
「クロが足元から離れなくてさ。前足を少し庇ったら、ジルが先に抱き上げた」
「片腕を塞いだのか」
「ああ。オレが目の前にいるのに」
カインの視線がクロへ移る。
クロは顔を上げ、短く鳴いた。
「きゅう」
「お前から乗ったのか」
「きゅ」
「都合の悪い時だけ短いな」
ルシが笑う。
だが、カインの表情はまだ硬い。
「クロが懐いたことだけで判断するな」
「分かってる」
「クロは人の罪も、任務も、過去も見抜かない」
「それも分かってるって」
ルシの声から、少しだけ軽さが薄れる。
「でも、嫌な相手に腹を見せる奴でもない」
ゼルが静かに頷いた。
「判断材料のひとつにはなる。ただし、それ以上ではない」
「そういうこと」
ダリウスは似顔絵と封蝋を見下ろしている。
「治療痕は」
「月燈館のジルが巻いたと、まだ断定はできない」
ルシは即答した。
「ただ、クロがあいつへ近づいた時の反応は、匂いを見つけた時に近かった。ジルも前足の傷を確認してた。傷があったことを知ってる目だった」
「見ただけかもしれない」
「初対面の獣を見るには、確認が細かすぎた。足の置き方、腫れ、歩幅まで見てた」
ルシはクロの前足へ視線を落とす。
「それに、抱き方が慣れてた。傷めた足へ触れない位置へ、考える前に手を入れてる」
ゼルの銀筆が、報告札へ短い線を引く。
「治療者と同一人物である可能性は高い。けれど、確定ではない」
「はい、ゼルさん。報告書にもそう書いといて」
「君が書くんだよ」
「え」
「見てきたのは君だろう」
「口頭報告でよくない?」
「記録に残す」
「黒燈、こういうところだけ真面目だよなあ」
ダリウスがルシを見る。
「こういうところも、だ」
「はいはい」
「返事は一度でいい」
「兄貴が二人いる」
「増やすな」
カインの声が低く落ちる。
ゼルの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
短い軽口が消えると、作戦卓の上には再び白い似顔絵だけが残った。
ダリウスが問う。
「お前の判断は」
ルシはすぐには答えなかった。
月燈館の個室を思い出す。
赤い硝子灯。
クロを抱いたまま、退路を測っていたジル。
似顔絵を見ても顔色を変えず、白梟の名だけを冷たく返した男。
そして、こちらへ向けた警告。
「危険だよ」
ルシは言った。
「たぶん、オレたちの誰より先に逃げ道を見つける。追えば追うほど消える。無理に捕まえようとすれば、こっちも無傷じゃ済まない」
カインが短く答える。
「なら先に拘束する」
「それは悪手」
「理由は」
「白梟が生きた相手を《回収対象》って呼んで追ってる。その相手を黒燈まで捕まえたら、あいつから見れば同じだろ」
「敵でない保証はない」
「ない」
ルシは否定しなかった。
「でも、敵だと決める材料もない」
「白梟の機密を持ち出した可能性がある」
「白梟の機密を持ってることと、ノクティルムの敵であることは別だろ」
カインの目がさらに細くなる。
ルシはその視線を受けたまま続けた。
「それに、ジルはオレへ忠告した。あのエルフを探すな。首を突っ込めば、兄貴もオレも死ぬって」
「脅しでは」
「声が違った」
ルシの返答は早かった。
「脅すなら、オレがどう動くかを見る言い方をする。あれは、本気で近づくなって言ってた」
「随分、信じるんだな」
カインの声が低くなる。
「信じてない」
「ならなぜ庇う」
「庇ってない。情報を分けてるだけ」
ルシは、似顔絵、封蝋、クロの前足を順に指した。
「似顔絵への反応。白梟を知る速さ。訓練された動き。クロの懐き方。治療者と同じ手つき。オレへの警告」
指を一本ずつ折る。
「全部合わせれば、本人の可能性は高い。でも、白梟から逃げた理由も、持ってるものの中身も、この街で何をする気かも分からない」
そこで指を止めた。
「分からない相手を、怖いからって捕まえるのは情報判断じゃない」
カインは答えなかった。
ルシの言葉の中に仕事だけではない何かが混じっていると、気づいている目だった。
それでも今は、問い詰めない。
代わりにゼルが静かに口を開く。
「ジルが白梟から逃げているなら、私たちを同じ裏の組織として見るだろうね」
「間違いなく」
「こちらが何をする組織か、試す可能性がある」
「もう試されてるかもな」
ルシは肩をすくめる。
「オレが似顔絵を出した時、店の外に仲間がいるか確かめてた。たぶん、今頃は黒燈について拾える噂を洗ってる」
「なら、偽の情報を流す」
カインが言う。
「駄目」
ルシは即座に返した。
「なぜだ」
「あいつは、情報の綺麗さを疑うタイプだ。作った噂は逆効果になる」
「ではどうする」
「何もしない」
カインの眉間に皺が寄る。
「説明しろ」
「黒燈が今までどう動いてきたか。貴族の私兵にならなかったこと。金だけで依頼を選ばなかったこと。保護した証人を勝手に消さなかったこと。すでに街に残ってる事実を拾わせる」
ゼルが銀筆を置く。
「こちらから信用を演出せず、彼自身に確かめさせる?」
「そう」
「時間がかかる」
「でも、逃げられるよりいい」
ルシはクロへ手を伸ばした。
黒い頭を撫でる。
「こいつだって、最初からジルを信用したわけじゃない。匂いと手つきを覚えて、戻っていった」
「きゅう」
「お前は早すぎるけどな」
「きゅ」
ダリウスが低く問う。
「次はどうする」
「すぐには行かない」
カインが一瞬だけ意外そうに見る。
ルシは気づいて、口の端を上げた。
「何、その顔。オレだって待てるって」
「待てない」
「兄貴の評価が低い」
「実績だ」
「つらい」
ルシは嘆くふりをしたが、すぐに報告へ戻る。
「まず、明日はジルの入都時期と、月燈館へ入った日を洗う。白梟の似顔絵が街へ入った時期とも比べる。薬草を扱った店も当たる」
「月燈館へ圧力はかけるな」
ダリウスが言う。
短い言葉だった。
だが、そこには迷いがない。
「店の者を餌にも、証人候補にもするな。ジルを捕らえるために、周囲を脅すことも認めん」
ルシの笑みが少しだけ消える。
「了解」
白梟なら、月燈館へ入った時点で関係者として記録するかもしれない。
働いていた者。
話した客。
部屋を貸した店。
逃亡者と接触したというだけで、同じ紙の上へ並べる。
黒燈は、そうしない。
ダリウスは続ける。
「似顔絵と封蝋は保全室へ回せ。別の者にも照合させる」
「ジルについては?」
「監視は置く」
ルシの目が細くなる。
「張りつかせるの?」
「出入口と白梟側の動きを見る。本人を追い回すな」
「それならいい」
「お前が判断することではない」
「でも今のは賛成」
「聞いていない」
「はいはい」
ダリウスの視線が冷える。
「返事は一度だ」
「はい」
クロがルシを真似るように鳴く。
「きゅ」
ゼルが笑みを隠すように、報告書へ目を落とした。
ダリウスは白い封蝋を黒い布の上へ移す。
指先で直接触れず、細い道具を使って向きを変えた。
「白梟は何を求めている」
「ジル本人と、機密文書らしきもの」
「文書の内容は」
「まだ不明。写し、索引、暗号片、原本。噂が混ざりすぎてる」
「なら、文書を持っていると決めるな」
ダリウスの声が作戦卓へ落ちる。
「白梟が持っていると思っているだけかもしれん」
カインが頷く。
「本人だとも、文書を持っているとも断定しない。だが、白梟がこの街へ手を伸ばしていることは確かだ」
「ああ」
ダリウスは短く答えた。
「見るべきはそこだ」
ルシは黒い卓の上の白い紙を見る。
白梟がジルを追っている。
それはジル個人の問題に見える。
だが、白梟がノクティルムの商会や貴族、裏稼業へ手を伸ばし始めれば、この街の問題になる。
「ギルド長」
「何だ」
「ジルが本人だったとして、向こうから話を聞きたいと言ってきたら?」
「聞く」
「捕らえずに?」
「敵なら止める」
ダリウスは答えた。
「話せるなら話させる。話せないなら、話せる条件を聞く」
ルシの指が止まる。
短い言葉だった。
だが、その線引きは明確だった。
秘密を持っているだけで罪にはしない。
話さないからといって、即座に敵とも決めない。
ただし、何も問わず受け入れるわけでもない。
黒燈は、相手の沈黙ごと保護する組織ではない。
選ばせる代わりに、責任も求める。
「本人が逃げたら」
カインが問う。
「追うな」
ダリウスは即答した。
ルシが目を上げる。
「いいの?」
「白梟へ人を返すためのギルドではない」
声の温度は変わらない。
「ただし、白梟が王都へ持ち込む刃は止める」
黒い魔石灯が、作戦卓の上で静かに揺れていた。
白い似顔絵。
割れた封蝋。
クロの前足に残る、消えきらない傷。
まだ一本には繋がらない断片。
黒燈は、それを無理にひとつの答えへまとめなかった。
カインが腕を組み直す。
「ルシ」
「何」
「次に会う時は、通信符を持て」
「持ってるよ」
「使える位置へ入れておけ」
「はい」
「単独で追うな」
「向こうから来るようにする」
「言葉を変えるな」
ルシは苦笑した。
「兄貴、本当に心配性だな」
「お前が危険へ寄る」
「仕事だから」
「仕事を理由に死ぬな」
低い声だった。
軽口で返すには、少し重い。
ルシは一拍だけ黙り、いつもより小さく答えた。
「分かってる」
カインはそれ以上言わなかった。
ゼルの右手が、卓の下でカインの左手甲へごく軽く触れる。
黒銀の所属証同士が、ち、と小さく鳴った。
補うための位置。
止めるためではなく、そこにいると知らせる音。
カインの肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
ルシは見ていたが、何も言わなかった。
茶化す場面ではない。
代わりにクロを抱き上げる。
「報告は以上」
「報告書を書け」
ゼルが紙を差し出す。
「まだ言う?」
「口頭報告と記録は別だよ」
「情報屋って、もっと格好いい仕事だと思ってた」
「紙から逃げる仕事ではない」
ダリウスの声が落ちる。
「はい」
ルシは渋々椅子へ座り直した。
クロを膝へ乗せ、報告書を引き寄せる。
筆を取ろうとすると、黒い前足が紙の端へ置かれた。
「クロ、邪魔」
「きゅう」
「ジルのところでは大人しくしてたのに」
クロの耳が勢いよく立つ。
カインの目が細くなった。
「ルシ」
「余計なこと言ってません」
「顔が言っている」
「兄貴まで顔読むのやめない?」
ゼルが静かに笑う。
ルシはクロの前足を紙から外し、報告書の最初の行へ筆を置いた。
月燈館。
銀髪のエルフ。
ジル。
白梟の似顔絵への反応。
クロの治療者である可能性。
危険性。
敵対性は未確定。
一つずつ、分けて書く。
自分が面白いと思ったこと。
追い詰めていい顔ではなかったと感じたこと。
そこは報告書には書かなかった。
まだ、事実ではない。
情報屋の勘を、黒燈の判断へ混ぜるつもりもない。
それでも、ルシの中には残った。
クロを抱いたまま、こちらへ嘘をついた男。
追われているくせに、情報屋へ逃げろと忠告した男。
白梟の噂より先に、雨の路地で傷ついた小さな獣を助けていた男。
ジルが何者であるかは、まだ分からない。
だが、白梟が呼ぶ《回収対象》だけではない。
それだけは、もう分かっていた。
*
報告を書き終えた頃には、地下の空気もさらに静かになっていた。
遅い食事を終えた者たちが個室へ戻り、通信符の音も減っている。
ルシは紙をゼルへ渡し、椅子から立ち上がった。
クロは膝の上で半分眠っている。
「部屋へ戻るぞ、相棒」
「きゅ……」
「今度こそオレのところで寝ろよ」
「きゅう」
「その返事、信用できないなあ」
肩へ乗せようとすると、クロは少しだけ身じろぎし、傷ついた前足を庇った。
ルシはすぐに持ち方を変える。
腹の下へ腕を入れ、前足へ重みをかけない。
「今日は歩かなくていい」
「きゅ」
カインが背後から言った。
「医務室へ寄れ」
「もう診てもらったって」
「もう一度だ」
「兄貴」
「寄れ」
「はい」
ゼルが銀筆を片づけながら、穏やかに付け加える。
「傷が悪くなっていないことを確認するだけだよ。終わったら、食堂にまだスープが残っている」
「オレの分?」
「クロの分は味をつけていないものがある」
「オレのは?」
「君は普通のものを食べればいい」
「扱いの差」
「日頃の行いだ」
カインが言う。
「それ、今日二回目」
「事実だ」
ルシは肩を落とすふりをした。
クロが腕の中で小さく鳴く。
「きゅう」
「お前だけ優しいな」
「きゅ」
「でも次にジル見つけても、勝手に走るなよ」
クロの耳がぴくりと動く。
「返事は?」
「きゅう」
「不安だなあ」
ルシは笑い、医務室へ続く通路へ歩き出した。
背後では、ゼルが似顔絵と封蝋を黒い保全布へ包んでいる。
白い紙が、黒い布の中へ隠れる。
消すためではない。
誰か一人の判断で答えを決めないために、残す。
明日は、ジルの入都時期と月燈館へ入った時期を調べる。
白梟の噂がノクティルムへ届いた時期と比べる。
すぐには会わない。
捕まえない。
逃げ道も塞がない。
そのうえで、もう一度だけ話す。
ルシは石の廊下を歩きながら、腕の中のクロを見下ろした。
「お前、本当にあいつが好きなんだな」
「きゅう」
「どこが?」
クロは答えない。
問いに答える代わりに、黒い鼻先をルシの外套へ埋めた。
ルシは小さく笑う。
「まあ、オレももう少し見てみるよ」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
クロへか。
黒い廊下の向こうにいる兄たちへか。
それとも、赤い灯りの個室に残してきた、嘘つきの銀髪へか。
黒燈本部の魔石灯が、足元へ淡い影を落とす。
白い噂は、すでにこの街へ入っている。
だが、黒い王都には黒い王都の目がある。
刃を抜く前に見る目。
噂を答えへ変える前に、いくつもの手で確かめる目。
ルシはその目のひとつとして、もう一度ジルを見るつもりだった。
捕らえるためではない。
まだ、信じるためでもない。
本人が何を選ぶ男なのか、見極めるために。
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