銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第4話 黒い灯りの外縁



 ルシが再び《月燈館》を訪れたのは、二日後の夜だった。

 赤い魔石灯の下、店はいつもと変わらない夜を装っている。

 低く流れる弦楽器の音。

 厚い布の向こうで交わされる笑い声。

 酒、香草煙、香油。扉が開くたび、雨上がりの石畳から湿った夜気が流れ込み、すぐに店内の匂いへ紛れていく。

 白い王都から届いた噂など、この店には関係がない。

 少なくとも、表向きは。

 ジルは空いたグラスを盆へ並べながら、入口の気配へ目を向けなかった。

 聞き覚えのある軽い足音。

 床板を細く鳴らす、小さな爪音。

 首輪の黒銀札が金具へ触れ、ちり、と鳴る。

 忘れるには特徴がありすぎる音だった。

「ジル」

 店の男が控室へ顔を出す。

「前にも来た情報屋が、また指名してる」

「断れ」

「今回は指名料を三倍出すって」

「出入り禁止にしろ」

「店としては歓迎したい客なんだけどな」

 男は肩をすくめた。

「それと、黒い毛玉も一緒」

 控室の外から、高い鳴き声が聞こえた。

「きゅう!」

 ジルの手が一瞬だけ止まる。

 磨き終えたグラスの縁を、布が静かに滑った。

「……うるさい客だな」

「客の方? 毛玉の方?」

「両方だ」

 グラスを棚へ戻す。

 ルシを追い返すだけなら難しくない。

 だが、二日前の夜、あの情報屋はジルの嘘を暴かなかった。

 白梟はくきょうの似顔絵を持っていた。

 クロの反応を見ていた。

 それでも人を呼ばず、刃も薬も使わず、情報だけを置いて帰った。

 その翌日、月燈館へ黒燈の者が踏み込んでくることもなかった。

 店の周囲に、露骨な監視が増えた様子もない。

 何もしていないとは思わない。

 ルシは情報屋だ。

 ジルが入都した時期も、ここで働き始めた日も、すでに調べているだろう。

 だが、月燈館の者を捕らえ、問い詰めた気配はなかった。

 そのこと自体が、新しい情報だった。

 ジルは袖口の薄刃を確かめる。

「同じ部屋か」

「そう言ってる」

「酒は出すな」

「前も飲まなかったからね」

「金だけ取れ」

「容赦ないな」

「情報屋だ。困らない」

 店の男は笑いながら先へ戻った。

 ジルは外套を整える。

 肩を少し越す銀髪を、首の後ろで緩く束ね直す。

 扉、窓、廊下。

 前回と同じ個室なら、退路も変わらない。

 違うのは、相手がこちらの動きを一度見ていること。

 そして自分も、ルシの距離の取り方を一度見ていることだった。

     *

 個室の扉を開ける前から、クロは気づいていたらしい。

「きゅう!」

 内側で椅子が小さく鳴る。

「待てって。今開くから」

 ルシの声。

 ジルが扉を開けた瞬間、黒い毛玉が椅子から飛び降りた。

 薬布はない。

 着地も、今度はほとんど揺らがなかった。

 それでもジルの目は、傷めた前足が床へ触れる角度を先に確認している。

 クロは絨毯を駆け、迷わず足元へ来た。

「きゅう」

「……また来たのか」

 黒い頭が靴へ押しつけられる。

 ジルは見下ろした。

「飼い主のところへ戻れ」

「きゅ」

「返事だけしても駄目だ」

 クロは太い尾を一度揺らし、前足をジルの脚へかける。

「乗るな」

「きゅう」

「聞け」

 ルシが椅子へ座ったまま笑っていた。

 その笑みはいつもの軽さをまとっていたが、クロの前足を先に見るジルの視線だけは、逃さず拾っている。

「再会を喜んでるだけだろ」

「二日前にも会った」

「クロの中では、二日ぶりは久しぶりなんじゃない?」

「甘やかすな」

「お前が言う?」

 ジルはルシを睨む。

「何だ」

「いや。抱くかなと思って」

「抱かない」

「そっか」

 ルシはあっさり引いた。

 その間にも、クロはジルの脚へ身体を押しつけている。

「きゅう」

「重い」

「三キロくらいだぞ」

「知るか」

「詳しくないのに、持ち方は知ってたよな」

「帰るか?」

「ごめんごめん」

 ルシは両手を軽く上げた。

 ジルがクロを床へ下ろそうと身体を屈める。

 その前に、黒い毛玉が当然のように腕へ前足をかけてきた。

「……」

「きゅ」

 ジルはしばらく見つめた。

 結局、腹の下へ腕を差し入れる。

 傷めた前足へ重みがかからない位置。

 クロは抵抗せず、持ち上げられるままジルの腕へ収まった。

 ルシの口元が緩む。

 軽口にするには少しだけ遅れた笑みだった。

「抱かないって言わなかった?」

「床に張りつかれると邪魔だ」

「はいはい」

「その返事をやめろ」

「分かった分かった」

「増やすな」

 ジルはクロを抱いたまま、ルシの向かいへ座る。

 前回と同じ椅子。

 ただし位置をわずかにずらし、扉と窓の両方が見える角度を選んだ。

 ルシは何も言わない。

 卓上には酒ではなく、湯気の立つ茶が置かれていた。

 香りは弱い。

 月燈館で出すものの中では、珍しく薄い茶だった。

 ジルが見る。

「酒は?」

「飲まないんだろ?」

「なぜ知っている」

「前回、一口もつけなかった」

「それだけか」

「それだけ」

 情報屋の答えとしては、軽すぎる。

 だが、ほかの入手経路を語る気もないらしい。

 ジルは茶へ手を伸ばさなかった。

「今日は何の相談だ」

「相談っていうか、お話?」

「帰れ」

「まだ何も言ってないだろ」

「お前の話は長い」

「二回しか会ってないのに、理解が早い」

「分かりやすいからな」

 クロがジルの腕の中で身体を丸め始める。

「寝るな」

「きゅ……」

「寝るなら飼い主のところへ戻れ」

 クロは目を閉じた。

「無視された」

 ルシが笑う。

「お前の教育だろ」

「そこは元から」

「さらに悪い」

「でも、お前のところでは大人しいよな」

「眠いだけだ」

「そういうことにしとく」

 ジルはクロの前足へ一度だけ目を落とす。

 腫れはない。

 毛の下に薄く痕が残る程度。

 無理をさせなければ問題ないだろう。

 確認を終え、ルシへ視線を戻す。

「本題は」

 ルシの笑みが少し薄くなった。

「黒燈について、調べた?」

 ジルは答えない。

 沈黙そのものが返事になった。

「調べたんだ」

「お前なら、俺が調べることくらい分かっていただろ」

「まあね」

「この街の裏を守るギルド。金だけでは仕事を受けない。証人を勝手に消さない。貴族の私兵にもならない」

 ジルは淡々と並べる。

「随分、評判がいいな」

「不満そう」

 ルシは軽く返したが、ジルの声に混じった硬さに気づいたのか、目だけが少し笑わなくなった。

「評判が綺麗すぎる」

「そこ疑う?」

「当然だ」

 黒燈が流した評判かもしれない。

 都合の悪い話を消している可能性もある。

 白梟はくきょうも、外から見れば美しい組織だった。

 法では裁けない悪を狩る。

 弱い者を守る。

 記録と秩序を残す。

 間違ってはいなかった。

 最初は。

 ルシは卓へ片肘を置いた。

「全部、間違いではないよ」

「全部、正しいとも言わないんだな」

「そりゃね。裏のギルドだし」

 軽い答えだった。

 だが、誤魔化してはいない。

「黒燈だって刃は使う。脅すこともある。盗むし、騙すし、必要なら相手の逃げ道も潰す」

「殺しもする」

「する」

 ルシは否定しなかった。

「ただ、金を積まれたからって、理由も見ずに殺すことはしない」

「理由が正しいか、お前たちが決めるのか」

「決めない」

 返答は早かった。

 ジルの目がわずかに細くなる。

「なら、何を見る」

「依頼の裏。誰が得をするか。殺される奴が何を知ってるか。依頼人が隠してること。巻き込まれてる奴がいるか」

「それで?」

「証拠を拾う。必要なら止める。保護する。外へ返せる奴は返す」

「裁かないのか」

「黒燈が裁判官の真似を始めたら、たぶん終わりだろ」

 ルシの指が、卓を一度だけ軽く叩いた。

 乾いた音。

「握るけど、裁かない。それが今の黒燈」

「今の、か」

 ジルはその言葉を拾った。

 ルシも気づく。

「そこ気になる?」

「組織は変わる」

 ジルの声は冷たい。

「始めた者の理念が残るとは限らない。長が代われば、正義の意味も変わる」

 正しい記録。

 正しい命令。

 正しい裁定。

 白梟はくきょうでは、いつも正しさが先に置かれた。

 誰にとって正しいのかを問う者は、次第に減っていった。

 疑問は記録から外される。

 異議を唱えた者は、組織を乱す者として扱われる。

 最後には、人を役目の名で呼ぶことすら、誰もおかしいと思わなくなる。

「黒燈の長が変わったら、どうする」

 ルシはすぐには答えなかった。

 茶から立つ湯気が、二人の間で細く揺れる。

 クロの寝息。

 壁の向こうを歩く靴音。

 遠くでグラスが触れ合う、澄んだ音。

 ルシは卓から指を離した。

「黒燈が黒燈じゃなくなったら、オレは出る」

 軽口ではなかった。

 ルシの笑みが、そこで一度だけ消える。

 ジルは表情を変えなかった。

「簡単に言うな」

「簡単じゃないよ」

 ルシの声から、軽さが少しだけ消えている。

「オレはここで育った。兄貴もそうだ。黒燈は家みたいなもんだし、ギルド長には借りがある」

「なら、従うだろ」

「従わない」

 今度の返答には間がなかった。

「ギルド長が、今の黒燈を壊すなら止める。止められなければ出る」

「お前一人で?」

「兄貴もいる。ゼルさんもいる」

「全員、同じ考えか」

「少なくとも、長が言うことなら何でも正しい、とは思ってない」

 ルシは椅子の背へ身体を預けた。

「ギルド長も、それを望んでない」

「都合のいい話だ」

「そう見えるよな」

 反論しないことが、かえって厄介だった。

 ルシは黒燈を美化しない。

 正しい組織だとも、安全だとも言わない。

 信じろとも言わない。

 ただ、自分がどうするかを答えている。

「兄というのは、カインか」

「覚えてた?」

「二日前に聞いた」

「興味ある?」

「情報だ」

「はいはい」

 ジルが睨む。

「その返事をやめろ」

「ごめんごめん」

「増やすなと言っただろ」

 ルシは笑い、卓上の茶へ手を伸ばす。

「兄貴は黒燈の前衛。オレよりずっと口数が少ない。目つきが悪くて、心配性で、弟への信用がない」

「最後はお前のせいだろ」

「初対面前から理解が深いな」

「見れば分かる」

「まだ見てないって」

 ジルは腕の中のクロを少し支え直す。

 黒い毛玉は目を閉じたまま、太い尾だけを動かした。

「片目が見えないと言っていたな」

「ああ。左目」

「戦場では致命的だ」

 ルシの笑みがわずかに薄くなる。

「本人もそう思ってた時期はある」

「今は違う?」

「ゼルさんが左を見る」

 短い言葉だった。

 言ったあと、ルシの目元がわずかに柔らかくなる。

 それは兄をからかう時の顔ではなかった。

 ジルの指先が、クロの毛の中でほんの少し止まる。

 ルシは気づかず、あるいは気づいても拾わずに続けた。

「ゼルさんは術者で、黒燈の長補佐。兄貴の左側に立つ。影糸で死角を拾って、術式で動きを止める」

「補助役か」

「それだけ言うと怒られるかも」

「なぜだ」

「兄貴の恋人だから」

 ジルはルシを見た。

 ルシがにやりとする。

「そこ反応するんだ」

「予想していなかっただけだ」

「兄貴、あの無愛想さで恋人いるんだよ」

「お前も同じ顔だろ」

「全然違う。オレの方が愛想いい」

「軽いだけだ」

「つらい」

 ジルは視線を窓へ移す。

 恋人。

 死角を補う者。

 左側へ立つ者。

 それだけの言葉が、記憶の奥にある古い位置を撫でた。

 かつて、自分の死角へ立つ男がいた。

 背後を任せろと言った。

 一人で全部を見る必要はないと、穏やかに笑った。

 その手は、最初から鎖だったわけではない。

 ジルはクロの毛並みへ指を沈める。

 柔らかな感触で、古い記憶を押し戻した。

「ゼルは、カインを従わせているのか」

「まさか」

 ルシが笑う。

「兄貴を従わせられる奴がいたら見てみたい」

「恋人なら可能だろ」

「補うのと、縛るのは違う」

 ルシの声は軽い。

 けれど、言い終えたあとだけ、口元の笑みが少し遅れて消えた。

「ゼルさんは兄貴の左を見る。でも、兄貴がどこへ立つかは兄貴が決める」

 ジルは黙った。

「逆も同じ。兄貴がゼルさんを守ることはあるけど、術を使うなとも、後ろにいろとも言わない」

「危険でも?」

「危険だから話す。話して決める。勝手に決めたら喧嘩になる」

「面倒だな」

「恋人ってそういうもんじゃない?」

「知らん」

「即答」

「興味もない」

「ほんとに?」

 言いかけて、ルシはそこで口を閉じた。

 踏み込めば逃げる。

 そんな顔で、一度だけジルを見る。

「帰れ」

「まだ本題が終わってない」

 ルシは茶を一口飲み、器を卓へ戻した。

 陶器と木が触れる、低い音。

「兄貴とゼルさんが、お前と話したいって」

 ジルの空気が変わる。

 腕の中のクロが耳を動かした。

「黒燈の命令か」

「違う」

「ダリウスの判断では」

「会っていいとは言われてる。けど、命令じゃない」

「何を聞く」

「白梟はくきょうがこの街で何をする気か。お前がノクティルムで何をする気か」

「答える義務はない」

「ないよ」

 ルシはあっさり認めた。

「だから来なくてもいい」

「……何?」

「会う場所を伝えに来ただけ」

 ルシは懐へ手を入れる。

 ジルの肩がわずかに硬くなる。

 取り出されたのは武器ではなく、小さく折った地図だった。


 卓の上へ広げる。

 西区。

 古い水路。

 倉庫街。

 そして、街路の外れに立つ時計塔。

「明日の夜。西区の古い時計塔」

 ルシの指が、塔の印へ触れる。

「日が落ちて、鐘が二度鳴った後」

 ジルは地図を見る。

 時計塔の位置は知っている。

 街を調べた最初の三日で、外からは確認した。

 古い建物。

 今は正式な時刻を告げる役目を終え、夜に二度だけ鐘が鳴る。周囲には高い建物が少なく、塔の窓から複数の道を見渡せる。

 逃げ道は多い。

 同時に、罠を張るにも向いている。

「黒燈の拠点ではないのか」

「違う。外縁の場所」

「お前たちに都合のいい場所だろ」

「お前にも都合がいい」

 ルシの指が、塔の裏手へ続く道を辿る。

「西に水路。北の屋根へ上がれる梯子。南へ抜ければ人通りがある。塔の中にも階段が二本」

「調べてある」

「情報屋なので」

「俺が逃げることを前提にしているのか」

「逃げたいなら逃げられる場所にした」

 軽く言ったはずの声に、笑いはほとんど残っていなかった。

 ジルはルシを見る。

 赤銅色の瞳には、笑みが残っている。

 しかし、その言葉は軽くなかった。

「兄貴とゼルさんが来る。オレとクロもいる。それ以外は連れていかない」

「監視は」

「置かない」

「信用しろと?」

「しなくていい」

 ルシは地図から手を離した。

「武器も持ってこい。退路も確認しろ。嫌なら来るな」

「ずいぶん親切だな」

「お前に話を聞きたいからな」

「捕らえるためではなく?」

「捕らえるなら、こんなに面倒な誘い方しない」

「お前が囮の可能性もある」

「あると思うなら、来ない方がいい」

 ルシは笑った。

 否定しない。

 判断をこちらへ返してくる。

 それが、ジルには不気味だった。

 白梟はくきょうなら、選ばせる形だけは整える。

 どちらを選んでも同じ場所へ着くように、先に道を閉じたうえで。

 だが、この地図には本当に逃げ道が描かれている。

 来ないという道まで、隠されていない。

「俺が行かなければ」

「そのまま」

「追わないのか」

「白梟はくきょうが月燈館へ来たら止める。お前がこの街の人間を巻き込んだら、それも止める」

 ルシは肩をすくめる。

「でも、お前が一人でどこかへ消えるだけなら、今は追わない」

「今は、か」

「お前がノクティルムの敵じゃない間は」

 条件はある。

 無条件の保護でも、信頼でもない。

 それがむしろ、ジルには理解しやすかった。

「俺を黒燈へ入れるつもりか」

「まだ早いだろ」

「まだ?」

「オレは面白そうだと思ってるけど、兄貴は警戒してる。ゼルさんは観察中。ギルド長は、本人と文書を分けて考えろって」

 ジルの目がわずかに動く。

「文書を持っていると決めていないのか」

「白梟はくきょうが持ってると思ってるだけかもしれないだろ」

 ルシは地図の端を指で押さえた。

「お前が何を持ってるか、明日すぐ吐けとは言わない。話せないなら、話せる条件だけ言えばいい」

 言いながら、ルシはジルの目をまっすぐ見た。

 問い詰めたい顔ではない。

 けれど、聞かずに済ませる顔でもなかった。

 その言葉は、先ほどまでの軽口とは違う場所へ落ちた。

 話せないなら、話せる条件を言う。

 黙ることを許すのではない。

 無理に暴くのでもない。

 沈黙のまま関わるなら、その沈黙をどう扱えばいいかを求めている。

「それも、黒燈の長が言ったのか」

「うん」

「お前の言葉ではないんだな」

「オレが言ったことにしてもいいけど?」

「嘘をつくな」

「はいはい」

 ジルの視線が冷える。

「返事」

「はい」

 クロが、腕の中で身じろぎした。

 いつの間にか目を覚ましている。

 長い耳を立て、卓上の地図へ鼻先を向けた。

「きゅう」

「お前は留守番だ」

 ジルが言う。

「え、決めるの早くない?」

「怪我が治ったばかりだ」

「もう走れるぞ」

「高い場所から降りる時、まだ足を浮かせる」

 ルシが目を細める。

「見てたんだ」

「見れば分かる」

「そういうことにしとく」

「帰れ」

「クロは連れていくよ。時計塔の下で大人しくさせる」

「止めても来るだろうな」

「理解が早い」

「管理不足だからな」

「まだ言う?」

 クロが抗議するように鳴く。

「きゅう」

 ジルは黒い頭を見下ろした。

「お前に決定権はない」

「きゅ」

「短く返しても駄目だ」

 ルシは笑う。

 ジルは地図へ視線を戻した。

 明日の夜。

 西区の古い時計塔。

 カイン。

 ゼル。

 ルシ。

 クロ。

 黒燈の内側ではない。

 だが、完全な外でもない場所。

 外縁。

 そこまで踏み込むかどうかを、今決める必要はない。

 ルシは答えを急かさなかった。

 地図を卓へ残し、クロを受け取るため両腕を差し出す。

「そろそろ帰るか」

 クロはジルの腕へ爪をかけた。

「きゅう」

「帰れ」

「きゅ……」

「その声を出しても駄目だ」

「ジル、完全に会話成立してるよな」

「していない」

「してるだろ」

「毛玉が勝手に鳴いているだけだ」

「はいはい」

「返事」

「はい」

 クロは渋々、ルシの腕へ移った。

 その直前、ジルの手へ鼻先を押しつける。

 冷たい感触。

 雨の夜より、ずっと強い体温。

「……怪我をするなよ」

 声に出してから、ジルは眉を寄せた。

 ルシの返事が、一瞬だけ遅れる。

 その遅れを隠すように、口元が緩んだ。

 クロの耳が立つ。

「きゅう!」

「騒ぐな」

「それ、明日も来いってこと?」

「毛玉に言った」

「でもオレが連れてくる」

「お前は来なくていい」

「誘ったのオレなんだけど」

「なら、誘いだけ置いて帰れ」

「ひどいなあ」

 ルシは笑いながら立ち上がる。

 地図は卓へ残したまま。

「場所を変える気はない。来ても来なくても、明日の夜はそこにいる」

「待つのか」

「兄貴が待つの嫌いだから、時間どおりに来てくれると助かる」

「知るか」

「遅れるなら伝言くれてもいいよ」

「行くとは言っていない」

「うん」

 ルシは笑った。

「だから、まだ聞かない」

 笑っている。

 だが、その笑みは少しだけ薄く、何かを飲み込んだ後の形をしていた。

 扉へ向かう。

 前回と同じく、近づいてこない。

 握手も求めない。

 返事も要求しない。

 扉を開く直前、ルシが振り返った。

「ジル」

「何だ」

「オレたちのところへ来い、とは言わない」

 ジルの目が細くなる。

「じゃあ何だ」

「自分で見に来い」

 軽い笑み。

 けれど、その奥で赤銅色の目だけがまっすぐジルを捉えていた。

 来い、と命じる目ではない。

 見ろ、と渡す目だった。

「黒燈が、お前の知ってる白いギルドと同じかどうか」

 ジルは答えない。

 ルシも待たなかった。

「じゃ、おやすみ」

「二度と来るな」

「明日は月燈館じゃないから、約束は守れる」

「屁理屈だな」

「情報屋なので」

「褒めていない」

「知ってる」

 扉が閉じる。

 ルシの軽い足音。

 クロの爪音。

 黒銀札の、ちり、という小さな音。

 それらが廊下の奥へ遠ざかっていく。

 ジルは一人、卓上に残された地図を見ていた。


 月燈館の赤い灯りが、古い時計塔の印を照らしている。

 明日の夜。

 西区。

 人目が少なく、逃げ道が多い場所。

 罠にも向いている。

 ジルは地図へ手を伸ばさない。

 まず、窓の外を見る。

 黒い王都。

 屋根の向こうに、古い時計塔の影がある。

 遠く、鐘が鳴った。

 低く、ひとつ。

 間を置いて、もうひとつ。

 止まった時計の代わりに、夜だけを告げる音。

 ジルは目を伏せる。

 黒燈も、ルシも信用してはいない。カインとゼルに至っては、まだ顔すら知らない。

 それでも黒燈は月燈館へ踏み込まず、店の者を捕らえず、噂だけでジルを敵と決めなかった。武器を持ってこいと言い、逃げ道も、行かない道も残している。

 白梟はくきょうなら、選ばせる形だけを整えただろう。

 だが黒燈は、今のところ本当に選択を返している。

 組織は変わる。補う手が、いつか縛る手へ変わることもある。だからこそ、ルシの言葉でも評判でもなく、自分の目で確かめる必要があった。

 ジルは卓上の地図を取った。

 紙が、静かに鳴る。

 時計塔へ続く道。

 屋根。

 水路。

 塔内の階段。

 ルシが示した退路とは別に、さらに二つを頭の中へ足す。

 袖口の内側へ指を滑らせる。

 薄刃はある。

 短剣もある。

 投げ刃も、眠り薬も、退路も、自分の手元に残っている。

 誰にも預けていない。

 なら、選ぶのは自分だ。

「……面倒な情報屋だ」

 呟いた声は、赤い灯りの下へ落ちた。

 試されているのは、黒燈だけではない。

 自分もまた、黒い灯りの外縁に立っている。

 踏み込むか。

 引き返すか。

 答えを誰かへ渡すつもりはなかった。

 地図を折り、外套の内側へしまう。

 だから行く。

 明日の夜。

 西区の古い時計塔へ。
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兄の身代わりとして王太子の婚約者になった伯爵家次男リュシー。 嘘の名を名乗ったはずが、冷静で誠実な王太子リオンは彼を「力の装置」としてではなく、対等な伴侶として扱おうとする。 本物になりたいと願う替え玉と、完成された王太子の静謐な王宮ロマンス。 現在は王となったリオンとリュシーの関係を中心に、独占欲強めの溺愛が進行中。
BL 完結 長編 R15
文字数:268,687
『惚れ薬』が効きすぎるなんて、令和の時代にアリですか⁉ 表紙

『惚れ薬』が効きすぎるなんて、令和の時代にアリですか⁉

☆バレー部モテ男子 鵜飼虎太郎×平凡普通男子 花崎佑二☆  高校二年の花崎は、成績真ん中・運動そこそこ・平均身長の平凡男子。目立たずに教室の端に存在している。  しかしある日突然、バレー部のイケメン男子、鵜飼から「化学のノート、貸してくんない?」と声を掛けられた。  ――ええ?なんで僕?  そう焦る花崎だが、それはだたの人間違いだった。 「化学が得意なのは隣のクラスの花菱くん。これは普通の花崎くん」  そんな風にクラスメイトに笑われてしまう。  目立たずに生きてきた花崎にとって、教室の中で恥をかかされたことはショックな出来事。  ――鵜飼め‼ 覚えていろよ!  イライラがおさまらない花崎は、図書室で「中世魔女の妙薬レシピ」という怪しげな本を見つけ、「惚れ薬」を鵜飼に使うことを決意して…⁉   惚れ薬の効果なのか溺愛♥高校生活に突入!  花崎はバレーボールに汗を流す鵜飼の姿をカッコいいじゃん、と思い始めたけれど。  『惚れ薬』の効果がきれたら…?  ☆第2回青春BL小説カップにエントリー作品です(*^^*)投票・お気に入り登録・♡などで応援いただけますと大変嬉しいです‼よろしくお願いいたします☆  不定期更新です💦スミマセン💦
BL 完結 長編
文字数:84,218
失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが 表紙

失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが

魔王討伐の為の勇者召喚に巻き込まれた蕪木透。その勇者は苦い思い出のある高校時代の同級生井上朝陽だった。すれ違いから疎遠になった2人が異世界に召喚される話。当て馬的な女の子が出てきますしわりと性悪です。プチざまぁあり。途中主人公があまりいい目にあっていませんがハッピーエンドなので安心してください♪( ´θ`)同性婚ありな世界線です。※他サイトにも掲載あり
BL 完結 短編
文字数:9,900