銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第5話 止まった時計塔

 
 翌日の夜、《月燈館げっとうかん》の灯りはいつもより少しだけ遠く見えた。

 ジルは仕事を終えると、店の裏口から路地へ出た。

 誰にも行き先は告げていない。

 外套の留め具を締め、雨の気配が残る夜気を吸い込む。肩を少し越す銀髪は、首の後ろで緩く束ねていた。

 背後を確認する。

 月燈館げっとうかんの裏口。

 向かいの屋根。

 雨樋。

 路地の出口。

 追ってくる足音はない。

 それでも、いつもの道は使わなかった。

 西へ二本。

 人通りのある酒場街を抜け、古道具屋の裏へ回る。途中で屋根へ上がり、二度道を変えた。追跡の気配がないことを確かめてから、再び石畳へ降りる。

 西区の古い時計塔は、遠くからでも分かった。

 黒い建物の上に、止まった時計盤が白く浮かんでいる。

 針は、何年も同じ時刻を指したまま。

 正確な時を告げる役目は、とうに終えていた。

 それでも、夜になると鐘だけは二度鳴る。

 一度目の鐘が、低く王都へ響いた。

 音は古い屋根を越え、狭い路地へ沈み、水路の暗い水面をわずかに震わせる。

 ジルは塔を見上げた。

 正面の入口。

 西側の水路。

 北の壁へ掛けられた古い梯子。

 二階の窓。

 時計盤の裏へ続く足場。

 ルシが地図に描いていた退路は、確かに残されている。

 それ以外にも二つ。

 隣家の屋根へ移れる狭い梁と、塔の裏から南の通りへ抜ける崩れかけた塀。

 逃げようと思えば逃げられる。

 少なくとも、表面上は。

 二度目の鐘が鳴った。

 ジルは塔の扉へ手をかけた。

 木が低く軋む。

 内側から鍵は掛けられていない。

 閉じ込める気はないと示しているのか。

 そう思わせるために、開けてあるだけか。

 どちらでもよかった。

 ジルは袖口の薄刃を確かめ、塔の中へ入った。

     *

 時計塔の内部には、古い石と油の匂いが残っていた。

 壁に沿って螺旋階段が上へ続く。

 踏み板は所々欠け、隙間から夜風が入り込んでいる。遠くで歯車がわずかに揺れ、使われなくなった金属同士が、から、と乾いた音を立てた。

 動いている仕掛けはない。

 それでも塔は、完全には眠っていないようだった。

 ジルは階段を上がる。

 足音は立てない。

 一段。

 二段。

 踊り場の影。

 壁の窪み。

 頭上の気配。

 最上階に四つ。

 ルシ。

 クロ。

 残りの二人が、カインとゼルだろう。

 ひとりは動かない。

 重心が低く、階段を上がってくるジルへ真正面を向けている。

 もうひとりは、その左側。

 大きな音はない。だが、空気の流れがわずかに違う。

 術者。

 ジルは最後の段へ足を置いた。

 視界が開ける。

 時計盤の裏側にある、広い機械室。

 大きな歯車は止まり、壁際の軸には古い油が黒く固まっている。四方には細い窓があり、ノクティルムの屋根と魔石灯を見渡せた。

 中央に、三人と一匹。

 ルシは窓枠へ腰を預けている。

 その口元にはいつもの軽い笑みがあった。

 ただ、ジルが階段口へ姿を見せた瞬間だけ、赤銅色の目がわずかに緩む。

「こんばんは」

「遅い」

 低い声を落としたのは、カインだった。

 長い黒髪を後ろで束ね、左目を黒い眼帯で覆っている。黒い外套の下には、余計な飾りのない実戦装備。

 右目だけが、ジルを正面から射抜いていた。

 ジルは時計盤へ視線を向ける。

「時計が止まっている。遅れたかどうかは分からないな」

「鐘は鳴った」

「二度目が鳴り終わる前には入った」

 カインの目がさらに鋭くなる。

「口は回るらしい」

「お前ほどではない」

「オレ、まだ何も言ってなくない?」

 ルシが横から割り込む。

 軽口の形にしていたが、笑みは少し遅れて消えた。

「お前のことだ」

「ひどい」

 クロはルシの足元にいた。

 ジルを見つけた途端、長い耳を勢いよく立てる。

「きゅう!」

「待て」

 ルシが止めるより先に、黒い毛玉は床を蹴った。

 強い着地を避けるよう、最初だけ少し歩幅が狭い。それでも、すぐにジルの足元へ駆け寄った。

 黒い頭を革靴へ押しつける。

「……お前も来たのか」

「きゅう」

「騒ぐな」

 太い尾が外套の裾を叩く。

 ルシが笑った。

「歓迎されてるな」

「毛玉に歓迎されても意味はない」

「クロの評価は高いぞ」

「判断が甘い」

「きゅ」

「反論するな」

 ジルはクロを抱き上げなかった。

 ただ、前足の置き方を一度だけ見る。

 ルシの目元が、ジルの視線を追ってほんの少し柔らかくなった。

 その視線を、カインは見逃さなかった。

「お前が治療したのか」

 挨拶より先に、本題へ入る声。

 ジルはカインを見る。

「答える義理はない」

「否定もしないか」

「肯定する義理もない」

 短い言葉がぶつかる。

 刃と刃。

 どちらも音を立てず、先に退く気もない。

「兄貴」

 ルシが間へ入る。

「聞き方が尋問なんだよ」

「事実確認だ」

「同じ顔で言うと同じに聞こえる」

「お前は黙っていろ」

「ほら、それ」

 カインはルシを見た。

 声は変わらない。

 だが、残った片目が一度だけ弟の全身を確認した。

 危険がないか。

 ジルとの距離は近すぎないか。

 退路は残っているか。

 問い詰める言葉より先に、その目がルシの安全を数えている。

 ジルは視線を横へ移した。

 カインの左側に立っている男。

 ゼル。

 肩ほどの黒髪には、夜の魔石灯を受けて紫の艶が浮かぶ。髪の間には、短い黒赤の角。右腕には黒銀の腕輪があり、手には細い銀筆を持っていた。

 穏やかな顔。

 だが、気配は薄くない。

 壁。

 床。

 歯車の隙間。

 ゼルの指先から床へ落ちた暗い藍紫の糸が、影の濃い場所へ細く枝分かれしている。

 《影糸》。

 目を凝らさなければ、古い歯車の影と見分けがつかないほど細い。糸は階段口や窓、壁際へ通されていたが、ジルの足元へは触れていなかった。

 ジルがここへ入った時から、ゼルは塔全体を見ていた。

 カインの左を補いながら。

 同時に、ジルの逃げ道までは塞がない位置で。

 ゼルの右腕輪に刻まれた細い線が、淡い琥珀を帯びた。

 腕輪のすぐ上、数センチほどの低い位置に、薄い二重環が水平に浮かぶ。

 瞳の絞りを思わせる、小さな術式輪。

 ゼルは銀筆の先を外環へ添えた。

 一目盛りだけ回す。

 内側の円環がわずかに絞られ、余分な線が閉じていく。

 強くする動きではない。

 渡す情報を、必要な量まで削っている。

 最後の目盛りが静かに噛み合うと、術式輪は右腕輪へ沈むように消えた。

 ゼルが銀筆を持たない手を、わずかに上げる。

 指先から細い琥珀線が伸び、カインの左耳裏へ静かに触れた。

 同時に、ゼル自身の耳裏にも、同じ色の細い線が薄く浮かぶ。

 派手な魔法陣ではない。

 誰かを縛る鎖にも見えない。

 ただ、カインの失われた側へ、必要な輪郭だけが置かれたように見えた。

 カインは左を見ない。

 それでも、その左側にゼルがいることを当然のように受け入れている。

 ジルは目を細めた。

 支配ではない。

 少なくとも、今見える範囲では。

「初めまして、ジル」

 ゼルが静かに言った。

「ゼルだ。こちらがカイン。紹介は必要なかったかな」

「ルシから聞いている」

「悪口込みで?」

「兄が心配性だと」

 カインがルシを見る。

「何を話した」

「必要な情報だけ」

「恋人がいることもか」

 ジルが言う。

 一瞬、塔の中が静かになった。

 ルシが目を逸らす。

 いつもの調子で笑い飛ばしかけて、ほんの少しだけ言葉が遅れた。

「そこまで言わなくてもよくない?」

「言ったのはお前だ」

「まあ、隠してはいないけど」

 ゼルは穏やかに笑った。

「事実だから構わないよ」

 カインは何も言わない。

 ただ、ゼルが自分の左へ立っていることも、その位置を変えないことも拒まなかった。

 補う。

 だが、縛らない。

 ルシが言っていた通りなのか。

 今の立ち位置だけでは、まだ分からない。

 ジルは機械室の中央へは進まず、階段口から数歩入った場所で止まった。

 背後には降りる階段。

 右には窓。

 左には歯車の足場。

 全員を視界へ入れられる位置。

 ゼルがその距離を見て言う。

「そこからでいい」

「近づけとは言わないのか」

「近づきたいなら、自分で近づけばいい」

「随分、聞こえのいい答えだな」

「そう聞こえるなら、まだ信用しなくていいよ」

 ゼルは微笑んだままだった。

 だが、声に媚びはない。

「私たちも、君を無条件に信用しているわけではない」

「それでいい」

 ジルは即答する。

 ルシが一瞬だけ黙った。

 からかう言葉を探したようで、結局、何も言わなかった。

 無条件の信用など、一番信用できない。

 カインが腕を組む。

「白梟はくきょうがこの街へ入っている」

「知っている」

「どこまでだ」

「お前たちよりは知っている」

「話せ」

「嫌だ」

 間を置かない返答。

 ルシが額へ手を当てた。

「会話が本当に刃物なんだよな、この二人」

「お前が軽すぎる」

「ジルまで兄貴側に入るなよ」

「入っていない」

「即答も傷つく」

 クロがジルの足元で座り直した。

「きゅう」

「お前は静かにしていろ」

「きゅ」

「返事だけはいい」

 ゼルの銀筆が、指先で小さく回る。

「全部を話してほしいとは言わない」

 ジルの目がゼルへ戻る。

「何を求める」

「白梟はくきょうがノクティルムで使っている道の見分け方」

「道?」

「人、荷、名義、宿、商会。白梟はくきょうが他国で動く時、何を先に置くのか」

「それを教えれば、俺に何を返す」

「この街で黒燈が拾った情報」

 ルシが壁から身体を起こした。

 笑みが消える。

「白い封蝋だけじゃない。南門から入った旅芸人。西区へ流れた白い香料。白弦商会名義の荷。それから、傭兵崩れに混じった妙に足音の軽い連中」

 ジルの視線が止まる。

「白弦商会」

「知ってる?」

「名だけだ」

「本当に?」

「今はな」

 ルシは追及しない。

 代わりに懐から小さな紙片を取り出した。

「昨日までに拾えたのは、まだこれだけ。どれも単独なら、普通の荷や旅人で終わる」

「だが、時期が重なる」

 ゼルが続ける。

「君の似顔絵と白い封蝋が入った直後からね」

 カインが短く言う。

「白梟はくきょうの目的は、お前か」

 ジルは答えない。

 夜風が、止まった歯車の隙間を抜けた。

 古い金属がかすかに震える。

「俺だけなら、放っておけ」

 やがて、ジルは言った。

「それはできない」

 カインの返答は硬い。

「なぜだ」

「ここはノクティルムだ」

「答えになっていない」

「白梟はくきょうが、この街の人間と荷を使うなら黒燈の問題だ」

 カインはジルを見た。

「お前を守るためではない」

「安心した」

「守られる気もない顔だな」

「必要ない」

「なら、勝手に死ぬな。情報が消える」

 実務的な言葉。

 情けも、慰めもない。

 だからこそ、ジルには理解しやすかった。

 ゼルが穏やかに補う。

「白梟はくきょうが君を追う理由と、黒燈が白梟はくきょうを止める理由は、完全には同じではない」

「目的が一部重なるだけか」

「そう考えてくれていい」

「共同調査?」

 ルシが笑う。

 笑みは戻っていたが、ジルの横顔を見る目だけは、少しも笑っていなかった。

「格好よく言うなら」

「格好よくない言い方は」

「互いに利用する」

「そちらの方が分かりやすい」

 ジルは三人を見る。

 カイン。

 正面から圧をかける前衛。

 片目でも、こちらの動きを逃さない。

 ゼル。

 カインの左を補いながら、機械室全体へ術を広げている。

 ルシ。

 軽口を挟みながら、全員の視線と呼吸を見ている。

 そしてクロ。

 何も説明せず、ジルの足元で尾を揺らしている。

 四者が同じ組織にいる。

 だが、誰か一人の命令だけで動いているようには見えなかった。

「条件がある」

 ジルが言う。

 カインが顎を引く。

「言え」

「月燈館げっとうかんへ手を出すな。店の者を問い詰めるな。俺を捕らえるための餌にも使うな」

「最初からそのつもりはない」

 ゼルの返答は静かだった。

「白梟はくきょうは使う」

「黒燈は使わない」

「証明できるか」

「今はできない」

 ゼルは否定しない。

「だから、これから見て判断してほしい」

 ジルは目を細める。

「もうひとつ。俺が持っていると、お前たちが考えているものの場所は言わない」

「構わん」

 カインが答えた。

 ルシが横を見る。

「兄貴、即答するんだ」

「今聞いても話さない」

「理解が深い」

「お前の報告が長かった」

「そこ?」

 ジルは続ける。

「拘束しようとした時点で、協力は終わりだ」

「こちらの条件もある」

 カインの声が低くなる。

「共同中に勝手に消えるな」

「命令か」

「条件だ」

「断ったら」

「協力しない」

 単純だった。

 縛って残すとは言わない。

 受けないなら、共に動かない。

 選択は残っている。

「それから」

 カインの右目が、ルシとクロへ一度だけ動く。

「こいつらを囮に使うな」

「使う気はない」

 ジルの返事も早かった。

 ルシが目を瞬く。

「オレも?」

 軽く返すには、ほんの少しだけ遅れた。

「情報屋が捕まれば、情報が途切れる」

「戦力管理?」

「そうだ」

「まだ何も始まってないのに、もう管理されてる」

「勘違いするな」

「はいはい」

「返事は一度にしろ」

「兄貴と同じこと言い始めた」

「黙れ」

「息ぴったりだね」

 ゼルが笑った。

 その時だった。

 足元で、クロの身体が強張る。

 長い耳が、時計盤の外へ向いた。

 太い尾が止まる。

「ぎゅっ!」

 濁った鳴き声。

 ジルは考えるより先に顔を上げた。

 時計盤の割れた隙間。

 夜の屋根。

 細い反射。

「伏せろ」

 弦が鳴った。

 鋭い音ではない。

 張り詰めた糸が弾ける、短い震え。

 白い矢が、時計盤の隙間を抜けて飛び込んでくる。

 狙いはジルではなかった。

 中央。

 全員から見える歯車の柱。

 矢文。

 ジルが袖口の薄刃を抜く。

 同時に、カインの左耳裏へ沈んでいた琥珀の線が、一度だけ鋭く震えた。

 ゼルが拾った輪郭が、一拍分だけカインの左側へ届く。

 音はない。

 命令の声もない。

 けれど、カインは左を見ないまま動いた。

 石床が、低く鳴る。

 一歩。

 迷いのない踏み込み。

 カインの短剣が矢の軸を打つ。

 硬い音が弾けた。

 軌道を変えた矢が、古い柱へ深く突き刺さる。

 白い羽根が震えた。

 ジルはその一瞬を見ていた。

 カインが動いたのは、ゼルに操られたからではない。

 ゼルはただ、見えない側へ何かを渡しただけだ。

 動くかどうかは、カインが決めている。

 ゼルの指先から床へ落ちていた暗い藍紫の《影糸》が、細く伸びた。

 矢軸には触れず、結ばれた紙片だけを絡め取り、石床へ落ちる前に止める。

 ルシはすでに窓際へ移っていた。

 指の間から細い針が放たれる。

 遠くの屋根で、小さく金属が鳴った。

 だが、人影はすぐに煙突の裏へ消える。

「逃げた」

「追うな」

 カインが短く命じる。

「でも」

「二人目がいる可能性がある」

 ルシは舌打ちし、窓の影へ身体を寄せた。

 ジルは別の窓へ視線を走らせる。

 北。

 西。

 南の屋根。

 第二射はない。

 クロはゼルの足元で身体を低くし、喉の奥から小さく鳴いている。

「ぎゅぅ……」

「もう大丈夫だよ」

 ゼルはクロへ触れず、落ち着いた声だけを向ける。

 ゼルの右腕輪に、暗い藍紫の光が戻った。

 腕輪のすぐ上へ、《影糸》の術式輪が低く浮く。

 ゼルは銀筆の先で内環を一目盛り絞り、残滓を拾う感度だけを上げた。

 輪が右腕輪へ沈む。

 直後、指先から一本だけほどけた《影糸》が、矢尻、軸、紙片の縁を順になぞった。

「毒はない。爆ぜる仕掛けもない」

「追跡術式は」

 ジルが問う。

「薄い残滓はある。でも、ここを知るためのものではない。すでに場所を知っていて、確かめるために付けた程度だね」

 カインが柱から矢を抜く。

 木が裂ける、乾いた音。

 矢羽根は白い。

 軸には、梟の羽を模した細い刻印。

 見間違えるはずがなかった。

 《白梟はくきょうギルド》。

 ゼルが《影糸》で捕らえた紙片を、床へ広げる。

 白い紙。

 整った黒い文字。

 短い文。

 《銀羽》へ。

 黒い巣へ身を寄せても、帰還命令は消えない。

 文書を携え、白梟はくきょうへ戻れ。

 ジルの呼吸が、一拍だけ止まった。

 銀羽。

 もう聞きたくなかった名。

 名ですらない。

 役目。

 所有を示す呼び方。

 ジルは紙から目を離す。

「銀羽って、お前のことか」

 ルシが低く問う。

 その顔から、軽口の色が消えていた。

「違う」

「でも向こうは、そう呼んでる」

「向こうが勝手に呼んでいるだけだ」

 ジルの声は冷たい。

 冷たすぎて、薄い氷のようだった。

 ルシは紙片を見下ろす。

 いつもの軽口は消えている。

「なら、宛先が間違ってるな」

 ジルが目を向ける。

 ルシは白い文字を指で弾いた。

「ここにいるのは、銀羽じゃない」

 一度、息を置く。

「ジルだ」

 時計塔の中から、音が消えた。

 風。

 古い歯車。

 遠くの酒場。

 すべてが一瞬だけ遠くなる。

 ジルは何も返さない。

 返せなかったわけではない。

 返す必要がないと判断しただけだ。

 そういうことにした。

 カインが矢を調べながら言う。

「この場所が漏れている」

「黒燈からとは限らない」

 ゼルが答える。

「ルシが月燈館げっとうかんを出たところを見られた。ジルが追われた。時計塔そのものを張られていた。そのどれもあり得る」

「誘いを聞かれた可能性もある」

 ルシの目が鋭くなる。

「店の中で?」

「決めるのは早い」

 ゼルは紙片を折らず、黒い布の上へ置いた。

「明日、経路ごとに分けて確認しよう」

 ジルは三人を見る。

 疑いの矛先が、すぐには自分へ向かなかった。

 黒燈内部の裏切りだとも。

 月燈館げっとうかんから漏れたとも。

 ルシの失敗だとも決めない。

 可能性を分けた。

 白梟はくきょうなら、先に責任を置く。

 記録へ書ける形に整えてから、原因を当てはめる。

 黒燈は、まだ断定しない。

 それだけで信用する気はない。

 だが、見る価値はあった。

「明日の夕刻」

 ゼルがジルを見る。

「黒燈で、地図を広げる。今日までに拾った荷、人、宿、商会を全部並べる」

「本部へ入れと?」

「嫌なら別の場所でもいい」

「いや」

 ジルは短く言った。

「行く」

 ルシの眉が上がる。

 返事が一拍だけ遅れた。

「即答?」

「内部を見る機会だ」

「信用してくれた?」

「監視する」

「素直じゃないなあ」

「黙れ」

 カインがジルへ向き直る。

「今夜のところは、暫定協力だ。黒燈の情報をすべて見せるわけではない」

「当然だ」

「こちらも、お前のすべては求めない」

「今は、だろ」

「必要になれば聞く」

「答えるかは俺が決める」

「ああ」

 カインの返答に迷いはない。

 ゼルが穏やかに続ける。

「互いに、話せる範囲から始めよう。話せないことは、何が整えば話せるのかだけ伝える」

「条件を出せと」

「そうだね。黙ったまま相手に理解を求めるのは、君も嫌だろう?」

 ジルは答えなかった。

 その通りだった。

 誰かに全部を明かす気はない。

 だが、何も話さないまま相手の手だけ借りるのも違う。

 利用するなら、利用される範囲を自分で決める。

 それなら理解できる。

「お前に言う義理はない」

 ルシが肩をすくめる。

「オレじゃなくてもいい。兄貴でも、ゼルさんでも」

「どれも同じだ」

「クロにでもいい」

「毛玉を巻き込むな」

「もう巻き込まれてるだろ」

 ジルは答えられなかった。

 クロが「きゅう」と鳴く。

 夜風が吹いた。

 止まった時計塔の針は動かない。

 だが、ジルの周囲だけが、わずかに動き始めている。

 逃げるだけではない選択肢。

 利用する。

 試す。

 仮に手を組む。

 そのどれも、信じることとは違う。

 違うはずだった。

「……仮協力だ」

 ジルは短く言った。

 ルシの目に、情報屋の光が戻る。

 その奥で、ほんの少しだけ目元が緩んだ。

「了解。任務中だけの相棒さん?」

「調子に乗るな」

「でも仮協力だろ」

「仮だ」

「はいはい、仮ね」

 クロが高く鳴いた。

「きゅう!」

「お前に決定権はない」

「きゅう」

「胸を張るな」

 ルシが笑った。

 軽口の後、その笑みは少し遅れて消えた。

 けれど、ジルが見る頃には、もういつもの顔に戻っている。

 ゼルが静かに息を吐く。

 カインだけは変わらない顔で、白梟はくきょうの矢が飛んできた方角を見ていた。

 ジルも、もう一度屋根へ視線を向ける。

 闇はすでに空だった。

 それでも、追手はいる。

 白い王都から伸びてきた手は、もうノクティルムの夜へ触れている。

 ジルは外套の内側にしまった紙の重みを確かめた。

 まだ何も明かしていない。

 文書の場所も。

 持っているものの正体も。

 自分が何から逃げ、何を終わらせようとしているのかも。

 それでも初めて、一人で逃げる以外の道を考えた。

 信じるには早い。だが、利用し、試し、仮に手を組むことはできる。そこへ踏み出すかどうかも、自分で決められる。

 それが今夜一番の、厄介な変化だった。
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☆バレー部モテ男子 鵜飼虎太郎×平凡普通男子 花崎佑二☆  高校二年の花崎は、成績真ん中・運動そこそこ・平均身長の平凡男子。目立たずに教室の端に存在している。  しかしある日突然、バレー部のイケメン男子、鵜飼から「化学のノート、貸してくんない?」と声を掛けられた。  ――ええ?なんで僕?  そう焦る花崎だが、それはだたの人間違いだった。 「化学が得意なのは隣のクラスの花菱くん。これは普通の花崎くん」  そんな風にクラスメイトに笑われてしまう。  目立たずに生きてきた花崎にとって、教室の中で恥をかかされたことはショックな出来事。  ――鵜飼め‼ 覚えていろよ!  イライラがおさまらない花崎は、図書室で「中世魔女の妙薬レシピ」という怪しげな本を見つけ、「惚れ薬」を鵜飼に使うことを決意して…⁉   惚れ薬の効果なのか溺愛♥高校生活に突入!  花崎はバレーボールに汗を流す鵜飼の姿をカッコいいじゃん、と思い始めたけれど。  『惚れ薬』の効果がきれたら…?  ☆第2回青春BL小説カップにエントリー作品です(*^^*)投票・お気に入り登録・♡などで応援いただけますと大変嬉しいです‼よろしくお願いいたします☆  不定期更新です💦スミマセン💦
BL 完結 長編
文字数:84,218
失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが 表紙

失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが

魔王討伐の為の勇者召喚に巻き込まれた蕪木透。その勇者は苦い思い出のある高校時代の同級生井上朝陽だった。すれ違いから疎遠になった2人が異世界に召喚される話。当て馬的な女の子が出てきますしわりと性悪です。プチざまぁあり。途中主人公があまりいい目にあっていませんがハッピーエンドなので安心してください♪( ´θ`)同性婚ありな世界線です。※他サイトにも掲載あり
BL 完結 短編
文字数:9,900