文字サイズ
小
中
大
特大
6 / 27
第1部 魔族王都編
第5話 止まった時計塔
翌日の夜、《月燈館》の灯りはいつもより少しだけ遠く見えた。
ジルは仕事を終えると、店の裏口から路地へ出た。
誰にも行き先は告げていない。
外套の留め具を締め、雨の気配が残る夜気を吸い込む。肩を少し越す銀髪は、首の後ろで緩く束ねていた。
背後を確認する。
月燈館の裏口。
向かいの屋根。
雨樋。
路地の出口。
追ってくる足音はない。
それでも、いつもの道は使わなかった。
西へ二本。
人通りのある酒場街を抜け、古道具屋の裏へ回る。途中で屋根へ上がり、二度道を変えた。追跡の気配がないことを確かめてから、再び石畳へ降りる。
西区の古い時計塔は、遠くからでも分かった。
黒い建物の上に、止まった時計盤が白く浮かんでいる。
針は、何年も同じ時刻を指したまま。
正確な時を告げる役目は、とうに終えていた。
それでも、夜になると鐘だけは二度鳴る。
一度目の鐘が、低く王都へ響いた。
音は古い屋根を越え、狭い路地へ沈み、水路の暗い水面をわずかに震わせる。
ジルは塔を見上げた。
正面の入口。
西側の水路。
北の壁へ掛けられた古い梯子。
二階の窓。
時計盤の裏へ続く足場。
ルシが地図に描いていた退路は、確かに残されている。
それ以外にも二つ。
隣家の屋根へ移れる狭い梁と、塔の裏から南の通りへ抜ける崩れかけた塀。
逃げようと思えば逃げられる。
少なくとも、表面上は。
二度目の鐘が鳴った。
ジルは塔の扉へ手をかけた。
木が低く軋む。
内側から鍵は掛けられていない。
閉じ込める気はないと示しているのか。
そう思わせるために、開けてあるだけか。
どちらでもよかった。
ジルは袖口の薄刃を確かめ、塔の中へ入った。
*
時計塔の内部には、古い石と油の匂いが残っていた。
壁に沿って螺旋階段が上へ続く。
踏み板は所々欠け、隙間から夜風が入り込んでいる。遠くで歯車がわずかに揺れ、使われなくなった金属同士が、から、と乾いた音を立てた。
動いている仕掛けはない。
それでも塔は、完全には眠っていないようだった。
ジルは階段を上がる。
足音は立てない。
一段。
二段。
踊り場の影。
壁の窪み。
頭上の気配。
最上階に四つ。
ルシ。
クロ。
残りの二人が、カインとゼルだろう。
ひとりは動かない。
重心が低く、階段を上がってくるジルへ真正面を向けている。
もうひとりは、その左側。
大きな音はない。だが、空気の流れがわずかに違う。
術者。
ジルは最後の段へ足を置いた。
視界が開ける。
時計盤の裏側にある、広い機械室。
大きな歯車は止まり、壁際の軸には古い油が黒く固まっている。四方には細い窓があり、ノクティルムの屋根と魔石灯を見渡せた。
中央に、三人と一匹。
ルシは窓枠へ腰を預けている。
その口元にはいつもの軽い笑みがあった。
ただ、ジルが階段口へ姿を見せた瞬間だけ、赤銅色の目がわずかに緩む。
「こんばんは」
「遅い」
低い声を落としたのは、カインだった。
長い黒髪を後ろで束ね、左目を黒い眼帯で覆っている。黒い外套の下には、余計な飾りのない実戦装備。
右目だけが、ジルを正面から射抜いていた。
ジルは時計盤へ視線を向ける。
「時計が止まっている。遅れたかどうかは分からないな」
「鐘は鳴った」
「二度目が鳴り終わる前には入った」
カインの目がさらに鋭くなる。
「口は回るらしい」
「お前ほどではない」
「オレ、まだ何も言ってなくない?」
ルシが横から割り込む。
軽口の形にしていたが、笑みは少し遅れて消えた。
「お前のことだ」
「ひどい」
クロはルシの足元にいた。
ジルを見つけた途端、長い耳を勢いよく立てる。
「きゅう!」
「待て」
ルシが止めるより先に、黒い毛玉は床を蹴った。
強い着地を避けるよう、最初だけ少し歩幅が狭い。それでも、すぐにジルの足元へ駆け寄った。
黒い頭を革靴へ押しつける。
「……お前も来たのか」
「きゅう」
「騒ぐな」
太い尾が外套の裾を叩く。
ルシが笑った。
「歓迎されてるな」
「毛玉に歓迎されても意味はない」
「クロの評価は高いぞ」
「判断が甘い」
「きゅ」
「反論するな」
ジルはクロを抱き上げなかった。
ただ、前足の置き方を一度だけ見る。
ルシの目元が、ジルの視線を追ってほんの少し柔らかくなった。
その視線を、カインは見逃さなかった。
「お前が治療したのか」
挨拶より先に、本題へ入る声。
ジルはカインを見る。
「答える義理はない」
「否定もしないか」
「肯定する義理もない」
短い言葉がぶつかる。
刃と刃。
どちらも音を立てず、先に退く気もない。
「兄貴」
ルシが間へ入る。
「聞き方が尋問なんだよ」
「事実確認だ」
「同じ顔で言うと同じに聞こえる」
「お前は黙っていろ」
「ほら、それ」
カインはルシを見た。
声は変わらない。
だが、残った片目が一度だけ弟の全身を確認した。
危険がないか。
ジルとの距離は近すぎないか。
退路は残っているか。
問い詰める言葉より先に、その目がルシの安全を数えている。
ジルは視線を横へ移した。
カインの左側に立っている男。
ゼル。
肩ほどの黒髪には、夜の魔石灯を受けて紫の艶が浮かぶ。髪の間には、短い黒赤の角。右腕には黒銀の腕輪があり、手には細い銀筆を持っていた。
穏やかな顔。
だが、気配は薄くない。
壁。
床。
歯車の隙間。
ゼルの指先から床へ落ちた暗い藍紫の糸が、影の濃い場所へ細く枝分かれしている。
《影糸》。
目を凝らさなければ、古い歯車の影と見分けがつかないほど細い。糸は階段口や窓、壁際へ通されていたが、ジルの足元へは触れていなかった。
ジルがここへ入った時から、ゼルは塔全体を見ていた。
カインの左を補いながら。
同時に、ジルの逃げ道までは塞がない位置で。
ゼルの右腕輪に刻まれた細い線が、淡い琥珀を帯びた。
腕輪のすぐ上、数センチほどの低い位置に、薄い二重環が水平に浮かぶ。
瞳の絞りを思わせる、小さな術式輪。
ゼルは銀筆の先を外環へ添えた。
一目盛りだけ回す。
内側の円環がわずかに絞られ、余分な線が閉じていく。
強くする動きではない。
渡す情報を、必要な量まで削っている。
最後の目盛りが静かに噛み合うと、術式輪は右腕輪へ沈むように消えた。
ゼルが銀筆を持たない手を、わずかに上げる。
指先から細い琥珀線が伸び、カインの左耳裏へ静かに触れた。
同時に、ゼル自身の耳裏にも、同じ色の細い線が薄く浮かぶ。
派手な魔法陣ではない。
誰かを縛る鎖にも見えない。
ただ、カインの失われた側へ、必要な輪郭だけが置かれたように見えた。
カインは左を見ない。
それでも、その左側にゼルがいることを当然のように受け入れている。
ジルは目を細めた。
支配ではない。
少なくとも、今見える範囲では。
「初めまして、ジル」
ゼルが静かに言った。
「ゼルだ。こちらがカイン。紹介は必要なかったかな」
「ルシから聞いている」
「悪口込みで?」
「兄が心配性だと」
カインがルシを見る。
「何を話した」
「必要な情報だけ」
「恋人がいることもか」
ジルが言う。
一瞬、塔の中が静かになった。
ルシが目を逸らす。
いつもの調子で笑い飛ばしかけて、ほんの少しだけ言葉が遅れた。
「そこまで言わなくてもよくない?」
「言ったのはお前だ」
「まあ、隠してはいないけど」
ゼルは穏やかに笑った。
「事実だから構わないよ」
カインは何も言わない。
ただ、ゼルが自分の左へ立っていることも、その位置を変えないことも拒まなかった。
補う。
だが、縛らない。
ルシが言っていた通りなのか。
今の立ち位置だけでは、まだ分からない。
ジルは機械室の中央へは進まず、階段口から数歩入った場所で止まった。
背後には降りる階段。
右には窓。
左には歯車の足場。
全員を視界へ入れられる位置。
ゼルがその距離を見て言う。
「そこからでいい」
「近づけとは言わないのか」
「近づきたいなら、自分で近づけばいい」
「随分、聞こえのいい答えだな」
「そう聞こえるなら、まだ信用しなくていいよ」
ゼルは微笑んだままだった。
だが、声に媚びはない。
「私たちも、君を無条件に信用しているわけではない」
「それでいい」
ジルは即答する。
ルシが一瞬だけ黙った。
からかう言葉を探したようで、結局、何も言わなかった。
無条件の信用など、一番信用できない。
カインが腕を組む。
「白梟がこの街へ入っている」
「知っている」
「どこまでだ」
「お前たちよりは知っている」
「話せ」
「嫌だ」
間を置かない返答。
ルシが額へ手を当てた。
「会話が本当に刃物なんだよな、この二人」
「お前が軽すぎる」
「ジルまで兄貴側に入るなよ」
「入っていない」
「即答も傷つく」
クロがジルの足元で座り直した。
「きゅう」
「お前は静かにしていろ」
「きゅ」
「返事だけはいい」
ゼルの銀筆が、指先で小さく回る。
「全部を話してほしいとは言わない」
ジルの目がゼルへ戻る。
「何を求める」
「白梟がノクティルムで使っている道の見分け方」
「道?」
「人、荷、名義、宿、商会。白梟が他国で動く時、何を先に置くのか」
「それを教えれば、俺に何を返す」
「この街で黒燈が拾った情報」
ルシが壁から身体を起こした。
笑みが消える。
「白い封蝋だけじゃない。南門から入った旅芸人。西区へ流れた白い香料。白弦商会名義の荷。それから、傭兵崩れに混じった妙に足音の軽い連中」
ジルの視線が止まる。
「白弦商会」
「知ってる?」
「名だけだ」
「本当に?」
「今はな」
ルシは追及しない。
代わりに懐から小さな紙片を取り出した。
「昨日までに拾えたのは、まだこれだけ。どれも単独なら、普通の荷や旅人で終わる」
「だが、時期が重なる」
ゼルが続ける。
「君の似顔絵と白い封蝋が入った直後からね」
カインが短く言う。
「白梟の目的は、お前か」
ジルは答えない。
夜風が、止まった歯車の隙間を抜けた。
古い金属がかすかに震える。
「俺だけなら、放っておけ」
やがて、ジルは言った。
「それはできない」
カインの返答は硬い。
「なぜだ」
「ここはノクティルムだ」
「答えになっていない」
「白梟が、この街の人間と荷を使うなら黒燈の問題だ」
カインはジルを見た。
「お前を守るためではない」
「安心した」
「守られる気もない顔だな」
「必要ない」
「なら、勝手に死ぬな。情報が消える」
実務的な言葉。
情けも、慰めもない。
だからこそ、ジルには理解しやすかった。
ゼルが穏やかに補う。
「白梟が君を追う理由と、黒燈が白梟を止める理由は、完全には同じではない」
「目的が一部重なるだけか」
「そう考えてくれていい」
「共同調査?」
ルシが笑う。
笑みは戻っていたが、ジルの横顔を見る目だけは、少しも笑っていなかった。
「格好よく言うなら」
「格好よくない言い方は」
「互いに利用する」
「そちらの方が分かりやすい」
ジルは三人を見る。
カイン。
正面から圧をかける前衛。
片目でも、こちらの動きを逃さない。
ゼル。
カインの左を補いながら、機械室全体へ術を広げている。
ルシ。
軽口を挟みながら、全員の視線と呼吸を見ている。
そしてクロ。
何も説明せず、ジルの足元で尾を揺らしている。
四者が同じ組織にいる。
だが、誰か一人の命令だけで動いているようには見えなかった。
「条件がある」
ジルが言う。
カインが顎を引く。
「言え」
「月燈館へ手を出すな。店の者を問い詰めるな。俺を捕らえるための餌にも使うな」
「最初からそのつもりはない」
ゼルの返答は静かだった。
「白梟は使う」
「黒燈は使わない」
「証明できるか」
「今はできない」
ゼルは否定しない。
「だから、これから見て判断してほしい」
ジルは目を細める。
「もうひとつ。俺が持っていると、お前たちが考えているものの場所は言わない」
「構わん」
カインが答えた。
ルシが横を見る。
「兄貴、即答するんだ」
「今聞いても話さない」
「理解が深い」
「お前の報告が長かった」
「そこ?」
ジルは続ける。
「拘束しようとした時点で、協力は終わりだ」
「こちらの条件もある」
カインの声が低くなる。
「共同中に勝手に消えるな」
「命令か」
「条件だ」
「断ったら」
「協力しない」
単純だった。
縛って残すとは言わない。
受けないなら、共に動かない。
選択は残っている。
「それから」
カインの右目が、ルシとクロへ一度だけ動く。
「こいつらを囮に使うな」
「使う気はない」
ジルの返事も早かった。
ルシが目を瞬く。
「オレも?」
軽く返すには、ほんの少しだけ遅れた。
「情報屋が捕まれば、情報が途切れる」
「戦力管理?」
「そうだ」
「まだ何も始まってないのに、もう管理されてる」
「勘違いするな」
「はいはい」
「返事は一度にしろ」
「兄貴と同じこと言い始めた」
「黙れ」
「息ぴったりだね」
ゼルが笑った。
その時だった。
足元で、クロの身体が強張る。
長い耳が、時計盤の外へ向いた。
太い尾が止まる。
「ぎゅっ!」
濁った鳴き声。
ジルは考えるより先に顔を上げた。
時計盤の割れた隙間。
夜の屋根。
細い反射。
「伏せろ」
弦が鳴った。
鋭い音ではない。
張り詰めた糸が弾ける、短い震え。
白い矢が、時計盤の隙間を抜けて飛び込んでくる。
狙いはジルではなかった。
中央。
全員から見える歯車の柱。
矢文。
ジルが袖口の薄刃を抜く。
同時に、カインの左耳裏へ沈んでいた琥珀の線が、一度だけ鋭く震えた。
ゼルが拾った輪郭が、一拍分だけカインの左側へ届く。
音はない。
命令の声もない。
けれど、カインは左を見ないまま動いた。
石床が、低く鳴る。
一歩。
迷いのない踏み込み。
カインの短剣が矢の軸を打つ。
硬い音が弾けた。
軌道を変えた矢が、古い柱へ深く突き刺さる。
白い羽根が震えた。
ジルはその一瞬を見ていた。
カインが動いたのは、ゼルに操られたからではない。
ゼルはただ、見えない側へ何かを渡しただけだ。
動くかどうかは、カインが決めている。
ゼルの指先から床へ落ちていた暗い藍紫の《影糸》が、細く伸びた。
矢軸には触れず、結ばれた紙片だけを絡め取り、石床へ落ちる前に止める。
ルシはすでに窓際へ移っていた。
指の間から細い針が放たれる。
遠くの屋根で、小さく金属が鳴った。
だが、人影はすぐに煙突の裏へ消える。
「逃げた」
「追うな」
カインが短く命じる。
「でも」
「二人目がいる可能性がある」
ルシは舌打ちし、窓の影へ身体を寄せた。
ジルは別の窓へ視線を走らせる。
北。
西。
南の屋根。
第二射はない。
クロはゼルの足元で身体を低くし、喉の奥から小さく鳴いている。
「ぎゅぅ……」
「もう大丈夫だよ」
ゼルはクロへ触れず、落ち着いた声だけを向ける。
ゼルの右腕輪に、暗い藍紫の光が戻った。
腕輪のすぐ上へ、《影糸》の術式輪が低く浮く。
ゼルは銀筆の先で内環を一目盛り絞り、残滓を拾う感度だけを上げた。
輪が右腕輪へ沈む。
直後、指先から一本だけほどけた《影糸》が、矢尻、軸、紙片の縁を順になぞった。
「毒はない。爆ぜる仕掛けもない」
「追跡術式は」
ジルが問う。
「薄い残滓はある。でも、ここを知るためのものではない。すでに場所を知っていて、確かめるために付けた程度だね」
カインが柱から矢を抜く。
木が裂ける、乾いた音。
矢羽根は白い。
軸には、梟の羽を模した細い刻印。
見間違えるはずがなかった。
《白梟ギルド》。
ゼルが《影糸》で捕らえた紙片を、床へ広げる。
白い紙。
整った黒い文字。
短い文。
《銀羽》へ。
黒い巣へ身を寄せても、帰還命令は消えない。
文書を携え、白梟へ戻れ。
ジルの呼吸が、一拍だけ止まった。
銀羽。
もう聞きたくなかった名。
名ですらない。
役目。
所有を示す呼び方。
ジルは紙から目を離す。
「銀羽って、お前のことか」
ルシが低く問う。
その顔から、軽口の色が消えていた。
「違う」
「でも向こうは、そう呼んでる」
「向こうが勝手に呼んでいるだけだ」
ジルの声は冷たい。
冷たすぎて、薄い氷のようだった。
ルシは紙片を見下ろす。
いつもの軽口は消えている。
「なら、宛先が間違ってるな」
ジルが目を向ける。
ルシは白い文字を指で弾いた。
「ここにいるのは、銀羽じゃない」
一度、息を置く。
「ジルだ」
時計塔の中から、音が消えた。
風。
古い歯車。
遠くの酒場。
すべてが一瞬だけ遠くなる。
ジルは何も返さない。
返せなかったわけではない。
返す必要がないと判断しただけだ。
そういうことにした。
カインが矢を調べながら言う。
「この場所が漏れている」
「黒燈からとは限らない」
ゼルが答える。
「ルシが月燈館を出たところを見られた。ジルが追われた。時計塔そのものを張られていた。そのどれもあり得る」
「誘いを聞かれた可能性もある」
ルシの目が鋭くなる。
「店の中で?」
「決めるのは早い」
ゼルは紙片を折らず、黒い布の上へ置いた。
「明日、経路ごとに分けて確認しよう」
ジルは三人を見る。
疑いの矛先が、すぐには自分へ向かなかった。
黒燈内部の裏切りだとも。
月燈館から漏れたとも。
ルシの失敗だとも決めない。
可能性を分けた。
白梟なら、先に責任を置く。
記録へ書ける形に整えてから、原因を当てはめる。
黒燈は、まだ断定しない。
それだけで信用する気はない。
だが、見る価値はあった。
「明日の夕刻」
ゼルがジルを見る。
「黒燈で、地図を広げる。今日までに拾った荷、人、宿、商会を全部並べる」
「本部へ入れと?」
「嫌なら別の場所でもいい」
「いや」
ジルは短く言った。
「行く」
ルシの眉が上がる。
返事が一拍だけ遅れた。
「即答?」
「内部を見る機会だ」
「信用してくれた?」
「監視する」
「素直じゃないなあ」
「黙れ」
カインがジルへ向き直る。
「今夜のところは、暫定協力だ。黒燈の情報をすべて見せるわけではない」
「当然だ」
「こちらも、お前のすべては求めない」
「今は、だろ」
「必要になれば聞く」
「答えるかは俺が決める」
「ああ」
カインの返答に迷いはない。
ゼルが穏やかに続ける。
「互いに、話せる範囲から始めよう。話せないことは、何が整えば話せるのかだけ伝える」
「条件を出せと」
「そうだね。黙ったまま相手に理解を求めるのは、君も嫌だろう?」
ジルは答えなかった。
その通りだった。
誰かに全部を明かす気はない。
だが、何も話さないまま相手の手だけ借りるのも違う。
利用するなら、利用される範囲を自分で決める。
それなら理解できる。
「お前に言う義理はない」
ルシが肩をすくめる。
「オレじゃなくてもいい。兄貴でも、ゼルさんでも」
「どれも同じだ」
「クロにでもいい」
「毛玉を巻き込むな」
「もう巻き込まれてるだろ」
ジルは答えられなかった。
クロが「きゅう」と鳴く。
夜風が吹いた。
止まった時計塔の針は動かない。
だが、ジルの周囲だけが、わずかに動き始めている。
逃げるだけではない選択肢。
利用する。
試す。
仮に手を組む。
そのどれも、信じることとは違う。
違うはずだった。
「……仮協力だ」
ジルは短く言った。
ルシの目に、情報屋の光が戻る。
その奥で、ほんの少しだけ目元が緩んだ。
「了解。任務中だけの相棒さん?」
「調子に乗るな」
「でも仮協力だろ」
「仮だ」
「はいはい、仮ね」
クロが高く鳴いた。
「きゅう!」
「お前に決定権はない」
「きゅう」
「胸を張るな」
ルシが笑った。
軽口の後、その笑みは少し遅れて消えた。
けれど、ジルが見る頃には、もういつもの顔に戻っている。
ゼルが静かに息を吐く。
カインだけは変わらない顔で、白梟の矢が飛んできた方角を見ていた。
ジルも、もう一度屋根へ視線を向ける。
闇はすでに空だった。
それでも、追手はいる。
白い王都から伸びてきた手は、もうノクティルムの夜へ触れている。
ジルは外套の内側にしまった紙の重みを確かめた。
まだ何も明かしていない。
文書の場所も。
持っているものの正体も。
自分が何から逃げ、何を終わらせようとしているのかも。
それでも初めて、一人で逃げる以外の道を考えた。
信じるには早い。だが、利用し、試し、仮に手を組むことはできる。そこへ踏み出すかどうかも、自分で決められる。
それが今夜一番の、厄介な変化だった。
感想 0
あなたにおすすめの小説
南国の着膨れた花嫁と領主様
南国の領主アダンはその日、最果ての北国から男の花嫁レウを迎え入れていた。そして、目を見張る。レウの国の衣服は、着膨れてしまうほどに分厚かったのだ。
レウの嫁入りから幸せに暮らす日々を描いた、ほのぼのとしたお話。
MIRAI 人気絶頂のアイドルが突然休業した――その理由を、僕はまだ知らない
人気絶頂のアイドル・加藤未来、22歳。
誰もが羨む才能と容姿を持ち、芸能界で数々の成功を重ねてきた彼は、ある日突然、活動休業を発表する。
仕事が嫌になったわけじゃない。
夢を諦めたわけでもない。
それなのに、未来はステージを降りることを選んだ。
――なぜ?
物語は、そんな現在から始まる。
時間を遡れば、そこにはまだ「アイドル」ではなかった頃の未来がいる。
元天才子役。
我儘で、自己中で、負けず嫌い。
自分の才能を誰よりも信じ、欲しいものは自分の力で手に入れてきた美少年。
一度は離れた芸能界へ、未来は再び戻る。
ドラマ、映画、舞台。
そして、アイドル。
夢を追いかける中で、たくさんの人と出会い、たくさんの経験を重ね、未来は少しずつスターへの道を駆け上がっていく。
仕事なら、思い通りにできた。
努力すれば結果が出る。
才能があれば認められる。
夢を追えば、いつか叶えられる。
未来は、そう思っていた。
――恋をするまでは。
好きという気持ちだけは、自分の思い通りにならない。
誰を好きなのか。
誰と一緒にいたいのか。
そして、自分が本当に望んでいるものは何なのか。
成功していくほど、未来の心には答えの出せないものが増えていく。
これは、人気絶頂のアイドルが突然ステージを降りた「現在」と、
一人の天才少年が夢を追い、スターへと駆け上がっていく「過去」の物語。
過去を辿るほど、現在の未来へと近づいていく。
そして――
過去と現在が交わるとき、未来が休業を選んだ本当の理由が明らかになる。
呪われ薬師、最強の仲間たちと旅に出る~美味しそうだと思っているのは秘密です~
10年前、禁じられた呪術を執り行ったダークエルフの村が滅んだ。
「食らいなさい。死にたくなければ、食らい続けるの。」
生き残ったただひとりの少年が、アイザックだった。
時は流れ、アイザックは魔王城へ向かう旅に出る。人間化してしまったこの体を戻す薬を作るため、材料となる魔物を狩りに行くのだ。だが、戦闘のできない非力な人間になったアイザックひとりでは厳しい。
冒険者として登録し、パーティーメンバーを募ることにしたのだった。
0時更新
以前pixivで掲載していた『背徳gluttony』マオルートの加筆、完結版になります。
二章から腐ります。
三章から少しシリアス魔獣編。
ちゃんとハッピーエンドなのでご安心を。2026/4/21の投稿で完結予定。
2026/3/29 表紙画像 変更
登場人物
アイザック・スティール
今や人間の薬師。訳あって魔王城を目指す。
ジュアン・パインリブ
ギルドで暇を持て余す少年。まだまだ未熟な魔族。アイザックの最初のパーティーメンバー。
魔王ハーゲン(マオ)
次代の魔王。暇を持て余していたところ、アイザックたちに出会い、旅に同行する。
亡霊ハロ
災厄の魔女の弟子。アイザックの呪いや振る舞いに興味を持ち、パーティーに加わる。変態。
氷の王子先輩がお世話係(忠犬)になりました ー僕は戦う!君の未来を守るために‼︎ー
『第2回青春BLカップ』応援ありがとうございました!!
名家に生まれたが汚い子と蔑まれる春陽。
かつてヒーローを夢見る少年だったが、今は目立たないように生きていた。
父の命令で入学させられたのは、未来の日本を担う者だけが集う超エリート学園。
春陽に待っていたのは、希望ではなく絶望だった。優秀な兄を神のように崇拝し、春陽を心の底から憎む男、北蒼月がルームメイト兼世話係に指名されたのだ。
ただ静かに卒業することだけを考えていたが、蒼月からは強烈な拒絶を浴びせられる。
氷のように冷たい関係から始まる二人だけの部屋。
しかし、この最悪の出会いが、春陽の運命を大きく動かすことになる。
なぜ兄は、春陽を嫌う蒼月を推薦したのか。
家の呪縛と兄の影から、春陽は抜け出すことができるのか。
じれじれピュアラブ学園生活は待ったなし!?
犬猿の仲から始まると淡い恋の物語。
氷の王子と呼ばれる忠犬×ヒーローを夢見ていた男の子
無能と呼ばれた婚約者は王を完成させる〜替え玉婚約者のはずが、強すぎる王太子に手放してもらえません〜
兄の身代わりとして王太子の婚約者になった伯爵家次男リュシー。
嘘の名を名乗ったはずが、冷静で誠実な王太子リオンは彼を「力の装置」としてではなく、対等な伴侶として扱おうとする。
本物になりたいと願う替え玉と、完成された王太子の静謐な王宮ロマンス。
現在は王となったリオンとリュシーの関係を中心に、独占欲強めの溺愛が進行中。
『惚れ薬』が効きすぎるなんて、令和の時代にアリですか⁉
☆バレー部モテ男子 鵜飼虎太郎×平凡普通男子 花崎佑二☆
高校二年の花崎は、成績真ん中・運動そこそこ・平均身長の平凡男子。目立たずに教室の端に存在している。
しかしある日突然、バレー部のイケメン男子、鵜飼から「化学のノート、貸してくんない?」と声を掛けられた。
――ええ?なんで僕?
そう焦る花崎だが、それはだたの人間違いだった。
「化学が得意なのは隣のクラスの花菱くん。これは普通の花崎くん」
そんな風にクラスメイトに笑われてしまう。
目立たずに生きてきた花崎にとって、教室の中で恥をかかされたことはショックな出来事。
――鵜飼め‼ 覚えていろよ!
イライラがおさまらない花崎は、図書室で「中世魔女の妙薬レシピ」という怪しげな本を見つけ、「惚れ薬」を鵜飼に使うことを決意して…⁉
惚れ薬の効果なのか溺愛♥高校生活に突入!
花崎はバレーボールに汗を流す鵜飼の姿をカッコいいじゃん、と思い始めたけれど。
『惚れ薬』の効果がきれたら…?
☆第2回青春BL小説カップにエントリー作品です(*^^*)投票・お気に入り登録・♡などで応援いただけますと大変嬉しいです‼よろしくお願いいたします☆
不定期更新です💦スミマセン💦
失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが
魔王討伐の為の勇者召喚に巻き込まれた蕪木透。その勇者は苦い思い出のある高校時代の同級生井上朝陽だった。すれ違いから疎遠になった2人が異世界に召喚される話。当て馬的な女の子が出てきますしわりと性悪です。プチざまぁあり。途中主人公があまりいい目にあっていませんがハッピーエンドなので安心してください♪( ´θ`)同性婚ありな世界線です。※他サイトにも掲載あり


