銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第6話 同じ地図を見る夜



   翌日の夕刻、ルシは《黒燈ギルド》の地下室で地図を広げていた。

 黒い木卓の上には、ノクティルムを細かく区分した地図。大通り、貴族街、商業区、裏市場、古物商通り、そして無法地帯に近い西区。その上に、昨夜から拾い集めた赤い印がいくつも落ちている。


 魔石灯の光は低い。

 紙をめくる音だけが乾いて響き、壁際の通信符が時折、低く震える。赤い印は血ではない。それでも、黒い木目の上へ置くと妙に生々しく見えた。

 壁際にはカインが立ち、腕を組んでいる。片目だけの視線は、地図へ落ちるより先にルシの顔で止まった。目の下、指先、袖口。寝不足も焦りも怪我も、隠して通れる相手ではない。

 ゼルは卓の向かいに座り、ルシが集めた報告書を静かに読んでいる。穏やかな横顔だが、紙をめくる指先に迷いはなかった。

 クロはというと、地図の上で丸くなろうとしていた。

 ルシが首根っこをつまむ。

「そこ、寝床じゃないからな」

「きゅう」

「不満そうに鳴くな。仕事中」

 クロはルシの手からするりと抜け、今度は地図の端に座った。黒銀の登録札が卓の縁へ触れ、ちり、と小さく鳴る。太い尾が赤い印へ届きかけたところで、ルシの指が先にそれを避けた。

「そこも仕事場」

 クロは片耳だけをルシへ向けた。

「返事くらいしろよ」

 ルシがため息をつくと、カインが低く言った。

「寝ていないだろう」

「少しは寝たって」

「少しでは足りない」

「兄貴、今は説教より報告聞いて」

 カインは不満げに眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。

 ゼルが報告書から顔を上げる。

「それで、ジルが言っていた“最近ノクティルムに入ったエルフの一団”だね」

「そう」

 ルシは地図の東門近くに置いた赤印を指で叩いた。

「怪しいのは三つ。一つ目。三日前に東門から入った《白弦商会》名義の便。表向きは香料と香木」

 カインの目がわずかに細くなる。

「白弦か」

「昔からある商会だよ。紙と封蝋で、役所や貴族家にも正規の取引先がある。夜荷と名義貸しの噂も前から絶えない」

「白梟はくきょうとの繋がりは」

「そこまでは出てない。灰色ではあったけど、外国ギルドの工作線として押さえた証拠はない」

 ルシは肩をすくめ、続けた。

「ただ、今回の便は変だ。荷は少ない。なのに護衛が多い。しかも護衛のうち二人は、どう見ても商隊護衛の歩き方じゃない」

 ゼルが報告書へ目を落とす。

「荒事慣れしている?」

「かなり。暗殺者とまでは断言しないけど、少なくとも荷運びの歩き方じゃない」

「香料商という名目は」

「匂いを隠すには便利だろ。毒、薬、魔力残滓、血。香料の荷なら、多少妙な匂いがしてもごまかせる」

 カインが短く言う。

「次」

 ルシは別の印を指した。

「二つ目。旅芸人の一座。エルフが三人混じってる。ただ、こっちは今のところ証拠薄め。顔を隠してる奴がいるけど、単に訳ありの芸人かもしれない」

「三つ目は?」

 ゼルの声に、ルシの指が西区の宿場へ動く。

「傭兵崩れの一団。魔族と人間が中心だけど、裏でエルフ貴族の紋章入りの封蝋を使った手紙を受け取ってる」

 ゼルの目が、わずかに細くなった。

「それはかなり怪しいね」

「だろ?」

 ルシは軽く地図を叩く。

「ただ、妙なんだよな」

「何がだ」

 カインが問う。

「動きが早すぎる」

 地下室の空気が、少しだけ締まった。

 門の記録、宿帳、裏市場の噂。順番を何度並べ直しても、時計塔の一件から広がるには早すぎる。

 ルシは卓に両手をつき、地図を見下ろした。

「昨日の夜、時計塔でジルに矢文が来た。で、今日の昼にはもう、裏市場の一部がざわついてる。まるで“ジルが誰かと接触した”って情報が流れてるみたいに」

 ゼルが報告書を閉じた。

 紙の音が、短く残る。

「私たちと会ったことが漏れた可能性がある」

「外から見張られてたならありえる。でも、昨日の時計塔は兄貴もジルも確認してた。矢を撃った奴以外の気配は拾えてない」

 カインが低く言う。

「内部か」

 その一言で、室内の温度が一段冷える。

 ルシはすぐに首を振った。

「まだ決めつける段階じゃない。黒燈の中とは限らない。月燈館の出入り、裏市場の噂、金羊亭周辺の見張り。漏れる穴はいくらでもある」

「だが、情報制限は必要だね」

 ゼルが静かに言った。

 ルシが片眉を上げる。

「それで?」

「ジルに、外部協力者として動く線を打診する」

「いきなり?」

「正式な所属ではない。内側へ入れすぎない。だが、外に置き去りにもできない。こちらの内部情報には制限をかける。ただし、追手に関する調査には参加してもらう。彼が持っている白梟はくきょう側の知識は必要だ」

 囲わず、放り出しもしない。

 ジルが最も警戒しにくい距離を、ゼルは実務の言葉で切り分けている。ルシはその線を、地図の余白へ置くように頭へ入れた。

 カインは少し黙ったあと、うなずいた。

「異論はない」

 ルシは意外そうに兄を見る。

「反対するかと思った」

「危険だから反対したい」

「本音出てる」

「だが、あいつを外に置いたままにする方が危険だ。勝手に動く」

 ゼルが苦笑する。

「君に似ているね」

「似ていない」

「似てるよ」

 ルシがすかさず言うと、カインの視線が刺さった。

「お前は黙れ」

「はいはい」

 クロが地図の端で「きゅう」と鳴く。

 ゼルがその小さな頭を撫でた。

「ジルの名を出すと、分かりやすいね」

 クロの耳が勢いよく立つ。

「きゅう」

「都合よく読むなよ、ゼルさんまで」

 ルシは苦笑しながら、地図を畳み始めた。

 カインが言う。

「一人で行くな」

「月燈館に報告しに行くだけだって」

「お前の“だけ”は信用できない」

「兄貴、それ昨日も言ってなかった?」

「事実は何度でも言う」

 ゼルがルシへ報告書を渡した。

「渡す情報はここまで。白弦商会、旅芸人、傭兵崩れの三候補。それ以上は、彼の反応を見てから」

「了解」

 ルシは報告書を懐へ入れ、クロを抱き上げようとした。

 クロはするりと避け、地下室の出口へ二歩だけ先に進む。

「お前、行く気満々だな」

「きゅ」

「返事だけ可愛いのやめろ」

 カインが低く言った。

「走るな」

 クロはぴたりと足を止め、耳だけを後ろへ向ける。

「ルシ」

「分かってる。踏み込みすぎない。捕まえない。囲わない。逃げ道は残す」

「軽く言うな」

「軽く言わないと怖いだろ」

 口にすれば簡単だ。どこまでが必要な問いで、どこからが相手の逃げ道を奪うのか。その境目がいちばん難しいことくらい、ルシにも分かっている。

 カインは答えなかった。

 ルシは笑い、足元で待っているクロを肩へ乗せる。クロは慣れたように前足を収め、太い尾をルシの背へ沿わせた。

「行ってくる」

 ゼルが静かに見送った。

「気をつけて」

「はいはい」

「はいは一回でいい」

「それ、兄貴の台詞」

「どちらでも同じだよ」

 ルシはひらりと手を振り、黒い灯りの揺れる地下室を出ていった。

     *

 月燈館の夜は、まだ始まったばかりだった。

 表の廊下には酒と香の匂いが淡く漂い、客の笑い声が扉の向こうで低く響いている。誰もが秘密を持ち込み、誰もが秘密を持ち帰る場所。ルシはそこが嫌いではない。

 ただし今夜は、笑い声の間に落ちる沈黙がいつもより長く聞こえた。

 白梟はくきょうの矢が飛んだ翌日。

 黒い王都の夜は変わらない顔をしている。そのどこかへ、白い目がひとつ紛れ込んでいるように思えた。

 ルシが裏口へ回ると、ちょうどジルが廊下の影から現れたところだった。

 仕事の合間なのか、まだ月燈館の服を着ている。白すぎない薄い衣、首元を隠す黒い飾り紐、肩を少し越える銀髪。客の前に出るための整えられた姿なのに、視線だけはいつものように冷えている。

 クロがルシの肩から飛び降りた。

 短い爪音とともに黒銀札が鳴る。

「きゅう!」

「来るな」

 ジルが言うより早く、クロは足元に突撃した。

 当然のように靴先へ頬を押しつけ、袖口から落ちる薬草の匂いを確かめるように鼻先を上げる。

 ルシは腕を組んだ。

「うちの相棒、本当にしつけ直した方がいい気がしてきた」

 ジルはクロを見下ろしたまま言う。

「お前の相棒は、しつけが足りない」

「それ、オレが今言おうとしたやつ」

「遅い」

「手厳しいなあ」

 クロが嬉しそうに「きゅう」と鳴く。

 ジルは一度だけ周囲を見た。

 廊下の角、奥の階段、近くの個室、開いた窓。最後にルシの肩越しへ視線を流す。報告を聞く前に、尾がついていないか確かめている。

 ルシは両手を軽く上げた。

「今日は報告だけ。兄貴もゼルさんも外にいない」

「それを信じる理由は?」

「オレの顔」

「一番信用できない」

「ひどくない?」

「事実だ」

 ジルは近くの小部屋の扉を開けた。

「入れ。廊下で話す内容じゃない」

「店の小部屋に誘われた」

「帰れ」

「冗談だって」

「半分だろ」

「よく分かってる」

 ジルは答えず、ルシを中へ入れた。

 小部屋は控え用の部屋だった。小さなテーブルと椅子、壁に掛けられた古い絵、香草茶の匂いが残る棚。

 ジルは椅子に座らない。扉の横、窓と廊下の両方が視界に入る位置に立ち、報告書を待つ。袖口の薄刃は、指を曲げれば落とせる位置にある。

 扉を閉める時も、鍵は落とさない。ただ開閉音が外へ漏れない位置に指を添える。

 逃げ道を塞がないための閉め方。

 ルシはそれに気づいたが、言わなかった。

「報告しろ」

「はいはい」

 ルシは報告書をテーブルに広げる。

「怪しいのは三つ。白弦商会の香料商隊、旅芸人の一座、傭兵崩れの一団」

 ジルは立ったまま紙に目を落とした。

 数秒。

 その目つきが変わる。

「白弦商会」

「そこに食いつく?」

「名じゃない。便が雑だ」

「商会自体は本物だ。ノクティルムじゃ古株」

「なら、偽装されているのは商会じゃない。今回の便だ」

 ジルは報告書を一枚めくった。

「荷が少ない。護衛が多い。宿が高い。東門から入り、わざわざ金羊亭に泊まっている」

「金羊亭は南区の高級宿だな」

「目立つ」

「それが問題?」

「逆だ。目立ちすぎる」

 ジルは指先で紙の端を押さえた。

「香料専属便としては積み方が軽すぎる。護衛数とも合わない。本物の商会名義へ、人か裏荷を混ぜている」

「じゃあ囮?」

「可能性が高い」

 ルシは息を吐く。

「やっぱりな」

「分かっていた顔をするな」

「疑ってはいた。でも、お前の判断の方が早い」

「褒めるな。気味が悪い」

「褒めてるんだけどな」

 ルシは軽く笑った。

 ジルは次の紙を見る。

「旅芸人はまだ薄い。顔を隠す理由はいくらでもある。傭兵崩れは怪しいが、表に出るには汚れすぎている」

「白梟はくきょうが本命を隠すなら?」

「白弦商会名義の便を見せて、その裏で傭兵崩れを動かす。あるいは旅芸人に連絡役を混ぜる」

「同じ見立て」

「なら聞くな」

「お前の口から聞きたかったんだよ」

 自分の見立てだけでは埋まらなかった一箇所が、ジルの短い言葉で繋がった。情報屋としては、それで十分な収穫だ。

 ジルの視線が、ルシへ刺さる。

「情報屋の癖か」

「そう。あと、外部協力者の反応確認」

 空気が止まった。

 クロがテーブルの下から顔を出した。

 ルシの声の変化を拾ったのか、長い耳が二人の間で動く。

「きゅ?」

 ジルはゆっくりと目を細めた。

「何だ、それは」

「黒燈側の提案。正式所属じゃない。内部情報は制限付き。だけど、白梟はくきょうの追手に関する調査には参加してもらう」

「俺を囲う気か」

「違う」

 ルシは即答した。

 ジルは黙って見ている。

 ルシは続けた。

「囲うなら、もっと都合のいい言葉を使う。保護対象とか、重要証人とか、そういうやつ。でも今のお前はどれでもないだろ」

「分かっているならいい」

「外部協力者。言葉としては面白くないけど、距離としては悪くない。黒燈の内側に入れすぎない。けど、外に放り出しもしない」

 所属を決める言葉ではない。いつでも断れる余白まで含めた、今夜の線引きだ。

 ジルはしばらく何も言わなかった。

 クロがジルの足元で座り直し、胸を少し持ち上げる。

「お前に意見は聞いていない」

「きゅう」

「胸を張るな」

 ルシが吹き出す。

「じゃあ、今夜だけの協力者ってことで」

「却下」

「早い」

「勝手に呼び名を増やすな」

「外部協力者って長いだろ」

「お前が我慢しろ」

「呼び名だけなら、任務中だけの相棒でもいいけど?」

「帰れ」

「はいはい。外部協力者さん」

 ジルは冷たい目でルシを見た。

「その呼び方もやめろ」

「注文多いなあ」

「当然だ」

 ルシは肩をすくめる。

「あと、クロの命の恩人話」

 ジルの視線がさらに冷える。

「何だ」

「広めない。兄貴とゼルさんにはもうだいたい察されてるけど、黒燈全体に言う気はない」

「当然だ」

「でも、オレは知ってる」

「忘れろ」

「無理」

「努力しろ」

「情報屋に忘れろは無理だって」

 ジルは舌打ちした。

 クロが足元で前足を踏み替え、黒銀札を小さく鳴らす。

 ルシは少しだけ声を落とした。

「今夜、金羊亭へ入った白弦商会名義の便を見に行く」

「囮だと言った」

「だから見る。囮なら、どこへ目を向けさせたいのか分かる」

 ジルは報告書へ視線を戻す。

「金羊亭の裏か」

「そう。荷の出入りがある。香料商にしては、夜の荷運びが多い」

「誰と?」

「オレとクロ」

「帰れ」

「まだ出てない」

「一人で行くな」

 言ってから、ジルは口を閉じた。

 小部屋の中で、香草茶の匂いだけが薄く残る。

 拒まなかった、ではない。今度は、行くなと止めた。

 ルシはその違いを、余計な顔に出さないようにして覚えた。

「今の、心配?」

「情報屋が死ぬと情報が途切れる」

「はいはい。そういうことにしとく」

「勝手に解釈するな」

「するなと言われるとしたくなる」

「性格が悪い」

「知ってる」

 ジルは短く息を吐いた。

「俺も行く」

 ルシは笑いを引っ込めた。

 頼まれたからではない。危険を告げたうえで、それでもジルは同じ場所へ来ると決めた。その一歩は、情報として忘れないでおく価値がある。

「いいのか?」

「囮を囮と分かって見に行くなら、白梟はくきょう側の読み方を知っている者がいた方がいい」

「外部協力者、さっそく現場確認?」

「その呼び方をしたら帰る」

「はいはい」

 クロが嬉しそうに鳴いた。

「きゅう!」

「お前は留守番だ」

「きゅう!?」

「不満そうにするな」

 ルシがにやりとする。

「クロは連れて行く。小さいし、暗がりで動ける。危なくなったら先に退かせる」

「毛玉を戦力に数えるな」

「本人は行く気だけど?」

 クロが耳を立てる。

「やる気を出すな」

 ジルは眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。


     *

 深夜の金羊亭裏は、表の華やかさとはまるで違って見えた。

 南区の高級宿として知られる金羊亭は、正面から見れば明るく、上品で、裕福な商人や貴族の代理人が泊まるのに相応しい場所だった。金色の羊をかたどった看板、磨かれた窓、香草を焚いた玄関。

 だが裏手へ回れば、そこは荷運び用の通路になる。

 酒樽、空箱、汚れた布袋、濡れた石畳。厨房から流れる油の匂いに、香料の甘さが重なっている。

 甘い。

 甘すぎる。

 濡れた石畳や酒樽の木の匂いまで、無理に塗りつぶすような濃さだった。

 その甘さが、かえって不自然だった。

 ジルは屋根の影に身を潜め、下を見下ろしていた。

 少し離れた煙突の陰にルシ。さらに低い屋根の縁にクロ。二つの位置は、視線を大きく動かさなくても拾える範囲にある。

 ルシが小声で言う。

「香料、強すぎるな」

「匂いを隠している」

「血?」

「薬か、毒か、魔力残滓か。全部かもしれない」

「嫌な全部乗せだな」

「軽口を減らせ」

「緊張してるんだよ」

「なら黙れ」

「それは無理」

 ジルは答えず、下の荷運び通路を見た。

 二人の男がいる。

 今回の白弦商会名義の便で、護衛として登録されている者だ。だが、歩き方が違う。荷を持つ者の足ではない。いつでも刃を抜けるよう、肩の力が抜けすぎている。

 一人が小さな包みを運び、もう一人が周囲を見る。

 ルシが囁く。

「尾ける?」

「少し待て」

「何を」

「見せすぎている」

 その瞬間、クロの鼻先が屋根瓦へ向いた。

 ふわふわの尾が、ぴたりと止まる。長い耳が伏せられ、喉の奥から低く濁った声が漏れた。

「ぎゅぅ……」

 ジルの目が動いた。

 足元。

 屋根瓦の隙間に、薄い粉が撒かれている。

 香料粉に見える。

 だが、違う。

「ルシ、動くな」

「もう踏んだ?」

「半歩戻れ。足を引きずるな」

 ルシの表情から軽さが消えた。

 問い返しは一度だけ。あとは言われた通り、足を引きずらずにゆっくりと重心を戻す。現場でこの切り替えができるなら、少なくとも足手まといではない。

 粉がわずかに光った。

 ジルは袖口から薄刃を出し、瓦の端へそっと差し込む。粉の下には、細い札が仕込まれていた。踏めば光り、位置を知らせる仕掛けだ。

「白梟はくきょう式か」

「簡易だがな」

「囮を見る奴を、さらに見てるわけか」

「そうだ」

 下の男たちが、ふと足を止めた。

 気づかれたのではない。

 待っている。

 ジルは息を止めた。

 右の屋根。

 背後。

 風の流れが変わる。

 刃が来た。

 ジルはルシの肩を掴み、横へ引いた。投げ刃が、ルシのいた場所を裂く。ほぼ同時に、二人の影が屋根の上へ上がってきた。

 白い袖口。

 細い短剣。

 顔は布で隠されている。

 白梟はくきょうの実働員だ。

「ジルは殺すな」

 片方が低く言う。

「情報屋は確保。無理なら処分」

 ルシの目が冷えた。

「オレ、いつの間にそんな扱いに?」

「黙ってろ」

 ジルはルシを背に置き、短剣を抜いた。

 敵が踏み込む。

 速い。

 だが、白梟はくきょうの速さだった。

 真っ直ぐに見えて、視線を散らす。片方が刃で追い、もう片方が袖の中から拘束符を出す。捕らえるための動き。殺しではない。

 ジルは一歩沈んだ。

 刃を受けない。

 斜めに外し、相手の手首を柄で打つ。骨を砕かず、神経だけを痺れさせる。拘束符が指から滑り、屋根瓦の上で乾いた音を立てた。

 ジルの靴先がそれを屋根の外へ弾く。

 白い札は夜気を切り、下の路地へ消える。

 もう一人がルシへ回ろうとする。

 ルシは笑った。

「こっち来るの?」

 軽い声。

 その声に一瞬だけ相手の意識が向く。

 ルシの指先から細針が飛んだ。

 針は首ではなく、手の甲へ刺さる。敵の指が鈍る。その一拍で、クロが屋根の縁から飛び出した。

「きゅう!」

 黒い毛玉が、敵の顔面に張りつく。

 視界を奪ったのは、ほんの一拍だけだった。

「っ、何だこれは!」

「毛玉だ」

 ジルはその一拍だけで足りた。敵の膝裏を蹴る。

 男は屋根の上に崩れ落ちる。ジルはその首筋へ短剣の柄を落とした。

 鈍い音。

 気絶。

 殺していない。

 ルシが片腕を差し出すと、クロはすぐに男の顔から離れ、低い屋根の縁へ着地した。前足を踏ん張り、次の動きを待つ。

 もう一人が距離を取る。

 その手には小型の弩があった。

 狙いはルシ。

 ジルの体が先に動く。

 ルシの前へ出る。毒矢が外套を裂いた。刃ではなく布をかすめただけだが、矢尻の匂いで分かる。

 毒だ。

 ジルの目が冷たくなる。

「軽く済ませる気はなさそうだな」

「ジル」

 ルシの声が低い。

「右下、荷箱の陰。もう一人」

 ジルは視線を動かさずに聞いた。

「見えるのか」

「香料の煙が逆に流れてる。誰かが息してる」

「よく見た」

「褒めた?」

「事実確認だ」

「はいはい」

 ジルは足元の瓦を蹴った。

 砕けた欠片が荷箱の陰へ飛ぶ。潜んでいた三人目が身をかわした瞬間、ルシが細い糸を投げた。足首に絡む。倒れはしない。だが一拍、動きが止まる。

 それで十分だった。

 ジルが屋根から落ちるように降りる。

 石畳に着地する前に体をひねり、三人目の腕を取る。関節を逆に流し、壁へ叩きつける。短剣を喉元へ当てる。

「誰の指示だ」

 男は答えない。

 ジルは短剣を押し込まない。

 代わりに、男の袖口から白い札を抜いた。

 白い封蝋の欠片。

 その下に、別の印がある。

 白弦商会の商会印。

 さらに裏側に、ノクティルムの闇取引印が重ねられていた。

 ノクティルムの内側に通じる印。

 ルシが下りてきて、それを見る。

「商会印の型は本物だ。けど、封緘ふうかんの順が正規便と違う」

「本物の荷へ、別の荷を混ぜたか」

「ああ。商会の名があるだけで、御者も店員も全部噛んでるとは決められない」

「だが、この便を仕立てた者は知っている」

「そこから拾うか」

 ジルは男の懐を探り、小さな指令書を抜いた。

 中身は短い。

 ジルは読み、目を細める。

「何て?」

 ルシが聞く。

 ジルは指令書を折った。

「銀髪のエルフは殺すな。情報屋は確保。不可なら処分」

 ルシがひゅう、と軽く口笛を鳴らした。

「オレ、人気者だな」

 次の瞬間、ジルの手がルシの胸倉を掴んだ。

 布が小さく軋む。

 処分という語が、ルシを示す文と同じ紙にある。それを軽口で流されることが、なぜか許せなかった。

「軽く言うな」

 ルシの目がわずかに見開かれる。

 ジルの声は低かった。

「処分と書かれている。白梟はくきょうの処分は、死体が残るとは限らない」

 ルシは、しばらく黙った。

 赤みのある目が、服を掴むジルの指へ落ち、それからゆっくり上がってくる。いつもなら一言多い男が、今は理由を読もうとする言葉を口にしなかった。

「……分かった」

 ルシは静かに言った。

「軽く言わない」

 ジルは数秒してから手を離した。

「情報屋が死ぬと困る」

「うん」

「勝手に死ぬな」

「死ぬ予定はない」

「予定の話ではない」

「じゃあ、黙って消えるなってやつと同じだな」

 ジルがルシを睨む。

 ルシは軽く笑った。

 ただし、いつもより少しだけ静かに。

「ジル」

「何だ」

「お前もだ」

「俺は消えないとは言っていない」

「なら、消える前に言え」

 止めるとは言わない。

 行き先を決めるとも、追いかけて連れ戻すとも。

 ただ、言えと言う。

「面倒だな」

「よく言われる」

 クロが男の背中へ前足をかけ、短く鳴いた。

「きゅう」

 ジルはそちらを見る。

「そこに乗るな」

 低い声に、クロはすぐ男の背から降りる。それでも尾だけは高い。

 ルシが肩を震わせた。

「今日一番の功労者かも」

「顔面に飛んだだけだ」

「それが大事なんだって」

「毛玉を褒めるな。調子に乗る」

 クロの尾がさらに持ち上がる。

「もう乗ってるな」

 ジルはため息をついた。

 その間にも、手は止まらない。気絶した敵の武器を遠ざけ、拘束符を無力化し、残った毒矢を布で包む。指令書、商会印、闇取引印。持ち帰れるものだけを選んでいく。

 正式な保全ではない。

 だが、今は十分だった。

     *

 深夜を回る頃、ジルは黒燈の地下室で、同じ地図を見下ろしていた。

 黒い木卓の上には、新しい赤印が増えている。

 白弦商会の印。

 金羊亭裏。

 闇取引印。

 そして、傭兵崩れの宿場へ伸びる細い印。

 ルシは卓に肘をつき、眠そうな顔で地図を見ている。クロは今度こそ地図の端で丸くなりかけ、カインに無言で抱え上げられていた。

「きゅう」

「寝床じゃない」

 カインの低い声に、クロは耳を伏せたまま力を抜く。暴れはしない。

「不満そうにするな」

 ゼルが指令書を読み終え、静かに言う。

「今回の白弦商会名義の便は囮だね」

「だろうな」

 ジルは卓の反対側に立っていた。

 まだ外套を脱いでいない。髪は少し乱れ、袖口には毒矢で裂けた跡がある。

 ルシの視線が裂けた袖口で止まり、眉間へ浅い皺が寄る。

「当たってないよな」

「布だけだ」

「毒は?」

「入っていない」

「本当?」

「嘘をつく理由がない」

「あるだろ。心配されたくないとか」

「うるさい」

 カインがルシを見た。

「お前もだ」

「オレ?」

「眠り薬を使っただろ。量を間違えると自分にも回る」

「兄貴、よく見てるなあ」

「お前のやり方は知っている」

 ゼルが地図へ視線を戻す。

「金羊亭の偽装便は、目立つ囮。裏手の荷運び通路は誘導。狙いは、ジルの反応と、ルシの処理」

「処理って言い方、嫌だねえ」

 言葉は軽い。だが、声の底から笑いは消えていた。

 ジルは地図を見下ろした。

「本命は、傭兵崩れか旅芸人側にある」

「理由は?」

 カインが問う。

「あの便が目を集めすぎている。白梟はくきょうはもっと静かに動く。目立つ役を置くなら、その陰に連絡役を置く」

 ジルは指で西区の宿場を示した。

「傭兵崩れは汚れ役に向く。だが、手紙の受け渡しが雑だ。使い捨ての可能性がある」

「旅芸人は?」

「顔を隠しても不自然ではない。移動も多い。人目に触れても、記憶に残りにくい。連絡役を混ぜるならそちらだ」

 ルシが口元に笑みを浮かべる。

「外部協力者、優秀だな」

「その呼び方をするな」

「じゃあ何て呼べばいい?」

「呼ぶな」

「無理」

 クロが「きゅう」と鳴いた。

 ゼルが小さく笑う。

「少なくとも、同じ地図は見てくれるようになったね」

 ジルの指が止まった。

 地図の上。

 赤い印。

 低く震える通信符。

 黒い魔石灯。

 そこに自分の手が置かれている。

 正式な所属ではない。

 信用したわけでもない。

 だが、逃亡者としてただ外から眺めていた時とは、少しだけ違う場所に立っている。

「……見るだけだ」

 ジルは低く言った。

 ルシが笑う。

「はいはい。見るだけの外部協力者さん」

「ルシ」

「何?」

「次にそれを言ったら、地図ごとお前を畳む」

「地図は悪くないだろ」

「お前が悪い」

「手厳しい」

 カインが短く言う。

「次は西区だな」

 ゼルがうなずく。

「傭兵宿と地下水路。どちらも罠に向く」

 ルシは伸びをした。

「じゃあ、少し寝てから行くか」

 カインが即座に言う。

「寝ろ」

「命令早い」

「従え」

「はいはい」

 ジルは地図から手を離した。

 その時、クロがカインの腕からするりと抜け、卓の上へ着地した。赤印の手前で足を置き直し、紙の端だけを伝ってジルの前まで来る。

「きゅう」

「何だ」

 クロはまっすぐジルを見上げた。

 ルシが目を細める。

「労ってるつもりかもな」

「都合よく読むな」

「断定はしてない」

 ジルはクロを見下ろした。

 黒い毛玉は、まっすぐにこちらを見ている。

 雨の日に拾った時と同じ目だった。

 ジルは小さく息を吐き、クロの頭を指先で一度だけ撫でた。

「……働きは悪くなかった」

 クロの耳が勢いよく立つ。

「きゅう!」

「騒ぐな」

 太い尾が卓の外で大きく一度揺れた。

 ルシが笑い、ゼルが穏やかに目を伏せ、カインは何も言わずに出入口を見ている。

 ジルはもう一度、地図を見た。

 白弦商会。

 旅芸人。

 傭兵崩れ。

 白梟はくきょうの手は、いくつもの顔をしてノクティルムへ入り込んでいる。

 そして自分は今、その手を追うために黒燈の地図を見ている。

 外部協力者。

 仮登録ではない。

 信用でもない。

  けれど、拒絶でもなかった。

 それでも、同じ灯りの下で、同じ地図に手を置いている。

 その事実だけが、逃げ道の数に混じって、静かに増えていた。
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