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第1部 魔族王都編
第6話 同じ地図を見る夜
翌日の夕刻、ルシは《黒燈ギルド》の地下室で地図を広げていた。
黒い木卓の上には、ノクティルムを細かく区分した地図。大通り、貴族街、商業区、裏市場、古物商通り、そして無法地帯に近い西区。その上に、昨夜から拾い集めた赤い印がいくつも落ちている。
魔石灯の光は低い。
紙をめくる音だけが乾いて響き、壁際の通信符が時折、低く震える。赤い印は血ではない。それでも、黒い木目の上へ置くと妙に生々しく見えた。
壁際にはカインが立ち、腕を組んでいる。片目だけの視線は、地図へ落ちるより先にルシの顔で止まった。目の下、指先、袖口。寝不足も焦りも怪我も、隠して通れる相手ではない。
ゼルは卓の向かいに座り、ルシが集めた報告書を静かに読んでいる。穏やかな横顔だが、紙をめくる指先に迷いはなかった。
クロはというと、地図の上で丸くなろうとしていた。
ルシが首根っこをつまむ。
「そこ、寝床じゃないからな」
「きゅう」
「不満そうに鳴くな。仕事中」
クロはルシの手からするりと抜け、今度は地図の端に座った。黒銀の登録札が卓の縁へ触れ、ちり、と小さく鳴る。太い尾が赤い印へ届きかけたところで、ルシの指が先にそれを避けた。
「そこも仕事場」
クロは片耳だけをルシへ向けた。
「返事くらいしろよ」
ルシがため息をつくと、カインが低く言った。
「寝ていないだろう」
「少しは寝たって」
「少しでは足りない」
「兄貴、今は説教より報告聞いて」
カインは不満げに眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
ゼルが報告書から顔を上げる。
「それで、ジルが言っていた“最近ノクティルムに入ったエルフの一団”だね」
「そう」
ルシは地図の東門近くに置いた赤印を指で叩いた。
「怪しいのは三つ。一つ目。三日前に東門から入った《白弦商会》名義の便。表向きは香料と香木」
カインの目がわずかに細くなる。
「白弦か」
「昔からある商会だよ。紙と封蝋で、役所や貴族家にも正規の取引先がある。夜荷と名義貸しの噂も前から絶えない」
「白梟との繋がりは」
「そこまでは出てない。灰色ではあったけど、外国ギルドの工作線として押さえた証拠はない」
ルシは肩をすくめ、続けた。
「ただ、今回の便は変だ。荷は少ない。なのに護衛が多い。しかも護衛のうち二人は、どう見ても商隊護衛の歩き方じゃない」
ゼルが報告書へ目を落とす。
「荒事慣れしている?」
「かなり。暗殺者とまでは断言しないけど、少なくとも荷運びの歩き方じゃない」
「香料商という名目は」
「匂いを隠すには便利だろ。毒、薬、魔力残滓、血。香料の荷なら、多少妙な匂いがしてもごまかせる」
カインが短く言う。
「次」
ルシは別の印を指した。
「二つ目。旅芸人の一座。エルフが三人混じってる。ただ、こっちは今のところ証拠薄め。顔を隠してる奴がいるけど、単に訳ありの芸人かもしれない」
「三つ目は?」
ゼルの声に、ルシの指が西区の宿場へ動く。
「傭兵崩れの一団。魔族と人間が中心だけど、裏でエルフ貴族の紋章入りの封蝋を使った手紙を受け取ってる」
ゼルの目が、わずかに細くなった。
「それはかなり怪しいね」
「だろ?」
ルシは軽く地図を叩く。
「ただ、妙なんだよな」
「何がだ」
カインが問う。
「動きが早すぎる」
地下室の空気が、少しだけ締まった。
門の記録、宿帳、裏市場の噂。順番を何度並べ直しても、時計塔の一件から広がるには早すぎる。
ルシは卓に両手をつき、地図を見下ろした。
「昨日の夜、時計塔でジルに矢文が来た。で、今日の昼にはもう、裏市場の一部がざわついてる。まるで“ジルが誰かと接触した”って情報が流れてるみたいに」
ゼルが報告書を閉じた。
紙の音が、短く残る。
「私たちと会ったことが漏れた可能性がある」
「外から見張られてたならありえる。でも、昨日の時計塔は兄貴もジルも確認してた。矢を撃った奴以外の気配は拾えてない」
カインが低く言う。
「内部か」
その一言で、室内の温度が一段冷える。
ルシはすぐに首を振った。
「まだ決めつける段階じゃない。黒燈の中とは限らない。月燈館の出入り、裏市場の噂、金羊亭周辺の見張り。漏れる穴はいくらでもある」
「だが、情報制限は必要だね」
ゼルが静かに言った。
ルシが片眉を上げる。
「それで?」
「ジルに、外部協力者として動く線を打診する」
「いきなり?」
「正式な所属ではない。内側へ入れすぎない。だが、外に置き去りにもできない。こちらの内部情報には制限をかける。ただし、追手に関する調査には参加してもらう。彼が持っている白梟側の知識は必要だ」
囲わず、放り出しもしない。
ジルが最も警戒しにくい距離を、ゼルは実務の言葉で切り分けている。ルシはその線を、地図の余白へ置くように頭へ入れた。
カインは少し黙ったあと、うなずいた。
「異論はない」
ルシは意外そうに兄を見る。
「反対するかと思った」
「危険だから反対したい」
「本音出てる」
「だが、あいつを外に置いたままにする方が危険だ。勝手に動く」
ゼルが苦笑する。
「君に似ているね」
「似ていない」
「似てるよ」
ルシがすかさず言うと、カインの視線が刺さった。
「お前は黙れ」
「はいはい」
クロが地図の端で「きゅう」と鳴く。
ゼルがその小さな頭を撫でた。
「ジルの名を出すと、分かりやすいね」
クロの耳が勢いよく立つ。
「きゅう」
「都合よく読むなよ、ゼルさんまで」
ルシは苦笑しながら、地図を畳み始めた。
カインが言う。
「一人で行くな」
「月燈館に報告しに行くだけだって」
「お前の“だけ”は信用できない」
「兄貴、それ昨日も言ってなかった?」
「事実は何度でも言う」
ゼルがルシへ報告書を渡した。
「渡す情報はここまで。白弦商会、旅芸人、傭兵崩れの三候補。それ以上は、彼の反応を見てから」
「了解」
ルシは報告書を懐へ入れ、クロを抱き上げようとした。
クロはするりと避け、地下室の出口へ二歩だけ先に進む。
「お前、行く気満々だな」
「きゅ」
「返事だけ可愛いのやめろ」
カインが低く言った。
「走るな」
クロはぴたりと足を止め、耳だけを後ろへ向ける。
「ルシ」
「分かってる。踏み込みすぎない。捕まえない。囲わない。逃げ道は残す」
「軽く言うな」
「軽く言わないと怖いだろ」
口にすれば簡単だ。どこまでが必要な問いで、どこからが相手の逃げ道を奪うのか。その境目がいちばん難しいことくらい、ルシにも分かっている。
カインは答えなかった。
ルシは笑い、足元で待っているクロを肩へ乗せる。クロは慣れたように前足を収め、太い尾をルシの背へ沿わせた。
「行ってくる」
ゼルが静かに見送った。
「気をつけて」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
「それ、兄貴の台詞」
「どちらでも同じだよ」
ルシはひらりと手を振り、黒い灯りの揺れる地下室を出ていった。
*
月燈館の夜は、まだ始まったばかりだった。
表の廊下には酒と香の匂いが淡く漂い、客の笑い声が扉の向こうで低く響いている。誰もが秘密を持ち込み、誰もが秘密を持ち帰る場所。ルシはそこが嫌いではない。
ただし今夜は、笑い声の間に落ちる沈黙がいつもより長く聞こえた。
白梟の矢が飛んだ翌日。
黒い王都の夜は変わらない顔をしている。そのどこかへ、白い目がひとつ紛れ込んでいるように思えた。
ルシが裏口へ回ると、ちょうどジルが廊下の影から現れたところだった。
仕事の合間なのか、まだ月燈館の服を着ている。白すぎない薄い衣、首元を隠す黒い飾り紐、肩を少し越える銀髪。客の前に出るための整えられた姿なのに、視線だけはいつものように冷えている。
クロがルシの肩から飛び降りた。
短い爪音とともに黒銀札が鳴る。
「きゅう!」
「来るな」
ジルが言うより早く、クロは足元に突撃した。
当然のように靴先へ頬を押しつけ、袖口から落ちる薬草の匂いを確かめるように鼻先を上げる。
ルシは腕を組んだ。
「うちの相棒、本当にしつけ直した方がいい気がしてきた」
ジルはクロを見下ろしたまま言う。
「お前の相棒は、しつけが足りない」
「それ、オレが今言おうとしたやつ」
「遅い」
「手厳しいなあ」
クロが嬉しそうに「きゅう」と鳴く。
ジルは一度だけ周囲を見た。
廊下の角、奥の階段、近くの個室、開いた窓。最後にルシの肩越しへ視線を流す。報告を聞く前に、尾がついていないか確かめている。
ルシは両手を軽く上げた。
「今日は報告だけ。兄貴もゼルさんも外にいない」
「それを信じる理由は?」
「オレの顔」
「一番信用できない」
「ひどくない?」
「事実だ」
ジルは近くの小部屋の扉を開けた。
「入れ。廊下で話す内容じゃない」
「店の小部屋に誘われた」
「帰れ」
「冗談だって」
「半分だろ」
「よく分かってる」
ジルは答えず、ルシを中へ入れた。
小部屋は控え用の部屋だった。小さなテーブルと椅子、壁に掛けられた古い絵、香草茶の匂いが残る棚。
ジルは椅子に座らない。扉の横、窓と廊下の両方が視界に入る位置に立ち、報告書を待つ。袖口の薄刃は、指を曲げれば落とせる位置にある。
扉を閉める時も、鍵は落とさない。ただ開閉音が外へ漏れない位置に指を添える。
逃げ道を塞がないための閉め方。
ルシはそれに気づいたが、言わなかった。
「報告しろ」
「はいはい」
ルシは報告書をテーブルに広げる。
「怪しいのは三つ。白弦商会の香料商隊、旅芸人の一座、傭兵崩れの一団」
ジルは立ったまま紙に目を落とした。
数秒。
その目つきが変わる。
「白弦商会」
「そこに食いつく?」
「名じゃない。便が雑だ」
「商会自体は本物だ。ノクティルムじゃ古株」
「なら、偽装されているのは商会じゃない。今回の便だ」
ジルは報告書を一枚めくった。
「荷が少ない。護衛が多い。宿が高い。東門から入り、わざわざ金羊亭に泊まっている」
「金羊亭は南区の高級宿だな」
「目立つ」
「それが問題?」
「逆だ。目立ちすぎる」
ジルは指先で紙の端を押さえた。
「香料専属便としては積み方が軽すぎる。護衛数とも合わない。本物の商会名義へ、人か裏荷を混ぜている」
「じゃあ囮?」
「可能性が高い」
ルシは息を吐く。
「やっぱりな」
「分かっていた顔をするな」
「疑ってはいた。でも、お前の判断の方が早い」
「褒めるな。気味が悪い」
「褒めてるんだけどな」
ルシは軽く笑った。
ジルは次の紙を見る。
「旅芸人はまだ薄い。顔を隠す理由はいくらでもある。傭兵崩れは怪しいが、表に出るには汚れすぎている」
「白梟が本命を隠すなら?」
「白弦商会名義の便を見せて、その裏で傭兵崩れを動かす。あるいは旅芸人に連絡役を混ぜる」
「同じ見立て」
「なら聞くな」
「お前の口から聞きたかったんだよ」
自分の見立てだけでは埋まらなかった一箇所が、ジルの短い言葉で繋がった。情報屋としては、それで十分な収穫だ。
ジルの視線が、ルシへ刺さる。
「情報屋の癖か」
「そう。あと、外部協力者の反応確認」
空気が止まった。
クロがテーブルの下から顔を出した。
ルシの声の変化を拾ったのか、長い耳が二人の間で動く。
「きゅ?」
ジルはゆっくりと目を細めた。
「何だ、それは」
「黒燈側の提案。正式所属じゃない。内部情報は制限付き。だけど、白梟の追手に関する調査には参加してもらう」
「俺を囲う気か」
「違う」
ルシは即答した。
ジルは黙って見ている。
ルシは続けた。
「囲うなら、もっと都合のいい言葉を使う。保護対象とか、重要証人とか、そういうやつ。でも今のお前はどれでもないだろ」
「分かっているならいい」
「外部協力者。言葉としては面白くないけど、距離としては悪くない。黒燈の内側に入れすぎない。けど、外に放り出しもしない」
所属を決める言葉ではない。いつでも断れる余白まで含めた、今夜の線引きだ。
ジルはしばらく何も言わなかった。
クロがジルの足元で座り直し、胸を少し持ち上げる。
「お前に意見は聞いていない」
「きゅう」
「胸を張るな」
ルシが吹き出す。
「じゃあ、今夜だけの協力者ってことで」
「却下」
「早い」
「勝手に呼び名を増やすな」
「外部協力者って長いだろ」
「お前が我慢しろ」
「呼び名だけなら、任務中だけの相棒でもいいけど?」
「帰れ」
「はいはい。外部協力者さん」
ジルは冷たい目でルシを見た。
「その呼び方もやめろ」
「注文多いなあ」
「当然だ」
ルシは肩をすくめる。
「あと、クロの命の恩人話」
ジルの視線がさらに冷える。
「何だ」
「広めない。兄貴とゼルさんにはもうだいたい察されてるけど、黒燈全体に言う気はない」
「当然だ」
「でも、オレは知ってる」
「忘れろ」
「無理」
「努力しろ」
「情報屋に忘れろは無理だって」
ジルは舌打ちした。
クロが足元で前足を踏み替え、黒銀札を小さく鳴らす。
ルシは少しだけ声を落とした。
「今夜、金羊亭へ入った白弦商会名義の便を見に行く」
「囮だと言った」
「だから見る。囮なら、どこへ目を向けさせたいのか分かる」
ジルは報告書へ視線を戻す。
「金羊亭の裏か」
「そう。荷の出入りがある。香料商にしては、夜の荷運びが多い」
「誰と?」
「オレとクロ」
「帰れ」
「まだ出てない」
「一人で行くな」
言ってから、ジルは口を閉じた。
小部屋の中で、香草茶の匂いだけが薄く残る。
拒まなかった、ではない。今度は、行くなと止めた。
ルシはその違いを、余計な顔に出さないようにして覚えた。
「今の、心配?」
「情報屋が死ぬと情報が途切れる」
「はいはい。そういうことにしとく」
「勝手に解釈するな」
「するなと言われるとしたくなる」
「性格が悪い」
「知ってる」
ジルは短く息を吐いた。
「俺も行く」
ルシは笑いを引っ込めた。
頼まれたからではない。危険を告げたうえで、それでもジルは同じ場所へ来ると決めた。その一歩は、情報として忘れないでおく価値がある。
「いいのか?」
「囮を囮と分かって見に行くなら、白梟側の読み方を知っている者がいた方がいい」
「外部協力者、さっそく現場確認?」
「その呼び方をしたら帰る」
「はいはい」
クロが嬉しそうに鳴いた。
「きゅう!」
「お前は留守番だ」
「きゅう!?」
「不満そうにするな」
ルシがにやりとする。
「クロは連れて行く。小さいし、暗がりで動ける。危なくなったら先に退かせる」
「毛玉を戦力に数えるな」
「本人は行く気だけど?」
クロが耳を立てる。
「やる気を出すな」
ジルは眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
*
深夜の金羊亭裏は、表の華やかさとはまるで違って見えた。
南区の高級宿として知られる金羊亭は、正面から見れば明るく、上品で、裕福な商人や貴族の代理人が泊まるのに相応しい場所だった。金色の羊をかたどった看板、磨かれた窓、香草を焚いた玄関。
だが裏手へ回れば、そこは荷運び用の通路になる。
酒樽、空箱、汚れた布袋、濡れた石畳。厨房から流れる油の匂いに、香料の甘さが重なっている。
甘い。
甘すぎる。
濡れた石畳や酒樽の木の匂いまで、無理に塗りつぶすような濃さだった。
その甘さが、かえって不自然だった。
ジルは屋根の影に身を潜め、下を見下ろしていた。
少し離れた煙突の陰にルシ。さらに低い屋根の縁にクロ。二つの位置は、視線を大きく動かさなくても拾える範囲にある。
ルシが小声で言う。
「香料、強すぎるな」
「匂いを隠している」
「血?」
「薬か、毒か、魔力残滓か。全部かもしれない」
「嫌な全部乗せだな」
「軽口を減らせ」
「緊張してるんだよ」
「なら黙れ」
「それは無理」
ジルは答えず、下の荷運び通路を見た。
二人の男がいる。
今回の白弦商会名義の便で、護衛として登録されている者だ。だが、歩き方が違う。荷を持つ者の足ではない。いつでも刃を抜けるよう、肩の力が抜けすぎている。
一人が小さな包みを運び、もう一人が周囲を見る。
ルシが囁く。
「尾ける?」
「少し待て」
「何を」
「見せすぎている」
その瞬間、クロの鼻先が屋根瓦へ向いた。
ふわふわの尾が、ぴたりと止まる。長い耳が伏せられ、喉の奥から低く濁った声が漏れた。
「ぎゅぅ……」
ジルの目が動いた。
足元。
屋根瓦の隙間に、薄い粉が撒かれている。
香料粉に見える。
だが、違う。
「ルシ、動くな」
「もう踏んだ?」
「半歩戻れ。足を引きずるな」
ルシの表情から軽さが消えた。
問い返しは一度だけ。あとは言われた通り、足を引きずらずにゆっくりと重心を戻す。現場でこの切り替えができるなら、少なくとも足手まといではない。
粉がわずかに光った。
ジルは袖口から薄刃を出し、瓦の端へそっと差し込む。粉の下には、細い札が仕込まれていた。踏めば光り、位置を知らせる仕掛けだ。
「白梟式か」
「簡易だがな」
「囮を見る奴を、さらに見てるわけか」
「そうだ」
下の男たちが、ふと足を止めた。
気づかれたのではない。
待っている。
ジルは息を止めた。
右の屋根。
背後。
風の流れが変わる。
刃が来た。
ジルはルシの肩を掴み、横へ引いた。投げ刃が、ルシのいた場所を裂く。ほぼ同時に、二人の影が屋根の上へ上がってきた。
白い袖口。
細い短剣。
顔は布で隠されている。
白梟の実働員だ。
「ジルは殺すな」
片方が低く言う。
「情報屋は確保。無理なら処分」
ルシの目が冷えた。
「オレ、いつの間にそんな扱いに?」
「黙ってろ」
ジルはルシを背に置き、短剣を抜いた。
敵が踏み込む。
速い。
だが、白梟の速さだった。
真っ直ぐに見えて、視線を散らす。片方が刃で追い、もう片方が袖の中から拘束符を出す。捕らえるための動き。殺しではない。
ジルは一歩沈んだ。
刃を受けない。
斜めに外し、相手の手首を柄で打つ。骨を砕かず、神経だけを痺れさせる。拘束符が指から滑り、屋根瓦の上で乾いた音を立てた。
ジルの靴先がそれを屋根の外へ弾く。
白い札は夜気を切り、下の路地へ消える。
もう一人がルシへ回ろうとする。
ルシは笑った。
「こっち来るの?」
軽い声。
その声に一瞬だけ相手の意識が向く。
ルシの指先から細針が飛んだ。
針は首ではなく、手の甲へ刺さる。敵の指が鈍る。その一拍で、クロが屋根の縁から飛び出した。
「きゅう!」
黒い毛玉が、敵の顔面に張りつく。
視界を奪ったのは、ほんの一拍だけだった。
「っ、何だこれは!」
「毛玉だ」
ジルはその一拍だけで足りた。敵の膝裏を蹴る。
男は屋根の上に崩れ落ちる。ジルはその首筋へ短剣の柄を落とした。
鈍い音。
気絶。
殺していない。
ルシが片腕を差し出すと、クロはすぐに男の顔から離れ、低い屋根の縁へ着地した。前足を踏ん張り、次の動きを待つ。
もう一人が距離を取る。
その手には小型の弩があった。
狙いはルシ。
ジルの体が先に動く。
ルシの前へ出る。毒矢が外套を裂いた。刃ではなく布をかすめただけだが、矢尻の匂いで分かる。
毒だ。
ジルの目が冷たくなる。
「軽く済ませる気はなさそうだな」
「ジル」
ルシの声が低い。
「右下、荷箱の陰。もう一人」
ジルは視線を動かさずに聞いた。
「見えるのか」
「香料の煙が逆に流れてる。誰かが息してる」
「よく見た」
「褒めた?」
「事実確認だ」
「はいはい」
ジルは足元の瓦を蹴った。
砕けた欠片が荷箱の陰へ飛ぶ。潜んでいた三人目が身をかわした瞬間、ルシが細い糸を投げた。足首に絡む。倒れはしない。だが一拍、動きが止まる。
それで十分だった。
ジルが屋根から落ちるように降りる。
石畳に着地する前に体をひねり、三人目の腕を取る。関節を逆に流し、壁へ叩きつける。短剣を喉元へ当てる。
「誰の指示だ」
男は答えない。
ジルは短剣を押し込まない。
代わりに、男の袖口から白い札を抜いた。
白い封蝋の欠片。
その下に、別の印がある。
白弦商会の商会印。
さらに裏側に、ノクティルムの闇取引印が重ねられていた。
ノクティルムの内側に通じる印。
ルシが下りてきて、それを見る。
「商会印の型は本物だ。けど、封緘の順が正規便と違う」
「本物の荷へ、別の荷を混ぜたか」
「ああ。商会の名があるだけで、御者も店員も全部噛んでるとは決められない」
「だが、この便を仕立てた者は知っている」
「そこから拾うか」
ジルは男の懐を探り、小さな指令書を抜いた。
中身は短い。
ジルは読み、目を細める。
「何て?」
ルシが聞く。
ジルは指令書を折った。
「銀髪のエルフは殺すな。情報屋は確保。不可なら処分」
ルシがひゅう、と軽く口笛を鳴らした。
「オレ、人気者だな」
次の瞬間、ジルの手がルシの胸倉を掴んだ。
布が小さく軋む。
処分という語が、ルシを示す文と同じ紙にある。それを軽口で流されることが、なぜか許せなかった。
「軽く言うな」
ルシの目がわずかに見開かれる。
ジルの声は低かった。
「処分と書かれている。白梟の処分は、死体が残るとは限らない」
ルシは、しばらく黙った。
赤みのある目が、服を掴むジルの指へ落ち、それからゆっくり上がってくる。いつもなら一言多い男が、今は理由を読もうとする言葉を口にしなかった。
「……分かった」
ルシは静かに言った。
「軽く言わない」
ジルは数秒してから手を離した。
「情報屋が死ぬと困る」
「うん」
「勝手に死ぬな」
「死ぬ予定はない」
「予定の話ではない」
「じゃあ、黙って消えるなってやつと同じだな」
ジルがルシを睨む。
ルシは軽く笑った。
ただし、いつもより少しだけ静かに。
「ジル」
「何だ」
「お前もだ」
「俺は消えないとは言っていない」
「なら、消える前に言え」
止めるとは言わない。
行き先を決めるとも、追いかけて連れ戻すとも。
ただ、言えと言う。
「面倒だな」
「よく言われる」
クロが男の背中へ前足をかけ、短く鳴いた。
「きゅう」
ジルはそちらを見る。
「そこに乗るな」
低い声に、クロはすぐ男の背から降りる。それでも尾だけは高い。
ルシが肩を震わせた。
「今日一番の功労者かも」
「顔面に飛んだだけだ」
「それが大事なんだって」
「毛玉を褒めるな。調子に乗る」
クロの尾がさらに持ち上がる。
「もう乗ってるな」
ジルはため息をついた。
その間にも、手は止まらない。気絶した敵の武器を遠ざけ、拘束符を無力化し、残った毒矢を布で包む。指令書、商会印、闇取引印。持ち帰れるものだけを選んでいく。
正式な保全ではない。
だが、今は十分だった。
*
深夜を回る頃、ジルは黒燈の地下室で、同じ地図を見下ろしていた。
黒い木卓の上には、新しい赤印が増えている。
白弦商会の印。
金羊亭裏。
闇取引印。
そして、傭兵崩れの宿場へ伸びる細い印。
ルシは卓に肘をつき、眠そうな顔で地図を見ている。クロは今度こそ地図の端で丸くなりかけ、カインに無言で抱え上げられていた。
「きゅう」
「寝床じゃない」
カインの低い声に、クロは耳を伏せたまま力を抜く。暴れはしない。
「不満そうにするな」
ゼルが指令書を読み終え、静かに言う。
「今回の白弦商会名義の便は囮だね」
「だろうな」
ジルは卓の反対側に立っていた。
まだ外套を脱いでいない。髪は少し乱れ、袖口には毒矢で裂けた跡がある。
ルシの視線が裂けた袖口で止まり、眉間へ浅い皺が寄る。
「当たってないよな」
「布だけだ」
「毒は?」
「入っていない」
「本当?」
「嘘をつく理由がない」
「あるだろ。心配されたくないとか」
「うるさい」
カインがルシを見た。
「お前もだ」
「オレ?」
「眠り薬を使っただろ。量を間違えると自分にも回る」
「兄貴、よく見てるなあ」
「お前のやり方は知っている」
ゼルが地図へ視線を戻す。
「金羊亭の偽装便は、目立つ囮。裏手の荷運び通路は誘導。狙いは、ジルの反応と、ルシの処理」
「処理って言い方、嫌だねえ」
言葉は軽い。だが、声の底から笑いは消えていた。
ジルは地図を見下ろした。
「本命は、傭兵崩れか旅芸人側にある」
「理由は?」
カインが問う。
「あの便が目を集めすぎている。白梟はもっと静かに動く。目立つ役を置くなら、その陰に連絡役を置く」
ジルは指で西区の宿場を示した。
「傭兵崩れは汚れ役に向く。だが、手紙の受け渡しが雑だ。使い捨ての可能性がある」
「旅芸人は?」
「顔を隠しても不自然ではない。移動も多い。人目に触れても、記憶に残りにくい。連絡役を混ぜるならそちらだ」
ルシが口元に笑みを浮かべる。
「外部協力者、優秀だな」
「その呼び方をするな」
「じゃあ何て呼べばいい?」
「呼ぶな」
「無理」
クロが「きゅう」と鳴いた。
ゼルが小さく笑う。
「少なくとも、同じ地図は見てくれるようになったね」
ジルの指が止まった。
地図の上。
赤い印。
低く震える通信符。
黒い魔石灯。
そこに自分の手が置かれている。
正式な所属ではない。
信用したわけでもない。
だが、逃亡者としてただ外から眺めていた時とは、少しだけ違う場所に立っている。
「……見るだけだ」
ジルは低く言った。
ルシが笑う。
「はいはい。見るだけの外部協力者さん」
「ルシ」
「何?」
「次にそれを言ったら、地図ごとお前を畳む」
「地図は悪くないだろ」
「お前が悪い」
「手厳しい」
カインが短く言う。
「次は西区だな」
ゼルがうなずく。
「傭兵宿と地下水路。どちらも罠に向く」
ルシは伸びをした。
「じゃあ、少し寝てから行くか」
カインが即座に言う。
「寝ろ」
「命令早い」
「従え」
「はいはい」
ジルは地図から手を離した。
その時、クロがカインの腕からするりと抜け、卓の上へ着地した。赤印の手前で足を置き直し、紙の端だけを伝ってジルの前まで来る。
「きゅう」
「何だ」
クロはまっすぐジルを見上げた。
ルシが目を細める。
「労ってるつもりかもな」
「都合よく読むな」
「断定はしてない」
ジルはクロを見下ろした。
黒い毛玉は、まっすぐにこちらを見ている。
雨の日に拾った時と同じ目だった。
ジルは小さく息を吐き、クロの頭を指先で一度だけ撫でた。
「……働きは悪くなかった」
クロの耳が勢いよく立つ。
「きゅう!」
「騒ぐな」
太い尾が卓の外で大きく一度揺れた。
ルシが笑い、ゼルが穏やかに目を伏せ、カインは何も言わずに出入口を見ている。
ジルはもう一度、地図を見た。
白弦商会。
旅芸人。
傭兵崩れ。
白梟の手は、いくつもの顔をしてノクティルムへ入り込んでいる。
そして自分は今、その手を追うために黒燈の地図を見ている。
外部協力者。
仮登録ではない。
信用でもない。
けれど、拒絶でもなかった。
それでも、同じ灯りの下で、同じ地図に手を置いている。
その事実だけが、逃げ道の数に混じって、静かに増えていた。
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