銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第7話 水路底の初共同任務



 ノクティルムの地下には、古い水路が張り巡らされている。

 今では使われていない旧時代の排水路。貴族街の地下へ続く逃走路。密輸業者が勝手に広げた抜け道。地上の地図には載らない道が、黒い王都の影を縫うように伸びていた。

 ジルは、その入口のひとつを知っている。

 南区の酒場裏。

 壊れた井戸の底。

 表通りから少し外れたその場所は、昼間なら酔い潰れた客が寝転んでいてもおかしくないような、湿った石畳の奥にあった。酒樽の空き箱と古い薪束が積まれ、その陰に半ば埋もれるように、石組みの井戸が口を開けている。

 井戸の底からは、湿った石と古い水の匂いが上がってくる。縁に手をつけば、指先へ苔の冷たさがまとわりついた。

 ルシは井戸の中を覗き込む。

 底は見える。

 だが、そこから先へ何が伸びているのかまでは、青黒い暗がりに隠れていた。

「本当にここから入るのか」

「嫌なら帰れ」

「嫌とは言ってないだろ。ただ、もっとこう、情報屋らしく秘密の扉を開けるとか、暗号を解くとか、そういうのを想像してた」

「現実は井戸だ」

「夢がないなあ」

「任務に夢を持つな」

 ジルはそう言って、先に井戸の中へ降りる。

 動きに迷いがない。

 足を置く場所を一瞬で見極め、暗い石壁の凹みに指をかける。苔を踏んでも靴底は滑らず、小石ひとつ鳴らさない。銀髪と黒い外套だけが、井戸の壁へ溶け込むように下りていく。

 ルシは上からその動きを見送り、目を細めた。

 地上で歩いている時から静かな男だとは思っていた。

 だが、音を立てないのではない。どこへ触れれば何が鳴るかを、最初から知っている動きだった。

「やっぱり慣れてるよな」

「降りてこい」

「はいはい」

 ルシも後に続く。

 身軽さにはそれなりの自信がある。だが、ジルほど静かには下りられない。途中で靴先が小さな石へ触れ、井戸の底に乾いた音が響いた。

 音は一度だけ跳ね、すぐに水音へ飲み込まれる。

 下からジルが見上げた。

「うるさい」

「今のは石が悪い」

「言い訳が雑だ」

「オレ、潜入専門じゃなくて情報屋なんで」

「便利に使うな」

「使えるものは使う主義」

 ルシが底へ降り立つと、最後にクロが井戸の縁から身を乗り出した。

「きゅう」

 黒い毛玉は下を覗き、長い耳をぴんと立てる。

 次の瞬間、ためらいなく飛び降りた。

 ジルが片手を上げる。

 クロの小さな身体は、吸い込まれるようにその腕へ収まった。

 あまりに自然な動作だった。

 驚く様子も、避ける素振りもない。落ちてくる位置を読んで、最初から受け止めるつもりだったように見える。

 腕の中へ収まったクロは、当然のようにジルの胸元へ前足をかけ、満足そうに太い尾を揺らした。

 ルシは半眼になる。

「……お前、今ためらいなく受け止めたな」

「落ちてきたからだ」

「普通は避ける」

「潰れるだろ」

「優しい」

「事実を言っただけだ」

「きゅう」

 クロはジルの腕の中で、得意げに鳴いた。

 ルシは肩をすくめる。

「はいはい、よかったな。今日もジルに抱っこされて」

 ジルは無言でクロをルシへ押し返した。

「仕事中だ」

「そういうところなんだよな」

「何がだ」

「照れると雑に返す」

「黙れ」

 今度は、きちんと黙れと言われた。

 ルシは笑いながら、クロを肩へ乗せ直す。

 地下水路は、湿った石と古い鉄の匂いがした。

 井戸の底から横へ続く細い通路を抜けると、浅く濁った水が石床の低い方へ流れている。壁の一部には青白い苔が光り、かろうじて足元を照らしていた。

 地上の喧騒は遠い。

 低い天井から、水滴がひとつ落ちる。


 濁った水面に小さな輪が生まれ、その揺れだけが細い通路の奥へ伝わっていく。

 ここでは、靴音より呼吸の方が目立つ。

 不用意に声を出せば、どこまで届くか分からない。

 ルシは懐から小さな魔石灯を取り出した。

「使う?」

「必要ない」

「暗くない?」

「見える」

「エルフ便利だな」

「お前も魔族の血が入っているだろ」

「半分な。夜目はそこそこ。でも湿気は嫌い」

「文句が多い」

「会話がないと気が滅入るだろ」

「俺は困らない」

「オレが困る」

 ジルは小さく息を吐いた。

 けれど、今度は黙れとは言わなかった。

 ルシはそれを一歩と呼ぶほど素直ではない。

 ただ、次に同じ場所を歩く時のため、覚えておくことにした。

 二人と一匹は、水路の奥へ進む。

 先頭はジル。

 その少し後ろにルシ。

 クロはルシの肩に乗っていたが、時々ジルの方へ行きたそうに身を乗り出しては、ルシに片手で押さえられている。

「クロ、今は駄目」

「きゅう」

「不満でも駄目。任務中」

「きゅ」

「そんな顔しても駄目」

 ジルが前を向いたまま言う。

「甘いな」

「どこが?」

「声が甘い」

 ルシは一瞬、返事を忘れた。

「……お前に言われると変な感じするな」

「何が」

「いや、何でもない」

 ジルは振り返らない。

 歩幅も変わらなかった。

 気づいていないのか、気づいても切り捨てたのか。どちらかは読めない。

 その読めなさが、ルシには少しだけ面白かった。

 ジルは水路の壁に刻まれた古い印へ指を当てた。

 石に浅く削られた印。水路の管理印ではない。裏の者が道を間違えないために残した、古い目印らしい。

「ここから西区へ抜けられる」

「何で分かるんだ?」

「水の流れと壁の傾き」

「それだけで?」

「地上の地形を覚えていれば、おおよそは読める」

「本当に便利だな、お前」

「便利扱いするな」

「外部協力者としては最高」

「その呼び方もやめろ」

「じゃあ相棒?」

 ジルの足が止まった。

 止まったのは、ほんの一拍。

 だが、ルシは見逃さない。

「冗談だって」

 ジルは少しだけ振り返った。

「相棒はクロだろ」

「そうだけど、クロはお前に寝返り気味だからな」

「しつけろ」

「お前が言うなって」

「きゅう」

 クロが鳴いた。

 ジルの顔から、わずかな緩みが消える。

 ルシもすぐに口を閉じた。

 今の声は、いつもの甘えた鳴き方ではない。

 クロの鼻先が、濁った水の匂いの向こうを嗅いでいる。太い尾は動きを止め、長い耳だけが水路の奥へ向いていた。

「きゅ」

 短く、低い声。

 警戒の合図。

 ジルは片手を上げた。

 ルシは言われる前に足を止め、壁際へ寄る。

「前方にいる」

「人数は?」

「二人。いや、三人」

「傭兵崩れ?」

「足音は重い。だが、一人だけ軽い」

「連絡役か」

 ジルは水音の少ない壁際へ身を寄せる。

 ルシも反対側へ入り、クロを肩から下ろした。クロは石壁の陰へ低く伏せ、耳を立てる。

 水路の先から、低い話し声が聞こえてきた。

「……例の情報屋は?」

「まだ捕まっていない」

「なら早くしろ。あのエルフに近づいている。文書の場所を知られる前に切れ」

 自分のことだ。

 ルシは笑わなかった。

 捕らえるでも、遠ざけるでもない。切れ。

 白梟はくきょうにとって情報屋は、人ではなく経路らしい。邪魔なら断てばいい線として数えられている。

 隣で、ジルが静かに息を整えた。

 表情は見えない。

 だが、短剣の柄へ置いた指が、先ほどよりわずかに深い。

 水を踏む音が三つ。

 ひとつは重く、足裏全体で水を潰している。もうひとつは速さが一定ではなく、焦りを隠せていない。最後のひとつだけが、濡れた石をほとんど鳴らさなかった。

 ジルの目が細くなる。

 三人の影が近づいてくる。

 一人は大柄な傭兵。

 一人は細身の魔族。

 もう一人は、フードを深く被ったエルフだった。

 そのエルフが歩くたび、ジルの視線が足元を追う。

 顔ではない。

 重心の置き方と、濡れた石へ足を下ろす角度を見ている。

 ルシは声を落とした。

「知り合い?」

「昔の同僚だ」

「やばい?」

「かなり」

「帰る?」

「もう遅い」

 ジルの言葉と同時に、フードのエルフが足を止めた。

「……誰かいるな」

 ルシが小さく舌打ちする。

 次の瞬間、ジルが動いた。

 隠れていた意味は、もうない。

 水路の壁を蹴り、音もなく距離を詰める。大柄な傭兵が剣を抜くより早く、その膝を蹴り抜いた。

 骨を折る音はない。

 ただ、力を入れられない角度へ関節が流され、傭兵の体が濁った水へ崩れ落ちる。

 水が重く跳ねた。

 魔族の男が懐から魔石を取り出す。

 ルシは手首の向きと、魔石の光を同時に見る。

 起動させる前に、細針を放った。

「悪いな、それ危なそうだから止めとく」

 針が手首に刺さる。

 魔石は水へ落ち、小さく光りながら沈んだ。

 残ったフードのエルフは、ジルの一撃を短剣で受ける。

 金属音が地下水路に響いた。

 高くはない。

 短く、薄く、力を真正面から受けずに流す音。

 エルフはフードの奥で笑った。

「やはり生きていたか、ジル」

 ルシはその声を覚える。

 ジルは表情を変えない。

「誰だ」

「忘れたとは言わせない」

「顔を隠したまま名乗らない相手を覚える趣味はない」

「相変わらず口だけは減らないな」

 エルフがフードを払った。

 薄い金髪。

 鋭い目元。

 頬に走る古い傷。

 白梟はくきょうの実働員が好む、動きを邪魔しない細身の外套。その袖口には、白い封緘紐の名残が揺れている。

 ジルはその顔を見ても、声を揺らさなかった。

「レヴィ」

 ルシはその名を頭へ入れた。

 レヴィと呼ばれたエルフは、懐かしむように目を細める。

「変わったな。夜の男になったと聞いたが、本当だったとは」

 空気がわずかに冷える。

 ルシの口元からも、笑みが消えた。

 ジルは淡々と返す。

「お前は変わらないな。品性がない」

「裏切り者がよく言う」

「裏切ったのは俺か」

 ジルの声が低くなる。

 その一言で、レヴィの笑みが消えた。

「長はお前を許していない」

「許されたいと思ったことはない」

「戻れ、ジル。文書を返せ。そうすれば、まだ処分は軽くなる」

「処分か」

「お前は白梟はくきょうから逃げた。機密を盗んだ。王都の貴族に刃を向けた」

「腐った貴族と、腐った命令の尻拭いをしろと?」

「言葉を選べ」

「選んだ結果だ」

 ジルの短剣が、レヴィの刃を押し返す。

 地下水路の薄い光の中で、二人のエルフは向かい合った。

 似ている。

 ルシには、そう見えた。

 構えの癖。足を置く角度。相手の刃を受け止めず、手首のわずかな返しで流す動き。ジルとレヴィは、同じ場所で同じ技を覚えた者同士なのだろう。

 刃が触れる音まで似ている。

 だが、足元の水の跳ね方だけが違った。

 レヴィは、ジルを元いた場所へ押し戻すために踏み込む。

 ジルは、そこへ戻らないために押し返す。

 レヴィの刃は、今も命令の形を保っている。

 ジルの刃は、命令を切り離そうとして、まだ完全には切り離せずにいるように見えた。

 ルシは二人の間へ割って入らない。

 これはジルの過去に触れるものだ。

 だが、見ているだけで終わる気もなかった。

 レヴィの背後で、倒れた魔族の男がそっと動く。

 懐から細い笛を取り出そうとしていた。

 ルシは無言で針を投げる。

 男の指先へ刺さり、笛が水へ落ちた。

「悪いな。増援は呼ばせない」

 レヴィの視線がルシへ向く。

「お前が情報屋か」

「そう。狙われてるらしいから、自己紹介の手間が省けて助かる」

「半端な血の匂いがする」

 ルシの表情が冷えた。

 返す言葉を選ぶより先に、ジルが動く。

 レヴィの刃を強く弾き、喉元寸前へ短剣を突きつけた。

 動きに迷いはない。

 ただルシへの侮辱に反応しただけではないように見えた。

 白梟はくきょうは血を測り、役割を貼り、人の名より先に使い道を決める。ジルが刃を向けたのは、そのやり方そのものなのかもしれない。

 ルシに分かるのは、そこまでだった。

 ジルの短剣が、レヴィの喉元で止まる。


「次にそいつを侮辱したら、舌を落とす」

 地下水路が静まり返った。

 水滴が落ちる。

 ぽつりと響いた音が、妙に遠い。

 ルシも一瞬、言葉を失う。

 ジルはレヴィだけを見ていた。

 冷たい目。

 低い声。

 怒りの理由を説明する気はないらしい。

 それでも、自分へ向けられた白梟はくきょうの言葉を、ジルがそのまま通さなかったことだけは確かだった。

 胸の奥で、何かが鋭く跳ねる。

 甘さではない。

 白梟はくきょうの言葉へ向けられた、冷たい刃の感触だった。

 レヴィはゆっくりと笑う。

「ほう。王都に来て、ずいぶん情が移ったらしい」

 ジルの目が細くなる。

「黙れ」

「その情報屋が、新しい弱点か?」

「黙れと言った」

「白梟はくきょうの《銀羽》が、黒い王都で毛玉と情報屋を庇うとはな」

 《銀羽》。

 その一言で、ジルの短剣がほんのわずかに止まった。

 呼吸は乱れない。

 顔も変わらない。

 けれど、刃を握る指だけが、白くなるほど強張っている。

 ルシはその変化を見た。

 名前ではない。

 ジル自身を呼ぶものではなく、何かへ結びつけるための言葉。

 それ以上の意味は、まだ見えない。

 レヴィは反応を拾い、満足そうに笑った。

「《長の銀羽》。あの方がお前を手放すと思うな」

 左鎖骨下が、冷たく疼いた。

 傷ではない。
 それでも、その奥に残るものだけが、白い王都の声を覚えている。

 ジルの短剣が、紙一枚分だけ喉へ近づく。

 その瞬間、レヴィの足元で白い光が跳ねた。

 罠。

 踏み込みに反応する逃走符。

  白い光が、水面の上で薄く弾ける。濡れた石が焦げるはずはないのに、乾いた紙を焼いたような匂いだけが残った。

 ジルは即座に短剣を振るう。

 だが、刃が届く直前、レヴィの姿が歪んだ。

「文書を持っている限り、お前の周りから壊してやる」

 声だけが、水路の奥へ滑っていく。

 次の瞬間、レヴィの姿は消えた。

 水路には、倒れた傭兵と魔族の男だけが残される。

 白い焦げ跡が、濡れた石の上に薄く浮かんでいた。

 ジルはしばらく動かない。

 短剣を下ろさず、白い痕跡を見ている。

 ルシは足元を確認しながら近づいた。

「ジル」

「……逃がした」

「事前に仕掛けた逃走符だろ。仕方ない」

「仕方ないで済む相手じゃない」

 声は低い。

 いつもと同じ温度に聞こえるのに、刃を収めるまでの時間だけが長かった。

 ルシは倒れた二人を確認しながら言う。

「でも、収穫はあった。レヴィって奴が白梟はくきょう側の連絡役。ノクティルムの内側にいる協力者と接触してる。それに、向こうはオレのことも把握してる」

「だから下がれと言った」

「またそれ?」

 ルシは顔を上げる。

「ジル。オレは狙われたからって引くような仕事してない」

「これはお前の仕事じゃない」

「もう仕事だろ」

「ルシ」

「違うな」

 ルシはジルを見た。

 少し踏み込んでいる。

 自分でも分かっていた。

 それでも、ここで軽口だけに戻せば、ジルはまた一人で過去を抱えて消えるかもしれない。

「もう、ただの情報拾いじゃ済まない」

 ジルの指が、短剣の柄でわずかに動く。

 ルシは続けた。

「クロを助けた。オレを庇った。さっきも、オレのことで怒った」

「……」

「それでまだ、自分だけで消えるつもりなら、相当ひどいぞ」

 ジルはルシを睨む。

「俺に何を言わせたい」

「別に。何も」

 ルシは肩をすくめた。

「ただ、オレはもう、お前のことをただの情報案件としては見られない。黒燈が関わる案件だ。……オレ個人としてもな」

 ジルは答えなかった。

 視線も逸らさない。

 礼もない。

 拒絶もない。

 冷えた青灰色の瞳がルシを見たまま、沈黙だけが落ちる。

 ここで問いを重ねれば、答えを得られるかもしれない。

 だが、答えを得ることと、相手が自分から話すことは同じではない。

 ルシは待った。

 ジルは何も返さない。

 けれど、背を向けてもいなかった。

 地下水路の水音が、二人の間を流れていく。

 長い沈黙のあと、ジルはようやく視線を水面へ落とした。

 ルシはそれ以上追わない。

 代わりに、いつもの調子を少しだけ戻す。

「まあ、今すぐ感動的な返事はいらない。お前、そういうの苦手そうだし」

「分かっているなら言うな」

「言わないと伝わらないこともあるだろ」

「言葉は信用できない」

 ルシは目を細めた。

 白梟はくきょう。

 長。

 《銀羽》。

 手放さないという言葉。

 断片は見えた。

 けれど、断片だけで続きを決めつけるほど、ルシは自分の情報を信用していない。

 聞くのは、今ではない。

「じゃあ、行動で見るんだろ?」

 ジルがルシを見る。

 ルシは軽く笑った。

「見てろよ。オレも見るから」

 ジルはまた沈黙した。

 やがて、倒れた二人へ視線を向ける。

「こいつらを連れて帰る」

「黒燈に?」

「他に尋問場所があるのか」

「ないな」

 ルシは口元を緩めた。

「また一歩、黒燈側に寄ったな」

「外部協力者だ」

「はいはい」

 クロが石壁の陰から出てきて、ジルの足元へ寄る。

「きゅう」

 ジルは見下ろした。

「お前は黙っていろ」

「きゅ」

「返事だけはいい」

 ルシはその様子を見て、わずかに頬を緩める。

 地下水路へ入る前と、何もかもが変わったわけではない。

 ジルはまだ過去を話さない。

 黒燈を信用したとも言わない。

 それでも、捕らえた者を一人で処理せず、黒燈へ連れ帰ると自分から決めた。

 少なくとも今夜は、もう一人で背を向けるだけではない。

     *

 黒燈本部へ着くと、捕らえた二人はすぐに地下の尋問室へ運ばれた。

 ジルも同行しようとする。

 だが、扉の前へカインが立った。

「お前は休め」

「必要ない」

「必要だ」

「命令か」

「忠告だ」

 ジルはカインを睨む。

 カインも退かない。

 片目だけの視線が、ジルの顔ではなく、刃を握っていた手と、呼吸の浅さを見ている。

「お前を、今すぐレヴィの材料として使う気はない」

 カインの声は短かった。

「必要な時に聞く。今は下がれ」

 ジルの目が鋭くなる。

 材料。

 白梟はくきょうなら、その言葉を別の意味で使った。

 見たもの、知っているもの、反応したもの。すべてを記録し、次の任務へ使う。

 だが、カインは今、使わないために止めている。

 ゼルが一歩だけ近づいた。

 カインの前へ出るのではなく、その左側へ自然に立つ。

「君の声が、少し硬い」

 穏やかな声だった。

「レヴィという旧知の相手に会ったんだろう。冷静なつもりでも、判断に影響は出る。尋問は私たちに任せてほしい」

「俺の過去に関わる」

「だからこそ、今は外から見た方がいい」

 ゼルはそれ以上近づかない。

 答えを急かす様子もなかった。

 ジルは黙る。

 拒否しようと思えばできた。

 カインを押し退け、尋問室へ入ることも不可能ではない。

 だが、ゼルの言葉は正しい。

 レヴィの声。

 《銀羽ぎんう》という呼び名。

 長はお前を許していない、という言葉。

 《長の銀羽ぎんう》。

 古いものが、まだ指の内側へ残っている。

 ルシが横から言った。

「ジル、こっち」

「何だ」

「クロが腹減ったって」

「俺に言うな」

「いや、クロがお前を見てる」

「飼い主はお前だろ」

「でも恩人はお前」

「都合よく役割を増やすな」

 ルシは笑いながら、ジルの袖口を軽く引いた。

 本当に軽い力だった。

 指先が布へ触れているだけに近い。

 振り払おうと思えば、腕を引く必要すらない。ルシの手が離れるまで半歩下がれば済む。

 逃げ道は残っている。

 ジルはそれを確認した。

 それでも、袖を引かれたまま歩き出す。

 ルシは何も言わなかった。

 黒燈の奥にある小さな休憩室へ入る。

 古い長椅子と卓。簡単な食料が置かれた棚。黒いランタンが低く灯り、壁際には古い地図が丸めて立てかけられていた。

 ルシは棚から乾燥肉を取り出す。

 クロの耳が勢いよく立った。

「きゅう!」

「お前、ジルの乾燥肉盗んだ前科あるんだからな。今日はちゃんと待て」

「きゅ」

「反省してない顔だな」

 ジルは椅子に座り、二人のやり取りを見る。

 ルシは乾燥肉を小さく裂き、ひとつをクロへ渡した。

 もうひとつを、ジルの前へ置く。

 ジルは眉を寄せる。

「俺は毛玉ではない」

「知ってる。お前も食えってこと」

「いらない」

「仕事終わりだろ。食ってないんじゃないの」

 ジルは答えない。

 腹が減っていないわけではない。

 ただ、任務の直後に食べる習慣が薄い。まず刃を拭き、回収品を分け、報告の食い違いを潰す。それが終わるまで、自分の身体は後回しだった。

 ルシはジルの沈黙を数秒だけ見る。

「ほらな」

「勝手に決めるな」

「情報屋だからな」

「それで何でも通すな」

 ルシは椅子に腰を下ろし、自分も乾燥肉を口へ入れた。

「まずいな、これ」

「ならなぜ出した」

「保存食だから」

「味を求めるな」

「お前、こういうの平気そうだよな」

「昔はもっとひどいものを食べていた」

 言葉が落ちる。

 ジルは口を閉じた。

 余計なことを言った。

 ルシの目がこちらへ向く。

 問いが来る。

 そう思った。

 だが、ルシはほんの一拍だけ止まり、すぐに視線を乾燥肉へ戻した。

「じゃあ今度、任務後にまともな飯でも食え」

 過去には触れない。

 今度、という先の話へ勝手に移した。

 ジルは目を細める。

「命令か」

「忠告。情報屋の親切な忠告」

「押しつけがましい」

「知ってる」

「曖昧だな」

「曖昧にしといた方が、お前が逃げにくいだろ」

「逆だ」

「そうか?」

「そうだ」

 ジルは卓の上の乾燥肉を見下ろした。

 拒む理由はある。

 食べる理由は、特にない。

 それでも、手を伸ばす。

 ルシは何も言わなかった。

 勝ったような顔もしない。

 ジルが乾燥肉を口へ運ぶと、クロが満足そうに鳴いた。

「きゅう」

 ジルはクロを睨む。

「お前に見守られる筋合いはない」

「きゅ」

 ルシが笑う。

「……好きな匂いが増えた、って顔してるな」

 ジルの手が止まった。

「何だ、それは」

「クロの顔」

「都合よく訳すな」

「でも、そういう顔だろ」

 クロは乾燥肉をくわえたまま、ルシの足元からジルの膝元へ寄ってくる。

 鼻先を動かし、ジルの靴へ頬を押しつける。

 雨の日に覚えた手の匂いを、まだ確かめているような仕草だった。

 やがて、その小さな身体はジルの足元で丸くなる。

 ジルは目を伏せた。

「……面倒な毛玉だ」

「きゅう」

 その時、休憩室の扉が開いた。

 カインが立っている。

「尋問が終わった」

 室内の空気が切り替わる。

 ジルはすぐにクロを下ろそうとした。

 だが、クロはすでに足元にいる。動く気配はない。

 カインの視線がクロへ落ち、次にジルへ向く。

 短い沈黙。

 ルシが小声で言った。

「兄貴、そこは見なかったことにして」

「……そうしよう」

 ジルは不機嫌そうに目を細める。

「報告は」

 カインは卓の前に立った。

「二人とも下っ端だ。だが、ひとつ吐いた」

 ゼルも後ろから入ってくる。

 先ほどまでの穏やかな空気は薄い。

「ノクティルムの内側に、白梟はくきょうへ道を渡している者がいる」

 ルシの顔が引き締まる。

「黒燈内部?」

 ゼルは首を横へ振った。

「まだ断定できない。連絡に使われた符牒は、黒燈だけのものじゃない。昔、この辺りの裏稼業で使われていた古い形式だ。廃業した運び屋、古い賭場、商会、貴族の使い。知っている者は限られるが、うちの内部だけとは言えない」

 カインが低く続ける。

「だが、内側に詳しい者だ。外から来た白梟はくきょうだけで、この水路の経路や符牒は使えない」

 休憩室が静まり返る。

 ジルはゆっくりと立ち上がった。

「内側か」

 カインの片目が鋭くなる。

「可能性は高い」

 ルシが低く問う。

「誰だ」

「これから洗う」

 ゼルはジルを見る。

「ジル。君には悪いが、この件で君の不信は正しいことになった」

 やはり。

 その言葉が、胸の底へ落ちた。

 組織は腐る。

 人が集まれば、裏切る者が出る。

 金へ手を伸ばす者。

 脅しへ屈する者。

 正しいという言葉で、都合の悪い声を消す者。

 結局、どこも同じなのかもしれない。

 古い冷たさが、胸の奥へ蘇る。

 出口は扉の向こう。

 廊下を二つ曲がれば階段。地上へ続く通常路とは別に、荷搬口へ出る道もある。

 ここを出ようと思えば、出られる。

 その時、カインが言った。

「見つけ次第、繋がりごと切る」

 ジルはカインを見る。

 声に迷いはない。

 ゼルも静かに続ける。

「庇わない。隠さない。黒燈の中に腐った部分があるなら、私たちで切る。黒燈の外にいる者なら、黒燈の中へ入れない」

 身内だから隠すとは言わない。

 黒燈の正しさを守るため、記録から消すとも言わない。

 ルシがジルを見る。

「だから、まだ消えるなよ」

 ジルは答えなかった。

 扉の位置は分かっている。

 退路も残っている。

 それでも、立ち上がった身体を出口へ向けることはしなかった。

 カインが地図を広げる。

 紙が卓へ触れ、低い音を立てた。

 ゼルが暗号文を置く。

 ルシがジルの隣へ立つ。

 クロが足元へ座る。

 ジルはその光景を見た。

 腐敗はある。

 裏切りもある。

 黒燈が最初から清廉な場所だとは思わない。

 だが、この者たちは、それを隠そうとしていなかった。

 少なくとも今、この場にいる者たちは、腐った身内を守るために記録を書き換えようとはしていない。

 それは、ジルがかつて失ったものだった。

「……俺にできることは」

 声が思ったより自然に出た。

 ルシが顔を上げる。

 ジルは地図の前へ歩み寄る。

「白梟はくきょうの符牒と、レヴィの動き方なら読める。内側の協力者が連絡を取るなら、次は必ず中継地点を使う」

 ゼルの目が鋭くなる。

「場所は?」

 ジルは地図の一点を指した。

「南区と西区の境。廃礼拝堂の地下」

 ルシが隣で笑う。

「よし。次の目的地決定だな」

 ジルは横目で見る。

「お前は来るな」

「行く」

「狙われている」

「だから行く」

「意味が分からない」

「向こうがオレを餌だと思うなら、その読みを逆に使えるだろ」

 ジルの目が冷える。

「ふざけるな」

 ルシの笑みが、わずかに変わった。

「ほら、怒った」

「当然だ」

「じゃあ、一人で囮にはならない。お前と組む」

 ジルは黙る。

 ルシはまっすぐに言った。

「外部協力者と情報屋の初仕事、まだ終わってないだろ?」

 クロが元気よく鳴く。

「きゅう!」

 ジルは深く息を吐いた。

 ルシを遠ざければ、安全になるとは限らない。

 白梟はくきょうはすでに名と顔を知っている。単独で動かれれば、こちらから位置を確認できなくなる。

 そう整理すれば、答えはひとつだった。

「……勝手に前へ出るな」

 ルシの笑みが深くなる。

「それ、許可?」

「監視だ」

「はいはい」

 カインが二人を見て、ゼルへ低く言う。

「相性は悪くない」

 ゼルは微笑んだ。

「本人たちは認めなさそうだけどね」

「君も昔は、似たようなものだったよ」

「何の話だ」

「覚えていないなら、それでいい」

 ジルには聞こえていた。

 ルシにも聞こえている。

 二人はほぼ同時に口を開いた。

「よくない」

「悪くないだろ」

 声は重ならなかった。

 ジルだけが否定し、ルシだけが肯定する。

 一瞬の沈黙。

 次いで、ルシがにやりと笑った。

 ジルは冷たい目を向ける。

「何だ」

「いや。今の、ちょっと嬉しい」

「意味が分からない」

「そのうち分かるかもな」

「分かりたくない」

「そう言うと思った」

 クロが二人の間で楽しそうに鳴く。

「きゅう」

 地下のギルドに、わずかな笑いが戻った。

 だが、地図の上には新しい印が残っている。

 廃礼拝堂。

 内側へ道を渡した者。

 白梟はくきょうとの接点。

 ジルはその印を見下ろした。

 まだ信用したわけではない。

 居場所だと思ったわけでもない。

 けれど、逃げるためではなく、共に動くために地図を見るのは久しぶりだった。

 ルシが隣から同じ地図を覗き込む。

 近い。

 だが、出口は見える。

 肩を引けば離れられる距離。腕を掴まれてもいない。次にどこへ行くかを、代わりに決められてもいない。

 ルシの視線が一度だけジルへ向く。

 何かに気づいたようだった。

 それでも、何も言わない。

 ただ地図を指し、いつもの調子で言う。

「じゃあ次は、廃礼拝堂だな」

 ジルは地図から目を逸らさず、短く答えた。

「ああ」

 返事は、今までより少しだけ自然に落ちた。
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