文字サイズ
小
中
大
特大
8 / 27
第1部 魔族王都編
第7話 水路底の初共同任務
ノクティルムの地下には、古い水路が張り巡らされている。
今では使われていない旧時代の排水路。貴族街の地下へ続く逃走路。密輸業者が勝手に広げた抜け道。地上の地図には載らない道が、黒い王都の影を縫うように伸びていた。
ジルは、その入口のひとつを知っている。
南区の酒場裏。
壊れた井戸の底。
表通りから少し外れたその場所は、昼間なら酔い潰れた客が寝転んでいてもおかしくないような、湿った石畳の奥にあった。酒樽の空き箱と古い薪束が積まれ、その陰に半ば埋もれるように、石組みの井戸が口を開けている。
井戸の底からは、湿った石と古い水の匂いが上がってくる。縁に手をつけば、指先へ苔の冷たさがまとわりついた。
ルシは井戸の中を覗き込む。
底は見える。
だが、そこから先へ何が伸びているのかまでは、青黒い暗がりに隠れていた。
「本当にここから入るのか」
「嫌なら帰れ」
「嫌とは言ってないだろ。ただ、もっとこう、情報屋らしく秘密の扉を開けるとか、暗号を解くとか、そういうのを想像してた」
「現実は井戸だ」
「夢がないなあ」
「任務に夢を持つな」
ジルはそう言って、先に井戸の中へ降りる。
動きに迷いがない。
足を置く場所を一瞬で見極め、暗い石壁の凹みに指をかける。苔を踏んでも靴底は滑らず、小石ひとつ鳴らさない。銀髪と黒い外套だけが、井戸の壁へ溶け込むように下りていく。
ルシは上からその動きを見送り、目を細めた。
地上で歩いている時から静かな男だとは思っていた。
だが、音を立てないのではない。どこへ触れれば何が鳴るかを、最初から知っている動きだった。
「やっぱり慣れてるよな」
「降りてこい」
「はいはい」
ルシも後に続く。
身軽さにはそれなりの自信がある。だが、ジルほど静かには下りられない。途中で靴先が小さな石へ触れ、井戸の底に乾いた音が響いた。
音は一度だけ跳ね、すぐに水音へ飲み込まれる。
下からジルが見上げた。
「うるさい」
「今のは石が悪い」
「言い訳が雑だ」
「オレ、潜入専門じゃなくて情報屋なんで」
「便利に使うな」
「使えるものは使う主義」
ルシが底へ降り立つと、最後にクロが井戸の縁から身を乗り出した。
「きゅう」
黒い毛玉は下を覗き、長い耳をぴんと立てる。
次の瞬間、ためらいなく飛び降りた。
ジルが片手を上げる。
クロの小さな身体は、吸い込まれるようにその腕へ収まった。
あまりに自然な動作だった。
驚く様子も、避ける素振りもない。落ちてくる位置を読んで、最初から受け止めるつもりだったように見える。
腕の中へ収まったクロは、当然のようにジルの胸元へ前足をかけ、満足そうに太い尾を揺らした。
ルシは半眼になる。
「……お前、今ためらいなく受け止めたな」
「落ちてきたからだ」
「普通は避ける」
「潰れるだろ」
「優しい」
「事実を言っただけだ」
「きゅう」
クロはジルの腕の中で、得意げに鳴いた。
ルシは肩をすくめる。
「はいはい、よかったな。今日もジルに抱っこされて」
ジルは無言でクロをルシへ押し返した。
「仕事中だ」
「そういうところなんだよな」
「何がだ」
「照れると雑に返す」
「黙れ」
今度は、きちんと黙れと言われた。
ルシは笑いながら、クロを肩へ乗せ直す。
地下水路は、湿った石と古い鉄の匂いがした。
井戸の底から横へ続く細い通路を抜けると、浅く濁った水が石床の低い方へ流れている。壁の一部には青白い苔が光り、かろうじて足元を照らしていた。
地上の喧騒は遠い。
低い天井から、水滴がひとつ落ちる。
濁った水面に小さな輪が生まれ、その揺れだけが細い通路の奥へ伝わっていく。
ここでは、靴音より呼吸の方が目立つ。
不用意に声を出せば、どこまで届くか分からない。
ルシは懐から小さな魔石灯を取り出した。
「使う?」
「必要ない」
「暗くない?」
「見える」
「エルフ便利だな」
「お前も魔族の血が入っているだろ」
「半分な。夜目はそこそこ。でも湿気は嫌い」
「文句が多い」
「会話がないと気が滅入るだろ」
「俺は困らない」
「オレが困る」
ジルは小さく息を吐いた。
けれど、今度は黙れとは言わなかった。
ルシはそれを一歩と呼ぶほど素直ではない。
ただ、次に同じ場所を歩く時のため、覚えておくことにした。
二人と一匹は、水路の奥へ進む。
先頭はジル。
その少し後ろにルシ。
クロはルシの肩に乗っていたが、時々ジルの方へ行きたそうに身を乗り出しては、ルシに片手で押さえられている。
「クロ、今は駄目」
「きゅう」
「不満でも駄目。任務中」
「きゅ」
「そんな顔しても駄目」
ジルが前を向いたまま言う。
「甘いな」
「どこが?」
「声が甘い」
ルシは一瞬、返事を忘れた。
「……お前に言われると変な感じするな」
「何が」
「いや、何でもない」
ジルは振り返らない。
歩幅も変わらなかった。
気づいていないのか、気づいても切り捨てたのか。どちらかは読めない。
その読めなさが、ルシには少しだけ面白かった。
ジルは水路の壁に刻まれた古い印へ指を当てた。
石に浅く削られた印。水路の管理印ではない。裏の者が道を間違えないために残した、古い目印らしい。
「ここから西区へ抜けられる」
「何で分かるんだ?」
「水の流れと壁の傾き」
「それだけで?」
「地上の地形を覚えていれば、おおよそは読める」
「本当に便利だな、お前」
「便利扱いするな」
「外部協力者としては最高」
「その呼び方もやめろ」
「じゃあ相棒?」
ジルの足が止まった。
止まったのは、ほんの一拍。
だが、ルシは見逃さない。
「冗談だって」
ジルは少しだけ振り返った。
「相棒はクロだろ」
「そうだけど、クロはお前に寝返り気味だからな」
「しつけろ」
「お前が言うなって」
「きゅう」
クロが鳴いた。
ジルの顔から、わずかな緩みが消える。
ルシもすぐに口を閉じた。
今の声は、いつもの甘えた鳴き方ではない。
クロの鼻先が、濁った水の匂いの向こうを嗅いでいる。太い尾は動きを止め、長い耳だけが水路の奥へ向いていた。
「きゅ」
短く、低い声。
警戒の合図。
ジルは片手を上げた。
ルシは言われる前に足を止め、壁際へ寄る。
「前方にいる」
「人数は?」
「二人。いや、三人」
「傭兵崩れ?」
「足音は重い。だが、一人だけ軽い」
「連絡役か」
ジルは水音の少ない壁際へ身を寄せる。
ルシも反対側へ入り、クロを肩から下ろした。クロは石壁の陰へ低く伏せ、耳を立てる。
水路の先から、低い話し声が聞こえてきた。
「……例の情報屋は?」
「まだ捕まっていない」
「なら早くしろ。あのエルフに近づいている。文書の場所を知られる前に切れ」
自分のことだ。
ルシは笑わなかった。
捕らえるでも、遠ざけるでもない。切れ。
白梟にとって情報屋は、人ではなく経路らしい。邪魔なら断てばいい線として数えられている。
隣で、ジルが静かに息を整えた。
表情は見えない。
だが、短剣の柄へ置いた指が、先ほどよりわずかに深い。
水を踏む音が三つ。
ひとつは重く、足裏全体で水を潰している。もうひとつは速さが一定ではなく、焦りを隠せていない。最後のひとつだけが、濡れた石をほとんど鳴らさなかった。
ジルの目が細くなる。
三人の影が近づいてくる。
一人は大柄な傭兵。
一人は細身の魔族。
もう一人は、フードを深く被ったエルフだった。
そのエルフが歩くたび、ジルの視線が足元を追う。
顔ではない。
重心の置き方と、濡れた石へ足を下ろす角度を見ている。
ルシは声を落とした。
「知り合い?」
「昔の同僚だ」
「やばい?」
「かなり」
「帰る?」
「もう遅い」
ジルの言葉と同時に、フードのエルフが足を止めた。
「……誰かいるな」
ルシが小さく舌打ちする。
次の瞬間、ジルが動いた。
隠れていた意味は、もうない。
水路の壁を蹴り、音もなく距離を詰める。大柄な傭兵が剣を抜くより早く、その膝を蹴り抜いた。
骨を折る音はない。
ただ、力を入れられない角度へ関節が流され、傭兵の体が濁った水へ崩れ落ちる。
水が重く跳ねた。
魔族の男が懐から魔石を取り出す。
ルシは手首の向きと、魔石の光を同時に見る。
起動させる前に、細針を放った。
「悪いな、それ危なそうだから止めとく」
針が手首に刺さる。
魔石は水へ落ち、小さく光りながら沈んだ。
残ったフードのエルフは、ジルの一撃を短剣で受ける。
金属音が地下水路に響いた。
高くはない。
短く、薄く、力を真正面から受けずに流す音。
エルフはフードの奥で笑った。
「やはり生きていたか、ジル」
ルシはその声を覚える。
ジルは表情を変えない。
「誰だ」
「忘れたとは言わせない」
「顔を隠したまま名乗らない相手を覚える趣味はない」
「相変わらず口だけは減らないな」
エルフがフードを払った。
薄い金髪。
鋭い目元。
頬に走る古い傷。
白梟の実働員が好む、動きを邪魔しない細身の外套。その袖口には、白い封緘紐の名残が揺れている。
ジルはその顔を見ても、声を揺らさなかった。
「レヴィ」
ルシはその名を頭へ入れた。
レヴィと呼ばれたエルフは、懐かしむように目を細める。
「変わったな。夜の男になったと聞いたが、本当だったとは」
空気がわずかに冷える。
ルシの口元からも、笑みが消えた。
ジルは淡々と返す。
「お前は変わらないな。品性がない」
「裏切り者がよく言う」
「裏切ったのは俺か」
ジルの声が低くなる。
その一言で、レヴィの笑みが消えた。
「長はお前を許していない」
「許されたいと思ったことはない」
「戻れ、ジル。文書を返せ。そうすれば、まだ処分は軽くなる」
「処分か」
「お前は白梟から逃げた。機密を盗んだ。王都の貴族に刃を向けた」
「腐った貴族と、腐った命令の尻拭いをしろと?」
「言葉を選べ」
「選んだ結果だ」
ジルの短剣が、レヴィの刃を押し返す。
地下水路の薄い光の中で、二人のエルフは向かい合った。
似ている。
ルシには、そう見えた。
構えの癖。足を置く角度。相手の刃を受け止めず、手首のわずかな返しで流す動き。ジルとレヴィは、同じ場所で同じ技を覚えた者同士なのだろう。
刃が触れる音まで似ている。
だが、足元の水の跳ね方だけが違った。
レヴィは、ジルを元いた場所へ押し戻すために踏み込む。
ジルは、そこへ戻らないために押し返す。
レヴィの刃は、今も命令の形を保っている。
ジルの刃は、命令を切り離そうとして、まだ完全には切り離せずにいるように見えた。
ルシは二人の間へ割って入らない。
これはジルの過去に触れるものだ。
だが、見ているだけで終わる気もなかった。
レヴィの背後で、倒れた魔族の男がそっと動く。
懐から細い笛を取り出そうとしていた。
ルシは無言で針を投げる。
男の指先へ刺さり、笛が水へ落ちた。
「悪いな。増援は呼ばせない」
レヴィの視線がルシへ向く。
「お前が情報屋か」
「そう。狙われてるらしいから、自己紹介の手間が省けて助かる」
「半端な血の匂いがする」
ルシの表情が冷えた。
返す言葉を選ぶより先に、ジルが動く。
レヴィの刃を強く弾き、喉元寸前へ短剣を突きつけた。
動きに迷いはない。
ただルシへの侮辱に反応しただけではないように見えた。
白梟は血を測り、役割を貼り、人の名より先に使い道を決める。ジルが刃を向けたのは、そのやり方そのものなのかもしれない。
ルシに分かるのは、そこまでだった。
ジルの短剣が、レヴィの喉元で止まる。
「次にそいつを侮辱したら、舌を落とす」
地下水路が静まり返った。
水滴が落ちる。
ぽつりと響いた音が、妙に遠い。
ルシも一瞬、言葉を失う。
ジルはレヴィだけを見ていた。
冷たい目。
低い声。
怒りの理由を説明する気はないらしい。
それでも、自分へ向けられた白梟の言葉を、ジルがそのまま通さなかったことだけは確かだった。
胸の奥で、何かが鋭く跳ねる。
甘さではない。
白梟の言葉へ向けられた、冷たい刃の感触だった。
レヴィはゆっくりと笑う。
「ほう。王都に来て、ずいぶん情が移ったらしい」
ジルの目が細くなる。
「黙れ」
「その情報屋が、新しい弱点か?」
「黙れと言った」
「白梟の《銀羽》が、黒い王都で毛玉と情報屋を庇うとはな」
《銀羽》。
その一言で、ジルの短剣がほんのわずかに止まった。
呼吸は乱れない。
顔も変わらない。
けれど、刃を握る指だけが、白くなるほど強張っている。
ルシはその変化を見た。
名前ではない。
ジル自身を呼ぶものではなく、何かへ結びつけるための言葉。
それ以上の意味は、まだ見えない。
レヴィは反応を拾い、満足そうに笑った。
「《長の銀羽》。あの方がお前を手放すと思うな」
左鎖骨下が、冷たく疼いた。
傷ではない。
それでも、その奥に残るものだけが、白い王都の声を覚えている。
ジルの短剣が、紙一枚分だけ喉へ近づく。
その瞬間、レヴィの足元で白い光が跳ねた。
罠。
踏み込みに反応する逃走符。
白い光が、水面の上で薄く弾ける。濡れた石が焦げるはずはないのに、乾いた紙を焼いたような匂いだけが残った。
ジルは即座に短剣を振るう。
だが、刃が届く直前、レヴィの姿が歪んだ。
「文書を持っている限り、お前の周りから壊してやる」
声だけが、水路の奥へ滑っていく。
次の瞬間、レヴィの姿は消えた。
水路には、倒れた傭兵と魔族の男だけが残される。
白い焦げ跡が、濡れた石の上に薄く浮かんでいた。
ジルはしばらく動かない。
短剣を下ろさず、白い痕跡を見ている。
ルシは足元を確認しながら近づいた。
「ジル」
「……逃がした」
「事前に仕掛けた逃走符だろ。仕方ない」
「仕方ないで済む相手じゃない」
声は低い。
いつもと同じ温度に聞こえるのに、刃を収めるまでの時間だけが長かった。
ルシは倒れた二人を確認しながら言う。
「でも、収穫はあった。レヴィって奴が白梟側の連絡役。ノクティルムの内側にいる協力者と接触してる。それに、向こうはオレのことも把握してる」
「だから下がれと言った」
「またそれ?」
ルシは顔を上げる。
「ジル。オレは狙われたからって引くような仕事してない」
「これはお前の仕事じゃない」
「もう仕事だろ」
「ルシ」
「違うな」
ルシはジルを見た。
少し踏み込んでいる。
自分でも分かっていた。
それでも、ここで軽口だけに戻せば、ジルはまた一人で過去を抱えて消えるかもしれない。
「もう、ただの情報拾いじゃ済まない」
ジルの指が、短剣の柄でわずかに動く。
ルシは続けた。
「クロを助けた。オレを庇った。さっきも、オレのことで怒った」
「……」
「それでまだ、自分だけで消えるつもりなら、相当ひどいぞ」
ジルはルシを睨む。
「俺に何を言わせたい」
「別に。何も」
ルシは肩をすくめた。
「ただ、オレはもう、お前のことをただの情報案件としては見られない。黒燈が関わる案件だ。……オレ個人としてもな」
ジルは答えなかった。
視線も逸らさない。
礼もない。
拒絶もない。
冷えた青灰色の瞳がルシを見たまま、沈黙だけが落ちる。
ここで問いを重ねれば、答えを得られるかもしれない。
だが、答えを得ることと、相手が自分から話すことは同じではない。
ルシは待った。
ジルは何も返さない。
けれど、背を向けてもいなかった。
地下水路の水音が、二人の間を流れていく。
長い沈黙のあと、ジルはようやく視線を水面へ落とした。
ルシはそれ以上追わない。
代わりに、いつもの調子を少しだけ戻す。
「まあ、今すぐ感動的な返事はいらない。お前、そういうの苦手そうだし」
「分かっているなら言うな」
「言わないと伝わらないこともあるだろ」
「言葉は信用できない」
ルシは目を細めた。
白梟。
長。
《銀羽》。
手放さないという言葉。
断片は見えた。
けれど、断片だけで続きを決めつけるほど、ルシは自分の情報を信用していない。
聞くのは、今ではない。
「じゃあ、行動で見るんだろ?」
ジルがルシを見る。
ルシは軽く笑った。
「見てろよ。オレも見るから」
ジルはまた沈黙した。
やがて、倒れた二人へ視線を向ける。
「こいつらを連れて帰る」
「黒燈に?」
「他に尋問場所があるのか」
「ないな」
ルシは口元を緩めた。
「また一歩、黒燈側に寄ったな」
「外部協力者だ」
「はいはい」
クロが石壁の陰から出てきて、ジルの足元へ寄る。
「きゅう」
ジルは見下ろした。
「お前は黙っていろ」
「きゅ」
「返事だけはいい」
ルシはその様子を見て、わずかに頬を緩める。
地下水路へ入る前と、何もかもが変わったわけではない。
ジルはまだ過去を話さない。
黒燈を信用したとも言わない。
それでも、捕らえた者を一人で処理せず、黒燈へ連れ帰ると自分から決めた。
少なくとも今夜は、もう一人で背を向けるだけではない。
*
黒燈本部へ着くと、捕らえた二人はすぐに地下の尋問室へ運ばれた。
ジルも同行しようとする。
だが、扉の前へカインが立った。
「お前は休め」
「必要ない」
「必要だ」
「命令か」
「忠告だ」
ジルはカインを睨む。
カインも退かない。
片目だけの視線が、ジルの顔ではなく、刃を握っていた手と、呼吸の浅さを見ている。
「お前を、今すぐレヴィの材料として使う気はない」
カインの声は短かった。
「必要な時に聞く。今は下がれ」
ジルの目が鋭くなる。
材料。
白梟なら、その言葉を別の意味で使った。
見たもの、知っているもの、反応したもの。すべてを記録し、次の任務へ使う。
だが、カインは今、使わないために止めている。
ゼルが一歩だけ近づいた。
カインの前へ出るのではなく、その左側へ自然に立つ。
「君の声が、少し硬い」
穏やかな声だった。
「レヴィという旧知の相手に会ったんだろう。冷静なつもりでも、判断に影響は出る。尋問は私たちに任せてほしい」
「俺の過去に関わる」
「だからこそ、今は外から見た方がいい」
ゼルはそれ以上近づかない。
答えを急かす様子もなかった。
ジルは黙る。
拒否しようと思えばできた。
カインを押し退け、尋問室へ入ることも不可能ではない。
だが、ゼルの言葉は正しい。
レヴィの声。
《銀羽》という呼び名。
長はお前を許していない、という言葉。
《長の銀羽》。
古いものが、まだ指の内側へ残っている。
ルシが横から言った。
「ジル、こっち」
「何だ」
「クロが腹減ったって」
「俺に言うな」
「いや、クロがお前を見てる」
「飼い主はお前だろ」
「でも恩人はお前」
「都合よく役割を増やすな」
ルシは笑いながら、ジルの袖口を軽く引いた。
本当に軽い力だった。
指先が布へ触れているだけに近い。
振り払おうと思えば、腕を引く必要すらない。ルシの手が離れるまで半歩下がれば済む。
逃げ道は残っている。
ジルはそれを確認した。
それでも、袖を引かれたまま歩き出す。
ルシは何も言わなかった。
黒燈の奥にある小さな休憩室へ入る。
古い長椅子と卓。簡単な食料が置かれた棚。黒いランタンが低く灯り、壁際には古い地図が丸めて立てかけられていた。
ルシは棚から乾燥肉を取り出す。
クロの耳が勢いよく立った。
「きゅう!」
「お前、ジルの乾燥肉盗んだ前科あるんだからな。今日はちゃんと待て」
「きゅ」
「反省してない顔だな」
ジルは椅子に座り、二人のやり取りを見る。
ルシは乾燥肉を小さく裂き、ひとつをクロへ渡した。
もうひとつを、ジルの前へ置く。
ジルは眉を寄せる。
「俺は毛玉ではない」
「知ってる。お前も食えってこと」
「いらない」
「仕事終わりだろ。食ってないんじゃないの」
ジルは答えない。
腹が減っていないわけではない。
ただ、任務の直後に食べる習慣が薄い。まず刃を拭き、回収品を分け、報告の食い違いを潰す。それが終わるまで、自分の身体は後回しだった。
ルシはジルの沈黙を数秒だけ見る。
「ほらな」
「勝手に決めるな」
「情報屋だからな」
「それで何でも通すな」
ルシは椅子に腰を下ろし、自分も乾燥肉を口へ入れた。
「まずいな、これ」
「ならなぜ出した」
「保存食だから」
「味を求めるな」
「お前、こういうの平気そうだよな」
「昔はもっとひどいものを食べていた」
言葉が落ちる。
ジルは口を閉じた。
余計なことを言った。
ルシの目がこちらへ向く。
問いが来る。
そう思った。
だが、ルシはほんの一拍だけ止まり、すぐに視線を乾燥肉へ戻した。
「じゃあ今度、任務後にまともな飯でも食え」
過去には触れない。
今度、という先の話へ勝手に移した。
ジルは目を細める。
「命令か」
「忠告。情報屋の親切な忠告」
「押しつけがましい」
「知ってる」
「曖昧だな」
「曖昧にしといた方が、お前が逃げにくいだろ」
「逆だ」
「そうか?」
「そうだ」
ジルは卓の上の乾燥肉を見下ろした。
拒む理由はある。
食べる理由は、特にない。
それでも、手を伸ばす。
ルシは何も言わなかった。
勝ったような顔もしない。
ジルが乾燥肉を口へ運ぶと、クロが満足そうに鳴いた。
「きゅう」
ジルはクロを睨む。
「お前に見守られる筋合いはない」
「きゅ」
ルシが笑う。
「……好きな匂いが増えた、って顔してるな」
ジルの手が止まった。
「何だ、それは」
「クロの顔」
「都合よく訳すな」
「でも、そういう顔だろ」
クロは乾燥肉をくわえたまま、ルシの足元からジルの膝元へ寄ってくる。
鼻先を動かし、ジルの靴へ頬を押しつける。
雨の日に覚えた手の匂いを、まだ確かめているような仕草だった。
やがて、その小さな身体はジルの足元で丸くなる。
ジルは目を伏せた。
「……面倒な毛玉だ」
「きゅう」
その時、休憩室の扉が開いた。
カインが立っている。
「尋問が終わった」
室内の空気が切り替わる。
ジルはすぐにクロを下ろそうとした。
だが、クロはすでに足元にいる。動く気配はない。
カインの視線がクロへ落ち、次にジルへ向く。
短い沈黙。
ルシが小声で言った。
「兄貴、そこは見なかったことにして」
「……そうしよう」
ジルは不機嫌そうに目を細める。
「報告は」
カインは卓の前に立った。
「二人とも下っ端だ。だが、ひとつ吐いた」
ゼルも後ろから入ってくる。
先ほどまでの穏やかな空気は薄い。
「ノクティルムの内側に、白梟へ道を渡している者がいる」
ルシの顔が引き締まる。
「黒燈内部?」
ゼルは首を横へ振った。
「まだ断定できない。連絡に使われた符牒は、黒燈だけのものじゃない。昔、この辺りの裏稼業で使われていた古い形式だ。廃業した運び屋、古い賭場、商会、貴族の使い。知っている者は限られるが、うちの内部だけとは言えない」
カインが低く続ける。
「だが、内側に詳しい者だ。外から来た白梟だけで、この水路の経路や符牒は使えない」
休憩室が静まり返る。
ジルはゆっくりと立ち上がった。
「内側か」
カインの片目が鋭くなる。
「可能性は高い」
ルシが低く問う。
「誰だ」
「これから洗う」
ゼルはジルを見る。
「ジル。君には悪いが、この件で君の不信は正しいことになった」
やはり。
その言葉が、胸の底へ落ちた。
組織は腐る。
人が集まれば、裏切る者が出る。
金へ手を伸ばす者。
脅しへ屈する者。
正しいという言葉で、都合の悪い声を消す者。
結局、どこも同じなのかもしれない。
古い冷たさが、胸の奥へ蘇る。
出口は扉の向こう。
廊下を二つ曲がれば階段。地上へ続く通常路とは別に、荷搬口へ出る道もある。
ここを出ようと思えば、出られる。
その時、カインが言った。
「見つけ次第、繋がりごと切る」
ジルはカインを見る。
声に迷いはない。
ゼルも静かに続ける。
「庇わない。隠さない。黒燈の中に腐った部分があるなら、私たちで切る。黒燈の外にいる者なら、黒燈の中へ入れない」
身内だから隠すとは言わない。
黒燈の正しさを守るため、記録から消すとも言わない。
ルシがジルを見る。
「だから、まだ消えるなよ」
ジルは答えなかった。
扉の位置は分かっている。
退路も残っている。
それでも、立ち上がった身体を出口へ向けることはしなかった。
カインが地図を広げる。
紙が卓へ触れ、低い音を立てた。
ゼルが暗号文を置く。
ルシがジルの隣へ立つ。
クロが足元へ座る。
ジルはその光景を見た。
腐敗はある。
裏切りもある。
黒燈が最初から清廉な場所だとは思わない。
だが、この者たちは、それを隠そうとしていなかった。
少なくとも今、この場にいる者たちは、腐った身内を守るために記録を書き換えようとはしていない。
それは、ジルがかつて失ったものだった。
「……俺にできることは」
声が思ったより自然に出た。
ルシが顔を上げる。
ジルは地図の前へ歩み寄る。
「白梟の符牒と、レヴィの動き方なら読める。内側の協力者が連絡を取るなら、次は必ず中継地点を使う」
ゼルの目が鋭くなる。
「場所は?」
ジルは地図の一点を指した。
「南区と西区の境。廃礼拝堂の地下」
ルシが隣で笑う。
「よし。次の目的地決定だな」
ジルは横目で見る。
「お前は来るな」
「行く」
「狙われている」
「だから行く」
「意味が分からない」
「向こうがオレを餌だと思うなら、その読みを逆に使えるだろ」
ジルの目が冷える。
「ふざけるな」
ルシの笑みが、わずかに変わった。
「ほら、怒った」
「当然だ」
「じゃあ、一人で囮にはならない。お前と組む」
ジルは黙る。
ルシはまっすぐに言った。
「外部協力者と情報屋の初仕事、まだ終わってないだろ?」
クロが元気よく鳴く。
「きゅう!」
ジルは深く息を吐いた。
ルシを遠ざければ、安全になるとは限らない。
白梟はすでに名と顔を知っている。単独で動かれれば、こちらから位置を確認できなくなる。
そう整理すれば、答えはひとつだった。
「……勝手に前へ出るな」
ルシの笑みが深くなる。
「それ、許可?」
「監視だ」
「はいはい」
カインが二人を見て、ゼルへ低く言う。
「相性は悪くない」
ゼルは微笑んだ。
「本人たちは認めなさそうだけどね」
「君も昔は、似たようなものだったよ」
「何の話だ」
「覚えていないなら、それでいい」
ジルには聞こえていた。
ルシにも聞こえている。
二人はほぼ同時に口を開いた。
「よくない」
「悪くないだろ」
声は重ならなかった。
ジルだけが否定し、ルシだけが肯定する。
一瞬の沈黙。
次いで、ルシがにやりと笑った。
ジルは冷たい目を向ける。
「何だ」
「いや。今の、ちょっと嬉しい」
「意味が分からない」
「そのうち分かるかもな」
「分かりたくない」
「そう言うと思った」
クロが二人の間で楽しそうに鳴く。
「きゅう」
地下のギルドに、わずかな笑いが戻った。
だが、地図の上には新しい印が残っている。
廃礼拝堂。
内側へ道を渡した者。
白梟との接点。
ジルはその印を見下ろした。
まだ信用したわけではない。
居場所だと思ったわけでもない。
けれど、逃げるためではなく、共に動くために地図を見るのは久しぶりだった。
ルシが隣から同じ地図を覗き込む。
近い。
だが、出口は見える。
肩を引けば離れられる距離。腕を掴まれてもいない。次にどこへ行くかを、代わりに決められてもいない。
ルシの視線が一度だけジルへ向く。
何かに気づいたようだった。
それでも、何も言わない。
ただ地図を指し、いつもの調子で言う。
「じゃあ次は、廃礼拝堂だな」
ジルは地図から目を逸らさず、短く答えた。
「ああ」
返事は、今までより少しだけ自然に落ちた。
感想 0
あなたにおすすめの小説
南国の着膨れた花嫁と領主様
南国の領主アダンはその日、最果ての北国から男の花嫁レウを迎え入れていた。そして、目を見張る。レウの国の衣服は、着膨れてしまうほどに分厚かったのだ。
レウの嫁入りから幸せに暮らす日々を描いた、ほのぼのとしたお話。
MIRAI 人気絶頂のアイドルが突然休業した――その理由を、僕はまだ知らない
人気絶頂のアイドル・加藤未来、22歳。
誰もが羨む才能と容姿を持ち、芸能界で数々の成功を重ねてきた彼は、ある日突然、活動休業を発表する。
仕事が嫌になったわけじゃない。
夢を諦めたわけでもない。
それなのに、未来はステージを降りることを選んだ。
――なぜ?
物語は、そんな現在から始まる。
時間を遡れば、そこにはまだ「アイドル」ではなかった頃の未来がいる。
元天才子役。
我儘で、自己中で、負けず嫌い。
自分の才能を誰よりも信じ、欲しいものは自分の力で手に入れてきた美少年。
一度は離れた芸能界へ、未来は再び戻る。
ドラマ、映画、舞台。
そして、アイドル。
夢を追いかける中で、たくさんの人と出会い、たくさんの経験を重ね、未来は少しずつスターへの道を駆け上がっていく。
仕事なら、思い通りにできた。
努力すれば結果が出る。
才能があれば認められる。
夢を追えば、いつか叶えられる。
未来は、そう思っていた。
――恋をするまでは。
好きという気持ちだけは、自分の思い通りにならない。
誰を好きなのか。
誰と一緒にいたいのか。
そして、自分が本当に望んでいるものは何なのか。
成功していくほど、未来の心には答えの出せないものが増えていく。
これは、人気絶頂のアイドルが突然ステージを降りた「現在」と、
一人の天才少年が夢を追い、スターへと駆け上がっていく「過去」の物語。
過去を辿るほど、現在の未来へと近づいていく。
そして――
過去と現在が交わるとき、未来が休業を選んだ本当の理由が明らかになる。
呪われ薬師、最強の仲間たちと旅に出る~美味しそうだと思っているのは秘密です~
10年前、禁じられた呪術を執り行ったダークエルフの村が滅んだ。
「食らいなさい。死にたくなければ、食らい続けるの。」
生き残ったただひとりの少年が、アイザックだった。
時は流れ、アイザックは魔王城へ向かう旅に出る。人間化してしまったこの体を戻す薬を作るため、材料となる魔物を狩りに行くのだ。だが、戦闘のできない非力な人間になったアイザックひとりでは厳しい。
冒険者として登録し、パーティーメンバーを募ることにしたのだった。
0時更新
以前pixivで掲載していた『背徳gluttony』マオルートの加筆、完結版になります。
二章から腐ります。
三章から少しシリアス魔獣編。
ちゃんとハッピーエンドなのでご安心を。2026/4/21の投稿で完結予定。
2026/3/29 表紙画像 変更
登場人物
アイザック・スティール
今や人間の薬師。訳あって魔王城を目指す。
ジュアン・パインリブ
ギルドで暇を持て余す少年。まだまだ未熟な魔族。アイザックの最初のパーティーメンバー。
魔王ハーゲン(マオ)
次代の魔王。暇を持て余していたところ、アイザックたちに出会い、旅に同行する。
亡霊ハロ
災厄の魔女の弟子。アイザックの呪いや振る舞いに興味を持ち、パーティーに加わる。変態。
氷の王子先輩がお世話係(忠犬)になりました ー僕は戦う!君の未来を守るために‼︎ー
『第2回青春BLカップ』応援ありがとうございました!!
名家に生まれたが汚い子と蔑まれる春陽。
かつてヒーローを夢見る少年だったが、今は目立たないように生きていた。
父の命令で入学させられたのは、未来の日本を担う者だけが集う超エリート学園。
春陽に待っていたのは、希望ではなく絶望だった。優秀な兄を神のように崇拝し、春陽を心の底から憎む男、北蒼月がルームメイト兼世話係に指名されたのだ。
ただ静かに卒業することだけを考えていたが、蒼月からは強烈な拒絶を浴びせられる。
氷のように冷たい関係から始まる二人だけの部屋。
しかし、この最悪の出会いが、春陽の運命を大きく動かすことになる。
なぜ兄は、春陽を嫌う蒼月を推薦したのか。
家の呪縛と兄の影から、春陽は抜け出すことができるのか。
じれじれピュアラブ学園生活は待ったなし!?
犬猿の仲から始まると淡い恋の物語。
氷の王子と呼ばれる忠犬×ヒーローを夢見ていた男の子
無能と呼ばれた婚約者は王を完成させる〜替え玉婚約者のはずが、強すぎる王太子に手放してもらえません〜
兄の身代わりとして王太子の婚約者になった伯爵家次男リュシー。
嘘の名を名乗ったはずが、冷静で誠実な王太子リオンは彼を「力の装置」としてではなく、対等な伴侶として扱おうとする。
本物になりたいと願う替え玉と、完成された王太子の静謐な王宮ロマンス。
現在は王となったリオンとリュシーの関係を中心に、独占欲強めの溺愛が進行中。
『惚れ薬』が効きすぎるなんて、令和の時代にアリですか⁉
☆バレー部モテ男子 鵜飼虎太郎×平凡普通男子 花崎佑二☆
高校二年の花崎は、成績真ん中・運動そこそこ・平均身長の平凡男子。目立たずに教室の端に存在している。
しかしある日突然、バレー部のイケメン男子、鵜飼から「化学のノート、貸してくんない?」と声を掛けられた。
――ええ?なんで僕?
そう焦る花崎だが、それはだたの人間違いだった。
「化学が得意なのは隣のクラスの花菱くん。これは普通の花崎くん」
そんな風にクラスメイトに笑われてしまう。
目立たずに生きてきた花崎にとって、教室の中で恥をかかされたことはショックな出来事。
――鵜飼め‼ 覚えていろよ!
イライラがおさまらない花崎は、図書室で「中世魔女の妙薬レシピ」という怪しげな本を見つけ、「惚れ薬」を鵜飼に使うことを決意して…⁉
惚れ薬の効果なのか溺愛♥高校生活に突入!
花崎はバレーボールに汗を流す鵜飼の姿をカッコいいじゃん、と思い始めたけれど。
『惚れ薬』の効果がきれたら…?
☆第2回青春BL小説カップにエントリー作品です(*^^*)投票・お気に入り登録・♡などで応援いただけますと大変嬉しいです‼よろしくお願いいたします☆
不定期更新です💦スミマセン💦
失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが
魔王討伐の為の勇者召喚に巻き込まれた蕪木透。その勇者は苦い思い出のある高校時代の同級生井上朝陽だった。すれ違いから疎遠になった2人が異世界に召喚される話。当て馬的な女の子が出てきますしわりと性悪です。プチざまぁあり。途中主人公があまりいい目にあっていませんがハッピーエンドなので安心してください♪( ´θ`)同性婚ありな世界線です。※他サイトにも掲載あり


