銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第8話 廃礼拝堂の夜



 廃礼拝堂は、南区と西区の境にあった。

  夜は深く、ノクティルムの生活音も、ここまではほとんど届かない。

 かつてはノクティルムの古い守護神を祀っていた場所らしい。今では屋根の一部が崩れ、割れた色硝子の窓から月明かりだけが差し込んでいる。壁には枯れた蔦が這い、風が吹くたび、乾いた葉が石肌を擦った。

 割れた色硝子の端が、かすかに鳴る。

 祈りの匂いは、もう残っていない。

 あるのは、湿った石と古い埃、そして人が隠したものの気配だけ。

 ルシは、礼拝堂の向かいにある廃屋の屋根へ身を伏せていた。

 隣にはジル。

 少し離れた屋根の陰にはカインがいる。さらに反対側の崩れた鐘楼跡には、ゼルが立っていた。

 ゼルの姿勢は穏やかだが、視線は止まっていない。礼拝堂の裏手から、逃げ道になりそうな路地、崩れた壁の陰、屋根へ上がる足場までを静かに拾っている。

 クロはルシの肩に乗っていた。

 ただし、さっきからジルの方へ前足を伸ばしている。

「クロ、今は駄目」

「きゅう」

「不満そうに鳴いても駄目」

「きゅ」

 ジルは礼拝堂を見たまま言った。

「任務中に甘やかすな」

「お前が言うな」

「俺は甘やかしていない」

「クロがそっち行こうとしてる時点で、説得力ないんだよ」

「お前のしつけが悪い」

「最近、それしか言われてない気がする」

 声は低い。

 ほとんど息だけのやり取りだった。

 離れた位置で、ゼルの口元がわずかに緩む。カインは笑わない。ただ、礼拝堂の裏手を見据えていた。

 ジルが見ているのは、正面入口ではない。

 崩れた石像の裏。

 そこに、地下へ続く横穴がある。

 表から見れば、ただの瓦礫だ。だが、石像の台座と壁の間には不自然な隙間があった。人ひとりが身を滑り込ませるには、十分な幅。

「来るとしたら、裏手からだ」

 ジルが低く言う。

 ルシは懐から小さな符牒紙を取り出した。

「尋問で出た暗号だと、接触時刻は鐘二つ分あと。今から半刻くらいか」

「早まる可能性がある」

「理由は?」

「下っ端が戻らない。向こうも気づく」

「じゃあ、もう来てるかもな」

「そう見ている」

 ルシはジルの横顔を見た。

 冷静だった。

 冷たく、鋭く、少しも揺れていないように見える。

 だが、これまで見た範囲では、ジルが静かな時ほど、視線は多くの場所を拾っていた。

 敵の出方。

 退路。

 こちらを巻き込まず、自分だけを切り離すための動き。

 黒燈をどこまで使い、どこから先を渡さないか。

 おそらく、今もそのすべてを数えている。

「ジル」

「何だ」

「無理するなよ」

 ジルは視線だけを向けた。

「お前に言われたくない」

「それはそう」

「認めるな」

 ルシは小さく笑う。

「でも一応言っとく。お前、放っておくと全部一人で片づけようとするだろ」

「その方が早い」

「そういうところだよ」

 ジルは答えない。

 ルシは続けた。

「今日は一人じゃない。兄貴もゼルさんもいる。クロもいる」

「毛玉を戦力に数えるな」

「顔面奇襲の実績がある」

「否定しにくいのが腹立たしいな」

 クロが誇らしげに鳴いた。

「きゅう」

 ルシは、その頭を指で撫でる。

「で、オレもいる」

 ジルは少し沈黙した。

 ルシは笑わない。

 いつものように茶化して、返事を軽口へ変えることもできた。だが、今はそれをしない。

 ジルが低く言った。

「勝手に前へ出るな」

「分かってる」

「囮になるな」

「分かってる」

「危険だと思ったら下がれ」

「それは状況による」

 ジルの目が鋭くなる。

「ルシ」

「命令は聞く。無駄死にもしない。でも、助けられる相手が目の前にいて、下がるだけなら情報屋やってない」

「面倒な男だな」

「よく言われる」

 ルシは軽く返した。

 だが、自分でも声に笑いがないことは分かっていた。

 ジルは何か言いかけ、やめる。

 その時、カインの指が短く動いた。

 来た。

 ジルもすぐに礼拝堂の裏手へ視線を戻す。

 月明かりの下、二つの影が現れた。

 一人は背の高い男。黒い外套を着ている。足取りには迷いがあるが、道は知っている。周囲を確認する視線は浅く、訓練された者には見えない。

 もう一人は小柄な男だった。

 灰色の頭巾を深く被り、顔を見せない。背は低いが、足運びは軽い。護衛ではない。連絡役。あるいは、罠を仕掛ける側の者。

 ルシの指が、符牒紙を握り込んだ。

 紙が小さく鳴る。

「……テオ」

 口から落ちた声には、いつもの軽さがなかった。

 ジルが目だけを向ける。

「知っているのか」

「黒燈の下級連絡員。普段は荷札と伝言の受け渡し。表の任務にはほとんど出ない」

「信用は?」

「高くはない。でも、白梟はくきょうに売るほど馬鹿には見えなかった」

「馬鹿以外も売る。金、恐怖、家族、弱み」

「分かってる」

 ルシの声は低い。

 分かっている。

 知っていたはずだった。

 それでも、テオが白梟はくきょう側の人間と並んでいる光景を、事前に拾うことはできなかった。

 テオは小柄な男と短く言葉を交わした。

 距離がある。

 普通なら聞こえない。

 ルシが符牒紙を握り直し、音を拾おうと魔力を流しかけた時だった。

 ジルが、その手首を掴んだ。

「拾うな」

「何で」

「音に反応する札がある」

 ジルの視線は、礼拝堂の割れた窓枠へ向いていた。

 そこに、白い紙片が貼られている。

 月明かりに紛れるほど薄い。だが、紙の端だけが乾いた封蝋のように光っていた。

 音声を拾いに来る魔力を検知し、逆に位置を返す罠。

 白梟はくきょう式。

「聞かせるための会話か」

 ルシが低く言う。

「可能性がある」

「じゃあ、テオは囮?」

「囮か、餌か、脅されているか。まだ分からない」

 小柄な男が、崩れた石像の裏へ入っていく。


 テオは残った。

 礼拝堂の壁に背を向け、何かを待つように立っている。

 捕らえるなら、今だ。

 ルシの視線が一度、テオへ向く。

 だが、ジルは動かない。

「小さい方を追う」

「テオは?」

「ゼルが見る」

 ルシは一瞬だけ迷った。

 テオを捕らえれば、すぐに問いただせる。

 けれど、小柄な男を逃がせば、その先にあるものも消える。

 迷いは短かった。

「分かった」

 ジルが横目で見る。

「悪くない判断だ」

「褒めた?」

「事実確認だ」

「出た」

 ルシは短く息を吐き、通信符へ触れた。

 登録した相手へ短い合図だけを飛ばす、黒燈の実務用通信符。表面を一度撫でると、鐘楼跡で通信符の青紫の光が小さく返った。

 その奥で、ゼルの右腕輪に暗い藍紫が灯る。

 腕輪のすぐ上へ、枝分かれする細線を持つ薄い術式輪が低く浮かんだ。

 銀筆が外環を半目盛りだけ回す。

 糸を通す先だけを選び、触れる強さを落とす調律。

 円環はすぐに右腕輪へ沈んだ。

 次の瞬間、ゼルの指先から暗い藍紫の《影糸》がほどける。細い糸の内側を、青紫の光がかすかに走った。

 糸は鐘楼の影を降り、逃げ道になりそうな路地、屋根、壁の陰へ音もなく枝分かれしていく。

 テオの足首を縛るためではない。

 どちらへ動いても見失わないよう、退路の輪郭だけを薄く押さえるための線だ。

 カインが別方向から動く。

 足音はない。

 ジルは屋根から下りた。

 ルシとクロが続く。

 礼拝堂の裏手へ降りると、月明かりは途切れた。崩れた石像の裏には、地下へ続く湿った横穴が口を開けている。

 中から、冷たい空気が流れてきた。

 ジルは入口の縁に指を置く。

 蝋の跡。

 靴底の擦れ。

 石壁へ残った白い粉。

「最近使われている」

「足跡は一人分?」

「見せているのはな」

「見せている?」

「隠した足がある」

 ジルは薄刃の先で、床の粉を払った。

 浅い踏み跡が現れる。

 二人分。

 いや、もっと多い。

「待ち伏せか」

「おそらく」

 ルシは肩のクロを撫でた。

「クロ、静かに」

「きゅ……」

「偉い」

 ジルがクロを見る。

「甘やかすな」

「今のは必要な声かけ」

「都合よく言うな」

 地下通路へ入る。

 中は狭い。石壁は古く、湿気を吸って黒ずみ、肩を広げればすぐ触れるほど近い。天井の一部から水が滴り、床には浅く濁った水が流れている。

 足音も息も逃げ場を失い、石壁の間で鈍く戻ってきた。

 クロの鼻先が、湿った石の奥へ向く。

 太い尾の動きが止まる。

「きゅ……」

 甘える声ではない。

 白い紙や封蝋に似た、乾いた匂いを嫌がる声だった。

 先頭はジル。

 少し後ろにルシ。

 さらに後ろには、カインが影のように続いている。

 カインがいるだけで、背後の空気が締まった。左側の視界がない分、足音と壁へ返る気配を、異様なほど丁寧に拾っている。

 ジルの指が一度だけ上がる。

 止まれ。

 ルシはすぐに足を止めた。

 次の瞬間、通路の奥から矢が飛ぶ。

 白い矢羽。

 毒ではない。

 だが、矢じりには小さな札が巻かれていた。

 ジルが短剣で弾く。

 金属が触れる短い音。

 矢は壁へ刺さり、白い火花を散らした。燃焼符。触れれば布や紙を焼く程度だが、顔に当たれば目を奪う。

 カインが低く言う。

「右壁」

 壁の継ぎ目が動いた。

 隠し扉。

 そこから二人の男が飛び出す。

 カインが前へ出る。

 男が短剣を抜くより早く手首を取り、肩を外した。骨を砕かず、力だけを抜く動き。もう一人が短刀を振る前に膝裏を蹴り、壁へ叩きつける。

 刃が床へ落ちた。

 鈍い金属音が、水音の中へ沈む。

 殺さない。

 だが、確実に止める。

 黒燈の刃だった。

 ルシは前方を見る。

「小柄な奴、奥へ行った」

「追う」

「待て」

 カインが短く言った。

 言葉より早く、通路の奥で光が弾ける。

 閃光魔石。

 白い光が視界を焼いた。

 ルシは反射的にクロを外套の内側へ抱き込む。

「きゅっ」

「大丈夫」

 光が収まる前に、濡れた石を踏む音が走る。

 浅い水。

 軽い足音。

 その後ろに、別の重い音。

 ジルは光をまともに見ない角度へ顔をずらし、足音だけを追っていた。

 ルシは気配へ向けて針を投げる。

 だが、針は壁へ弾かれた。

 小柄な男の声が、通路の奥から響く。

「情報屋の針は右袖から。聞いた通りだな」

 ルシの顔から、残っていた軽さが消えた。

「……こっちの手癖まで漏れてる」

 配置や移動予定だけではない。

 誰がどの道具を、どちらの袖から抜くか。

 任務の受け渡しや、帰還後の報告へ近い者でなければ拾いにくい情報だった。

 カインの目が鋭くなる。

「誰からだ」

「今は追う」

 ジルが言った。

 短いが、重い声だった。

 ルシはうなずく。

 通路は二つに分かれていた。

 左には深い足跡。

 右には浅い足跡。

 小柄な男が向かったのは、見た目では左だ。濡れた床に、はっきりと足跡が続いている。

 ルシは一瞬だけ見て、右を指した。

「右」

 ジルが目を細める。

「理由は」

「左の足跡、深さが揃いすぎてる。わざと踏んだ。右は足跡を消そうとしてるけど、水の縁だけ乱れてる」

 カインの視線が右の通路へ動く。

 ジルは短く言った。

「悪くない」

「今日二回目」

「調子に乗るな」

「乗ってない」

 右へ進む。

 奥から、かすかな鎖の音が聞こえた。

 ジルの足が止まる。

 ルシも止まった。

「今の」

「ああ」

 通路の先には、古い扉があった。

 扉というより、壁へ埋め込まれた鉄格子だ。半分は錆びているが、最近触られた跡がある。

 格子の向こうは、小さな地下牢になっていた。

 その奥に、誰かが座り込んでいる。

 小柄な身体。

 黒燈の見習い連絡員が身につける、細い腕紐。

 ルシの呼吸が止まった。

「ミロ……?」

 少年は顔を上げない。

 意識が朦朧としている。首元には小さな魔石が括りつけられ、淡く白く光っていた。光が脈打つたび、細い肩が小さく跳ねる。

 床の埃を掴む指には、力が入っていない。

 ルシは格子へ近づこうとした。

 ジルが肩を掴む。

「入るな」

「でも」

「床を見ろ」

 地下牢の床には、薄い術式が刻まれていた。

 踏み込めば、首元の魔石が反応する。感覚遮断。痛みと恐怖を増幅させ、外から触れた者にも一瞬だけ混乱を返す罠。

「白梟はくきょうのやり方か」

 ルシの声が低くなる。

「似ている。雑だがな」

「雑でもミロには効いてる」

「分かっている」

 地下牢の奥で、影が動いた。

 小柄な男が、ミロの背後から現れる。

 手には短い刃。

 刃先が、ミロの喉元へ向けられていた。

「動くな」

 声は高く、乾いている。

 小柄な男はルシを見た。

「情報屋。お前がこっちへ来い」

 ルシの瞳が細くなる。

「オレを?」

「そうだ。お前が来れば、この子供は返す」

 カインがわずかに動いた。

 ジルが片手で止める。

 男は笑った。

「早まるな。格子を壊せば術式が走る。子供の頭が焼けるぞ」

 ルシは手をゆっくりと上げた。

「分かった。オレが行く」

 ジルの声が低く落ちる。

「動くな」

「ジル」

「動くなと言った」

「ミロがいる」

「見えている」

「なら」

 ジルはルシの前へ出た。

 大きく庇うような動きではない。

 ただ、ルシと地下牢を結ぶ直線へ、自分の身体を置く。

 それだけで、空気が凍る。

「勝手に自分を差し出すな」

「今は」

「囮になるなと言った」

「でも、助けるには」

「助ける。お前を渡さずにだ」

 ルシは言葉を失った。

 白梟はくきょうは、人を秤へ載せる。

 文書か、人か。

 情報屋か、見習い連絡員か。

 どちらを差し出すか選べと迫る。

 だがジルは、その選択自体を受け取らなかった。

 少なくとも、ルシにはそう見えた。

 ミロを助ける。

 ルシも渡さない。

 白梟はくきょうが差し出した秤を、そのまま切り捨てる背中だった。

 クロが外套の内側から顔を出し、ジルを見上げている。

「きゅう……」

 ジルは地下牢の床を見る。


 術式。

 首元の魔石。

 格子。

 男の刃。

 ミロの呼吸。

 カインの位置。

 ルシの針。

 クロの声。

 青灰色の目が、それらを順に拾っていく。

 男が苛立ったように叫んだ。

「早くしろ。情報屋を――」

「きゅう!」

 クロが鳴いた。

 小さな声。

 だが、地下牢の狭い石壁に反響する。

 男の視線が、一瞬だけ動いた。

 ジルの短剣が飛ぶ。

 刃は喉を狙わない。

 男の手首。

 刃を持つ指の腱だけを浅く切った。

 男が呻き、短刀を落とす。

 石床に乾いた音が跳ねた。

 同時に、カインが格子へ踏み込む。

 鉄が軋む。

 一撃。

 蹴りではない。体重と角度と力点を合わせた、扉を壊すための動き。錆びた格子が外れ、石壁の留め具が弾け飛んだ。

 金具が水溜まりへ落ち、鈍い音を立てる。

 ルシの針が男の肩へ刺さった。

 動きが鈍る。

 ジルは格子の隙間から身体を滑り込ませ、床の術式の端へ薄刃を入れた。

 全部は壊さない。

 ミロの首元の魔石へ走る起点だけを落とす。

 白い光が一度、強く跳ねた。

 ミロが苦しげに呻く。

 ルシは踏み込める床を選び、地下牢へ駆け込んだ。

「ミロ!」

「床!」

「分かってる!」

 ミロの身体を受け止める。

 軽い。

 見習いとはいえ、普段ならもっと力のある身体が、今は布の塊のように腕へ沈んだ。

 首元の魔石へ手を伸ばしかける。

 ジルが止めた。

「触るな。噛む」

「噛む?」

「外し方を間違えると、魔力が逆流する」

 ルシは手を引いた。

「じゃあ頼む」

 ジルは魔石の留め具を見る。

 白梟はくきょう式の簡易拘束具。

 指先に迷いはない。

 薄刃が留め具の内側へ入り、細い金具を断った。

 魔石が床へ落ちる。

 白い光が消えた。

 ミロの呼吸が、ほんの少し深くなる。

 クロが足元で鳴いた。

「きゅう」

 ルシはミロを抱えたまま、低く息を吐く。

「生きてる」

「まだ運べるだけだ。油断するな」

「分かってる」

 小柄な男は、カインに押さえ込まれていた。

 ジルは男を見下ろす。

「誰に手癖を教わった」

 男は答えない。

 カインが少しだけ腕を捻った。

 男の顔が歪む。

「誰だ」

「……知らない」

「嘘だな」

 ジルの声は冷たい。

「お前の罠は、白梟はくきょうの雑な模倣だ。だが、ルシの針の癖は、黒燈に近くなければ知らない。テオか?」

 男は口を閉ざす。

 その時、ミロの指がルシの袖を掴んだ。

 かすれた声が落ちる。

「……テオ、だけじゃ……ない」

 ルシはミロの顔を覗き込む。

「ミロ?」

「外の……連絡を、まとめる人……」

 喉が乾いているのか、一度咳き込む。

「ギルド長の、実務に近いところにも……出入りして……記録と、保護の道を……」

 言葉はそこで途切れた。

 ミロの身体から力が抜ける。

「ミロ!」

「気絶しただけだ」

 ジルが短く言う。

「運ぶぞ。荷物じゃない。首を支えろ」

 ルシはうなずいた。

 返す軽口は出なかった。

     *

 黒燈本部へ着く頃には、夜はさらに深くなっていた。

 ミロは、すぐにゼルの手当てを受けることになった。

 ジルは治療室の入口から、その手順を見ていた。

 助けた者を、黒燈がどう扱うのか。

 それを見逃す気はなかった。

 ゼルが最初にしたのは、証拠を集めることではない。

「ミロ。聞こえるかい」

 まず、名を呼ぶ。

 薄く瞼が動くことを確かめ、首元の痕、手首の擦れ、呼吸の浅さを順に見る。

 証拠より先に、身体。

 黒燈の手順は、そこから始まるらしい。

 首元から外した魔石は黒い布へ包まれ、保全卓へ置かれた。

 保全卓――押収品や証言に関わる物を、誰がいつ触れたかまで残すための黒い卓。ゼルは魔石を置く前に、ジルが外し、ルシがミロを支え、カインが術者を拘束した順を短く記録した。

 証拠を守るための手順。

 だが、証拠のために人を後回しにはしない。

 テオも、礼拝堂の外へ張られていたゼルの《影糸》の内側で確保されている。

 糸で縛り上げる必要はなかった。逃げようとはしなかったらしい。

 ただ、顔色はひどく悪く、問い詰められる前から何かに怯えているように見えた。

 小柄な男は、カインが地下へ連れていった。

 廊下の奥では、ダリウスが実務員へ短い指示を出している。

「保護経路を止めろ。今夜動いた配置と、外部連絡の控えを分けて出せ」

「外部の登録協力員もですか」

「ああ。正式所属かどうかで線を引くな。触れた情報で分けろ」

 低い声が石壁へ沈んだ。

 誰かを庇う響きはない。

 だからといって、確認前に切り捨てる声でもなかった。

 ジルはそれを黙って聞いていた。

 休憩室へ移っても、壁際から離れない。

 座ろうとはしなかった。

 外套も脱がない。

 扉と窓、奥へ続く廊下が視界へ入る位置。いつでも出ていける姿勢のままだ。

 ルシが扉を閉める。

「ジル」

「何だ」

「手、貸せ」

「お前が貸せ」

「え?」

「腕」

 ルシが一瞬、きょとんとする。

 ジルは眉を寄せた。

「傷」

「ああ」

 ルシの右腕には、地下牢でミロを受け止めた時にできた切り傷があった。

 深くはない。

 だが、白い粉が少し付着している。感覚遮断の術式片。このまま放置すれば、痺れが残る可能性がある。

 ジルは薬箱を取った。

 ルシは黙って椅子へ座る。

「珍しいな。お前から手当てしてくれるなんて」

「術式片が残ると面倒だ」

「心配じゃなくて?」

「面倒だと言った」

「はいはい」

 ルシは笑う。

 いつもの軽さへ戻そうとしているように聞こえた。

 だが、声の底には、まだ重いものが残っている。

 ジルは傷口を拭い、薬を塗った。

 薬を塗る指に迷いはない。痛む場所を押さえすぎず、かといって必要以上に緩めもしない。

 包帯は、動いても解けず、血を止めすぎない強さで結ばれる。

「……ミロ、助かるかな」

「助かる」

「断言するんだ」

「ゼルが見ている。クロも騒いでいない」

「クロ基準?」

「静かなら危険は薄い」

「それ、クロを過信してない?」

「万能ではない。だが、あいつは嫌な残り香には反応する。今はそれがない」

「お前には懐くけどな」

「それは知らん」

 ルシが小さく笑った。

 だが、すぐに視線を落とす。

「テオは、たぶん脅されてる」

「だろうな」

「でも、流したのは事実だ」

「ああ」

「ミロの居場所も、オレの手癖も、兄貴たちの配置も。全部じゃないにしても、黒燈に近い場所から漏れてる」

「そうだな」

「しかも、戦闘記録だけじゃない」

 ルシは包帯を巻かれた腕を見る。

「保護先。移動予定。誰がどこへ報告するか。外部連絡と調整の控えに触れた奴なら、断片を繋げられる」

「候補は絞れるか」

「絞る。今度は」

 短い言葉だった。

 いつもの自信ではない。

 拾えなかったものを認めた者の声だった。

 ジルは包帯から手を離した。

 ルシは、その手元を見ている。

「お前、今、思ってるだろ」

「何を」

「やっぱりギルドは腐るって」

 ジルの指が止まる。

 ほんの一瞬。

 だが、ルシの視線はそこへ向いていた。

 ジルは目を上げない。

「事実だ」

「腐ることはある」

 ルシは静かに言った。

「でも、腐った部分を隠すか、確かめて切るかは別だ」

 ジルは顔を上げる。

 ルシの赤みを帯びた瞳には、いつもの笑いがなかった。

「黒燈がどうするか、見て判断しろ」

「……」

「白梟はくきょうと同じだと思ったら、お前は出ていくんだろ」

「そうだ」

「なら、まだ見ろ」

 ルシは信じろと言わない。

 黒燈は違うと、言葉だけで押しつけることもしなかった。

「オレは、黒燈が白梟はくきょうと同じだとは思ってない。でも、お前に信じろとは言わない。見て、判断しろ」

 命令ではない。

 引き止めでもない。

 出ていく道を塞ぐ言葉でもなかった。

 見るかどうか。

 残って判断するかどうか。

 そこだけを、ジルへ返している。

 綺麗な言葉ではない。

 だから余計に、切り捨てにくい。

 扉が開いた。

 カインが入ってくる。

「ギルド長が呼んでいる」

 ルシが立ち上がろうとした。

 ジルはその肩を押す代わりに、包帯を巻いた腕へ視線を落とす。

「座っていろ」

「ジル」

「腕」

「この程度」

「この程度で、また前に出るから言っている」

 ルシが目を瞬いた。

 カインの視線が、二人の間を一度だけ動く。

 口を開きかけたように見えたが、何も言わなかった。

 代わりに、低く告げる。

「テオは生きている。小柄な男もだ。先にミロを見た」

 ルシがカインを見る。

「兄貴」

「聞くのは後だ」

「分かってる」

「なら休め」

 短い。

 だが、命令の奥にあるものを、ルシは知っている。

 廊下の向こうから、小さな爪音が近づいた。

 クロが走ってくる。

「きゅう!」

 そのままジルの足元へ突撃した。

 ジルは見下ろす。

「ミロは」

「きゅう」

「騒いでいるということは、悪くはないな」

「きゅ」

「そのまま待て」

 ルシが小さく笑った。

 ジルはクロを抱き上げない。

 ただ、その頭を指先で一度だけ撫でる。

 それから、扉の向こうを見た。

 黒燈の奥。

 ダリウスが待っている場所。

 そこに、自分の求める答えがあるとは限らない。

 だが、黒燈が何を隠し、何を切り、何を助けるのかを見る場はある。

 ルシは、見て判断しろと言った。

 決めるのはこちらへ残した。

 ジルは外套の襟を整える。

「行く」

 ルシが再び立ち上がりかけた。

 ジルは低く言う。

「お前は座っていろ」

「でも」

「見て判断しろと言ったのはお前だ。なら、俺が先に見てくる」

 ルシの目が、少しだけ見開かれる。

 すぐに、口元が緩んだ。

「……了解」

「何だ、その顔は」

「いや。ちゃんと戻ってこいよ、外部協力者さん」

「その呼び方をやめろ」

「じゃあ、任務中だけの相棒さん?」

「黙れ」

 クロが嬉しそうに鳴いた。

「きゅう」

 ジルは小さく息を吐き、カインとともに廊下へ出る。

 止めようと思えば、ルシはまだ言葉を重ねられた。

 だが、追ってはこない。

 ジルが自分で見に行くと決めたことを、そのまま受け取った。

 背後で、扉が静かに閉まった。

     *

 黒い灯りの揺れる休憩室に、ルシとクロだけが残された。

 いつもなら、ここで軽口をひとつ置く。

 面倒な相棒だとか。

 兄貴の目つきが怖いとか。

 クロがまたジルに懐いたとか。

 何でもいい。

 声にすれば、場の重さは少しだけ軽くなる。

 けれど、今夜は声が出なかった。

 ミロの首元に残っていた、魔石の痕。

 テオだけではない、と途切れた声。

 外の連絡をまとめ、記録と保護の道へ触れる者。

 黒燈の内側に近い場所から、白梟はくきょうへ道が渡っていたという事実。

 ルシはそこまで拾えていなかった。

 外側の噂は掴んでいた。

 白い封蝋も。

 白弦商会の荷も。

 ノクティルムへ流れ込む、白い気配も。

 それなのに、内側が抜けていた。

 ミロが消える前の違和感。

 テオの言葉の途切れ。

 自分の針が右袖から出ることを、誰かが記録や報告の中で拾っていた可能性。

 外部連絡の控えをまとめた者。

 保護経路へ触れられた者。

 正式所属員だけを見ていたせいで、見落としていた場所。

 拾えるものは、どこかにあったはずだ。

 拾えなかった。

 包帯を巻かれた腕が、じくりと痛む。

 ジルの手当ては丁寧だった。

 腹が立つほど、無駄がない。

 あの男は何も言わず、傷だけを見て、必要な処置だけをした。

 心配だとは言わない。

 大丈夫かとも聞かない。

 ただ、術式片を拭い、薬を塗り、動いても解けないよう包帯を巻いた。

 ルシは、その包帯を見下ろす。

 口元だけで笑おうとした。

 笑えなかった。

「……次は、拾う」

 低く落とした声に、クロが足元で小さく鳴く。

「きゅう……」

 ルシはクロの頭を撫でた。

 指先は、いつもより少し硬い。

「分かってる。落ち込んで終わりにはしない」

 それでも、その顔に笑みは戻らなかった。

 黒い灯りが、石壁の影を揺らしている。

 白梟はくきょうは、巻き込まれた者を道具にした。

 黒燈は、ミロを助けた。

 だが、それだけでは足りない。

 テオをどう扱うのか。

 内側へ道を渡した者を、身内だからと隠すのか。

 正式所属ではない者が関わっていたとして、責任を外へ押しつけるのか。

 証拠を消し、黒燈の名を守ることを優先するのか。

 それとも、誰がどこまで情報へ触れたかを、所属の内外に関係なく洗い直すのか。

 そこを見なければならない。

 ジルはまだ、黒燈を信用していない。

 それでも、逃げるためではなく見極めるために、黒燈の奥へ歩いていった。

 自分が言った言葉を、行動で受け取って。

 だから次は、ルシの番だった。

 見落とした線を拾う。

 クロの頭を撫でる指を止めず、ルシは閉じた扉を見つめていた。

 その目には、まだ笑みが戻っていなかった。
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