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第1部 魔族王都編
第8話 廃礼拝堂の夜
廃礼拝堂は、南区と西区の境にあった。
夜は深く、ノクティルムの生活音も、ここまではほとんど届かない。
かつてはノクティルムの古い守護神を祀っていた場所らしい。今では屋根の一部が崩れ、割れた色硝子の窓から月明かりだけが差し込んでいる。壁には枯れた蔦が這い、風が吹くたび、乾いた葉が石肌を擦った。
割れた色硝子の端が、かすかに鳴る。
祈りの匂いは、もう残っていない。
あるのは、湿った石と古い埃、そして人が隠したものの気配だけ。
ルシは、礼拝堂の向かいにある廃屋の屋根へ身を伏せていた。
隣にはジル。
少し離れた屋根の陰にはカインがいる。さらに反対側の崩れた鐘楼跡には、ゼルが立っていた。
ゼルの姿勢は穏やかだが、視線は止まっていない。礼拝堂の裏手から、逃げ道になりそうな路地、崩れた壁の陰、屋根へ上がる足場までを静かに拾っている。
クロはルシの肩に乗っていた。
ただし、さっきからジルの方へ前足を伸ばしている。
「クロ、今は駄目」
「きゅう」
「不満そうに鳴いても駄目」
「きゅ」
ジルは礼拝堂を見たまま言った。
「任務中に甘やかすな」
「お前が言うな」
「俺は甘やかしていない」
「クロがそっち行こうとしてる時点で、説得力ないんだよ」
「お前のしつけが悪い」
「最近、それしか言われてない気がする」
声は低い。
ほとんど息だけのやり取りだった。
離れた位置で、ゼルの口元がわずかに緩む。カインは笑わない。ただ、礼拝堂の裏手を見据えていた。
ジルが見ているのは、正面入口ではない。
崩れた石像の裏。
そこに、地下へ続く横穴がある。
表から見れば、ただの瓦礫だ。だが、石像の台座と壁の間には不自然な隙間があった。人ひとりが身を滑り込ませるには、十分な幅。
「来るとしたら、裏手からだ」
ジルが低く言う。
ルシは懐から小さな符牒紙を取り出した。
「尋問で出た暗号だと、接触時刻は鐘二つ分あと。今から半刻くらいか」
「早まる可能性がある」
「理由は?」
「下っ端が戻らない。向こうも気づく」
「じゃあ、もう来てるかもな」
「そう見ている」
ルシはジルの横顔を見た。
冷静だった。
冷たく、鋭く、少しも揺れていないように見える。
だが、これまで見た範囲では、ジルが静かな時ほど、視線は多くの場所を拾っていた。
敵の出方。
退路。
こちらを巻き込まず、自分だけを切り離すための動き。
黒燈をどこまで使い、どこから先を渡さないか。
おそらく、今もそのすべてを数えている。
「ジル」
「何だ」
「無理するなよ」
ジルは視線だけを向けた。
「お前に言われたくない」
「それはそう」
「認めるな」
ルシは小さく笑う。
「でも一応言っとく。お前、放っておくと全部一人で片づけようとするだろ」
「その方が早い」
「そういうところだよ」
ジルは答えない。
ルシは続けた。
「今日は一人じゃない。兄貴もゼルさんもいる。クロもいる」
「毛玉を戦力に数えるな」
「顔面奇襲の実績がある」
「否定しにくいのが腹立たしいな」
クロが誇らしげに鳴いた。
「きゅう」
ルシは、その頭を指で撫でる。
「で、オレもいる」
ジルは少し沈黙した。
ルシは笑わない。
いつものように茶化して、返事を軽口へ変えることもできた。だが、今はそれをしない。
ジルが低く言った。
「勝手に前へ出るな」
「分かってる」
「囮になるな」
「分かってる」
「危険だと思ったら下がれ」
「それは状況による」
ジルの目が鋭くなる。
「ルシ」
「命令は聞く。無駄死にもしない。でも、助けられる相手が目の前にいて、下がるだけなら情報屋やってない」
「面倒な男だな」
「よく言われる」
ルシは軽く返した。
だが、自分でも声に笑いがないことは分かっていた。
ジルは何か言いかけ、やめる。
その時、カインの指が短く動いた。
来た。
ジルもすぐに礼拝堂の裏手へ視線を戻す。
月明かりの下、二つの影が現れた。
一人は背の高い男。黒い外套を着ている。足取りには迷いがあるが、道は知っている。周囲を確認する視線は浅く、訓練された者には見えない。
もう一人は小柄な男だった。
灰色の頭巾を深く被り、顔を見せない。背は低いが、足運びは軽い。護衛ではない。連絡役。あるいは、罠を仕掛ける側の者。
ルシの指が、符牒紙を握り込んだ。
紙が小さく鳴る。
「……テオ」
口から落ちた声には、いつもの軽さがなかった。
ジルが目だけを向ける。
「知っているのか」
「黒燈の下級連絡員。普段は荷札と伝言の受け渡し。表の任務にはほとんど出ない」
「信用は?」
「高くはない。でも、白梟に売るほど馬鹿には見えなかった」
「馬鹿以外も売る。金、恐怖、家族、弱み」
「分かってる」
ルシの声は低い。
分かっている。
知っていたはずだった。
それでも、テオが白梟側の人間と並んでいる光景を、事前に拾うことはできなかった。
テオは小柄な男と短く言葉を交わした。
距離がある。
普通なら聞こえない。
ルシが符牒紙を握り直し、音を拾おうと魔力を流しかけた時だった。
ジルが、その手首を掴んだ。
「拾うな」
「何で」
「音に反応する札がある」
ジルの視線は、礼拝堂の割れた窓枠へ向いていた。
そこに、白い紙片が貼られている。
月明かりに紛れるほど薄い。だが、紙の端だけが乾いた封蝋のように光っていた。
音声を拾いに来る魔力を検知し、逆に位置を返す罠。
白梟式。
「聞かせるための会話か」
ルシが低く言う。
「可能性がある」
「じゃあ、テオは囮?」
「囮か、餌か、脅されているか。まだ分からない」
小柄な男が、崩れた石像の裏へ入っていく。
テオは残った。
礼拝堂の壁に背を向け、何かを待つように立っている。
捕らえるなら、今だ。
ルシの視線が一度、テオへ向く。
だが、ジルは動かない。
「小さい方を追う」
「テオは?」
「ゼルが見る」
ルシは一瞬だけ迷った。
テオを捕らえれば、すぐに問いただせる。
けれど、小柄な男を逃がせば、その先にあるものも消える。
迷いは短かった。
「分かった」
ジルが横目で見る。
「悪くない判断だ」
「褒めた?」
「事実確認だ」
「出た」
ルシは短く息を吐き、通信符へ触れた。
登録した相手へ短い合図だけを飛ばす、黒燈の実務用通信符。表面を一度撫でると、鐘楼跡で通信符の青紫の光が小さく返った。
その奥で、ゼルの右腕輪に暗い藍紫が灯る。
腕輪のすぐ上へ、枝分かれする細線を持つ薄い術式輪が低く浮かんだ。
銀筆が外環を半目盛りだけ回す。
糸を通す先だけを選び、触れる強さを落とす調律。
円環はすぐに右腕輪へ沈んだ。
次の瞬間、ゼルの指先から暗い藍紫の《影糸》がほどける。細い糸の内側を、青紫の光がかすかに走った。
糸は鐘楼の影を降り、逃げ道になりそうな路地、屋根、壁の陰へ音もなく枝分かれしていく。
テオの足首を縛るためではない。
どちらへ動いても見失わないよう、退路の輪郭だけを薄く押さえるための線だ。
カインが別方向から動く。
足音はない。
ジルは屋根から下りた。
ルシとクロが続く。
礼拝堂の裏手へ降りると、月明かりは途切れた。崩れた石像の裏には、地下へ続く湿った横穴が口を開けている。
中から、冷たい空気が流れてきた。
ジルは入口の縁に指を置く。
蝋の跡。
靴底の擦れ。
石壁へ残った白い粉。
「最近使われている」
「足跡は一人分?」
「見せているのはな」
「見せている?」
「隠した足がある」
ジルは薄刃の先で、床の粉を払った。
浅い踏み跡が現れる。
二人分。
いや、もっと多い。
「待ち伏せか」
「おそらく」
ルシは肩のクロを撫でた。
「クロ、静かに」
「きゅ……」
「偉い」
ジルがクロを見る。
「甘やかすな」
「今のは必要な声かけ」
「都合よく言うな」
地下通路へ入る。
中は狭い。石壁は古く、湿気を吸って黒ずみ、肩を広げればすぐ触れるほど近い。天井の一部から水が滴り、床には浅く濁った水が流れている。
足音も息も逃げ場を失い、石壁の間で鈍く戻ってきた。
クロの鼻先が、湿った石の奥へ向く。
太い尾の動きが止まる。
「きゅ……」
甘える声ではない。
白い紙や封蝋に似た、乾いた匂いを嫌がる声だった。
先頭はジル。
少し後ろにルシ。
さらに後ろには、カインが影のように続いている。
カインがいるだけで、背後の空気が締まった。左側の視界がない分、足音と壁へ返る気配を、異様なほど丁寧に拾っている。
ジルの指が一度だけ上がる。
止まれ。
ルシはすぐに足を止めた。
次の瞬間、通路の奥から矢が飛ぶ。
白い矢羽。
毒ではない。
だが、矢じりには小さな札が巻かれていた。
ジルが短剣で弾く。
金属が触れる短い音。
矢は壁へ刺さり、白い火花を散らした。燃焼符。触れれば布や紙を焼く程度だが、顔に当たれば目を奪う。
カインが低く言う。
「右壁」
壁の継ぎ目が動いた。
隠し扉。
そこから二人の男が飛び出す。
カインが前へ出る。
男が短剣を抜くより早く手首を取り、肩を外した。骨を砕かず、力だけを抜く動き。もう一人が短刀を振る前に膝裏を蹴り、壁へ叩きつける。
刃が床へ落ちた。
鈍い金属音が、水音の中へ沈む。
殺さない。
だが、確実に止める。
黒燈の刃だった。
ルシは前方を見る。
「小柄な奴、奥へ行った」
「追う」
「待て」
カインが短く言った。
言葉より早く、通路の奥で光が弾ける。
閃光魔石。
白い光が視界を焼いた。
ルシは反射的にクロを外套の内側へ抱き込む。
「きゅっ」
「大丈夫」
光が収まる前に、濡れた石を踏む音が走る。
浅い水。
軽い足音。
その後ろに、別の重い音。
ジルは光をまともに見ない角度へ顔をずらし、足音だけを追っていた。
ルシは気配へ向けて針を投げる。
だが、針は壁へ弾かれた。
小柄な男の声が、通路の奥から響く。
「情報屋の針は右袖から。聞いた通りだな」
ルシの顔から、残っていた軽さが消えた。
「……こっちの手癖まで漏れてる」
配置や移動予定だけではない。
誰がどの道具を、どちらの袖から抜くか。
任務の受け渡しや、帰還後の報告へ近い者でなければ拾いにくい情報だった。
カインの目が鋭くなる。
「誰からだ」
「今は追う」
ジルが言った。
短いが、重い声だった。
ルシはうなずく。
通路は二つに分かれていた。
左には深い足跡。
右には浅い足跡。
小柄な男が向かったのは、見た目では左だ。濡れた床に、はっきりと足跡が続いている。
ルシは一瞬だけ見て、右を指した。
「右」
ジルが目を細める。
「理由は」
「左の足跡、深さが揃いすぎてる。わざと踏んだ。右は足跡を消そうとしてるけど、水の縁だけ乱れてる」
カインの視線が右の通路へ動く。
ジルは短く言った。
「悪くない」
「今日二回目」
「調子に乗るな」
「乗ってない」
右へ進む。
奥から、かすかな鎖の音が聞こえた。
ジルの足が止まる。
ルシも止まった。
「今の」
「ああ」
通路の先には、古い扉があった。
扉というより、壁へ埋め込まれた鉄格子だ。半分は錆びているが、最近触られた跡がある。
格子の向こうは、小さな地下牢になっていた。
その奥に、誰かが座り込んでいる。
小柄な身体。
黒燈の見習い連絡員が身につける、細い腕紐。
ルシの呼吸が止まった。
「ミロ……?」
少年は顔を上げない。
意識が朦朧としている。首元には小さな魔石が括りつけられ、淡く白く光っていた。光が脈打つたび、細い肩が小さく跳ねる。
床の埃を掴む指には、力が入っていない。
ルシは格子へ近づこうとした。
ジルが肩を掴む。
「入るな」
「でも」
「床を見ろ」
地下牢の床には、薄い術式が刻まれていた。
踏み込めば、首元の魔石が反応する。感覚遮断。痛みと恐怖を増幅させ、外から触れた者にも一瞬だけ混乱を返す罠。
「白梟のやり方か」
ルシの声が低くなる。
「似ている。雑だがな」
「雑でもミロには効いてる」
「分かっている」
地下牢の奥で、影が動いた。
小柄な男が、ミロの背後から現れる。
手には短い刃。
刃先が、ミロの喉元へ向けられていた。
「動くな」
声は高く、乾いている。
小柄な男はルシを見た。
「情報屋。お前がこっちへ来い」
ルシの瞳が細くなる。
「オレを?」
「そうだ。お前が来れば、この子供は返す」
カインがわずかに動いた。
ジルが片手で止める。
男は笑った。
「早まるな。格子を壊せば術式が走る。子供の頭が焼けるぞ」
ルシは手をゆっくりと上げた。
「分かった。オレが行く」
ジルの声が低く落ちる。
「動くな」
「ジル」
「動くなと言った」
「ミロがいる」
「見えている」
「なら」
ジルはルシの前へ出た。
大きく庇うような動きではない。
ただ、ルシと地下牢を結ぶ直線へ、自分の身体を置く。
それだけで、空気が凍る。
「勝手に自分を差し出すな」
「今は」
「囮になるなと言った」
「でも、助けるには」
「助ける。お前を渡さずにだ」
ルシは言葉を失った。
白梟は、人を秤へ載せる。
文書か、人か。
情報屋か、見習い連絡員か。
どちらを差し出すか選べと迫る。
だがジルは、その選択自体を受け取らなかった。
少なくとも、ルシにはそう見えた。
ミロを助ける。
ルシも渡さない。
白梟が差し出した秤を、そのまま切り捨てる背中だった。
クロが外套の内側から顔を出し、ジルを見上げている。
「きゅう……」
ジルは地下牢の床を見る。
術式。
首元の魔石。
格子。
男の刃。
ミロの呼吸。
カインの位置。
ルシの針。
クロの声。
青灰色の目が、それらを順に拾っていく。
男が苛立ったように叫んだ。
「早くしろ。情報屋を――」
「きゅう!」
クロが鳴いた。
小さな声。
だが、地下牢の狭い石壁に反響する。
男の視線が、一瞬だけ動いた。
ジルの短剣が飛ぶ。
刃は喉を狙わない。
男の手首。
刃を持つ指の腱だけを浅く切った。
男が呻き、短刀を落とす。
石床に乾いた音が跳ねた。
同時に、カインが格子へ踏み込む。
鉄が軋む。
一撃。
蹴りではない。体重と角度と力点を合わせた、扉を壊すための動き。錆びた格子が外れ、石壁の留め具が弾け飛んだ。
金具が水溜まりへ落ち、鈍い音を立てる。
ルシの針が男の肩へ刺さった。
動きが鈍る。
ジルは格子の隙間から身体を滑り込ませ、床の術式の端へ薄刃を入れた。
全部は壊さない。
ミロの首元の魔石へ走る起点だけを落とす。
白い光が一度、強く跳ねた。
ミロが苦しげに呻く。
ルシは踏み込める床を選び、地下牢へ駆け込んだ。
「ミロ!」
「床!」
「分かってる!」
ミロの身体を受け止める。
軽い。
見習いとはいえ、普段ならもっと力のある身体が、今は布の塊のように腕へ沈んだ。
首元の魔石へ手を伸ばしかける。
ジルが止めた。
「触るな。噛む」
「噛む?」
「外し方を間違えると、魔力が逆流する」
ルシは手を引いた。
「じゃあ頼む」
ジルは魔石の留め具を見る。
白梟式の簡易拘束具。
指先に迷いはない。
薄刃が留め具の内側へ入り、細い金具を断った。
魔石が床へ落ちる。
白い光が消えた。
ミロの呼吸が、ほんの少し深くなる。
クロが足元で鳴いた。
「きゅう」
ルシはミロを抱えたまま、低く息を吐く。
「生きてる」
「まだ運べるだけだ。油断するな」
「分かってる」
小柄な男は、カインに押さえ込まれていた。
ジルは男を見下ろす。
「誰に手癖を教わった」
男は答えない。
カインが少しだけ腕を捻った。
男の顔が歪む。
「誰だ」
「……知らない」
「嘘だな」
ジルの声は冷たい。
「お前の罠は、白梟の雑な模倣だ。だが、ルシの針の癖は、黒燈に近くなければ知らない。テオか?」
男は口を閉ざす。
その時、ミロの指がルシの袖を掴んだ。
かすれた声が落ちる。
「……テオ、だけじゃ……ない」
ルシはミロの顔を覗き込む。
「ミロ?」
「外の……連絡を、まとめる人……」
喉が乾いているのか、一度咳き込む。
「ギルド長の、実務に近いところにも……出入りして……記録と、保護の道を……」
言葉はそこで途切れた。
ミロの身体から力が抜ける。
「ミロ!」
「気絶しただけだ」
ジルが短く言う。
「運ぶぞ。荷物じゃない。首を支えろ」
ルシはうなずいた。
返す軽口は出なかった。
*
黒燈本部へ着く頃には、夜はさらに深くなっていた。
ミロは、すぐにゼルの手当てを受けることになった。
ジルは治療室の入口から、その手順を見ていた。
助けた者を、黒燈がどう扱うのか。
それを見逃す気はなかった。
ゼルが最初にしたのは、証拠を集めることではない。
「ミロ。聞こえるかい」
まず、名を呼ぶ。
薄く瞼が動くことを確かめ、首元の痕、手首の擦れ、呼吸の浅さを順に見る。
証拠より先に、身体。
黒燈の手順は、そこから始まるらしい。
首元から外した魔石は黒い布へ包まれ、保全卓へ置かれた。
保全卓――押収品や証言に関わる物を、誰がいつ触れたかまで残すための黒い卓。ゼルは魔石を置く前に、ジルが外し、ルシがミロを支え、カインが術者を拘束した順を短く記録した。
証拠を守るための手順。
だが、証拠のために人を後回しにはしない。
テオも、礼拝堂の外へ張られていたゼルの《影糸》の内側で確保されている。
糸で縛り上げる必要はなかった。逃げようとはしなかったらしい。
ただ、顔色はひどく悪く、問い詰められる前から何かに怯えているように見えた。
小柄な男は、カインが地下へ連れていった。
廊下の奥では、ダリウスが実務員へ短い指示を出している。
「保護経路を止めろ。今夜動いた配置と、外部連絡の控えを分けて出せ」
「外部の登録協力員もですか」
「ああ。正式所属かどうかで線を引くな。触れた情報で分けろ」
低い声が石壁へ沈んだ。
誰かを庇う響きはない。
だからといって、確認前に切り捨てる声でもなかった。
ジルはそれを黙って聞いていた。
休憩室へ移っても、壁際から離れない。
座ろうとはしなかった。
外套も脱がない。
扉と窓、奥へ続く廊下が視界へ入る位置。いつでも出ていける姿勢のままだ。
ルシが扉を閉める。
「ジル」
「何だ」
「手、貸せ」
「お前が貸せ」
「え?」
「腕」
ルシが一瞬、きょとんとする。
ジルは眉を寄せた。
「傷」
「ああ」
ルシの右腕には、地下牢でミロを受け止めた時にできた切り傷があった。
深くはない。
だが、白い粉が少し付着している。感覚遮断の術式片。このまま放置すれば、痺れが残る可能性がある。
ジルは薬箱を取った。
ルシは黙って椅子へ座る。
「珍しいな。お前から手当てしてくれるなんて」
「術式片が残ると面倒だ」
「心配じゃなくて?」
「面倒だと言った」
「はいはい」
ルシは笑う。
いつもの軽さへ戻そうとしているように聞こえた。
だが、声の底には、まだ重いものが残っている。
ジルは傷口を拭い、薬を塗った。
薬を塗る指に迷いはない。痛む場所を押さえすぎず、かといって必要以上に緩めもしない。
包帯は、動いても解けず、血を止めすぎない強さで結ばれる。
「……ミロ、助かるかな」
「助かる」
「断言するんだ」
「ゼルが見ている。クロも騒いでいない」
「クロ基準?」
「静かなら危険は薄い」
「それ、クロを過信してない?」
「万能ではない。だが、あいつは嫌な残り香には反応する。今はそれがない」
「お前には懐くけどな」
「それは知らん」
ルシが小さく笑った。
だが、すぐに視線を落とす。
「テオは、たぶん脅されてる」
「だろうな」
「でも、流したのは事実だ」
「ああ」
「ミロの居場所も、オレの手癖も、兄貴たちの配置も。全部じゃないにしても、黒燈に近い場所から漏れてる」
「そうだな」
「しかも、戦闘記録だけじゃない」
ルシは包帯を巻かれた腕を見る。
「保護先。移動予定。誰がどこへ報告するか。外部連絡と調整の控えに触れた奴なら、断片を繋げられる」
「候補は絞れるか」
「絞る。今度は」
短い言葉だった。
いつもの自信ではない。
拾えなかったものを認めた者の声だった。
ジルは包帯から手を離した。
ルシは、その手元を見ている。
「お前、今、思ってるだろ」
「何を」
「やっぱりギルドは腐るって」
ジルの指が止まる。
ほんの一瞬。
だが、ルシの視線はそこへ向いていた。
ジルは目を上げない。
「事実だ」
「腐ることはある」
ルシは静かに言った。
「でも、腐った部分を隠すか、確かめて切るかは別だ」
ジルは顔を上げる。
ルシの赤みを帯びた瞳には、いつもの笑いがなかった。
「黒燈がどうするか、見て判断しろ」
「……」
「白梟と同じだと思ったら、お前は出ていくんだろ」
「そうだ」
「なら、まだ見ろ」
ルシは信じろと言わない。
黒燈は違うと、言葉だけで押しつけることもしなかった。
「オレは、黒燈が白梟と同じだとは思ってない。でも、お前に信じろとは言わない。見て、判断しろ」
命令ではない。
引き止めでもない。
出ていく道を塞ぐ言葉でもなかった。
見るかどうか。
残って判断するかどうか。
そこだけを、ジルへ返している。
綺麗な言葉ではない。
だから余計に、切り捨てにくい。
扉が開いた。
カインが入ってくる。
「ギルド長が呼んでいる」
ルシが立ち上がろうとした。
ジルはその肩を押す代わりに、包帯を巻いた腕へ視線を落とす。
「座っていろ」
「ジル」
「腕」
「この程度」
「この程度で、また前に出るから言っている」
ルシが目を瞬いた。
カインの視線が、二人の間を一度だけ動く。
口を開きかけたように見えたが、何も言わなかった。
代わりに、低く告げる。
「テオは生きている。小柄な男もだ。先にミロを見た」
ルシがカインを見る。
「兄貴」
「聞くのは後だ」
「分かってる」
「なら休め」
短い。
だが、命令の奥にあるものを、ルシは知っている。
廊下の向こうから、小さな爪音が近づいた。
クロが走ってくる。
「きゅう!」
そのままジルの足元へ突撃した。
ジルは見下ろす。
「ミロは」
「きゅう」
「騒いでいるということは、悪くはないな」
「きゅ」
「そのまま待て」
ルシが小さく笑った。
ジルはクロを抱き上げない。
ただ、その頭を指先で一度だけ撫でる。
それから、扉の向こうを見た。
黒燈の奥。
ダリウスが待っている場所。
そこに、自分の求める答えがあるとは限らない。
だが、黒燈が何を隠し、何を切り、何を助けるのかを見る場はある。
ルシは、見て判断しろと言った。
決めるのはこちらへ残した。
ジルは外套の襟を整える。
「行く」
ルシが再び立ち上がりかけた。
ジルは低く言う。
「お前は座っていろ」
「でも」
「見て判断しろと言ったのはお前だ。なら、俺が先に見てくる」
ルシの目が、少しだけ見開かれる。
すぐに、口元が緩んだ。
「……了解」
「何だ、その顔は」
「いや。ちゃんと戻ってこいよ、外部協力者さん」
「その呼び方をやめろ」
「じゃあ、任務中だけの相棒さん?」
「黙れ」
クロが嬉しそうに鳴いた。
「きゅう」
ジルは小さく息を吐き、カインとともに廊下へ出る。
止めようと思えば、ルシはまだ言葉を重ねられた。
だが、追ってはこない。
ジルが自分で見に行くと決めたことを、そのまま受け取った。
背後で、扉が静かに閉まった。
*
黒い灯りの揺れる休憩室に、ルシとクロだけが残された。
いつもなら、ここで軽口をひとつ置く。
面倒な相棒だとか。
兄貴の目つきが怖いとか。
クロがまたジルに懐いたとか。
何でもいい。
声にすれば、場の重さは少しだけ軽くなる。
けれど、今夜は声が出なかった。
ミロの首元に残っていた、魔石の痕。
テオだけではない、と途切れた声。
外の連絡をまとめ、記録と保護の道へ触れる者。
黒燈の内側に近い場所から、白梟へ道が渡っていたという事実。
ルシはそこまで拾えていなかった。
外側の噂は掴んでいた。
白い封蝋も。
白弦商会の荷も。
ノクティルムへ流れ込む、白い気配も。
それなのに、内側が抜けていた。
ミロが消える前の違和感。
テオの言葉の途切れ。
自分の針が右袖から出ることを、誰かが記録や報告の中で拾っていた可能性。
外部連絡の控えをまとめた者。
保護経路へ触れられた者。
正式所属員だけを見ていたせいで、見落としていた場所。
拾えるものは、どこかにあったはずだ。
拾えなかった。
包帯を巻かれた腕が、じくりと痛む。
ジルの手当ては丁寧だった。
腹が立つほど、無駄がない。
あの男は何も言わず、傷だけを見て、必要な処置だけをした。
心配だとは言わない。
大丈夫かとも聞かない。
ただ、術式片を拭い、薬を塗り、動いても解けないよう包帯を巻いた。
ルシは、その包帯を見下ろす。
口元だけで笑おうとした。
笑えなかった。
「……次は、拾う」
低く落とした声に、クロが足元で小さく鳴く。
「きゅう……」
ルシはクロの頭を撫でた。
指先は、いつもより少し硬い。
「分かってる。落ち込んで終わりにはしない」
それでも、その顔に笑みは戻らなかった。
黒い灯りが、石壁の影を揺らしている。
白梟は、巻き込まれた者を道具にした。
黒燈は、ミロを助けた。
だが、それだけでは足りない。
テオをどう扱うのか。
内側へ道を渡した者を、身内だからと隠すのか。
正式所属ではない者が関わっていたとして、責任を外へ押しつけるのか。
証拠を消し、黒燈の名を守ることを優先するのか。
それとも、誰がどこまで情報へ触れたかを、所属の内外に関係なく洗い直すのか。
そこを見なければならない。
ジルはまだ、黒燈を信用していない。
それでも、逃げるためではなく見極めるために、黒燈の奥へ歩いていった。
自分が言った言葉を、行動で受け取って。
だから次は、ルシの番だった。
見落とした線を拾う。
クロの頭を撫でる指を止めず、ルシは閉じた扉を見つめていた。
その目には、まだ笑みが戻っていなかった。
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