銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第10話 西区の煮込み屋



 翌日の夜、西区の裏通りには、よく煮えた肉と根菜の匂いが満ちていた。

 日中をサイラスの転移痕と白弦商会の荷路の照合に使い、日が落ちた頃、ジルは煮込み屋の扉を押した。

 表通りの酒場が香辛料と酒で客を呼ぶなら、この辺りの小さな食堂は、鍋の湯気と焼けた黒麦パンの匂いで腹を空かせた者を引き寄せる。

 労働帰りの職人。

 荷運び。

 旅人。

 安宿さえ取れなかった傭兵崩れ。

 誰もが狭い木の卓へ肩を寄せ、熱い煮込みを掻き込んでいた。

 ジルが扉を押す。

 蝶番が乾いた音を立て、外の冷えた空気が店内へ細く入り込んだ。

 鍋の底で根菜が煮える音。

 木匙が皿の縁を打つ軽い音。

 客の笑い声。

 濡れた外套から落ちる雫。

 夜気の匂いは、すぐに肉と香草の湯気へ飲み込まれていく。

 店の奥、壁際の席にルシはいた。

 卓の上には、すでに二人分の皿が並んでいる。

 一方には肉と根菜をたっぷり入れた煮込み。

 もう一方は少し量を減らし、香辛料も控えめにしてある。脇には硬めに焼いた黒麦パン。

 ジルは席へ近づきながら、店内を一度だけ測った。

 入口。

 厨房へ続く布の仕切り。

 裏口。

 開いた小窓。

 壁際の客の腰にある短刀。

 左奥で眠りかけている荷運びの手元。

 店員の動き。

 ルシの右腕には、昨夜の薬布が巻かれている。

 ジル自身の袖口の薄刃は問題なく抜ける。腰の短剣も、座ったまま手が届く位置に収まっていた。

「座っていいぞ」

 ルシが頬杖をついたまま言う。

「椅子までは噛みつかない」

「椅子はな」

「まだ信用されてないなあ」

「店の椅子を信用する理由がない」

「煮込みは信用していい。ここのはうまい」

「毒見は」

「してない」

 ジルが冷たい目を向ける。

 ルシはすぐに笑った。

「冗談。先に食った。あと、香辛料は控えてもらった」

「なぜ」

「前に強いのだけ避けてただろ」

 ジルは答えなかった。

 皿を遠ざけた覚えはない。

 残したこともない。

 ただ、香りの強い部分をわずかに避けただけだ。

 その程度の動きまで、情報として覚えていたらしい。

「量も少なめ」

 ルシは続ける。

「食いながら出口を数える奴には、これくらいがちょうどいい」

「勝手に決めるな」

「多い方がよかった?」

「そういう話ではない」

「はいはい」

 ルシの膝には、クロが丸くなっていた。

 ジルが腰を下ろした途端、長い耳が立つ。

「きゅう」

「来るな」

 止めるより早く、黒い毛玉は床へ降りた。

 ふわふわと尾を揺らし、当然のようにジルの靴先へ頬を擦りつける。

 ルシが眉を下げた。

「本当に誰の相棒なんだろうな」

「しつけの問題だ」

「最近、それしか言わないな」

「事実だからな」

「きゅう」

「お前も肯定するな」

 クロはジルの足元へ収まり、満足そうに尾を丸めた。

 ルシが選んだ席は、店内の動きがよく見える。

 声は食器の音や客の話へ紛れ、隣の卓からは内容まで拾いにくい。裏口にも近く、何かあればすぐ外へ出られる。

 情報を渡すにも、逃げるにも都合がいい。

 ジルは煮込みを一口だけ口へ運ぶ。

 熱は少し落としてある。

 香辛料は薄い。

 柔らかく煮えた肉と、根菜の甘み。

 悪くない。

 そう思った瞬間、ルシがにやりとした。

「うまい?」

「普通だ」

「ジル式だと褒め言葉だな」

「勝手に訳すな」

「クロも食いたいって」

「きゅう」

「お前はさっき食っただろ」

 ルシは黒麦パンの端を小さく裂き、クロへ渡す。

 クロは前足で押さえ、嬉しそうに噛み始めた。

 雨の夜に乾燥肉をひとつ盗み、暗がりへ消えていった毛玉。

 今は誰かの膝に乗り、用意されたパンを食べている。

 拾われた場所を、自分の居場所だと思っている顔だった。

「ジル」

 ルシの声が低くなる。

 懐から小さな地図片を取り出し、卓の上へ置いた。外からは勘定紙に見えるほど小さく折ってある。

「サイラスの逃走先、だいたい絞れた」

「早いな」

「情報屋だからな」

「便利に使うな」

「それ、自分で言ったんだけど」

 ルシは地図の西側を指で押さえた。

「昨日の転移乱れ。符の方角印と、西区で拾った魔力残滓が一致した」

「予定座標には届いていない」

「ああ。西区の中央より少し北。着地した場所には、片足を引きずった跡と、白弦商会の香料が残ってた」

「左足か」

「たぶんな。魔力焼けもあった。転移の引きずり方を見る限り、かなり無理に抜けたらしい」

 ジルは地図を見る。

 転移符の端を切った時、サイラスの左足だけが白い光へ遅れて引かれていた。

 骨まで壊れているとは限らない。

 だが、走るには支障が出る。

「その後は」

「白弦商会の荷馬車が一台、西区の荷置き場へ入った。表向きは香料と小麦粉」

「表向きは」

「粉袋が一つ消えてる」

 ルシの指が地図の端へ移る。

「西区外れの粉挽き小屋。水路が枯れてから使われてない。白弦商会の古い荷道からも近い」

「隠れるには分かりやすすぎる」

「だから罠だろうな」

「だろうな」

 二人の声が、ほぼ同時に落ちた。

 ルシが口元を緩める。

「噛み合うな」

「作業効率の話だ」

「はいはい」

 ジルは地図を見たまま言う。

「サイラスは、まだ街の外へ出ていない」

「理由は?」

「白弦商会の荷を使ったなら、外へ逃がす者を待つ必要がある。転移に失敗して負傷しているなら、なおさらだ」

「迎え待ちか」

「来ればな」

 ジルは地図の粉挽き小屋へ指を置く。

「自分で逃げるための道具を渡されても、回収される保証はない」

「白梟はくきょう側から見れば、もう失敗した協力者だもんな」

「正式な白梟はくきょう員でもない」

 ジルの声には温度がなかった。

「必要がなくなれば、記録にも残さず捨てる」

 ルシが一瞬だけ黙る。

「……経験談?」

「余計なことを聞くな」

「はいはい」

 軽く返したが、それ以上は踏み込まなかった。

 ジルは煮込みをもう一口運ぶ。

「サイラスの狙いは俺だ」

「そうだろうな」

「なら俺が行く」

「一人で?」

「ああ」

「却下」

 返事は早かった。

 ジルの眉が動く。

「決めるのは俺だ」

「お前が勝手に自分を餌にするのは、決断じゃなくて手抜き」

「手抜き?」

「自分一人を捨てれば済むと思ってる」

 ルシは木匙を皿へ置いた。

「サイラスは、お前が一人で来ると思って罠を張る。なら、一人で行くのが一番読みやすい」

「俺一人なら、お前たちは巻き込まれない」

「もう巻き込まれてる」

 軽口が消えた。

「ミロも、テオも、オレも、兄貴も、ゼルさんも。クロまで白い煙を吸った。今さら、お前一人の問題に戻すのは無理だ」

 ジルは黙る。

「あと」

 ルシは続ける。

「自分だけ雑に扱うな」

 声は低い。

 守るとも、従えとも言わない。

 ただ、ジルが自分の損失を計算へ入れていないことだけを指摘している。

「お前が勝手に怪我しても、クロが怒る」

「きゅう」

「ほら」

「毛玉を盾にするな」

「便利だろ」

「認めるな」

 ジルは小さく舌打ちした。

 その時、店員の少女が水差しを持って近づいてきた。

 まだ若い。

 十六か、それより少し上。

 普段なら客の間を器用に抜ける足取りなのだろう。だが今は歩幅が狭く、水差しの中で水面が細かく揺れている。

 指が震えていた。

 視線は卓へ向いている。

 それでも、目だけが何度も厨房の奥へ戻りかける。

 ジルが気づいたのと、ルシの指が止まったのはほぼ同時だった。

 少女は卓へ水差しを置く。

 底から、小さな紙片が落ちた。


 ルシは表情を変えず、手の下へ隠す。

「ありがとな。今日の煮込み、うまいよ」

 少女の唇が震えた。

「……ごゆっくり」

 声が掠れている。

 ジルは少女の目を見た。

 恐怖。

 自分が紙を運んだことへの罪悪感。

 そして、声にできない助けを求める色。

「厨房へ戻れ」

 ルシが声を落とす。

「走るな。誰にも話さなくていい。こっちで聞く」

 少女は小さく頷いた。

 何とか平静に見える足取りで、布の仕切りの向こうへ消える。

 ルシが紙片を開いた。

 短い文。

> 銀髪のエルフ一人で来い。
> 連れがいれば、弟は死ぬ。
> 西区の古い粉挽き小屋。
> 夜明けまで。

 紙の端には白い粉。

 香料。

 白梟はくきょう式を真似た、浅い封。

 ルシの声から完全に笑みが消えた。

「弟」

 ジルは厨房の方を見る。

「少女の家族だな」

「聞く」

 ルシは立ち上がりかける。

 ジルが先に紙片を取った。

「俺が行く」

「だから一人で行くな」

「人質がいる」

「だから考えて動くんだろ」

 ジルの内側で、怒りが静かに冷える。

 白梟はくきょうは、いつもそうだった。

 本人が従わなければ、周囲を使う。

 何の関係もない者を関係者へ変え、誰を差し出すか選ばせる。

 今度は、店の少女とその弟。

「子供を使った」

「ジル」

「店を脅し、姉に紙を運ばせた」

「分かってる」

「なら止めるな」

 ルシの手が、ジルの腕へ触れた。

 傷のある方ではない。

 力も強くない。

 今、怒りのまま立ち上がることだけを止める触れ方だった。

「助ける」

 ルシはまっすぐ見返す。

「お前を一人で渡さずにだ」

 ジルの呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。

 返されたのは、自分が廃礼拝堂でルシへ投げた言葉だった。

 店の音が遠くなる。

 鍋の泡が弾ける音。

 皿と木匙が触れる音。

 卓の下で、クロが身じろぎする爪音。

「怒るのはいい」

 ルシは続けた。

「オレも腹が立ってる。でも、怒りのまま動けば向こうが喜ぶ」

 腕を引けば、手は外れる。

 ルシは逃げ道まで塞いでいない。

 ジルは数秒黙り、掴まれた腕を振り払わずに言った。

「誰が捕まっている」

「聞く」

 ルシは手を離し、厨房へ向かった。

 客に怪しまれないよう、空いた皿を一枚持っていく。

 少女へ近づき、短く言葉を交わす。

 少女は一度だけ唇を噛み、それから小さく頷いた。

 ルシが戻ってくる。

「十二歳の弟。夕方、裏口へ粉袋を受け取りに出たところを連れていかれた」

「男は一人か」

「見たのはサイラス一人。左足を引きずってた。白い粉のついた外套で、ずっと“迎えが来るまで”って言ってたらしい」

 ジルの目が細くなる。

 迎え。

 やはり、白梟はくきょう側の回収を待っている。

「姉には、紙をオレたちへ渡せば弟は戻すと言った。店主にはまだ話せてない」

「他の人質は」

「少なくとも、示されたのは弟だけ」

「なら、粉挽き小屋で間違いない」

 ルシは袖口の通信符へ指を当てた。

 登録相手へ短い文だけを送る、黒燈の実務符。淡い青紫が布の下で一度震える。

「兄貴とゼルさんへ送る。店には客を装った保護員を入れる。姉ちゃんは厨房から出さない。店主には、黒燈員が入ってから最低限だけ説明する」

 少し遅れて、通信符が返る。

 ダリウスからの短い指示だった。

> 店と姉弟を同じ案件で保護。
> 紙を運んだ者を容疑者として扱うな。
> サイラスは生け捕り。
> 術具と荷札を保全しろ。

 ジルは符の文字を見た。

 人質だけを助け、危険に使われた店を捨てるのではない。

 脅されて紙を運んだ少女を、内通者として処理することもない。

 店も。

 姉も。

 弟も。

 まとめて守る。

「早いな」

 ジルが言う。

「情報屋だから」

「便利に使うな」

「今日は便利でいいだろ」

 クロが卓の下から出てきた。

「きゅう……」

 いつもより低い声。

 ルシは膝をつき、頭を撫でる。

「クロ、店に残るか?」

「きゅ」

「行く顔だな」

 ジルが冷たく言う。

「毛玉を連れていくな」

「少年が怖がってるなら、クロがいると少し落ち着くかもしれない。駄目なら、オレの外套の中で待たせる」

「万能扱いするな」

「万能じゃない。可愛いだけ」

「それもどうなんだ」

「きゅう」

 クロは胸を張る。

 ジルはため息をついた。

「勝手に前へ出るな」

「誰に言ってる?」

「全員だ」

 ルシが少し笑う。

「了解」

     *

 粉挽き小屋は、西区の外れにある。

 かつて水路から水を引き、重い石臼を回していた建物。

 水路が枯れてからは使われなくなり、今は近くの荷置き場から持ち込まれたらしい白弦商会名義の古い粉袋と、行き場を失った木箱が散らばっている。

 商会の倉庫札も管理札もない。

 ここ自体が白弦商会の施設というわけではなかった。

 木の羽根車は半分崩れている。

 風が抜けるたび、古い板が低く軋んだ。

 枯れた水路の底には泥が黒く固まり、荷運び道には薄い車輪跡が残る。

 粉袋の裂け目から白い粉がこぼれ、床板の隙間へ積もっていた。

 踏めば足跡が残る。

 足跡を消そうとしても、粉の流れが乱れる。

 隠れるにも。

 罠を張るにも。

 都合がいい。

 ジルとルシは、正面入口から少し離れた倉庫跡でカインと合流した。

 カインはすでに屋根と裏口を確認している。

 片目の視線は小屋へ向いたまま。

 足の置き方が、いつもよりわずかに重い。

「弟は」

 ルシが聞く。

「奥の倉庫」

「生きてる?」

「一瞬見えた。縛られているが、自力で座っている」

 通信符から、ゼルの静かな声が入る。

「裏の荷道は押さえた。サイラスのものらしい足跡も確認したよ。左足を強く引きずっている」

「店は」

「黒燈員を客として入れた。店主にも説明済み。姉は厨房にいる」

「責められてない?」

「誰も責めていない」

 ゼルは穏やかに答える。

「紙を運ばなければ、弟を殺すと言われた。従ったのは当然だ。本人にもそう伝えた」

 ジルは目を伏せた。

 判断が早い。

 サイラスを追うより先に、店へ守りを入れている。

 被害者の中から、さらに罪人を作らない。

「作戦は」

 カインが聞く。

 ジルは小屋を見る。

 正面入口の粉袋には白い紙片。

 踏めば煙か閃光が起きる。

 裏口側では、ゼルの右腕輪に暗い藍紫の光が灯っていた。

 腕輪のすぐ上へ、枝分かれする細線を持つ術式輪が低く水平に浮かぶ。銀筆の先が外環を半目盛りだけ回した。

 範囲は、裏の荷道と壁際。

 触れる強さは、足を傷つけず、動きだけを拾う程度。

 最後に、状況が変わった時すぐ動かせる一本だけを残す。

 目盛りが噛み合うと、術式輪は右腕輪へ沈んだ。

 次の瞬間、ゼルの指先から暗い藍紫の《影糸》がほどける。糸の内側を青紫の細い光が走り、粉挽き小屋の影へ音もなく枝分かれした。

 裏口と逃げ道を薄く押さえている。

 屋根の梁は古いが、カインなら通れる。

 右壁には腐った板。

 内側へ抜ける隙間がある。

「俺とルシは右から入る」

 ジルが言う。

「カインは屋根。サイラスが少年へ刃を向けたら、視線を取れ」

「ああ」

「ゼルは拘束札の起点を遅らせろ。解除はするな」

「了解」

「ルシは後ろ」

「分かってる」

「少年を見ても走るな」

「分かってる」

「勝手に囮になるな」

「分かってるって」

 ジルが見る。

 ルシは真面目な顔で片手を上げた。

「勝手に前へ出ない。少年へ触るのは、札を切ってから。クロも飛び出させない」

「きゅう」

「お前は返事だけするな」

 カインが屋根へ向かいながら低く言う。

「ルシ」

「何」

「ジルの指示を聞け」

「兄貴まで」

「子供を助ける時に、助ける側が増えても意味はない」

「……分かった」

 ルシの返事から軽さが消える。

 カインは一度だけ頷き、壁の影へ消えた。

 ゼルの声が通信符から落ちる。

「三人とも、戻ってきてね」

「恋人への伝言なら本人に言え」

 ジルが言う。

「君とルシにも言っているよ」

「余計だ」

「でも、戻るだろう?」

 ジルは答えず、腐った板の隙間へ身体を滑り込ませた。

     *

 小屋の中は暗い。

 粉の匂い。

 湿った木。

 古い油。

 その奥へ、白弦商会の甘すぎる香料が混じっている。

 中央には壊れた石臼。

 左には粉袋。

 右奥には倉庫。

 床には白い粉が薄く積もり、幾つもの足跡が残されていた。

 深い足跡。

 浅い足跡。

 左足を引いた跡。

 そして、わざと分かりやすく残した偽の道。

 ジルは踏まない。

 見せる足跡と、隠そうとした粉の乱れを分ける。

 奥から、少年の小さなすすり泣きが聞こえた。

 隣でルシの呼吸が変わる。

 ジルは片手を上げる。

 ルシは止まった。

 少年は倉庫奥の柱へ縛られている。

 口には布を噛まされていない。

 叫ばせるためだ。

 声を聞けば、助ける側の判断が乱れる。

 首元には、白い札。

 簡易拘束札。

 術式は粗い。

 だが、引き金を踏めば首元へ熱を返す程度の力はある。

 サイラスは少年の後ろに立っていた。

 昨夜より身なりが崩れている。

 灰色の髪は汗で額へ張りつき、左足を床へ置くたび顔がわずかに強張った。

 転移乱れによる魔力焼けも残っている。

 それでも、声だけは整えようとしていた。

「来たか」

 視線はジルへ向く。

 すぐに、その後ろのルシへ動いた。

「一人で来いと書いたはずだ」

「字が汚かった」

 ジルは短く返す。

 背後で、ルシが息を漏らしかけ、すぐに飲み込んだ。

 サイラスの口元が歪む。

「聞かされていた通りだ。あちらの者が言っていた。お前は、減らず口だけは変わらないと」

「誰に聞いた」

「お前が戻るべき場所からだ」

「答えになっていない」

「戻ればいい」

 サイラスは少年の肩へ手を置く。

 少年が震えた。

「まだ許される。そう聞かされている」

 借りた言葉。

 自分のものではない権威。

 サイラスの口から出た瞬間、薄く浮いて聞こえた。

「許す」

 ジルの声が冷える。

「その言葉を使える立場だと思っているのか」

「私は白梟はくきょうの意志を――」

「お前の手順ではない」

 ジルが遮る。

「封も、針も、転移符も。渡されたものを使っただけだ」

 サイラスの目が鋭くなる。

「だから何だ」

「白梟はくきょうの名を借りれば、白梟はくきょうになれると思ったか」

 一瞬。

 サイラスの呼吸が止まった。

 だが、すぐに少年の肩を強く掴む。

「動くな」

 床の白い線が、淡く光った。

「踏めば、子供の首元の札が焼ける」

 少年の息が詰まる。

 ルシの指が袖口へ動きかける。

 ジルは一歩前へ出た。

「子供を餌にしたのか」

「お前を動かすには、それが早い」

「必要な手順か」

「ああ」

 サイラスは言った。

「関係者は、処理される前に使う。それだけだ」

 借り物の合理性。

 白梟はくきょうの手順を、選ばれた者の証のように語る声。

 ジルの内側で、怒りが底まで冷えた。

 少年はジルを見ていない。

 刃を持つ大人すべてを怖がっている。

 今の少年に、誰が敵で誰が助ける側かを見分けろと求める必要はない。

 ジルは少年へ近づかず、低く言った。

「札は俺が切る」

「了解」

 ルシの返事も低い。

「少年はお前が受けろ」

「ああ」

「クロ」

「きゅ」

「出るな」

「きゅう」

 クロはルシの外套の内側で身を低くする。

 サイラスが苛立ったように言う。

「何を相談している」

「お前の負け方だ」

 ジルが答えた。

 サイラスの短剣が少年の喉元へ向く。

 その瞬間、屋根の上で板が大きく軋んだ。

 カインが、わざと音を立てた。

 サイラスの目が上へ動く。

 その瞬間、通信符の向こうで、ゼルの右腕輪に残っていた暗い藍紫が強まった。

 手首のすぐ上へ術式輪が再び低く浮かぶ。

 銀筆が内環を一目盛りだけ絞った。

 拘束札は壊さない。

 首元へ走る魔力だけを、一拍遅らせる。

 術式輪が右腕輪へ沈む。

 直後、ゼルの指先から送り出された一本の《影糸》が、小屋の隙間を抜けて床の粉影を走った。

 拘束札そのものには触れない。

 魔力が少年の首元へ流れる起点だけを押さえる。

「今だよ」

 通信符からゼルの声が落ちた。

 ジルは動いた。

 踏む場所は三つ。

 粉の積もっていない板。

 割れた石臼の縁。

 柱の影。

 足音は残さない。

 サイラスが少年へ短剣を振る。

 ルシの細針が先に飛ぶ。

 手ではない。

 袖口。

 隠されていた予備札へ刺さり、紙の起点をずらす。

 サイラスの腕が一瞬遅れた。

 ジルの薄刃が走る。

 少年の首元。


 皮膚には触れず、札を結ぶ細い紐だけを断つ。

 白い札が床へ落ちた。

 粉の上へ、軽い紙音。

「ルシ」

「分かってる」

 ルシが踏み込む。

 少年の身体を抱き取り、柱から離す。

「大丈夫。今は動くな」

 少年の呼吸が乱れている。

「息だけして。姉ちゃんは無事だ」

 その言葉へ、少年の目がわずかに動いた。

 サイラスがルシへ刃を向ける。

 だが、屋根の板が落ちた。

 カインが梁から降りる。

 足を置く音が低く、小屋全体へ響いた。

 サイラスの手首を打つ。

 短剣が落ちる。

 床板へ金属が当たり、乾いた音を跳ね返した。

 サイラスは裏口へ向かう。

 左足が遅れる。

 床の粉影へ伏せていた暗い藍紫の《影糸》が、サイラスの足首へ絡んだ。

 糸の内側を走る青紫が、一度だけ強く締まる。

 無理に締め上げない。

 負傷した脚を壊さず、逃走の一歩だけを止める。

 足が崩れ、サイラスの膝が床へ落ちた。

 粉が白く舞う。

 サイラスは袖の内側から薄刃を抜こうとした。

 カインの手がその腕を取り、背へ回す。

「終わりだ」

「離せ」

「子供を使った理由にはならない」

 短い声だった。

 怒鳴ってはいない。

 だからこそ、低さが重い。

 拘束札がサイラスの両手首へ打たれる。

 次いで足首。

 今度は転移封じも重ねられた。

 革と金具が閉じる。

 硬い音が、粉の匂いに満ちた小屋へ残る。

 ルシは少年を抱えたまま、サイラスを見る。

「迎えは?」

 サイラスの肩がわずかに動いた。

「何の話だ」

「少女に言ったんだろ。“迎えが来るまで”って」

「黙れ」

「来なかったな」

 声に嘲りはなかった。

 事実だけを置く声。

「転移符は渡した。逃げ先も用意した。でも、乱れた座標からお前を拾いに来た奴はいない」

「黙れ!」

 サイラスの声が初めて大きくなる。

 少年が震えた。

 カインの手が、サイラスの肩を床へ押さえる。

「声を落とせ」

 サイラスは歯を食いしばる。

 ジルはその顔を見下ろした。

 白梟はくきょうの正式員なら、任務失敗時の回収規定がある。

 少なくとも記録上は。

 サイラスには、それさえない。

 渡された術具を使い切った後、残るのは自分だけ。

「お前は分かっていない」

 サイラスが荒い息の合間に言う。

「お前は、もう戻れない。白梟はくきょうを裏切り、黒燈へ与した。どちらの記録にも綺麗には戻らない」

「記録?」

 ジルは短剣を収めた。

「俺の名を、お前たちの記録で決めるな」

「お前はどちらにも――」

「なら、自分で決める」

 小屋の空気が静まった。

 古い羽根車が風に押され、遠くで一度軋む。

 ルシも。

 カインも。

 通信符の向こうのゼルも。

 誰も言葉を挟まなかった。

 ジルはサイラスを見る。

「少なくとも、子供を餌にする側へ戻る気はない」

 サイラスの顔が歪む。

 カインが拘束を締め直した。

「立て」

「足が」

「歩ける分だけ歩け」

「無理だ」

「なら運ぶ」

 情けではない。

 逃がさず、生きたまま連れ帰るための判断。

 サイラスは答えなかった。

 通信符が淡く震える。

 ダリウスの低い声が届いた。

「少年を先に出せ。サイラスは生かして連行。術具、荷札、粉袋、拘束札をすべて保全しろ」

「了解」

 ゼルが答える。

「店へも連絡する。姉には、弟を確保したと伝えるよ」

 少年の肩が震えた。

「姉ちゃん……」

 ルシが声を落とす。

「無事だ。怒ってると思うけどな」

 少年の目に涙が浮かぶ。

「俺が……裏へ行ったから」

「違う」

 ルシはすぐに否定した。

「悪いのは、お前を連れていった奴だ。姉ちゃんが紙を運んだのも、お前を戻すため。どっちも責められることじゃない」

 少年は泣きながら、何度も息を吸う。

 クロが外套の内側から顔を出した。

「きゅう」

 少年がびくりとする。

 ルシが少しだけ笑った。

「大丈夫。黒いけど噛まない。たぶん」

「きゅ?」

「そこに反応するな」

 恐怖だけで固まっていた少年の顔が、ほんのわずかに緩んだ。

     *

 小屋の外へ出ても、少年の震えはすぐには止まらなかった。

 縄を解かれ、首元の札を外されても、身体はまだ危険の中にいるつもりらしい。

 ジルは少し離れた位置に立つ。

 手には刃の匂い。

 外套には白弦商会の香料と粉。

 近づけば、今はかえって怖がらせる。

 ルシは少年の前へ膝をついた。

「名前は?」

 少年が小さく答える。

 声は聞き取れるかどうかというほど掠れていた。

 ルシは聞き返さない。

「うん。助かった。姉ちゃんも店も無事だ」

 少年の目から涙が落ちる。

「姉ちゃん……」

「今頃、怒りながら泣いてる」

 ルシは懐から、油紙に包まれた黒麦パンを出した。

 煮込み肉と根菜を潰し、黒麦パンへ挟んだもの。

 汁気は少なく、冷めても食べられる。

 店の少女が、震える手で渡していた包みだった。

「食えるなら、一口だけ食え。腹が空いてると、震えが止まりにくい」

 少年は両手で受け取った。

 油紙には店の匂いが染みている。

 煮込み肉。

 根菜。

 黒麦パンの焦げた端。

 帰る場所の匂い。

 震えていた指へ、ほんの少し力が戻る。

 クロが少年の足元へ近づいた。

「きゅう」

 今度は、少年も逃げなかった。

 おそるおそる手を伸ばす。

 クロは鼻先で指の匂いを嗅ぎ、そのまま小さな掌へ頬を寄せた。

「……あったかい」

「毛だけは多いからな」

 ルシが言う。

「きゅう」

「褒めた。たぶん」

 少年の口元が、少しだけ動いた。

 ジルはそれを見て、視線を外す。

 自分が近づくより、今はルシとクロの方がいい。

 そう判断できる程度には、二人のやり方を知り始めている。

 ゼルが小屋の裏から回ってきた。

 影糸を解きながら、少年の前に膝をつく。

「歩けそうかな」

 少年は小さく頷く。

「無理なら言って。途中で止まってもいい」

 命令ではない。

 歩けと急かす言葉でもない。

 選べる余地を残す声。

「店には、こちらから知らせたよ。お姉さんは待っている」

 少年は油紙を握ったまま、立ち上がった。

 足が震える。

 ゼルは腕を掴まず、倒れた時だけ支えられる位置へ手を置いた。

 カインはサイラスを立たせる。

 左足へ体重を掛けた瞬間、サイラスの顔が歪む。

「歩けるか」

「……ああ」

「嘘だな」

「歩ける」

「なら歩け」

 カインは先へ押さない。

 だが、逃げられる余地も与えなかった。

 サイラスの足枷が鳴る。

 金具が一歩ごとに、乾いた音を返す。

 ジルは粉挽き小屋の入口から、薄く明るくなり始めた空を見る。

 夜明け前。

 ノクティルムの夜は深い。

 それでも、明けないわけではない。

 ルシが隣へ来る。

「さっきの」

「何だ」

「少なくとも、子供を餌にする側へ戻る気はない、ってやつ」

「聞こえていたのか」

「全員聞こえてた」

「忘れろ」

「無理」

「努力しろ」

「情報屋に忘れろは無茶だって」

 ジルは舌打ちする。

 ルシは笑わなかった。

 ただ、静かな声で言う。

「嫌いじゃないよ。そういう怒り方」

「褒めるな」

「褒めてる」

「気味が悪い」

「じゃあ事実確認」

 ジルは黙った。

 ルシは、それ以上の意味を聞かなかった。

 白梟はくきょうへ戻らないと言った理由も。

 黒燈を選ぶという意味なのかも。

 今の言葉へ、ひとつの答えを押しつけない。

 カインがサイラスを進ませる。

 ゼルは少年の歩幅へ合わせる。

 クロはしばらく少年の足元を歩き、それからジルの方へ戻ってきた。

「きゅう」

「何だ」

「きゅ」

「分からん」

 ルシが横から言う。

「たぶん、こっちへ来いって」

「都合よく訳すな」

「でも、そういう顔してる」

 クロはまっすぐジルを見上げていた。

 理由を説明せず。

 ただ、同じ道を行くことが当然だという顔で。

 ジルはしばらく毛玉を見下ろす。

「……まだ、こっちと決めたわけじゃない」

「うん」

 ルシはあっさり頷いた。

 説得も、否定もない。

「でも、あっちへ戻らないことは決めたんだろ」

 ジルは答えなかった。

 戻るという言葉へ、肯定する余地はない。

 だが、黒燈を選んだと言い切るには、まだ早い。

 その間にある沈黙を、ルシは急かさなかった。

 クロが先へ歩き出す。

 ルシも少年たちの後を追う。

 ジルがついてくるか確かめるために、振り返りはしない。

 追いつける距離だけを残す。

 黒い王都の夜明け前。

 サイラスは再び黒燈の手へ落ちた。

 白弦商会の荷。

 転移符の受け座標。

 迎えを待っていた言葉。

 そして、誰から渡されたのか分からない白梟はくきょうの文句。

 聞くべきことは、まだ残っている。

 ジルは薄く白み始めた空から目を戻す。

 前には、少年の歩幅に合わせるゼル。

 サイラスを逃がさず歩かせるカイン。

 クロと並ぶルシ。

 誰も戻れとは言わない。

 誰も残れとも命じない。

 それでも、進む道は同じ方向へ伸びている。

 ジルは足を踏み出した。

 逃げるためではない。

 誰かを助けた後の道を、誰かと同じ方向へ歩く。

 それは、白い王都を出てから初めて知る感覚だった。
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