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第1部 魔族王都編
第11話 仮登録という名の首輪
サイラスは、黒燈ギルド本部の地下拘束室へ連行された。
粉挽き小屋から戻る頃には、ノクティルムの空が薄く白み始めている。
だが、地下へ戻る者たちの足取りに、朝の軽さはまだなかった。
黒い王都の夜明けは遅い。
石畳に残った夜露が魔石灯の赤紫を細く返し、屋根と路地の境には、まだ夜の影が溜まっていた。遠くで荷車の車輪が軋み、その音も眠りきれない街の底へ沈んでいく。
店員の弟である少年は、姉の元へ戻された。
煮込み屋の厨房には、根菜と肉の匂いが残っている。火を落とした鍋の底で、時折、小さな泡が弾けた。
姉は弟を抱き締めたまま、何度も背を撫でている。
声を上げては泣かなかった。
それでも、細い肩の震えまでは隠せない。
少年はルシから渡された黒麦パンの紙包みを、両手で握っていた。油紙に残った煮込みと焼けたパンの匂いへ縋るように指を絡めるうち、乱れていた呼吸が少しずつ静かになる。
黒燈は、少年を戻しただけでは終わらなかった。
店内には客を装った保護員。裏路地には荷運び姿の見張り。店主へは、姉弟が再び狙われる可能性と、しばらく周囲を守ることだけが伝えられた。
白梟や白弦商会、サイラスの名までは明かさない。
必要以上の真実は、新しい標的を作る。
だが、知らされなかった者を、何も知らないまま置き去りにもしない。
紙を運ばされた姉を責める声はなく、弟を餌にされた店を、危険な接点として切り捨てる者もいなかった。
道は塞ぐ。
噂は追う。
けれど、人までは消さない。
ジルは店の隅から、その手順を見ていた。
黒燈も裏社会の組織だ。
刃を持ち、嘘を使う。
法へ渡せない証拠も、人間も扱う。
それでも、関わったという理由だけで、この街の者を雑に処理する組織ではないらしい。
認めるには、まだ早い。
だが、見なかったことにもできなかった。
*
黒燈本部の地下へ降りる石段は、夜明け前の冷気を吸っていた。
先頭にはカイン。
その前を、拘束されたサイラスが歩かされている。
転移の失敗で傷めた左足を庇い、一歩ごとに手枷と足枷の金具を乾いて鳴らした。
魔力抑制用の拘束具。
転移封じの札。
身体検査では、古傷へ偽装した薄膜符がほかに残っていないことも確認されている。
ゼルの右腕輪に、暗い藍紫の光が灯った。
手首のすぐ上へ薄い術式輪が低く浮かび、銀筆が外環を一目盛りだけ回す。
対象はサイラス一人。
傷めた左足を壊さず、逃走だけを止める強さ。転倒した時には身体を支えられる張力。
固定点が噛み合うと、術式輪は右腕輪へ沈んだ。
次の瞬間、ゼルの指先から暗い藍紫の《影糸》が床へほどけ、サイラスの足元へ細く沿う。糸の内側を、青紫の光がかすかに走った。
逃げれば止める。
倒れれば支える。
逃走だけを許さず、必要以上に痛めつけない強さ。
殺すためではない。
逃がさないための拘束だった。
地下拘束区画の前では、ルシが壁へ背を預けて待っていた。
姿勢だけなら軽い。
けれど、視線は閉ざされた扉から外れていない。片手は通信符へ、もう片方は細針へすぐ届く位置。
足元では、クロが落ち着かず太い尾を揺らしていた。
「少年、姉ちゃんのところへ戻れた」
ルシが言う。
「ああ」
「パンも食えたみたいだ」
「そうか」
「お前、ああいうの本当に嫌いだろ」
「子供を餌にすることか」
「うん」
「好きな奴がいるなら、そいつから始末した方がいい」
「物騒だけど、そこは同意」
ルシの声に笑いはない。
クロが短く鳴く。
「きゅう」
「お前もよく待てたな」
ルシはクロを抱き上げる。
「ただし、勝手にジルの方へ飛び出すのはやめような」
クロは腕の中から身を乗り出し、ジルへ前足を伸ばした。
「きゅう」
「来るな」
前足は引っ込まない。
「返事で押すな」
わずかに緩んだ空気を、扉の開く音が断った。
内側から現れたカインは、いつもより硬い表情をしていた。
残った右目が、最初にルシの無事を確かめ、次にジルへ向く。足を置く音も、わずかに重い。
「兄貴」
「サイラスが話す」
低い声。
「ダリウスが同席を求めている」
「オレも?」
「ああ」
カインの視線がジルへ移る。
「お前もだ」
「俺も?」
「あいつは、白梟長の名を出した」
空気が静かに冷えた。
名を聞くまでもない。
誰を指しているのか、ジルには分かった。
痛みではない。
ただ、左鎖骨下へ、古い冷気が差し込んだような感覚がある。
整った白い回廊。
香木の匂い。
音を吸う厚い扉。
穏やかすぎる声で呼ばれる、自分の名。
ジルは息をひとつ整えた。
ルシの視線が横顔へ触れている。
何も変わっていないように立った。
「分かった」
短く答える。
ルシが一歩だけ近づいた。
触れられる距離までは来ない。
「嫌なら、外で待っててもいい」
ジルは顔を向ける。
「俺が逃げると思うのか」
「逃げると思ったら止める。でも、今のはそういう意味じゃない」
「なら何だ」
「嫌だって言う権利はあるってこと」
ジルは黙った。
拒絶を許す。
逃げ道を残す。
そのくせ、本当に危険なら止める。
白梟にはなかった、ひどく扱いにくい距離だった。
「聞く必要がある」
「なら一緒に行く」
「お前が聞く必要はない」
「ある」
返事は早い。
「オレも狙われた。クロも、ミロも、テオも、あの姉弟も使われた」
ルシの声から軽さが消える。
「サイラスが白梟と繋がってるなら、もうお前だけの過去じゃない。だから聞く。お前を暴くためじゃなく、次に誰を使われるか拾うために」
自分の過去だと切り捨てることはできる。
だが、厨房で震えていた姉と、油紙を握っていた少年は、すでに巻き込まれている。
ルシの言葉は、腹立たしいほど正しかった。
カインが低く言う。
「行くぞ」
*
拘束室は冷たい石造りだった。
中央の椅子へ、サイラスが縛られている。
手枷と足枷には封印術が重ねられている。
ゼルの右腕輪の上で、暗い藍紫の術式輪が一度だけ再び浮かんだ。
銀筆が内環を小さく絞る。
範囲は拘束椅子の周囲。
立ち上がれば止め、倒れれば椅子ごと支える強さ。
固定点が噛み合うと、術式輪は右腕輪へ沈んだ。
直後、ゼルの指先からほどけた《影糸》が床へ広がり、椅子の脚とサイラスの足元を細く囲む。暗い藍紫の糸の内側には、青紫の芯が薄く通っていた。
部屋の奥にはダリウス。
ゼルはサイラスの斜め前に座り、銀筆を右腕輪脇の細い収納具へ戻した。代わりに、黒軸の記録筆と記録紙を手元へ用意している。机の端には小さな保全札。
語った内容だけではない。
質問した順序も、沈黙した箇所も、残すための札だ。
カインは唯一の出入口の脇。
ルシはジルの斜め後ろ。
近すぎず、何かあれば一歩で届く距離にいる。
ジルは、拘束椅子、換気口、扉の蝶番、床の術式、サイラスの手枷を順に見た。
脱出できる可能性は低い。
だが、ゼロではない。
低い可能性を使う者を、ジルはよく知っている。
サイラスは視線の動きを追い、青ざめた顔へ薄い笑みを浮かべた。
「まだ退路を見るのか」
「癖だ」
「白梟で、よく仕込まれたものだ」
ジルは答えない。
ダリウスが口を開く。
「話すと言ったな」
「ええ」
サイラスの左足は固定され、転移乱れによる魔力焼けも残っている。
それでも、声だけは整えようとしていた。
「ただし、私が話す相手は決めます」
「お前に選ぶ権利はない」
カインの声が低く落ちる。
サイラスは、扉を塞ぐ位置から腕、肩、眼帯へ視線を移した。
「弟を狙われて怒っている顔だ」
カインの靴底が、石床を一度だけ低く鳴らす。
同時に、床へ張られていた暗い藍紫の《影糸》が、カインの左足近くで一度だけ揺れた。
縛るためではない。
そこにいると伝える、小さな合図。
カインは前へ出なかった。
「黒燈は随分と情が深い。だから利用される」
「子供を餌にした奴が言うと説得力あるな」
ルシの声は軽いが、目は笑っていない。
サイラスはようやくジルを見る。
「ジル」
名を呼ぶ声に、ここにはない香木の匂いが重なった。
記憶が勝手に引きずり出しただけだ。
「用件を言え」
「白梟長は、お前を諦めていない」
名前ではなく、役職として置かれた言葉。
それでも左鎖骨下が、服の内側でかすかに強張る。
「俺は、そう聞かされている」
サイラスは続けた。
「そう伝えろと言われた。お前はまだ戻れる。持ち出したものを返し、白梟へ戻れば、まだ許される」
「許される?」
自分の声が、ひどく低く聞こえた。
ジルは一歩だけ前へ出る。
「誰が、誰を許す」
「お前は白梟を裏切った」
「白梟は、子供を餌にした」
「あれは必要な――」
「黙れ」
短い声が、石壁へ冷たく落ちた。
ジルの指先が袖口の薄刃へ触れかける。
背後で、ルシの手も動いた。
掴まない。
針にも触れない。
必要なら一歩を詰められる位置へ下ろしただけ。
ジルは自分から指を止めた。
「誰から聞いた」
問う。
「白梟長本人か」
サイラスは答えない。
「本人から、直接お前へ言われたのか」
沈黙。
ゼルの記録筆が一度だけ止まった。
「今、反応が変わったね」
穏やかな声。
「君は白梟長の名を使った。けれど、“本人から直接”という言葉には答えられない」
「推測だ」
「そうだね」
記録筆の先が紙を擦る。
「だから、推測として残す」
ルシが横から続けた。
「“戻れる”“許される”“持ち出したものを返せ”」
一つずつ、渡された文句を並べる。
「誰かからそのまま覚えさせられた言葉だろ。白梟の誰から受け取った?」
「白梟の意志だ」
「誰の?」
返事はない。
「白梟長と、お前が昨日言った“あの方”は同じ相手か?」
サイラスの眉が動いた。
だが、口は開かない。
「沈黙として残せ」
ダリウスが言う。
「はい」
ゼルの記録筆が動く。
質問は、さらに絞られた。
白弦商会の荷を使った。
封書は荷の中へ入っていた。
中継役の名は知らない。
正式な白梟員と会ったことはあると言う。
だが、名は知らされていない。
「梟紋を見たか」
返事はない。
「白い外套は」
「……」
「所属証は」
「黙れ」
整えていた声が乱れ始める。
カインは冷えた目で見下ろした。
「名も知らされず、梟紋も見せられず、子供を使えと命じられた」
刃のような短い言葉。
「それで白梟を語るな」
サイラスの顔が歪む。
「私は認められている」
初めて、飾られていない声が漏れた。
「務めを果たせば、正式な協力者として――」
そこで言葉が止まる。
自分が何を口にしたか、遅れて気づいたらしい。
記録筆が紙を擦った。
「誰が、そう約束したのかな」
「黙れ」
「君は黒燈では登録実務協力員。白梟側では正式な名簿も梟紋もない」
ゼルの声は穏やかなまま。
「それでも、“務めを果たせば”所属を得られると信じていた」
「違う」
「なら、訂正して」
サイラスは答えなかった。
ダリウスが低く告げる。
「沈黙ごと保全する」
サイラスの眉が動く。
話さなければ、なかったことにできる。
質問も。
答えられなかった理由も。
どの名に反応したかも。
白梟なら、都合の悪い空白は整えられた。
黒燈は、言葉だけでなく、黙った場所まで残すらしい。
救いではない。
許しでもない。
だが、都合よく消されることとも違う。
サイラスはジルを見た。
「お前は、黒燈に利用されているだけだ」
「だろうな」
ジルは即答した。
サイラスの目が見開かれる。
「利用されること自体は珍しくない」
「なら、なぜそこに立つ」
「少なくとも、こいつらは俺を使うことを隠さない」
ジルは拘束椅子の前で足を止めた。
「白梟は、正しさの顔で使う。守る顔で縛る。救う顔で戻れと言う」
「お前に何が分かる」
「分かるさ」
声は低い。
「俺は、そこにいた」
それ以上は言わない。
背後の情報屋も、何も聞かなかった。
普段なら言葉の隙間へ質問を差し込む男が、今は沈黙をこじ開けようとしない。
しばらくして、ルシがサイラスを見る。
「お前、黒燈も白梟も同じだってことにしたいんだろ」
「事実だ」
「同じなら、お前が白梟に使われても問題ないから」
拘束具が椅子の腕へぶつかり、硬い音を立てた。
「黙れ」
「違うなら訂正しろよ」
「黙れ!」
「ルシ」
ジルが低く呼ぶ。
ルシは片手を上げる。
「はいはい。ここまで」
扉の外で、爪が石を掻いた。
「きゅう」
敷居の端から黒い鼻先が覗く。
カインが眉を寄せた。
「そこにいろ」
クロは敷居の手前で座り、耳を伏せたまま室内の匂いを拾う。
白弦商会の香料も、転移符の焦げた残り香も、まだサイラスの服へ染みついているのだろう。
クロは理由を知らない。
ただ嫌な匂いへ身体を強張らせ、その向こうにいるジルへ顔を向けた。
「そこで待て」
ジルが言う。
「きゅ」
クロは敷居を越えず、尾を足元へ巻いた。
「返事だけはいい」
張り詰めた空気が、ほんのわずかに緩む。
サイラスはクロからジルへ視線を戻した。
「随分と馴染んでいる」
「毛玉が勝手に来るだけだ」
「黒燈に飼われるつもりか」
ジルの呼吸が一拍だけ浅くなる。
ルシの声から、軽さが消えた。
「今のは駄目だな」
「事実だろう」
サイラスは崩れた笑みを浮かべる。
「仮登録でも正式所属でも、組織へ名を預けることは首輪と同じだ。白梟の首輪を嫌った者が、今度は黒燈の札を選ぶだけだ」
所属。
札。
名簿。
誰かの手元へ、自分の名を置くこと。
白い名簿へ載った時、自分が何を選べるかなど考えもしなかった。
命令を受ける。
任務へ出る。
戻る。
繰り返すうち、自分の名は自分を呼ぶためのものではなくなっていた。
「尋問はここまでだ」
ダリウスが静かに言う。
「逃げるのですか」
「違う。お前の言葉は十分拾った」
ダリウスはサイラスを見下ろす。
「漏れた情報。使われた荷。脅された者。人質にされた子供。逃走用の術具。それぞれを分けて残す」
低い声が石室へ沈む。
「お前を中へ通した責任は、俺にある」
サイラスの目が動く。
「だが、保護経路を流し、子供を使った責任は、お前にある」
「私は白梟のために――」
「それは理由だ」
ダリウスは遮った。
「免責ではない」
ゼルが記録紙を閉じる。
カインが扉を開けた。
黒燈員が二人入り、サイラスをさらに奥の拘束室へ移す。
去り際、サイラスはジルを振り返った。
「白梟長は、お前を諦めない」
最初より掠れた声。
「そう聞かされている」
ジルは答えない。
「白い王都は、お前を忘れていない」
扉が閉まる。
厚い木と金具が噛み合う音が、石壁へ重く沈んだ。
*
拘束区画を出ると、ゼルがジルの横へ並んだ。
「サイラスの言葉を、全部受け取る必要はないよ」
「何を指している」
「首輪という言葉」
ゼルは穏やかに答える。
「君が組織の札を嫌う理由までは聞かない。ただ、同じ名を使っても、同じ仕組みとは限らない」
「説明で誤魔化す気か」
「見せるつもりだよ」
廊下の先で、ダリウスが待っていた。
*
案内された部屋は、拘束室より暖かい。
机と椅子。
壁際の資料棚。
低い黒いランタン。
奥には、押収した証拠や封書へ、触れた者と時刻を添えて扱うための保全卓がある。今は何も置かれていなかった。
扉は一つ。
窓はない。
天井近くに換気口。
四隅には、踏み込んだ者の足を止める程度の術式。
ジルが室内を見終えるまで、誰も急かさない。
ダリウスは机へ、小さな黒銀の札を置いた。
薄い金属が木目へ触れ、かすかに鳴る。
黒い灯火の紋。
正式所属証よりも小さく、簡素な札。
紐も留め具もない。
首へ掛ける物ではなく、必要な時に自分で取り出すための札だった。
それでも、ジルには首輪に見えた。
手のひらへ収まる、小さな首輪。
ただ、首に掛けろとは、まだ誰も言っていない。
また自分の名を、誰かの手元へ置くための物。
「仮登録札だ」
ダリウスが言う。
「監視か」
「半分はな」
間のない返答。
ジルは目を細める。
「正直だな」
「隠しても意味はない」
「もう半分は」
「連携と保全だ」
ダリウスは札へ触れず、ジルを見る。
「お前は、すでに黒燈の任務へ深く関わった。外部協力者のまま記録せず動かせば、黒燈が負う責任も、お前へ渡せる情報の範囲も曖昧になる」
「だから名簿へ載せる」
「任務単位の外部協力者として仮登録する」
「所属ではない?」
「違う」
ダリウスの声は動かない。
「黒燈の命令系統へ入れる札ではない。正式所属員として扱うものでもない」
黒銀札の端へ、指先を軽く置く。
「任務ごとに、お前の行動と、黒燈側が負う責任を残すための札だ」
「言葉を変えただけにも聞こえる」
「なら、行動を見て判断しろ」
指が離れる。
「不要だと判断すれば返せる。黒燈側も、渡す情報を任務単位で制限する。命令へ従えとは言わん」
一拍。
「ただし、受けた任務の途中で勝手に消えるな」
「都合のいい札だな」
「ああ。双方に都合がいい」
守るためだとは言わない。
お前のためだとも。
双方に都合がいい。
その正直さが、かえって厄介だった。
「文書の場所を聞く気は」
「今はない」
「今は?」
「任務に必要になれば聞く」
隣でルシの呼吸がわずかに止まる。
「だが、吐けとは言わん」
ダリウスは続けた。
「話せることを話せ。話せないことは、話せる条件を言え」
「条件も言わないなら」
「それ込みで判断する」
「信用しろとは言わないのか」
「言わない」
即答だった。
「信用は要求するものではない。お前が見て決めろ」
ゼルからも、ルシからも似た言葉を聞いた。
黒燈の者は、妙なところで同じことを言う。
縛るのではなく、見ろと言う。
選べと言う。
優しさなのか、別の罠なのかは分からない。
少なくとも、白梟と同じ言葉ではなかった。
「条件がある」
「言え」
「白梟が欲しがっているものの詳細は、まだ話さない」
「分かった」
「過去も、必要な範囲しか話さない」
「分かった」
「白梟と同じ道を進むと判断したら、俺は出る」
「構わん」
「ルシを囮にする作戦は許可しない」
「おい、そこでオレ限定?」
ルシが口を挟む。
「お前は余計なところまで踏み込む」
「兄貴と同じこと言うなよ」
「事実だ」
カインが短く返す。
「兄貴まで」
クロが足元で座り直し、首輪の黒銀札を小さく鳴らした。
ゼルが穏やかに言う。
「話せないことがあるなら、倒れる前に合図だけはしてほしい。補う準備はできる」
「余計だ」
「必要だよ」
「俺が決める」
「うん。君が決めるために、合図を聞いている」
縛らない。
だが、黙って倒れることまで許すわけでもない。
「気味が悪いな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ダリウスは黒銀の札を、ジルの方へ滑らせた。
金属が木の上を短く走り、手を伸ばせば届く位置で止まる。
「受けるか」
ジルは札を見た。
首輪。
最初に浮かぶ言葉は、まだそれだった。
白梟の名簿へ刻まれた時と同じように、また名を誰かの手元へ置くのか。
だが、この札には紐がない。
首へ掛けろとも言われない。
肌へ刻めとも。
外すなとも、返すなとも言われていない。
机の上に置かれたまま、ジルの手を待っている。
ルシは黙っていた。
普段なら、何かを言う場面だ。
受け取れと勧めることも、軽口で急かすこともできる。
けれど今は何も言わず、ジルの手ではなく顔を見ている。
クロも足元へ座ったまま、長い耳を向けていた。
ジルは息を吐く。
「……仮だ」
「仮だ」
「任務単位」
「ああ」
「俺の判断で返す」
「お前の判断で返せ」
ジルは手を伸ばした。
指先へ、冷たい黒銀の感触が移る。
軽い。
白梟の名簿より。
命令書より。
身体の奥へ残る古い痕よりも、ずっと軽い。
その軽さが、まだ落ち着かなかった。
ルシがようやく口を開く。
「黒燈の仮登録さんか」
「黙れ」
「首輪っていうには、だいぶ逃げ道が多いな」
「黙れと言った」
「はいはい」
クロが嬉しそうに鳴く。
「きゅう!」
「お前も騒ぐな」
ゼルが口元を緩めた。
「一時滞在用の個室を用意してある」
「仮眠室ではないのか」
「鍵は内側からしか掛からない。地上二階で、窓も開くよ」
カインが短く補足する。
「隣の屋根へ移れる。雨樋から路地へ下りられる」
「兄貴、説明が物騒」
「必要な情報だ」
黒燈は逃げ道を塞がない。
塞がないことを、わざわざ先に伝えてくる。
それが余計に、面倒だった。
*
一時滞在用個室は簡素だった。
寝台がひとつ。
机と椅子。
水差し。
小さな黒いランタン。
窓の向こうには、ノクティルムの裏通り。
夜明けが近いのに、街の影はまだ深い。魔石灯の光が濡れた石畳へ映り、遠くで荷車の車輪が低く鳴っていた。
ジルはまず、扉の内鍵へ指を掛ける。
古い金具が小さく鳴った。
外側からは掛けられない。
窓も開く。
冷たい空気が入り、黒いランタンの灯りを細く揺らした。
窓枠から庇までは短い。
隣の屋根へ移れる。
路地へ下りる雨樋もある。
廊下を通らず、外へ出られた。
警戒心の強い逃亡者へ渡すには、妙に気が利きすぎた部屋だった。
扉の外から、ルシの声がする。
「入っていい?」
「駄目だ」
「じゃあ入らない」
本当にルシは入ってこなかった。
衣擦れのあと、壁へ背を預ける低い音だけが聞こえる。
「何をしている」
「見張り」
「不要だ」
「じゃあ、ただの通行人」
「通行人は扉の前へ座らない」
「細かいなあ」
扉の向こうで、爪が石床を掻いた。
次いで、扉が指二本分だけ開く。黒い鼻先と長い耳が隙間から覗いた。
「クロだけ」
ルシ自身は敷居を越えないまま、黒い毛玉を室内へ通した。
「お前は入るな」
クロは片耳を動かし、そのまま寝台の端へ上がろうとした。
ジルは首根っこを掴み、持ち上げる。
「勝手に寝床を決めるな」
「きゅう」
「不満そうに鳴くな」
扉の外から、ルシが笑う気配がした。
「クロ、今日はジルの見張りをするって」
「都合よく訳すな」
「でも、一緒に寝る気だぞ」
クロはすでにジルの腕の中で丸くなりかけている。
ジルはため息をつき、外套を脱いだ。
黒銀の仮登録札を、机へ置く。
薄い金属が木に触れ、小さく鳴った。
首輪のように見えたもの。
けれど、自分の手で机へ置けば、ただの札だった。
肌へ食い込むものではない。
身体へ刻まれた印でもない。
持つことを自分で決め、必要がなくなれば返せると約束されたもの。
その言葉が本当かどうかは、まだ分からない。
黒燈が、言葉どおりの場所なのかも見極めている途中だ。
ただ、少なくとも今夜は、誰も文書の場所をこじ開けなかった。
過去を全部話せとも言わなかった。
戻れとも。
扉の向こうで、ルシが呼ぶ。
「ジル」
「何だ」
「黙って消えるなよ」
面倒な言葉だった。
縛らないくせに残る。
命令ではないくせに、足を止める。
「……消えない」
「本当?」
「今夜はな」
「そこは断言しろよ」
「うるさい」
「はいはい。おやすみ、仮登録さん」
「その呼び方をやめろ」
「じゃあ、任務中だけの仮登録さん?」
「刺すぞ」
ルシが小さく笑う。
だが、足音は遠ざからない。
「お前も休め」
ジルが言った。
「珍しく心配?」
「廊下で倒れられると邪魔だ」
「戦力管理ね」
「そうだ」
「了解」
少し離れた場所から、低い声がした。
「ルシ」
「兄貴」
「隣室へ行け」
「ここでいい」
「よくない」
「ジルの見張りが」
「不要だと言われただろ」
「聞いてたの?」
「聞こえる。行け」
短い足音が近づく。
ルシが立たされたらしい衣擦れ。
小さな不満。
それから二人分の足音が、隣室へ向かっていく。
完全には遠ざからない。
壁一枚を挟んだ場所で、扉が閉まった。
クロはその音へ片耳を向け、何事もなかったようにジルの膝へ前足を掛ける。
「お前も寝る気か」
「きゅう」
「……勝手にしろ」
拒絶の言葉は、最後まで続かなかった。
クロは満足そうに丸くなる。
ジルは黒いランタンの灯りを少し落とし、寝台へ横になった。
窓は開く。
扉には、自分で掛けた鍵。
机の上には、黒銀の仮登録札。
首輪かどうかは、まだ分からない。
けれど、取ったのは自分だった。
命じられたからではない。
連れ戻されたからでもない。
黒燈を見極めるために、自分で手を伸ばした。
少なくとも今夜は、逃げるために目を閉じるのではない。
黒い王都の夜明け前。
白梟の名は、まだ背後から追ってくる。
白い王都に残した影も消えてはいない。
それでもジルは、黒い灯りの下で目を閉じた。
腕の中で、クロが小さく鳴く。
「きゅう」
眠りへ落ちる直前、ジルは低く呟いた。
「……騒ぐな、毛玉」
その声は、隣室までは届かないほど薄い。
けれど、これまでよりほんの少しだけ、刃の音から遠ざかっていた。
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好きという気持ちだけは、自分の思い通りにならない。
誰を好きなのか。
誰と一緒にいたいのか。
そして、自分が本当に望んでいるものは何なのか。
成功していくほど、未来の心には答えの出せないものが増えていく。
これは、人気絶頂のアイドルが突然ステージを降りた「現在」と、
一人の天才少年が夢を追い、スターへと駆け上がっていく「過去」の物語。
過去を辿るほど、現在の未来へと近づいていく。
そして――
過去と現在が交わるとき、未来が休業を選んだ本当の理由が明らかになる。
呪われ薬師、最強の仲間たちと旅に出る~美味しそうだと思っているのは秘密です~
10年前、禁じられた呪術を執り行ったダークエルフの村が滅んだ。
「食らいなさい。死にたくなければ、食らい続けるの。」
生き残ったただひとりの少年が、アイザックだった。
時は流れ、アイザックは魔王城へ向かう旅に出る。人間化してしまったこの体を戻す薬を作るため、材料となる魔物を狩りに行くのだ。だが、戦闘のできない非力な人間になったアイザックひとりでは厳しい。
冒険者として登録し、パーティーメンバーを募ることにしたのだった。
0時更新
以前pixivで掲載していた『背徳gluttony』マオルートの加筆、完結版になります。
二章から腐ります。
三章から少しシリアス魔獣編。
ちゃんとハッピーエンドなのでご安心を。2026/4/21の投稿で完結予定。
2026/3/29 表紙画像 変更
登場人物
アイザック・スティール
今や人間の薬師。訳あって魔王城を目指す。
ジュアン・パインリブ
ギルドで暇を持て余す少年。まだまだ未熟な魔族。アイザックの最初のパーティーメンバー。
魔王ハーゲン(マオ)
次代の魔王。暇を持て余していたところ、アイザックたちに出会い、旅に同行する。
亡霊ハロ
災厄の魔女の弟子。アイザックの呪いや振る舞いに興味を持ち、パーティーに加わる。変態。
氷の王子先輩がお世話係(忠犬)になりました ー僕は戦う!君の未来を守るために‼︎ー
『第2回青春BLカップ』応援ありがとうございました!!
名家に生まれたが汚い子と蔑まれる春陽。
かつてヒーローを夢見る少年だったが、今は目立たないように生きていた。
父の命令で入学させられたのは、未来の日本を担う者だけが集う超エリート学園。
春陽に待っていたのは、希望ではなく絶望だった。優秀な兄を神のように崇拝し、春陽を心の底から憎む男、北蒼月がルームメイト兼世話係に指名されたのだ。
ただ静かに卒業することだけを考えていたが、蒼月からは強烈な拒絶を浴びせられる。
氷のように冷たい関係から始まる二人だけの部屋。
しかし、この最悪の出会いが、春陽の運命を大きく動かすことになる。
なぜ兄は、春陽を嫌う蒼月を推薦したのか。
家の呪縛と兄の影から、春陽は抜け出すことができるのか。
じれじれピュアラブ学園生活は待ったなし!?
犬猿の仲から始まると淡い恋の物語。
氷の王子と呼ばれる忠犬×ヒーローを夢見ていた男の子
無能と呼ばれた婚約者は王を完成させる〜替え玉婚約者のはずが、強すぎる王太子に手放してもらえません〜
兄の身代わりとして王太子の婚約者になった伯爵家次男リュシー。
嘘の名を名乗ったはずが、冷静で誠実な王太子リオンは彼を「力の装置」としてではなく、対等な伴侶として扱おうとする。
本物になりたいと願う替え玉と、完成された王太子の静謐な王宮ロマンス。
現在は王となったリオンとリュシーの関係を中心に、独占欲強めの溺愛が進行中。
『惚れ薬』が効きすぎるなんて、令和の時代にアリですか⁉
☆バレー部モテ男子 鵜飼虎太郎×平凡普通男子 花崎佑二☆
高校二年の花崎は、成績真ん中・運動そこそこ・平均身長の平凡男子。目立たずに教室の端に存在している。
しかしある日突然、バレー部のイケメン男子、鵜飼から「化学のノート、貸してくんない?」と声を掛けられた。
――ええ?なんで僕?
そう焦る花崎だが、それはだたの人間違いだった。
「化学が得意なのは隣のクラスの花菱くん。これは普通の花崎くん」
そんな風にクラスメイトに笑われてしまう。
目立たずに生きてきた花崎にとって、教室の中で恥をかかされたことはショックな出来事。
――鵜飼め‼ 覚えていろよ!
イライラがおさまらない花崎は、図書室で「中世魔女の妙薬レシピ」という怪しげな本を見つけ、「惚れ薬」を鵜飼に使うことを決意して…⁉
惚れ薬の効果なのか溺愛♥高校生活に突入!
花崎はバレーボールに汗を流す鵜飼の姿をカッコいいじゃん、と思い始めたけれど。
『惚れ薬』の効果がきれたら…?
☆第2回青春BL小説カップにエントリー作品です(*^^*)投票・お気に入り登録・♡などで応援いただけますと大変嬉しいです‼よろしくお願いいたします☆
不定期更新です💦スミマセン💦
失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが
魔王討伐の為の勇者召喚に巻き込まれた蕪木透。その勇者は苦い思い出のある高校時代の同級生井上朝陽だった。すれ違いから疎遠になった2人が異世界に召喚される話。当て馬的な女の子が出てきますしわりと性悪です。プチざまぁあり。途中主人公があまりいい目にあっていませんがハッピーエンドなので安心してください♪( ´θ`)同性婚ありな世界線です。※他サイトにも掲載あり


