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第1部 魔族王都編
第12話 黒銀の仮札
ジルが用意された一時滞在用の個室へ入り、ルシも半ば押し込まれるように隣室へ向かったあと、黒燈ギルドの地下には、ようやくわずかな静けさが戻った。
サイラスの拘束。
テオの身柄確認。
保護対象の移送。
店の姉弟の安全確認。
白弦商会と白梟の経路洗い出しも、まだ途中だった。
石壁の向こうでは、低い報告声が続いている。押収品の札が卓へ置かれ、紙束がめくられ、通信符が短く鳴った。
黒いランタンの灯りは、夜明け前の底に沈むように揺れている。廊下には薬草と紙、それから冷えた石の匂いが混じっていた。
テオは別室で身柄確認を受けていた。
サイラスほど深くはない。
だが、白弦商会の荷に触れている。黒燈はまだ、彼を敵とも証人とも決めていなかった。
決める前に、残す。
話した言葉も、答えなかった問いも、誰と接触したかも記録する。
白梟とは違うやり方だった。
少なくとも今夜、黒燈は白梟がノクティルムへ伸ばしていた手の端を掴んだ。
切れ端にすぎない。
それでも、もう見ないふりはできない。
カインは医務室の扉の前で足を止めた。
中では、ゼルが書類を整理している。
ミロの治療記録。
サイラスの供述記録。
隠し収納から見つかった白梟の封書。
店の姉弟の保護報告。
机の上にはいくつもの紙が並び、魔石灯の淡い光がゼルの横顔を照らしていた。紙束の端を揃える音だけが、薬草の匂いの中で小さく響く。
ゼルは顔を上げずに言った。
「入っていいよ、カイン」
「気づいていたのか」
「君の足音は覚えている」
「消していた」
「それでも分かる」
カインは静かに部屋へ入った。
扉が閉まる。
医務室には薬草と消毒薬の匂いが漂っていた。寝台には、先ほどまでミロが寝かされていた跡が残っている。今は別室へ移され、黒燈の護衛がついていた。
カインは机の前で足を止める。
「休め」
ゼルは書類へ目を落としたまま微笑んだ。
「それは君にも言えることだよ」
「俺は問題ない」
「君はいつもそう言う」
ゼルの指が、紙の端で止まる。
「でも、私には通じないよ。長く隣にいるからね」
その声が、少しだけ柔らかくなった。
カインは黙る。
ゼルはようやく顔を上げた。
「左目を失った時もね」
部屋に、短い沈黙が落ちる。
カインの残った片目がわずかに細くなった。
「その話を今する必要があるか」
「あるよ」
ゼルは穏やかに言う。
「君は今、ルシのことになると、昔の自分と同じ顔をしている」
「どういう意味だ」
「守ろうとして、前に出すぎる顔」
カインは答えなかった。
顎がわずかに硬くなり、机の脇へ落としていた指が一度だけ曲がる。
ゼルは椅子の背にもたれ、息をひとつ吐いた。
「ルシが心配なんだろう」
「当然だ」
即答だった。
「サイラスはルシを狙った。白梟も、あいつをジルの弱点だと見始めている」
「そうだね」
「ジルは危険だ」
ゼルは黙って続きを待つ。
カインは低く続けた。
「腕が立つ。過去が重い。白梟の機密文書を持っている可能性が高い。サイラスは白梟長の名まで使った。しかも、ルシはもうジルを単なる情報源として見ていない」
ゼルは静かに頷く。
「君にはそう見えるんだね」
「お前には違うのか」
「違わないよ」
ゼルは書類を一枚、机の端へ寄せた。
「ルシはジルを、もう単なる情報源としては見ていない」
カインの眉間に、浅い皺が寄る。
「はっきり言うな」
「曖昧に言っても、君は余計に苛立つだろう」
「……」
「それに、ルシだけじゃない」
カインの視線がゼルへ向いた。
ゼルは穏やかな顔のまま続ける。
「ジルも、もうルシを完全には突き放していない」
「そう見えるか」
「見えるよ」
ゼルは少しだけ目を細めた。
「最初は、ルシを遠ざけるために冷たい言葉を使っていた。今も言葉は冷たい。けれど、行動は変わっている。ルシの情報を採用する。ルシの制止を聞く。クロを通して、同じ部屋にいることを拒まなくなっている」
「それだけで信用とは言えない」
「もちろん」
ゼルはすぐに頷く。
「信用ではないよ。けれど、完全な拒絶でもない。彼はもう、ルシの声をただの雑音として切り捨ててはいない」
カインは黙り込んだ。
医務室の外を、紙束を運ぶ足音が通り過ぎる。乾いた紙の擦れる音も、すぐに廊下の奥へ遠ざかり、室内には静けさだけが戻った。
「ルシは軽い」
カインが低く言う。
「だが、本当に大事なものほど、軽く持つふりをする」
「知っているよ」
「ジルは、それを見抜く」
「だろうね」
「なら、危険だ」
ゼルはその言葉を否定しなかった。
「危険だよ」
穏やかな肯定だった。
「ジルは、誰かを傷つける危険というより、自分を切り捨てる危険が強い。白梟に追われ、白梟長の名で揺さぶられて、それでも自分一人で処理しようとする。そういう者に、ルシは弱い」
カインの目がわずかに動く。
「ルシが一人でジルを救おうとするなら止める」
「うん」
「ルシがジルを暴こうとするなら止める」
「それも必要だね」
「ルシが傷つくなら」
「その時は私も止める」
ゼルの声は柔らかい。
だが、迷いはなかった。
「でも、カイン。ただ遠ざけても、ルシは追うよ」
「分かっている」
「だから、見ていよう」
「甘い」
「そうかもしれない」
ゼルは少しだけ笑った。
「でも、ルシがジルの隣に立とうとしているなら、私たちがすることは、最初から引き剥がすことではない。踏み込み方を間違えた時に止めることだ」
カインはしばらくゼルを見ていた。
返事はない。
ただ、眉間に残った皺は消えず、机の縁へ向けられた指がゆっくりと開く。
「ジルを信用しているのか」
「まだしていない」
ゼルは即答した。
「ただ、見ている」
「何を」
「ジルが、誰を切るかではなく、何を切らずに残すか」
カインは目を細める。
ゼルは机の上の仮登録処理書類へ視線を落とした。
「仮登録は、彼にとって首輪に見えるだろうね」
「実際、監視も兼ねている」
「そうだね」
「なら首輪だ」
「でも、外せる」
ゼルは静かに言った。
「白梟の首輪は、外そうとするほど食い込む。黒燈の仮登録札は、自分で持って、自分で返せる。そこが違う」
「ジルがそう受け取るとは限らない」
「だから、見せ続けるしかない」
ゼルは書類を閉じた。
紙が重なり、乾いた音を立てる。
「黒燈は彼を縛らない。必要なら止める。必要なら使う。でも、所有はしない」
カインは小さく息を吐いた。
「面倒な奴を拾った」
「拾ったのは、どちらかと言えばクロかな」
「……否定できない」
ゼルが微かに笑う。
「クロはいい目をしているよ」
「毛玉に判断を任せるな」
「でも、あの子はジルを怖がっていない」
「ルシより先に懐いた」
「それが、ルシの嫉妬を呼んでいる」
カインがわずかに顔をしかめた。
「面倒だ」
「君に似たんだね」
「俺はあんなに軽くない」
「軽くない分、面倒なんだよ」
カインは黙った。
ゼルは椅子から立ち上がり、カインの左側へ歩く。
そこへ立つ動きは自然だった。
迷いも、確認もない。
カインも止めなかった。
ゼルがそっと、カインの左手へ触れる。
「カイン」
「何だ」
「ルシを守ることと、ルシの選択を奪うことは違う」
カインの指がかすかに動く。
「分かっている」
「うん」
「分かっているが、難しい」
「知っているよ」
ゼルの声は低く、穏やかだった。
「だから、私が君の左にいる」
カインは目を伏せた。
長い沈黙のあと、短く言う。
「休め」
「一緒に?」
「……少しだけだ」
「十分だよ」
医務室の灯りが、静かに揺れた。
積み重なった書類の上で、白梟の封書だけが白く浮かんでいる。
だが、その白さはもう、誰かの声を消すためだけのものではない。
黒燈の灯りの下で、記録される。
話したことも。
黙ったことも。
言葉にされなかったものも。
*
ジルが目を覚ました時、最初に確認したのは天井ではなかった。
扉。
窓。
机。
床。
水差し。
寝台の下。
そして、腕の中に残っている黒い毛玉。
「きゅ……」
クロが寝ぼけた声で鳴いた。
ジルは目を細める。
「なぜまだいる」
「きゅう」
「答えになっていない」
用意された一時滞在用の個室は簡素だった。
寝台がひとつ。
机と椅子。
水差し。
小さな黒いランタン。
扉には内側から掛けられる鍵があり、窓も開く。
逃げようと思えば、逃げられる部屋。
だからこそ、余計に落ち着かなかった。
白梟なら、逃げ道を残すのは、逃げる先を読むためだった。
黒燈が同じかどうかは、まだ分からない。
机の上には、黒銀の仮登録札が置かれている。
小さい。
軽い。
だが、存在感だけはやけに重かった。
ジルは起き上がり、札の端へ指を触れる。
金属の冷たさが、薄く指先へ移った。
首輪かどうかは、まだ分からない。
けれど、それを取ったのは自分だった。
仮だ。
任務単位の、ただの仮。
そう思った時、扉の外で足音が止まった。
軽い足音。
完全には消していない。室内の者を驚かせないよう、わざと一歩分だけ音を残している。
ジルは短く言った。
「入るな」
扉の向こうから、即座に声が返る。
「まだ何も言ってないんだけど」
「言う前に分かる」
「便利だなあ、アサシン」
「お前は便利に使うな」
「今日は朝食係として来たんだけど」
「不要だ」
「そう言うと思ったから、扉の外に置く」
ことり、と盆が床へ置かれる音がした。
ジルはしばらく扉を見ていた。
ルシは鍵を試さない。
扉へ手をかける音もない。
ただ、向こう側で待っている。
食事から毒の気配はしなかった。
強い香辛料の匂いもない。
黒麦パン。
薄い肉。
潰した根菜。
温かい香草茶。
胃に重くないものばかりだった。
「ゼルが選んだのか」
「半分正解」
ルシの声が少し笑う。
「香草茶はゼルさん。黒麦パンはオレ。肉は兄貴に怒られない程度に薄いやつ」
「朝から騒がしい連中だな」
「黒燈の朝だからな」
「俺はまだ所属していない」
「仮登録はしてるだろ」
ジルは口を閉ざした。
仮登録。
自分で条件を確認し、自分で受け取ったはずの言葉だ。
それでも他人の口から聞くと、札の冷たさが指先へ戻る。
扉の向こうでルシが小さく笑った。
「今、“仮登録”って言われて嫌そうな顔しただろ」
「読むな」
「見えなくても分かる」
「腹立たしい男だな」
「よく言われる」
クロが寝台から飛び降り、扉へ向かう。
「きゅう」
「待て」
「きゅう」
止める間もなく、クロは扉の隙間へ鼻先を押しつけた。
ジルが鍵を外すと、クロは細い隙間から外へ滑り出ようとし――。
「うわ、待て、クロ、足、足!」
扉の向こうでルシの声が跳ねた。
次の瞬間、クロはルシの足を踏み台にして、盆を避けながら再び室内へ戻ってくる。
「きゅう!」
誇らしげな声だった。
ジルは無表情で見下ろす。
「何をしている」
「きゅう」
「朝から騒ぐな」
扉の外でルシが低く呻いた。
「オレの足、踏み台扱いなんだけど」
「しつけの問題だな」
「最近それ、オレへの攻撃になってない?」
「事実だ」
「つらい」
ジルは扉を少しだけ開けた。
ルシは廊下に座り込んでいる。片手に情報紙、もう片方の手で足の甲をさすっていた。
盆は無事だった。
転びかけても情報紙を落とさず、食事もひっくり返さない。情報屋として役に立つかはともかく、転び方だけはうまいらしい。
ジルは盆を取り上げた。
「これは情報料として受け取る」
「朝食って言えばいいのに」
「言わない」
「はいはい」
ルシは情報紙をひらひらと振る。
「ついでに、仮登録初日から仕事だ」
ジルの目が細くなった。
「サイラスか」
「逃走前の接触先」
ルシは立ち上がり、廊下の壁へ背を預ける。
表情から軽さが薄れた。
情報屋の顔だった。
「白弦商会の荷馬車が、夜明け前に東区の劇場跡から出た。行き先は王都外じゃない。貴族街外れの廃庭園」
「廃庭園」
「今は誰も使ってないことになってる。管理費だけは毎年どこかから出てる。名義はぐるぐる回されてて、表向きの所有者が三回変わってる」
「白弦商会は」
「直接の所有者じゃない。荷と支払い処理の窓口。荷札は白弦商会の形式。封緘具も古い商会型。ただし、帳面の支払い名義は別だ。劇場跡から廃庭園まで運んだのは、香料樽と古い家具ってことになってる」
「中身は」
「分からない。だから見に行く」
ジルは盆を机へ置き、仮登録札へ視線を落とした。
白弦商会。
東区の劇場跡。
貴族街外れの廃庭園。
サイラスの逃走前接触先。
白梟の手が、金と荷と名義を使ってノクティルムの内側へ伸びている。
線は分かりやすい。
分かりやすすぎるからこそ、罠にも見えた。
「ダリウスは」
「許可済み。兄貴には深追い禁止と定時連絡を条件にされた。ゼルさんと兄貴は別経路を洗ってる。オレとお前で先に見る」
「俺とお前」
「クロも」
「きゅう!」
「毛玉に決定権はない」
「でもギルド長の許可はある」
「余計な許可を出すな」
「ギルド長に言って」
ジルは香草茶を一口飲んだ。
熱すぎない。
苦みも薄い。
喉を通る温度まで、妙に飲みやすく調整されている。
「……ゼルに礼は言わない」
「言うと思ってない」
「お前にも言わない」
「そこはちょっと言ってほしかった」
「情報料だ」
「はいはい。情報料ね」
ルシは壁へ背を預けたまま笑う。
食べろとは言わない。
早くしろとも、残すなとも。
ただ、ジルが次の言葉を出すまで待っていた。
そういうところが面倒だった。
ジルは黒麦パンを半分だけ口へ運ぶ。肉は薄く、潰した根菜にはわずかな甘みがあった。
昨日、少年に渡した黒麦パン包みとは違う。
だが、同じ街の味だった。
舌がそれを覚えている。
自分の知らないところで、ノクティルムの食べ物に慣れ始めていることが、また余計に腹立たしい。
「廃庭園に行くなら、正面からは入らない」
ジルが言った。
ルシの目が鋭くなる。
「だろうな。裏門は?」
「裏門は見せ門だ。貴族街外れの廃庭園なら、古い水路か管理人用の搬入口がある」
「地図には載ってない」
「載せるわけがない」
「知ってるのか」
「白梟が似た場所を使っていた」
言ってから、ジルは口を閉ざした。
余計なことを言った。
ルシの指が、情報紙の端で止まる。
視線が一度、ジルの顔へ向いた。
けれど、質問は続かなかった。
「じゃあ、搬入口探しからだな」
白梟で何をした。
どの場所を使った。
なぜそこまで知っている。
聞けることはいくらでもあったはずだ。
それでもルシは、今の任務に必要な線だけを拾った。
「ああ」
ジルは短く答えた。
「白弦商会の荷馬車は罠だと思う?」
「半分は」
「もう半分は?」
「本当に何かを運んだ」
ルシが情報紙へ視線を落とす。
「何を?」
「俺を動かす餌か、白梟が消したいものか、サイラスが隠したものか」
「全部嫌だな」
「まともな可能性は最初からない」
「ですよね」
クロがジルの足元で鼻を鳴らす。
「きゅう」
「お前は荷馬車に突っ込むな」
「きゅ」
「返事が軽い」
「クロ、そこは世話係に似たな」
ルシが言った瞬間、ジルの視線が刺さった。
「誰が飼い主だ」
「違うの?」
「違う」
「じゃあ仮飼い主?」
「刺すぞ」
「はい」
クロは楽しそうに太い尾を揺らしている。
緊張が一瞬だけ緩んだ。
だが、消えたわけではない。
ジルは黒麦パンを半分ほど食べてから、残りを皿へ置き、仮登録札を手に取った。
黒銀の小さな札。
白梟の印とは違う。
肌へ刻まれていない。
首へ掛けろとも言われていない。
必要な時だけ、自分の手で持つ札。
ジルはそれを懐へしまう。
薄い金属が、服越しに胸元へ触れた。
左鎖骨の下にある古い痕とは、触れる場所も重さも違う。
不快ではない。
まだ安心でもない。
ただ、自分でそこへ入れたという感覚だけが残った。
「行くぞ、ルシ」
ルシの目が、ほんの一瞬だけ見開かれる。
すぐに、いつもの笑みに隠れた。
「了解。任務中だけの相棒さん」
「任務中だけだ」
「黒銀の仮札を持つ初仕事だもんな」
「調子に乗るな」
「まだ乗ってない」
「乗る前に降りろ」
「厳しいなあ」
ジルは外套を羽織り、扉の外へ出た。
廊下には、黒い灯りが並んでいる。
夜明け前の地下はまだ薄暗い。それでも、奥の食堂からは焼いたパンの匂いが漂い、誰かの低い笑い声が聞こえた。
紙を束ねる音。
食器が重なる音。
任務帰りの者が、濡れた外套を壁へ掛ける音。
逃げ込んだ場所ではない。
居場所と呼ぶには、まだ早い。
けれど今、ジルは追われているから歩くのではなかった。
任務へ向かうために歩いている。
その隣を、ルシが歩く。
前へ出すぎず、後ろへ下がりすぎない歩幅。
足元では、クロが黒い尻尾を揺らしていた。
「ジル」
「何だ」
「黙って消えるなよ」
「任務前から言うことか」
「任務前だから言うんだよ」
ジルは前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「……今は消えない」
「そこは断言しろって」
「うるさい」
「はいはい」
ルシが笑った。
ジルはその笑い声を切り捨てなかった。
隣にある足音も、数え直さない。
白弦商会の荷馬車。
劇場跡。
貴族街外れの廃庭園。
白梟の手は、まだノクティルムの夜を離れていない。
ならば、追う。
逃げるためではなく。
黒燈を信用するためでもない。
自分の目で見極めるために。
そして必要なら、その手を切るために。
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