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第1部 魔族王都編
第13話 錆びた庭園へ
廃庭園は、貴族街の外れにあった。
東区の劇場跡から伸びていた荷馬車の痕跡は、途中で何度も薄れている。それでも、湿った石畳の端に残る車輪の削れ方と、香料に混じる古い紙の匂いは、この錆びた門の前まで細く続いていた。
かつては、ノクティルムでも名のある貴族の別邸だったという。
今では門は赤茶けた錆に覆われ、石畳には蔦が這い、噴水は水を失って久しい。朝靄が枯れた庭木の間を白く漂い、割れた彫像の顔をぼんやりと濡らしている。
風が吹くたび、錆びた門が細く鳴った。
ジルは門の前で足を止める。
隣にはルシ。
少し後ろには、クロ。
クロは朝からやけに落ち着きがなかった。ルシの肩へ乗ったかと思えば、ジルの足元へ降り、またルシの方へ戻る。
黒い尾は忙しなく揺れ、鼻先は何度もジルの外套と庭園の奥を行き来していた。
雨の夜から覚えている匂いと、白い封や香料の残り香。
好きなものと嫌なものが、同じ場所に混じっているらしい。
「クロ、落ち着け」
「きゅう」
「任務中だぞ」
「きゅ」
ジルは門の奥を見たまま言う。
「本当に任務向きなのか、その毛玉」
ルシはクロを抱き直した。
笑ってはいるが、落ち着かない尾と伏せ気味の耳を一度だけ確かめる。
「普段は優秀なんだって」
「普段を見たことがない」
「お前がいる時は、だいたい甘えるからな」
「俺のせいにするな」
「クロに聞いてみるか?」
「聞くな」
クロが得意げに鳴く。
「きゅう」
ジルは小さく息を吐いた。
「返事だけはいい」
ルシは笑ったが、門には手をかけなかった。
まず周囲へ視線を巡らせる。
門の正面。
東側の屋根。
向かいの空き家。
枯れた植え込み。
ジルが先に確認した場所と、ほとんど同じだった。
「表の門は使わない方がいいな」
「ああ。見られている」
「数は?」
「二人。東側の屋根と、向かいの空き家」
ルシは目だけで確認した。
「こっちを見てる?」
「門を見ている。俺たちが入るかどうかを確かめたいらしい」
「じゃあ、入らない」
「当然だ」
ジルは門から離れた。
貴族街の石壁は高い。だが、長く手入れされていない外壁には、いくつも崩れた箇所がある。
ジルはそのうち、蔦の影へ隠れた細い道を選んだ。
ルシが隣へ並ぶ。
歩幅が近い。
互いの声が外へ漏れない距離ではあるが、腕を伸ばせば届く。
ジルは横目で見た。
「ついてくるな」
「一緒に任務だろ」
「近い」
ルシの笑みが、そこで少しだけ止まった。
踏み込みすぎたかどうかを測るように、赤みを帯びた目がジルの横顔を見る。
「声を潜めるには、このくらいがいい」
「言い訳が雑だ」
「情報屋だからな」
「万能ではない」
「それ、最近よく言うな」
「お前が便利に使いすぎるからだ」
二人は外壁の崩れた箇所へ回り込んだ。
そこには古い排水溝がある。人ひとりがぎりぎり通れるほどの隙間が、半ば土と蔦に埋もれて口を開けていた。
ルシが顔をしかめる。
「また地下?」
「嫌なら門から入れ」
「嫌とは言ってない。ただ、最近ずっと湿っぽい場所ばっかりだなって」
「裏の道はだいたい湿っている」
「夢がない」
「任務に夢を持つな」
ルシはため息をついたが、文句はそこまでだった。
ジルが先に排水溝へ身を滑り込ませる。
袖口の薄刃。
腰の短剣。
懐の黒銀の仮札。
すべての位置を一度だけ確かめた。
すぐ後ろからルシの衣擦れが聞こえる。クロはルシの外套の内側へ潜ったらしく、小さな爪音はしなかった。
中はひどく狭い。
古い石組みには苔が張りつき、ところどころから冷たい水が滴っている。かつて噴水へ水を送っていた導水路らしい。今は水量も少なく、床には泥と枯葉が薄く溜まっていた。
水滴が落ちる音だけが、石壁の奥で小さく反響する。
ジルはしゃがみ、床の泥を指先でなぞった。
「荷馬車の車輪跡がある」
ルシが眉を上げる。
「こんなところに?」
「庭園の裏に搬入口がある。そこから地下へ荷を入れたんだろう」
「白弦商会の荷か」
「おそらく」
クロが小さく鳴いた。
「きゅ」
ジルとルシは同時に動きを止める。
ルシが声を落とした。
「何かいる?」
クロは外套の隙間から鼻先を出し、奥の暗い通路へ向けた。
「きゅう……」
いつもの甘えた鳴き方ではない。
長い耳が伏せられ、太い尾の動きも止まっていた。
ジルは短剣へ手をかける。
「血の匂いがする」
ルシの顔から軽さが消えた。
「人?」
「古い。だが、最近のものも混じっている」
「嫌な予感しかしないな」
「当たるだろうな」
通路の奥へ進むと、広い地下室に出た。
貯蔵庫だったのだろう。壁には壊れた棚が並び、中央には木箱がいくつも置かれている。
いずれも白弦商会の印が焼きつけられていた。
だが、箱の中に香料はない。
あったのは、血のついた布。
壊れた拘束具。
そして、古い貴族印の封蝋。
乾いた紙の匂いに、香料と血の残り香が混じっている。誰かが嫌な匂いを隠そうとして、隠しきれなかった跡だった。
ルシは封蝋へ手を伸ばしかけた。
指先が触れる前に止まる。
角度を変え、紋だけを目で確認した。
「触らない方がいいな」
ジルはわずかに視線を向ける。
「覚えたか」
「お前といると、触るなって言われる前に考える癖がつく」
「良い傾向だ」
「今の褒めた?」
返事は軽い。
けれど、ほんの一拍だけ遅れた。
「判断を評価した」
「はいはい」
ルシは懐から薄い紙を出し、封蝋の紋を写した。紙が指の間で擦れる音が、地下室の静けさへ細く混じる。
「この紋、見たことある。たぶん没落貴族じゃない。現役貴族の分家筋だ」
「白梟に場所と名義を貸している協力者か」
「本命じゃない。けど、本命へ繋がる入口には近い」
ジルは地下室を見渡した。
木箱の配置。
床の擦れ跡。
血のついた布の乾き方。
拘束具の壊れ方。
箱は保管のためではなく、運び込んだものを一時的に隠すよう配置されている。
「ここは受け渡し場所だ」
「何を?」
「人か、文書か、金か」
その時、奥の扉の向こうから、かすかな音がした。
金属が床を擦る音。
ルシが針を構える。
ジルは片手を上げて制した。
「待て」
「誰かいる」
「人質の可能性がある」
ルシの口元から笑みが消える。
針を下げきりはしないまま、ジルの次の動きを待った。
ジルは扉へ近づく。
鍵はかかっていない。
それ自体が不自然だった。
「罠か」
ルシが囁く。
「罠だ」
ジルは扉の下の隙間を見る。
細い糸。
扉を開ければ、上から何かが落ちる仕掛けだった。
短剣の先を滑らせ、糸を切る。
天井裏で、金属が空を打つ細い音がした。
毒針が空振りした音だ。
ルシが小さく息を吐く。
「本当に油断できないな」
「白梟は、こういう仕掛けを好む」
「お前も使ってた?」
ジルは扉を開けながら答えた。
「昔はな」
一拍。
背後の気配が静かになった。
ルシの目から、軽い色が消える。
聞きたいことはあったはずだ。
けれど、口を開きかけて、飲み込んだ。
「中、見るぞ」
「ああ」
扉の奥は、小さな部屋だった。
そこに、ひとりの男が倒れている。
黒燈の者ではない。服の仕立てからして、貴族家に仕える書記か従者だ。手足を縛られ、口には布を噛まされている。
意識は薄い。
だが、息はある。
ルシが駆け寄ろうとした。
ジルは肩を掴んで止める。
「足元」
ルシは床を見た。
薄い粉が撒かれている。
「また術式?」
「踏めば発火する」
「本当に性格悪いな」
「人質を置く時の基本だ」
「その基本、嫌すぎる」
ジルは慎重に粉の線を崩し、術式の繋がりを切る。
それから男へ近づき、口の布を外した。
革紐の結び目が解け、金具が床へ当たって小さく鳴る。
男はかすれた声で言った。
「た、助け……」
ルシが膝をつく。
「落ち着け。誰にやられた?」
「白い……弦の印の者たち……それと……貴族の、使い……」
ジルはルシと視線を交わした。
「名前は?」
ルシが聞く。
男は震えながら答える。
「グレイル家……分家の、使者……」
ルシの眉間に皺が寄る。
「グレイル家か」
ジルが聞いた。
「知っているのか」
「ノクティルムの中堅貴族。表向きは王族派。でも、裏でいろいろ噂がある」
「王族派を装った白梟協力筋か」
「ありえる。主導役ってより、場所と名義を貸す側だろうけどな」
男はさらに言った。
「彼らは……白い都の連中と、取引を……名簿……金の流れ……」
そこまで言って、激しく咳き込む。
ルシが水を飲ませた。
「無理に喋るな」
「だ、だが……今夜……会合が……」
ジルの目が鋭くなる。
「どこだ」
「庭園の……奥の温室……地下に……」
男の意識が落ちた。
ルシが脈を確認する。
「生きてる。毒は?」
ジルは男の首元を見る。
「弱い眠り薬だ。命に関わる量ではない」
「よかった」
ルシの肩から、わずかに力が抜けた。
笑みはない。
ただ、目元だけが一瞬、人が生きていたことに安堵する形へ緩んだ。
小さく吐かれた息には、情報を得た者の満足よりも、男が生きていたことへの安堵が混じっているように聞こえた。
ジルは目を伏せる。
この男は、情報屋だ。
だが、人間を情報だけとして扱えない。
そういうところまで軽いふりで隠している。
「人を運べるか」
「一人なら。クロ、黒燈に連絡」
ルシは懐から小さな紙片を取り出した。
怪我人一名。地下貯蔵庫。グレイル家。温室地下。
必要な言葉だけを短い符牒へ落とし、折り畳む。
それからクロの前へしゃがみ、首輪に下がった黒銀の《黒燈登録札》を、親指と人差し指で軽く挟んだ。
表に刻まれた黒い灯火紋を、親指が一度なぞる。
その指が、札の上でほんの一拍だけ止まった。
ルシが指を離すと、黒銀札が首輪の金具へ戻る。
ちり、と小さな音がした。
忙しなく揺れていたクロの尾が止まり、ルシの前で座り直す。
ルシは革製の小さな伝令札入れを首輪の脇へ固定し、その中へ符牒を収めた。
「カイン兄貴かゼルさんへ。黒燈に戻れ」
クロが長い耳を立て、ルシを見上げる。
「危なくなったら引き返せ。届けることより、お前が戻る方が先だ」
声は軽くなかった。
クロは一歩だけルシへ近づき、その指先へ鼻を寄せる。
「きゅ」
ジルが低く言う。
「無理はするな」
クロはジルへ顔を向けた。
それから来た道の暗がりへ身体を返し、小さな黒い影となって駆け出す。
爪が湿った石をかすめる音は、すぐに遠くなった。
ルシはその背が見えなくなってから立ち上がる。
「完全にお前の言うことも聞くよな」
「任務中だからだ」
「そういうことにしとく」
二人は男を部屋の隅へ移し、簡易の隠蔽布をかけた。
黒燈から救援が来るまで、少しは持つ。
ジルは立ち上がった。
「温室へ行く」
ルシも頷く。
「会合まで時間は?」
「男の様子からして、準備は始まっているはずだ」
「今踏み込む?」
「まだだ。まず見る」
「見て判断する、か」
ジルはルシを見た。
ルシの口元には、わずかな笑みがある。
「何だ」
「いや、お前もだいぶ黒燈っぽくなってきたなって」
言い終えたあと、ルシはすぐに次の軽口を足さなかった。
赤みを帯びた目だけが、ジルの横顔に残る。
からかいだけで言ったわけではない沈黙だった。
ジルの目が冷えた。
「撤回しろ」
「嫌だね」
「ルシ」
「褒めてるんだけどな」
「褒め言葉ではない」
「お前にとっては、まだな」
その言葉に、ジルは一瞬だけ黙った。
信用していない。
居場所とも呼んでいない。
ただ、見てから判断するというやり方を、合理的だから使っただけだ。
そう切り返すことはできた。
だが、言葉へする前に、ルシは先へ歩き出していた。
それ以上、答えを求める気はないらしい。
ジルはその背を見る。
軽い足取り。
だが、警戒は怠らない。
よく喋る。
だが、必要なところでは引く。
以前なら、邪魔だと判断していただろう。
今も面倒だとは思う。
けれど、邪魔ではなくなっている。
その事実へ名前をつけるつもりはなかった。
ジルはわずかに眉を寄せる。
「早くしろ」
ルシが振り返った。
「置いていくぞ」
ジルは歩き出す。
「置いていけると思っているのか」
「思ってない」
「なら言うな」
「言ってみたかった」
「本当にうるさい男だな」
ルシは笑った。
*
温室は、廃庭園の最奥にあった。
硝子の屋根は半分ほど割れている。だが、魔力で保たれている部分もあり、中には枯れずに残った黒い花が咲いていた。
風が通るたび、割れた硝子の端が、薄い刃を触れ合わせるように鳴る。
ジルはその花を見て足を止めた。
「触るな」
ルシもすぐに止まる。
「毒?」
「魔力吸収花だ。近づきすぎると体力を削られる」
「貴族趣味悪いな」
「暗殺にも使える」
「お前の知識、本当に物騒だな」
「役に立っているだろ」
「かなり」
ジルは温室の床を見る。
中央に、地下へ続く隠し扉がある。
だが、その周囲には見張りがいない。
聞こえるのは風と硝子の音だけだった。
「不自然だな」
ルシが言う。
ジルも頷く。
「見張りがいない場所ほど危ない」
「入る?」
「入る」
「危ないって言ったばっかりだろ」
「危ないから入る」
「その理屈、嫌いじゃないけど嫌だな」
ジルは温室の柱へ手を当て、魔力の流れを読む。
「罠は二重。扉を開けると花が反応する。さらに、地下への階段に幻覚術式がある」
「解除できる?」
「一部なら」
「一部?」
「花は避ける。幻覚は見破る」
「つまり、解除はしない?」
「時間が惜しい」
ルシは小さく息を吐いた。
「仮登録初日から飛ばすなあ」
「お前も来ている」
「オレは情報屋だからな」
「便利に使うな」
ジルは隠し扉を開けた。
地下から冷たい空気が上がってくる。
古い石段。
薄い灯り。
その奥から、複数の声が聞こえた。
ルシが耳を澄ませる。
「三人……いや、四人」
ジルは小さく首を振る。
「五人だ。ひとり、ほとんど喋っていない」
「貴族か?」
「おそらく」
二人は階段を下りた。
途中、ルシがふらりと足を止める。
ジルはすぐに腕を掴んだ。
「見るな」
「……幻覚か」
「正面の壁を見るな。足元だけ見ろ」
掴んだ腕から、ルシの呼吸が乱れたのが伝わる。
「今、一瞬、兄貴が倒れてるように見えた」
ルシは笑わなかった。
声の端だけが、わずかに乾いている。
「幻覚術式は恐怖を見せる」
「嫌なもん作るな」
「白梟でも使っていた」
「お前は何が見えた?」
ジルは答えなかった。
白い回廊。
閉じた扉。
戻れと呼ぶ声。
それらは言葉にする必要のないものだ。
ルシはジルの顔を見た。
問いを重ねれば、たぶん閉じる。
そう判断した顔で、続きを飲み込む。
「足元だけ見る」
「ああ」
ジルはルシの腕から手を離した。
指先に残った冷たさが、自分のものか相手のものかは分からない。
階段を下り切ると、地下広間へ出る。
二人は壁の陰に身を潜めた。
広間の中央には、丸い卓。
そこに数人の男たちがいる。
ひとりは魔族貴族。
指輪に刻まれた紋は、先ほど見た封蝋と同じ系統のものだった。グレイル家の分家筋だろう。
ひとりは、白弦商会の名義で荷を動かしている男。
ひとりは、黒い防塵外套を羽織ったエルフ。
その裾の内側には、白梟の白い実働服が覗いている。袖口の硬さは、毒矢か拘束符を仕込んだ者のそれだった。
レヴィ。
さらに、書記役と思われる人間の男と、護衛が一人。
ルシが小さく息を吐く。
「当たりだな」
ジルの目が冷える。
「レヴィ」
レヴィは卓へ手を置き、貴族へ言った。
「サイラスは捕らえられた。だが、まだ計画は崩れていない」
グレイル家分家の男が、声へ苛立ちを滲ませる。
「黒燈に嗅ぎつけられた時点で、十分崩れている」
「ならば、早く決断すべきだ。ジルを捕らえ、文書の在処を吐かせる」
「そのジルが捕まらないから困っているのだろう」
レヴィの声が低くなる。
「あれは元々、我々の中でも特別だった。簡単に捕まるなら、ここまで面倒にはなっていない」
隣から、ルシの視線が触れた。
ジルは顔を向けない。
レヴィの声と、卓を指で叩く音だけを拾う。
「だが、弱点はできた。黒燈。情報屋。黒い獣。店の者。あいつは昔より、切り捨てにくいものが増えた」
ルシの呼吸が浅くなる。
ジルの指が短剣へ触れた。
次の瞬間、その手の甲へ、別の指先がそっと重なる。
ルシの顔から笑みは消えていた。
止めるための顔ではない。
今はまだ違う、と伝えるための静かな顔だった。
強くはない。
押さえつける手でもない。
振り払えば、すぐに外れる程度の触れ方だった。
ジルはわずかに顔を向ける。
ルシは声を出さず、口だけを動かした。
――まだ。
ジルは数秒、ルシを見る。
レヴィへ刃を投げることはできる。
だが、殺しても情報は残らない。
ここには他にも人間がいる。
背後の経路も、まだ見えていない。
ジルは自分から短剣の柄を離した。
ルシの指も、すぐに離れる。
レヴィは卓へ一枚の紙を置いた。
「白梟長からの指示だ。黒燈を直接潰す必要はない。内側から信用を揺さぶれ、と」
グレイル家分家の男が紙を受け取る。
「方法は?」
レヴィはすぐには答えなかった。
卓上の紙へ目を落とし、その端を指先で静かに揃える。
「長からの指示は、信用を揺さぶれ、までだ」
一拍置いて、レヴィは薄く笑った。
先ほどまでの忠実な伝令役の顔とは違う。
その声には、ジル個人へ向けた棘が混じっていた。
「私なら、ジルが持つ文書を、黒燈も狙っているという噂を流す。あいつはまた疑う。疑えば離れる。離れれば捕まえやすい」
ジルの目が細くなる。
隣で、ルシが静かに顔をしかめた。
「嫌な手だな」
小声だった。
ジルは低く答える。
「効くと思っているんだろう」
「実際、効く?」
ジルは答えなかった。
黒燈が文書を狙っていないと、言い切れるほど信用してはいない。
仮登録札も、保全責任も、まだ言葉と数度の行動でしか確かめていない。
沈黙が、数拍分だけ落ちる。
ルシはその間を拾ったはずだった。
それでも、信じろとは言わない。
口元に浮かびかけた言葉を、目だけで飲み込んだ。
視線を卓へ戻す。
レヴィがさらに言った。
「次は、ルシという情報屋を使う」
隣から気配が消えた。
軽口も、衣擦れもない。
ルシの表情から、いつもの薄い笑みが完全に抜け落ちていた。
ジルの目が冷える。
「ジルはあいつを気にしている。情報屋を孤立させ、ジルに選ばせる。文書か、情報屋か」
グレイル家分家の男が笑った。
「ただの情報屋だろう」
レヴィも薄く笑う。
「ただの情報屋なら、あいつはもう切っている」
その言葉に、ジルの呼吸がほんの一瞬だけ止まった。
敵から見ても、そう見える。
情報を得るためだけの相手なら、とっくに切り離している。
危険を増やすだけの男なら、地下水路でも、礼拝堂でも、粉挽き小屋でも置いていけた。
それをしなかった。
レヴィは、その変化を弱点として数えている。
隣で、ルシの指がゆっくりと握られた。
表情は見なかった。
見る必要はない。
ジルは卓の上の紙へ視線を固定した。
文書か。
情報屋か。
選ばせる。
白梟は、また同じことをする。
誰かを秤へ載せ、自分から差し出させる。
その時、奥の通気口の方で、石を細かくかく爪音がした。
一度乱れ、すぐに止まる。
次に、聞き慣れた鳴き声。
「きゅう」
ジルとルシは同時に視線を動かした。
クロが戻ってきている。
首輪の脇に付けた伝令札入れは空だった。来た道を走り通したのか、小さな肩が速い呼吸に合わせて上下している。
首輪の毛が湿り、足元には泥が跳ねていた。
伝令は届いた。
だが、鳴いた場所が悪い。
広間の中にも聞こえた。
レヴィが顔を上げる。
「誰だ」
空気が変わった。
ルシが舌打ちする。
「見つかる」
ジルは即座に判断した。
「撤退だ」
ルシの眉が、わずかに上がる。
「でも、情報は」
「十分だ。今は持ち帰る」
言葉にすると、迷いは消えた。
レヴィを追うより、情報を残す。
怪我人の証言もある。
クロは黒燈へ伝令を届けた。
ここで全員を相手にする理由はない。
「了解」
ルシは短く答えた。
返事に迷いはなかった。
ただ、ジルが撤退を選んだことに、ほんの一瞬だけ目元が緩む。
二人は来た道へ戻ろうとする。
だが、その時、階段側に護衛が現れた。
挟まれた。
ジルの目が冷える。
「ルシ、右の通路」
「行ける?」
「俺が開ける」
「一人でやるなよ」
「分かっている」
ルシの口元が、ごくわずかに持ち上がりかけた。
ジルが一人で切り込まなかったことへの安堵が、そこに一瞬だけ出る。
だが、すぐに情報屋の顔へ戻る。
レヴィの声が広間へ響いた。
「いるんだろう、ジル」
ジルは答えない。
レヴィは笑った。
「逃げるのか? また?」
ジルの足が止まりかける。
逃げる。
白い王都を捨てた夜から、何度も背へ投げられた言葉。
ルシの声がすぐに届く。
「挑発だ」
「ああ」
「乗るな」
「分かっている」
ジルは今度こそ止まらなかった。
右の通路へ踏み込み、隠れていた護衛の懐へ入る。
一撃。
膝の外側を崩し、肩を石壁へ打ちつける。
殺さない。
だが、すぐには立ち上がれない角度で落とす。
武器が床へ落ち、石の上で硬い音を立てた。
ルシがその後ろを抜ける。
クロが暗闇から飛び出し、ルシの肩へ乗った。荒い呼吸のまま、身体を慣れた位置へ収める。
「よし、戻ったな」
ジルは振り返らないまま言う。
「無事か」
ルシが即座に答えた。
「クロは無事。オレも無事」
「聞いていない」
「聞いてるだろ」
「黙れ」
二人と一匹は地下通路を駆ける。
背後から追手の足音が迫った。
革靴と石床がぶつかる音。
武器を抜く金属音。
怒声。
ジルは壁の古い支柱を見つけ、短剣で一点を突く。
天井の一部が崩れ、追手との間へ瓦礫が落ちた。
石と土が落ちる鈍い音が、地下通路へ短く反響する。
ルシが目を見開いた。
「崩して大丈夫なのか?」
「支柱一本分なら持つ」
「それ、信じていいやつ?」
「走れ」
「はいはい!」
彼らは温室の裏手へ出た。
朝の冷たい空気が、熱を持った肌へ触れる。
ジルはまず庭園の門の方を見る。
カインとゼルが来ていた。
クロの伝令が届いていたのだ。
カインは三人の位置と背後の温室を一度に確認し、眉を寄せる。
「追われたか」
ルシが息を整えながら答えた。
「情報は取れた。レヴィ、グレイル家分家、白弦商会名義の荷。あと、アルドリックからの指示」
ゼルの表情が引き締まる。
「アルドリック本人の名で動いているんだね」
ジルは短く答えた。
「ああ」
カインの片目がジルへ向く。
「無理に踏み込まなかったのか」
ジルは少し不機嫌そうに言う。
「情報を持ち帰る方が先だ」
カインはわずかに目を細めた。
それ以上、評価の言葉は置かない。
ゼルが静かに微笑む。
「いい判断だ」
ジルは答えなかった。
隣で、ルシの口元が持ち上がりかける。
ジルはそちらを見ずに言った。
「顔に出すな」
「まだ何も言ってない」
ルシは笑っていた。
けれど、その笑みは少し遅れて消える。
言いたいことを、今は飲み込んだ顔だった。
クロがルシの肩で小さく鳴いた。
「きゅう」
その声を聞いて、ジルはようやく短く息を吐いた。
任務は終わっていない。
むしろ、敵の狙いははっきりした。
白梟は機密文書だけを追っているのではない。
ジルが切り捨てにくくなったものを見つけ、そこから壊そうとしている。
黒燈への不信。
ルシの孤立。
クロや店の者を使った揺さぶり。
どれも、効かないとは言えない。
効くからこそ、腹立たしかった。
ルシが隣へ立つ。
「ジル」
「何だ」
「敵の狙い、かなり嫌な感じだったな」
「ああ」
ルシは一度、廃庭園の方を振り返った。
崩れた温室の向こうには、もうレヴィたちの姿は見えない。それでも、先ほど聞いた言葉だけは、まだ耳の奥に残っている。
文書か、情報屋か。
選ばせる。
「オレを理由に、また一人で動くなよ」
ルシは笑わなかった。
軽口に逃がせる言葉ではないと、分かっている顔だった。
ジルの目が、わずかに細くなった。
「お前が決めることじゃない」
「知ってる。だから先に言ってる」
ルシは笑わなかった。
「お前、揺れるかもしれない」
ジルはルシを見る。
ルシの赤みを帯びた目は、まっすぐこちらを見ていた。
信じろとは言わない。
疑うなとも。
「でも、揺れてもいいから言え。黙って消えるな」
ルシの声は低い。
縛る声ではない。
ただ、消えられる前に届く場所へ置いた声だった。
ジルは黙った。
カインも、ゼルも言葉を挟まない。
答えを決める時間だけが残される。
遠くで、錆びた門が風を受けて鳴った。
ジルは長く息を吐く。
「……努力する」
ルシの目が少しだけ見開かれた。
返事が、一拍遅れる。
その一拍の間だけ、目元が柔らかくなった。
「今、努力するって言った?」
「撤回する」
「駄目。聞いた。クロも聞いた」
「きゅう!」
「お前は聞いていない」
ジルはクロを睨む。
だが、薄刃へ触れる時のような冷たさは、もう声に残っていなかった。
ゼルが穏やかに言う。
「では、黒燈へ戻ろう。黒銀の仮札を持つ初仕事としては、十分すぎる成果だ」
ジルは眉を寄せる。
「仮登録を強調するな」
ルシが笑った。
「少なくとも、その札を持ってる間は、勝手に消えるなってことだろ」
「勝手に先を決めるな」
「嫌か?」
ジルは答えなかった。
懐に入れた黒銀の仮登録札へ、ほんの一瞬だけ手を触れる。
冷たい金属の輪郭が、服越しに指へ返る。
自分で入れた札。
自分で返せる札。
首輪かどうかは、まだ見極めている途中だ。
ルシの視線が、その指先へ落ちた。
目元が少しだけ柔らかくなる。
けれど、何も言わない。
今は、それでよかった。
ジルはまだ、黒燈を居場所とは呼ばない。
だが、敵がそこを壊そうとしていることには腹が立つ。
ルシを孤立させ、自分に選ばせようとするやり方も。
その怒りを何と呼ぶかは、まだ決めなくていい。
廃庭園の奥で、白い紙が一枚、風に煽られて石畳を滑った。
誰かが撒く噂は、きっとこの紙より軽く、刃より速く街へ流れる。
月燈館へ。
黒燈へ。
ジルの名を知る者たちの耳へ。
白梟は、次に居場所を切りに来る。
ジルはその紙片を踏まず、ただ見下ろした。
「戻るぞ」
短く言う。
ルシが頷く。
「ああ。戻って、先にこっちが拾う」
「何を」
「噂の出どころ」
ジルはルシを見る。
ルシはいつものように笑っていた。
だが、目だけは笑っていない。
ジルが拒まないと分かるまで、その笑みの奥にある硬さは消えなかった。
「情報屋だからな」
「便利に使うな」
「今回は便利に使えよ」
ジルは答えなかった。
拒絶もしない。
歩き出す方向は、すでに同じだった。
黒い王都の朝靄の奥で、遠く、荷馬車の車輪が軋む。
その音を追うために、ジルは自分の足で黒燈へ戻っていった。
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