銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第13話 錆びた庭園へ



   廃庭園は、貴族街の外れにあった。

 東区の劇場跡から伸びていた荷馬車の痕跡は、途中で何度も薄れている。それでも、湿った石畳の端に残る車輪の削れ方と、香料に混じる古い紙の匂いは、この錆びた門の前まで細く続いていた。

 かつては、ノクティルムでも名のある貴族の別邸だったという。

 今では門は赤茶けた錆に覆われ、石畳には蔦が這い、噴水は水を失って久しい。朝靄が枯れた庭木の間を白く漂い、割れた彫像の顔をぼんやりと濡らしている。


 風が吹くたび、錆びた門が細く鳴った。

 ジルは門の前で足を止める。

 隣にはルシ。

 少し後ろには、クロ。

 クロは朝からやけに落ち着きがなかった。ルシの肩へ乗ったかと思えば、ジルの足元へ降り、またルシの方へ戻る。

 黒い尾は忙しなく揺れ、鼻先は何度もジルの外套と庭園の奥を行き来していた。

 雨の夜から覚えている匂いと、白い封や香料の残り香。

 好きなものと嫌なものが、同じ場所に混じっているらしい。

「クロ、落ち着け」

「きゅう」

「任務中だぞ」

「きゅ」

 ジルは門の奥を見たまま言う。

「本当に任務向きなのか、その毛玉」

 ルシはクロを抱き直した。

 笑ってはいるが、落ち着かない尾と伏せ気味の耳を一度だけ確かめる。

「普段は優秀なんだって」

「普段を見たことがない」

「お前がいる時は、だいたい甘えるからな」

「俺のせいにするな」

「クロに聞いてみるか?」

「聞くな」

 クロが得意げに鳴く。

「きゅう」

 ジルは小さく息を吐いた。

「返事だけはいい」

 ルシは笑ったが、門には手をかけなかった。

 まず周囲へ視線を巡らせる。

 門の正面。

 東側の屋根。

 向かいの空き家。

 枯れた植え込み。

 ジルが先に確認した場所と、ほとんど同じだった。

「表の門は使わない方がいいな」

「ああ。見られている」

「数は?」

「二人。東側の屋根と、向かいの空き家」

 ルシは目だけで確認した。

「こっちを見てる?」

「門を見ている。俺たちが入るかどうかを確かめたいらしい」

「じゃあ、入らない」

「当然だ」

 ジルは門から離れた。

 貴族街の石壁は高い。だが、長く手入れされていない外壁には、いくつも崩れた箇所がある。

 ジルはそのうち、蔦の影へ隠れた細い道を選んだ。

 ルシが隣へ並ぶ。

 歩幅が近い。

 互いの声が外へ漏れない距離ではあるが、腕を伸ばせば届く。

 ジルは横目で見た。

「ついてくるな」

「一緒に任務だろ」

「近い」

 ルシの笑みが、そこで少しだけ止まった。

 踏み込みすぎたかどうかを測るように、赤みを帯びた目がジルの横顔を見る。

「声を潜めるには、このくらいがいい」

「言い訳が雑だ」

「情報屋だからな」

「万能ではない」

「それ、最近よく言うな」

「お前が便利に使いすぎるからだ」

 二人は外壁の崩れた箇所へ回り込んだ。

 そこには古い排水溝がある。人ひとりがぎりぎり通れるほどの隙間が、半ば土と蔦に埋もれて口を開けていた。

 ルシが顔をしかめる。

「また地下?」

「嫌なら門から入れ」

「嫌とは言ってない。ただ、最近ずっと湿っぽい場所ばっかりだなって」

「裏の道はだいたい湿っている」

「夢がない」

「任務に夢を持つな」

 ルシはため息をついたが、文句はそこまでだった。

 ジルが先に排水溝へ身を滑り込ませる。

 袖口の薄刃。

 腰の短剣。

 懐の黒銀の仮札。

 すべての位置を一度だけ確かめた。

 すぐ後ろからルシの衣擦れが聞こえる。クロはルシの外套の内側へ潜ったらしく、小さな爪音はしなかった。

 中はひどく狭い。

 古い石組みには苔が張りつき、ところどころから冷たい水が滴っている。かつて噴水へ水を送っていた導水路らしい。今は水量も少なく、床には泥と枯葉が薄く溜まっていた。

 水滴が落ちる音だけが、石壁の奥で小さく反響する。

 ジルはしゃがみ、床の泥を指先でなぞった。

「荷馬車の車輪跡がある」

 ルシが眉を上げる。

「こんなところに?」

「庭園の裏に搬入口がある。そこから地下へ荷を入れたんだろう」

「白弦商会の荷か」

「おそらく」

 クロが小さく鳴いた。

「きゅ」

 ジルとルシは同時に動きを止める。

 ルシが声を落とした。

「何かいる?」

 クロは外套の隙間から鼻先を出し、奥の暗い通路へ向けた。

「きゅう……」

 いつもの甘えた鳴き方ではない。

 長い耳が伏せられ、太い尾の動きも止まっていた。

 ジルは短剣へ手をかける。

「血の匂いがする」

 ルシの顔から軽さが消えた。

「人?」

「古い。だが、最近のものも混じっている」

「嫌な予感しかしないな」

「当たるだろうな」

 通路の奥へ進むと、広い地下室に出た。

 貯蔵庫だったのだろう。壁には壊れた棚が並び、中央には木箱がいくつも置かれている。

 いずれも白弦商会の印が焼きつけられていた。

 だが、箱の中に香料はない。

 あったのは、血のついた布。

 壊れた拘束具。

 そして、古い貴族印の封蝋。

 乾いた紙の匂いに、香料と血の残り香が混じっている。誰かが嫌な匂いを隠そうとして、隠しきれなかった跡だった。

 ルシは封蝋へ手を伸ばしかけた。

 指先が触れる前に止まる。

 角度を変え、紋だけを目で確認した。

「触らない方がいいな」

 ジルはわずかに視線を向ける。

「覚えたか」

「お前といると、触るなって言われる前に考える癖がつく」

「良い傾向だ」

「今の褒めた?」

 返事は軽い。

 けれど、ほんの一拍だけ遅れた。

「判断を評価した」

「はいはい」

 ルシは懐から薄い紙を出し、封蝋の紋を写した。紙が指の間で擦れる音が、地下室の静けさへ細く混じる。

「この紋、見たことある。たぶん没落貴族じゃない。現役貴族の分家筋だ」

「白梟はくきょうに場所と名義を貸している協力者か」

「本命じゃない。けど、本命へ繋がる入口には近い」

 ジルは地下室を見渡した。

 木箱の配置。

 床の擦れ跡。

 血のついた布の乾き方。

 拘束具の壊れ方。

 箱は保管のためではなく、運び込んだものを一時的に隠すよう配置されている。

「ここは受け渡し場所だ」

「何を?」

「人か、文書か、金か」

 その時、奥の扉の向こうから、かすかな音がした。

 金属が床を擦る音。

 ルシが針を構える。

 ジルは片手を上げて制した。

「待て」

「誰かいる」

「人質の可能性がある」

 ルシの口元から笑みが消える。

 針を下げきりはしないまま、ジルの次の動きを待った。

 ジルは扉へ近づく。

 鍵はかかっていない。

 それ自体が不自然だった。

「罠か」

 ルシが囁く。

「罠だ」

 ジルは扉の下の隙間を見る。

 細い糸。

 扉を開ければ、上から何かが落ちる仕掛けだった。

 短剣の先を滑らせ、糸を切る。

 天井裏で、金属が空を打つ細い音がした。

 毒針が空振りした音だ。

 ルシが小さく息を吐く。

「本当に油断できないな」

「白梟はくきょうは、こういう仕掛けを好む」

「お前も使ってた?」

 ジルは扉を開けながら答えた。

「昔はな」

 一拍。

 背後の気配が静かになった。

 ルシの目から、軽い色が消える。

 聞きたいことはあったはずだ。

 けれど、口を開きかけて、飲み込んだ。

「中、見るぞ」

「ああ」

 扉の奥は、小さな部屋だった。

 そこに、ひとりの男が倒れている。

 黒燈の者ではない。服の仕立てからして、貴族家に仕える書記か従者だ。手足を縛られ、口には布を噛まされている。

 意識は薄い。

 だが、息はある。

 ルシが駆け寄ろうとした。

 ジルは肩を掴んで止める。

「足元」

 ルシは床を見た。

 薄い粉が撒かれている。

「また術式?」

「踏めば発火する」

「本当に性格悪いな」

「人質を置く時の基本だ」

「その基本、嫌すぎる」

 ジルは慎重に粉の線を崩し、術式の繋がりを切る。

 それから男へ近づき、口の布を外した。

 革紐の結び目が解け、金具が床へ当たって小さく鳴る。

 男はかすれた声で言った。

「た、助け……」

 ルシが膝をつく。

「落ち着け。誰にやられた?」

「白い……弦の印の者たち……それと……貴族の、使い……」

 ジルはルシと視線を交わした。

「名前は?」

 ルシが聞く。

 男は震えながら答える。

「グレイル家……分家の、使者……」

 ルシの眉間に皺が寄る。

「グレイル家か」

 ジルが聞いた。

「知っているのか」

「ノクティルムの中堅貴族。表向きは王族派。でも、裏でいろいろ噂がある」

「王族派を装った白梟はくきょう協力筋か」

「ありえる。主導役ってより、場所と名義を貸す側だろうけどな」

 男はさらに言った。

「彼らは……白い都の連中と、取引を……名簿……金の流れ……」

 そこまで言って、激しく咳き込む。

 ルシが水を飲ませた。

「無理に喋るな」

「だ、だが……今夜……会合が……」

 ジルの目が鋭くなる。

「どこだ」

「庭園の……奥の温室……地下に……」

 男の意識が落ちた。

 ルシが脈を確認する。

「生きてる。毒は?」

 ジルは男の首元を見る。

「弱い眠り薬だ。命に関わる量ではない」

「よかった」

 ルシの肩から、わずかに力が抜けた。

 笑みはない。

 ただ、目元だけが一瞬、人が生きていたことに安堵する形へ緩んだ。

 小さく吐かれた息には、情報を得た者の満足よりも、男が生きていたことへの安堵が混じっているように聞こえた。

 ジルは目を伏せる。

 この男は、情報屋だ。

 だが、人間を情報だけとして扱えない。

 そういうところまで軽いふりで隠している。

「人を運べるか」

「一人なら。クロ、黒燈に連絡」

 ルシは懐から小さな紙片を取り出した。

 怪我人一名。地下貯蔵庫。グレイル家。温室地下。

 必要な言葉だけを短い符牒へ落とし、折り畳む。

 それからクロの前へしゃがみ、首輪に下がった黒銀の《黒燈登録札》を、親指と人差し指で軽く挟んだ。

 表に刻まれた黒い灯火紋を、親指が一度なぞる。

 その指が、札の上でほんの一拍だけ止まった。

 ルシが指を離すと、黒銀札が首輪の金具へ戻る。

 ちり、と小さな音がした。

 忙しなく揺れていたクロの尾が止まり、ルシの前で座り直す。

 ルシは革製の小さな伝令札入れを首輪の脇へ固定し、その中へ符牒を収めた。

「カイン兄貴かゼルさんへ。黒燈に戻れ」

 クロが長い耳を立て、ルシを見上げる。

「危なくなったら引き返せ。届けることより、お前が戻る方が先だ」

 声は軽くなかった。

 クロは一歩だけルシへ近づき、その指先へ鼻を寄せる。

「きゅ」

 ジルが低く言う。

「無理はするな」

 クロはジルへ顔を向けた。

 それから来た道の暗がりへ身体を返し、小さな黒い影となって駆け出す。

 爪が湿った石をかすめる音は、すぐに遠くなった。

 ルシはその背が見えなくなってから立ち上がる。

「完全にお前の言うことも聞くよな」

「任務中だからだ」

「そういうことにしとく」

 二人は男を部屋の隅へ移し、簡易の隠蔽布をかけた。

 黒燈から救援が来るまで、少しは持つ。

 ジルは立ち上がった。

「温室へ行く」

 ルシも頷く。

「会合まで時間は?」

「男の様子からして、準備は始まっているはずだ」

「今踏み込む?」

「まだだ。まず見る」

「見て判断する、か」

 ジルはルシを見た。

 ルシの口元には、わずかな笑みがある。

「何だ」

「いや、お前もだいぶ黒燈っぽくなってきたなって」

 言い終えたあと、ルシはすぐに次の軽口を足さなかった。

 赤みを帯びた目だけが、ジルの横顔に残る。

 からかいだけで言ったわけではない沈黙だった。

 ジルの目が冷えた。

「撤回しろ」

「嫌だね」

「ルシ」

「褒めてるんだけどな」

「褒め言葉ではない」

「お前にとっては、まだな」

 その言葉に、ジルは一瞬だけ黙った。

 信用していない。

 居場所とも呼んでいない。

 ただ、見てから判断するというやり方を、合理的だから使っただけだ。

 そう切り返すことはできた。

 だが、言葉へする前に、ルシは先へ歩き出していた。

 それ以上、答えを求める気はないらしい。

 ジルはその背を見る。

 軽い足取り。

 だが、警戒は怠らない。

 よく喋る。

 だが、必要なところでは引く。

 以前なら、邪魔だと判断していただろう。

 今も面倒だとは思う。

 けれど、邪魔ではなくなっている。

 その事実へ名前をつけるつもりはなかった。

 ジルはわずかに眉を寄せる。

「早くしろ」

 ルシが振り返った。

「置いていくぞ」

 ジルは歩き出す。

「置いていけると思っているのか」

「思ってない」

「なら言うな」

「言ってみたかった」

「本当にうるさい男だな」

 ルシは笑った。

     *

 温室は、廃庭園の最奥にあった。

 硝子の屋根は半分ほど割れている。だが、魔力で保たれている部分もあり、中には枯れずに残った黒い花が咲いていた。

 風が通るたび、割れた硝子の端が、薄い刃を触れ合わせるように鳴る。

 ジルはその花を見て足を止めた。

「触るな」

 ルシもすぐに止まる。

「毒?」

「魔力吸収花だ。近づきすぎると体力を削られる」

「貴族趣味悪いな」

「暗殺にも使える」

「お前の知識、本当に物騒だな」

「役に立っているだろ」

「かなり」

 ジルは温室の床を見る。

 中央に、地下へ続く隠し扉がある。

 だが、その周囲には見張りがいない。

 聞こえるのは風と硝子の音だけだった。

「不自然だな」

 ルシが言う。

 ジルも頷く。

「見張りがいない場所ほど危ない」

「入る?」

「入る」

「危ないって言ったばっかりだろ」

「危ないから入る」

「その理屈、嫌いじゃないけど嫌だな」

 ジルは温室の柱へ手を当て、魔力の流れを読む。

「罠は二重。扉を開けると花が反応する。さらに、地下への階段に幻覚術式がある」

「解除できる?」

「一部なら」

「一部?」

「花は避ける。幻覚は見破る」

「つまり、解除はしない?」

「時間が惜しい」

 ルシは小さく息を吐いた。

「仮登録初日から飛ばすなあ」

「お前も来ている」

「オレは情報屋だからな」

「便利に使うな」

 ジルは隠し扉を開けた。

 地下から冷たい空気が上がってくる。

 古い石段。

 薄い灯り。

 その奥から、複数の声が聞こえた。

 ルシが耳を澄ませる。

「三人……いや、四人」


 ジルは小さく首を振る。

「五人だ。ひとり、ほとんど喋っていない」

「貴族か?」

「おそらく」

 二人は階段を下りた。

 途中、ルシがふらりと足を止める。

 ジルはすぐに腕を掴んだ。

「見るな」

「……幻覚か」

「正面の壁を見るな。足元だけ見ろ」

 掴んだ腕から、ルシの呼吸が乱れたのが伝わる。

「今、一瞬、兄貴が倒れてるように見えた」

 ルシは笑わなかった。

 声の端だけが、わずかに乾いている。

「幻覚術式は恐怖を見せる」

「嫌なもん作るな」

「白梟はくきょうでも使っていた」

「お前は何が見えた?」

 ジルは答えなかった。

 白い回廊。

 閉じた扉。

 戻れと呼ぶ声。

 それらは言葉にする必要のないものだ。

 ルシはジルの顔を見た。

 問いを重ねれば、たぶん閉じる。

 そう判断した顔で、続きを飲み込む。

「足元だけ見る」

「ああ」

 ジルはルシの腕から手を離した。

 指先に残った冷たさが、自分のものか相手のものかは分からない。

 階段を下り切ると、地下広間へ出る。

 二人は壁の陰に身を潜めた。

 広間の中央には、丸い卓。

 そこに数人の男たちがいる。

 ひとりは魔族貴族。

 指輪に刻まれた紋は、先ほど見た封蝋と同じ系統のものだった。グレイル家の分家筋だろう。

 ひとりは、白弦商会の名義で荷を動かしている男。

 ひとりは、黒い防塵外套を羽織ったエルフ。

 その裾の内側には、白梟はくきょうの白い実働服が覗いている。袖口の硬さは、毒矢か拘束符を仕込んだ者のそれだった。

 レヴィ。

 さらに、書記役と思われる人間の男と、護衛が一人。

 ルシが小さく息を吐く。

「当たりだな」

 ジルの目が冷える。

「レヴィ」

 レヴィは卓へ手を置き、貴族へ言った。

「サイラスは捕らえられた。だが、まだ計画は崩れていない」

 グレイル家分家の男が、声へ苛立ちを滲ませる。

「黒燈に嗅ぎつけられた時点で、十分崩れている」

「ならば、早く決断すべきだ。ジルを捕らえ、文書の在処を吐かせる」

「そのジルが捕まらないから困っているのだろう」

 レヴィの声が低くなる。

「あれは元々、我々の中でも特別だった。簡単に捕まるなら、ここまで面倒にはなっていない」

 隣から、ルシの視線が触れた。

 ジルは顔を向けない。

 レヴィの声と、卓を指で叩く音だけを拾う。

「だが、弱点はできた。黒燈。情報屋。黒い獣。店の者。あいつは昔より、切り捨てにくいものが増えた」

 ルシの呼吸が浅くなる。

 ジルの指が短剣へ触れた。

 次の瞬間、その手の甲へ、別の指先がそっと重なる。

 ルシの顔から笑みは消えていた。

 止めるための顔ではない。

 今はまだ違う、と伝えるための静かな顔だった。

 強くはない。

 押さえつける手でもない。

 振り払えば、すぐに外れる程度の触れ方だった。

 ジルはわずかに顔を向ける。

 ルシは声を出さず、口だけを動かした。

 ――まだ。

 ジルは数秒、ルシを見る。

 レヴィへ刃を投げることはできる。

 だが、殺しても情報は残らない。

 ここには他にも人間がいる。

 背後の経路も、まだ見えていない。

 ジルは自分から短剣の柄を離した。

 ルシの指も、すぐに離れる。

 レヴィは卓へ一枚の紙を置いた。

「白梟はくきょう長からの指示だ。黒燈を直接潰す必要はない。内側から信用を揺さぶれ、と」

 グレイル家分家の男が紙を受け取る。

「方法は?」

 レヴィはすぐには答えなかった。

 卓上の紙へ目を落とし、その端を指先で静かに揃える。

「長からの指示は、信用を揺さぶれ、までだ」

 一拍置いて、レヴィは薄く笑った。

 先ほどまでの忠実な伝令役の顔とは違う。

 その声には、ジル個人へ向けた棘が混じっていた。

「私なら、ジルが持つ文書を、黒燈も狙っているという噂を流す。あいつはまた疑う。疑えば離れる。離れれば捕まえやすい」

 ジルの目が細くなる。

 隣で、ルシが静かに顔をしかめた。

「嫌な手だな」

 小声だった。

 ジルは低く答える。

「効くと思っているんだろう」

「実際、効く?」

 ジルは答えなかった。

 黒燈が文書を狙っていないと、言い切れるほど信用してはいない。

 仮登録札も、保全責任も、まだ言葉と数度の行動でしか確かめていない。

 沈黙が、数拍分だけ落ちる。

 ルシはその間を拾ったはずだった。

 それでも、信じろとは言わない。

 口元に浮かびかけた言葉を、目だけで飲み込んだ。

 視線を卓へ戻す。

 レヴィがさらに言った。

「次は、ルシという情報屋を使う」

 隣から気配が消えた。

 軽口も、衣擦れもない。

 ルシの表情から、いつもの薄い笑みが完全に抜け落ちていた。

 ジルの目が冷える。

「ジルはあいつを気にしている。情報屋を孤立させ、ジルに選ばせる。文書か、情報屋か」

 グレイル家分家の男が笑った。

「ただの情報屋だろう」

 レヴィも薄く笑う。

「ただの情報屋なら、あいつはもう切っている」

 その言葉に、ジルの呼吸がほんの一瞬だけ止まった。

 敵から見ても、そう見える。

 情報を得るためだけの相手なら、とっくに切り離している。

 危険を増やすだけの男なら、地下水路でも、礼拝堂でも、粉挽き小屋でも置いていけた。

 それをしなかった。

 レヴィは、その変化を弱点として数えている。

 隣で、ルシの指がゆっくりと握られた。

 表情は見なかった。

 見る必要はない。

 ジルは卓の上の紙へ視線を固定した。

 文書か。

 情報屋か。

 選ばせる。

 白梟はくきょうは、また同じことをする。

 誰かを秤へ載せ、自分から差し出させる。

 その時、奥の通気口の方で、石を細かくかく爪音がした。

 一度乱れ、すぐに止まる。

 次に、聞き慣れた鳴き声。

「きゅう」

 ジルとルシは同時に視線を動かした。

 クロが戻ってきている。

 首輪の脇に付けた伝令札入れは空だった。来た道を走り通したのか、小さな肩が速い呼吸に合わせて上下している。

  首輪の毛が湿り、足元には泥が跳ねていた。

 伝令は届いた。

 だが、鳴いた場所が悪い。

 広間の中にも聞こえた。

 レヴィが顔を上げる。

「誰だ」

 空気が変わった。

 ルシが舌打ちする。

「見つかる」

 ジルは即座に判断した。

「撤退だ」

 ルシの眉が、わずかに上がる。

「でも、情報は」

「十分だ。今は持ち帰る」

 言葉にすると、迷いは消えた。

 レヴィを追うより、情報を残す。

 怪我人の証言もある。

 クロは黒燈へ伝令を届けた。

 ここで全員を相手にする理由はない。

「了解」

 ルシは短く答えた。

 返事に迷いはなかった。

 ただ、ジルが撤退を選んだことに、ほんの一瞬だけ目元が緩む。

 二人は来た道へ戻ろうとする。

 だが、その時、階段側に護衛が現れた。

 挟まれた。

 ジルの目が冷える。

「ルシ、右の通路」

「行ける?」

「俺が開ける」

「一人でやるなよ」

「分かっている」

 ルシの口元が、ごくわずかに持ち上がりかけた。

 ジルが一人で切り込まなかったことへの安堵が、そこに一瞬だけ出る。

 だが、すぐに情報屋の顔へ戻る。

 レヴィの声が広間へ響いた。

「いるんだろう、ジル」

 ジルは答えない。

 レヴィは笑った。

「逃げるのか? また?」

 ジルの足が止まりかける。

 逃げる。

 白い王都を捨てた夜から、何度も背へ投げられた言葉。

 ルシの声がすぐに届く。

「挑発だ」

「ああ」

「乗るな」

「分かっている」

 ジルは今度こそ止まらなかった。

 右の通路へ踏み込み、隠れていた護衛の懐へ入る。

 一撃。

 膝の外側を崩し、肩を石壁へ打ちつける。

 殺さない。

 だが、すぐには立ち上がれない角度で落とす。

 武器が床へ落ち、石の上で硬い音を立てた。

 ルシがその後ろを抜ける。

 クロが暗闇から飛び出し、ルシの肩へ乗った。荒い呼吸のまま、身体を慣れた位置へ収める。

「よし、戻ったな」

 ジルは振り返らないまま言う。

「無事か」

 ルシが即座に答えた。

「クロは無事。オレも無事」

「聞いていない」

「聞いてるだろ」

「黙れ」

 二人と一匹は地下通路を駆ける。

 背後から追手の足音が迫った。

 革靴と石床がぶつかる音。

 武器を抜く金属音。

 怒声。

 ジルは壁の古い支柱を見つけ、短剣で一点を突く。

 天井の一部が崩れ、追手との間へ瓦礫が落ちた。

 石と土が落ちる鈍い音が、地下通路へ短く反響する。

 ルシが目を見開いた。

「崩して大丈夫なのか?」

「支柱一本分なら持つ」

「それ、信じていいやつ?」

「走れ」

「はいはい!」

 彼らは温室の裏手へ出た。

 朝の冷たい空気が、熱を持った肌へ触れる。

 ジルはまず庭園の門の方を見る。

 カインとゼルが来ていた。
 
   クロの伝令が届いていたのだ。

 カインは三人の位置と背後の温室を一度に確認し、眉を寄せる。

「追われたか」

 ルシが息を整えながら答えた。

「情報は取れた。レヴィ、グレイル家分家、白弦商会名義の荷。あと、アルドリックからの指示」

 ゼルの表情が引き締まる。

「アルドリック本人の名で動いているんだね」

 ジルは短く答えた。

「ああ」

 カインの片目がジルへ向く。

「無理に踏み込まなかったのか」

 ジルは少し不機嫌そうに言う。

「情報を持ち帰る方が先だ」

 カインはわずかに目を細めた。

 それ以上、評価の言葉は置かない。

 ゼルが静かに微笑む。

「いい判断だ」

 ジルは答えなかった。

 隣で、ルシの口元が持ち上がりかける。

 ジルはそちらを見ずに言った。

「顔に出すな」

「まだ何も言ってない」

 ルシは笑っていた。

 けれど、その笑みは少し遅れて消える。

 言いたいことを、今は飲み込んだ顔だった。

 クロがルシの肩で小さく鳴いた。

「きゅう」

 その声を聞いて、ジルはようやく短く息を吐いた。

 任務は終わっていない。

 むしろ、敵の狙いははっきりした。

 白梟はくきょうは機密文書だけを追っているのではない。

 ジルが切り捨てにくくなったものを見つけ、そこから壊そうとしている。

 黒燈への不信。

 ルシの孤立。

 クロや店の者を使った揺さぶり。

 どれも、効かないとは言えない。

 効くからこそ、腹立たしかった。

 ルシが隣へ立つ。

「ジル」

「何だ」

「敵の狙い、かなり嫌な感じだったな」

「ああ」

 ルシは一度、廃庭園の方を振り返った。

 崩れた温室の向こうには、もうレヴィたちの姿は見えない。それでも、先ほど聞いた言葉だけは、まだ耳の奥に残っている。

 文書か、情報屋か。

 選ばせる。

「オレを理由に、また一人で動くなよ」

 ルシは笑わなかった。

 軽口に逃がせる言葉ではないと、分かっている顔だった。

 ジルの目が、わずかに細くなった。

「お前が決めることじゃない」

「知ってる。だから先に言ってる」

 ルシは笑わなかった。

「お前、揺れるかもしれない」

 ジルはルシを見る。

 ルシの赤みを帯びた目は、まっすぐこちらを見ていた。

 信じろとは言わない。

 疑うなとも。

「でも、揺れてもいいから言え。黙って消えるな」

 ルシの声は低い。

 縛る声ではない。

 ただ、消えられる前に届く場所へ置いた声だった。

 ジルは黙った。

 カインも、ゼルも言葉を挟まない。

 答えを決める時間だけが残される。

 遠くで、錆びた門が風を受けて鳴った。

 ジルは長く息を吐く。

「……努力する」

 ルシの目が少しだけ見開かれた。

 返事が、一拍遅れる。

 その一拍の間だけ、目元が柔らかくなった。

「今、努力するって言った?」

「撤回する」

「駄目。聞いた。クロも聞いた」

「きゅう!」

「お前は聞いていない」

 ジルはクロを睨む。

 だが、薄刃へ触れる時のような冷たさは、もう声に残っていなかった。

 ゼルが穏やかに言う。

「では、黒燈へ戻ろう。黒銀の仮札を持つ初仕事としては、十分すぎる成果だ」

 ジルは眉を寄せる。

「仮登録を強調するな」

 ルシが笑った。

「少なくとも、その札を持ってる間は、勝手に消えるなってことだろ」

「勝手に先を決めるな」

「嫌か?」

 ジルは答えなかった。

 懐に入れた黒銀の仮登録札へ、ほんの一瞬だけ手を触れる。

 冷たい金属の輪郭が、服越しに指へ返る。

 自分で入れた札。

 自分で返せる札。

 首輪かどうかは、まだ見極めている途中だ。

 ルシの視線が、その指先へ落ちた。

 目元が少しだけ柔らかくなる。

 けれど、何も言わない。

 今は、それでよかった。

 ジルはまだ、黒燈を居場所とは呼ばない。

 だが、敵がそこを壊そうとしていることには腹が立つ。

 ルシを孤立させ、自分に選ばせようとするやり方も。

 その怒りを何と呼ぶかは、まだ決めなくていい。

 廃庭園の奥で、白い紙が一枚、風に煽られて石畳を滑った。

 誰かが撒く噂は、きっとこの紙より軽く、刃より速く街へ流れる。

 月燈館げっとうかんへ。

 黒燈へ。

 ジルの名を知る者たちの耳へ。

 白梟はくきょうは、次に居場所を切りに来る。

 ジルはその紙片を踏まず、ただ見下ろした。

「戻るぞ」

 短く言う。

 ルシが頷く。

「ああ。戻って、先にこっちが拾う」

「何を」

「噂の出どころ」

 ジルはルシを見る。

 ルシはいつものように笑っていた。

 だが、目だけは笑っていない。

 ジルが拒まないと分かるまで、その笑みの奥にある硬さは消えなかった。

「情報屋だからな」

「便利に使うな」

「今回は便利に使えよ」

 ジルは答えなかった。

 拒絶もしない。

 歩き出す方向は、すでに同じだった。

 黒い王都の朝靄の奥で、遠く、荷馬車の車輪が軋む。

 その音を追うために、ジルは自分の足で黒燈へ戻っていった。
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