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第1部 魔族王都編
第14話 噂という刃
黒燈ギルドへ戻る道中、ジルはほとんど喋らなかった。
廃庭園で見たものが、まだ目の裏に残っている。
白弦商会の焼き印が入った木箱。
グレイル家分家筋の古い封蝋。
卓の向こうで薄く笑ったレヴィの白い袖口。
そして、白梟長からの指示。
黒燈を直接潰す必要はない。
内側から信用を揺さぶればいい。
その言葉だけが、刃より薄く、毒より静かに、ジルの頭の奥へ沈んでいた。
隣を歩くルシが、何かを言いかけた。
いつもの軽口でも挟むつもりだったのだろう。だが、わずかに開いた唇は、そのまま閉じられた。
聞き出そうともしない。
黙った理由を説明しろとも言わない。
ただ、いつもの歩幅で隣にいる。
クロも普段のようには騒がなかった。
ルシの肩へ身体を低く収め、長い耳を伏せている。時折、ジルの方へ鼻先を向けた。理由までは分からないはずだ。ただ、ジルとルシの間に張った硬い気配を、匂いのように拾っているらしい。
「きゅ」
ジルはそちらを見ないまま、声だけを落とした。
「静かにしていろ」
クロは耳を伏せたまま、ルシの肩へ顎を預けた。
隣から、ルシの小さな笑い声が聞こえた。
その笑いも長くは続かず、夜の湿った空気へ溶けていく。
ノクティルムの裏通りは、いつものように低い魔石灯を灯していた。石畳は夜露を含み、酒場の裏口から漏れる笑い声と、遠くで馬車が軋む音が重なる。
黒い街。
だが、白い王都の夜よりも、ここには人の熱があった。
酔客を追い出す店主の声。
夜明け前のパンを運ぶ荷車。
閉店後も椅子を片づける木の音。
ジルには関係のないはずの生活音。
それなのに、白い王都から伸びてきた手が、この黒い灯りを汚そうとしていることが気に障った。
自分を狙うだけなら、まだ分かる。
文書を探すことも。
逃亡者を連れ戻そうとすることも。
だが、黒燈を疑わせ、ルシを孤立させ、クロや月燈館の者まで秤へ載せる。
そのやり方は知っている。
守るため。
正すため。
必要だから。
白梟は、いつも整った言葉で、誰かを切り捨てる理由を作った。
ジルは胸の奥へ沈む硬いものを、怒りだとは認めたくなかった。
ただの警戒だ。
敵の手口への不快感だ。
そう片づけるには、黒い街の灯りが、もう少し近くなりすぎていた。
*
黒燈ギルドの地下へ戻ると、ダリウスはすでに報告を待っていた。
ギルド長室には、低い灯りが点っている。壁に掛けられた黒いランタンの光が、机の上へ広げられた地図と封書を静かに照らしていた。
扉は一つ。
窓はない。
机の奥にはダリウス。
右側に資料棚。
左の壁際には、押収品を一時的に置く保全卓。
ジルは部屋へ入ると同時に、いつものように位置を拾った。
ジル、ルシ、カイン、ゼルが中へ入る。
クロも当然のように続こうとして、扉の前でカインに止められた。
「クロは外だ」
「きゅう」
「駄目だ」
クロは不満そうに鳴いたあと、ジルを見上げる。
その視線へ任せるなと言うべきだった。
だが、待たせるなら、廊下の方が安全だ。
ジルは無表情で言った。
「外で待て」
「きゅ……」
クロはしぶしぶ扉脇へ伏せた。爪が石床を一度だけ鳴らし、そのあとは長い耳を室内へ向けたまま動かない。
ルシが声を潜めた。
「オレの言うことより聞いてる気がする」
「しつけの問題だ」
「まだ言うか」
ダリウスが咳払いをした。
短い音だけで、部屋の空気が引き締まる。
「報告を」
ルシが卓の上へ地図を広げた。
紙の端が木目を擦り、封蝋の写しがその上へ置かれる。
廃庭園の位置。
外壁の崩れた箇所。
排水溝から地下水路へ入る経路。
地下貯蔵庫。
温室。
そして、温室地下の会合場。
黒いランタンの灯りが、ひとつひとつを低く照らしていた。
ルシの指が、地図の上を正確に滑る。
「白弦商会の荷箱がありました。中身は表向きの香料じゃない。血のついた布、壊れた拘束具、貴族印の封蝋。グレイル家分家筋の紋に近いものも確認しています」
ゼルが静かに目を細めた。
「場所と名義を貸した貴族筋、白弦商会名義の荷、実働の白梟。分かりやすい分担だね」
「分かりやすすぎるくらいです」
ルシは封蝋の写しを指先で押さえた。
「隠すより、使い捨てる前提の痕跡に見えました」
カインが低く言う。
「囮か」
ジルは口を開いた。
「囮でもある。だが、会合は本物だった」
全員の視線がジルへ向く。
探る視線。
問いを待つ視線。
だが、誰も言葉を重ねなかった。
ジルは必要な分だけ報告する。
「レヴィがいた。《白梟ギルド》側の連絡役だ。白梟長の指示を伝えていた」
その名を口にした途端、左鎖骨の下へ、薄い冷気が触れた気がした。
痛みではない。
古い感覚が、名前に引かれて浮かんだだけだ。
ジルは呼吸を変えなかった。
ダリウスの目が細くなる。
「アルドリック。白梟の長か」
「ああ」
返答は短くした。
それ以上のものを、声へ乗せる必要はない。
ルシの視線が一度だけこちらへ向いた。
だが、アルドリックについて何も聞かなかった。
ゼルが静かに問う。
「指示の内容は?」
ルシが答えた。
「黒燈を直接潰す必要はない。ジルの信用を揺さぶれ、だそうです」
ダリウスは黙っている。
カインが低く続けた。
「噂を流すと言っていたな」
ジルは地図へ視線を落としたまま言う。
「黒燈が、俺の持つ機密文書を狙っているという噂だ」
黒いランタンの炎が揺れた。
灯りが一瞬だけ薄くなり、地図の線が沈む。
ゼルの声は穏やかだったが、目は鋭い。
「効果的だね」
ルシが顔を上げる。
「ゼルさん」
「ジルはまだ、文書の場所を明かしていない。黒燈も、それを承知したうえで仮登録を認めている。そこへ、黒燈が文書を奪おうとしているという噂を流されれば、ジルの不信を刺激できる」
カインが言う。
「同時に、黒燈の内部にも疑念が広がる。ジルが文書を持っているなら、なぜギルド長は預からないのか。ジルは本当にこちら側なのか。そういう声が出る」
ダリウスは机へ指を置いた。
「もう出ている可能性もある」
ルシの眉が動く。
「早すぎないですか」
「敵は昨日から動いている。廃庭園で聞いた内容は、すでに実行段階に入っていると見るべきだ」
ジルは黙っていた。
視線は地図へ落ちている。
だが、地図の線はもう見ていなかった。
白い回廊。
白い封蝋。
整えられた記録。
信じていたものが、いつの間にか刃の向きを変えていた場所。
最初から腐っていたわけではない。
だからこそ、気づくのが遅れた。
守るための記録が、誰かを消すための記録へ変わる。
正すための刃が、従わない者を切る刃へ変わる。
近くにいた者の手が、逃げ道を残す手から、逃げ道の位置を知る手へ変わる。
変わったあとも、言葉だけは同じだった。
ジルの指先が、懐へ入れた黒銀の仮札へ触れかける。
寸前で止めた。
首輪ではない。
少なくとも、今はまだ。
そう思おうとするほど、服越しに意識する金属の重みが気に障った。
ダリウスが言う。
「ジル」
ジルは顔を上げた。
「何だ」
「噂が流れれば、お前は疑うだろう」
部屋が静まり返る。
ルシがダリウスへ視線を向けた。
カインもゼルも、口を挟まない。
逃げ道を塞ぐ問いではなかった。
否定しろとも、信用を証明しろとも言われていない。
ただ、自分がどう動くかを問われている。
ジルはしばらく黙った。
やがて、短く答える。
「ああ」
ルシの目が、わずかに揺れた。
ジルは続ける。
「俺は文書の場所を明かしていない。お前たちがそれを狙っていないと証明するものもない。噂が流れれば、疑う可能性はある」
声は揺れなかった。
疑わないと嘘をつく方が簡単だった。
だが、綺麗な否定ほど、あとで自分の逃げ道を塞ぐ。
「だから、俺を信用するな」
ルシの表情から、笑みが消えた。
「それは違うだろ」
ジルが見る。
「何が」
「信用するな、じゃない。疑うかもしれないなら、そう言え」
「言ったところで何になる」
「なる」
ルシの声は低かった。
いつもの軽さがない。
「お前が黙って消えるよりは、ずっとましだ」
ジルの瞳がわずかに冷える。
「消える前提で話すな」
「前科がありそうな顔してるからな」
「適当なことを言うな」
「適当じゃない」
ルシは一歩だけ近づいた。
手を伸ばしても届かない。
だが、声を落としても届く距離。
出口までの線は塞いでいない。
「揺れるなら言え。疑うなら言え。黒燈が信じられないなら、それも言え」
「面倒な男だな」
「知ってる」
「俺が言うと思うのか」
「思ってない」
ルシは苦く笑った。
「だから、今から言ってる」
信じろとは言わない。
疑うなとも言わない。
ただ、消える前に言葉を残せと求めている。
それは命令よりも扱いづらかった。
命令なら拒める。
刃なら避けられる。
だが、選ぶ余地を残された言葉は、自分で答えなければならない。
ジルは低く息を吐いた。
「……消える前には言う」
ルシが目を丸くした。
「今、言うって言った?」
「撤回する」
「駄目。聞いた」
「忘れろ」
「無理」
扉の向こうで、黒銀札が金具へ小さく触れた。続いて、クロの声がする。
「きゅう!」
ジルは扉の方を睨む。
「お前には関係ない」
「きゅう」
ルシの肩が、小さく揺れた。
「声の調子が変わったから、気になったんだろ」
「内容まで分かったように言うな」
張っていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
それ以上、誰も「努力する」の意味を聞かなかった。
ダリウスが地図へ視線を戻す。
「噂への対処を決める」
全員の意識が卓へ戻った。
ダリウスは地図の端を指で押さえる。
「強く否定しすぎれば、逆に噂を育てる。こちらが文書へ強い関心を持っていると見られるからだ」
ゼルが頷く。
「流れを見る必要があります。どこで噂が生まれ、誰の口から広がるか」
「三つだな」
ルシが指を立てた。
「裏市場。貴族街の使用人筋。それと、月燈館周辺」
ジルの目が動く。
月燈館。
逃走中に身を隠した場所。
名を伏せ、客の視線を受け流し、黒い王都へ紛れた場所。
最初は、ただの隠れ蓑だった。
出入口が複数あり、客の秘密が多く、誰も他人の過去を深く問わない。
逃亡者には都合がよかった。
それだけだったはずだ。
だが今、白梟がそこを狙うと聞いて、先に浮かんだのは自分の安全ではない。
店員。
客。
ロアン。
自分を何者とも決めつけず、働かせた場所。
ジルの生活に近いところほど、噂は深く刺さる。
カインが低く言った。
「月燈館へ戻るのは危険だ」
「俺が戻らなければ、店の者が使われる」
ジルは即答した。
カインの片目が鋭くなる。
「またそれか」
「噂が流れるなら、店の周辺だ。俺がいなければ、白梟は店の者を使う」
「お前をおびき出すためにか」
「それもある」
ジルの声が低くなる。
「だが、あいつらは使えるものを使う。客でも、店員でも、過去に一度でも俺の近くにいた者なら」
ルシの目が少しだけ細くなった。
「ジル」
「何だ」
「怒ってる?」
「事実確認だ」
「いや、怒ってる顔だな」
「読むな」
「情報屋だからな」
「便利に使うな」
ダリウスが言った。
「ジルが月燈館へ戻るなら、ルシを同行させる」
カインの眉がわずかに動く。
「ルシを?」
「月燈館周辺の噂を拾えるのはルシだ。ジルだけでは、噂を止める前に本人が噂の中心になる」
ルシが軽く手を上げた。
「オレ、本人の意思確認されてないんですけど」
カインが即座に言う。
「行くな」
「兄貴、早い」
「危険だ」
「危険じゃない任務、黒燈にある?」
「減らせる危険は減らす」
ルシは肩をすくめた。
「ジルが一人で月燈館へ戻る方が危険だろ」
カインは答えなかった。
残った片目がジルからルシへ移り、また地図へ戻る。
否定の言葉は出ない。
ジルはルシを見る。
「ついてくるな」
「無理」
「足手まといなら置いていく」
「情報屋を足手まとい扱いするなって、何回言えばいい?」
「実績次第だ」
「じゃあ、今夜増やす」
「自信だけはあるな」
「情報屋だからな」
ゼルが静かに微笑んだ。
「二人で行くなら、クロを伝令につけよう。危険を見つけるためじゃなく、連絡を切らさないために」
ジルは扉の外を見る。
「毛玉に任せるには危ない」
「きゅう!」
抗議するような鳴き声が返ってきた。
ルシが笑う。
「本人、やる気だぞ」
「都合よく訳すな」
ダリウスは短く結論を出した。
「月燈館周辺は、ジルとルシ。クロを連絡役に置く。カインとゼルは別経路で裏市場と使用人筋を見る。無理に噂を潰すな。流れを拾え」
ジルは頷かなかった。
だが、反論もしない。
ダリウスも確認を重ねず、次の資料へ手を伸ばした。
決断を急かさない。
受けないなら、その場で言えという扱いだった。
ジルは懐の仮札へ触れず、地図の月燈館へ目を落とした。
*
報告と手当てが終わった頃には、地上の朝がすっかり動き出していた。
ダリウスは実働組を一度解散させ、食事と数時間の睡眠を命じた。再び集まった時、街には日が落ち、月燈館の赤い灯りが夜の路地へ滲み始めていた。
月燈館の灯りは、いつもより明るく見えた。
外から見れば、何も変わらない。
黒い王都の夜へ馴染む、上品な社交館。扉の向こうからは低い笑い声と、弦楽器の柔らかな音が漏れている。
香草煙の甘い匂い。
酒の香り。
絹の衣擦れ。
それらは、いつもの月燈館と変わらなかった。
だが、ジルは扉の前で足を止めた。
音が、少し違う。
笑い声が重なる位置。
会話が途切れる間。
入口へ意識が向けられる回数。
普段なら酒と相手に向いているはずの注意が、今夜は扉へ集まっている。
噂だ。
ルシの口元からも、いつもの笑みが消えていた。
「もう流れてるな」
「ああ」
「早い」
「白梟は、こういう仕事が得意だ」
「嫌な得意分野だな」
ジルは扉へ手をかける前に、袖口の薄刃を確かめた。
ルシが横目で見る。
「刃物沙汰にするなよ」
「向こう次第だ」
「今夜は噂を拾うだけ」
「客が死ななければな」
ルシの目が鋭くなる。
「何か感じる?」
「まだだ」
ジルは扉を開けた。
中の空気が、半拍遅れた。
低い笑い声が途切れる。
グラスが木の卓へ置かれ、底が小さく鳴った。
絹の衣擦れが止まる。
誰かの視線が、肩を少し越える銀髪から、外套の内側へ滑った。
腰の刃か。
懐へ隠した文書か。
あるいは黒銀の仮札か。
何があるのか分からないまま、そこに秘密があるという目だった。
露骨ではない。
視線を向けた者も、すぐに酒杯や隣の客へ顔を戻した。
だからこそ、噂がもう届いていると分かる。
ジルは顔色を変えず、店内へ入った。
ルシはいつもの軽さをまとい直し、少し遅れて隣へ立つ。
「人気者だな」
「黙れ」
「噂の中心って意味で」
「なお悪い」
奥から、月燈館の店主ロアンが姿を見せた。
落ち着いた男だった。
余計なことは聞かない。
必要な時だけ目を向け、客が踏み越えてはならない線だけを示す。
逃走中のジルへ仕事を与えた時も、過去を聞かなかった。
ロアンはジルを見ても、驚いた顔をしない。
「戻ったか」
「少し確認したいことがある」
「部屋を使うか」
「いや。客の流れを見る」
ロアンの目がわずかに細くなった。
「厄介事か」
「まだ分からない」
「分からない時点で厄介事だな」
ルシが小さく笑う。
「いい店主さんだな」
ジルは答えなかった。
ロアンは水の入った薄い杯を、ジルの手元ではなく、少し離れた卓の端へ置いた。
飲めとも言わない。
どこへ行っていたとも聞かない。
ただ、客席の奥へ一度だけ目を向ける。
「今夜は二階の赤い部屋に、少し声の大きい客がいる」
「名前は」
「オスカー」
ジルはルシと視線を交わす。
「商人か」
「香料と酒を扱う仲介商だ。最近、貴族街にも出入りしている」
ルシが低く言った。
「グレイル家筋か」
「そこまでは知らん」
ロアンは淡々としている。
「だが、さっきからジルの名を出している」
ジルの表情は変わらない。
店内で、自分の名が他人の口へ載せられている。
白梟にいた頃なら、名ではなく符牒で呼ばれた。
今は逆に、個人の名を噂の札として使われている。
「内容は」
「黒燈は元白梟の男を匿っている。そいつが持っている文書を、黒燈が狙っている。そういう話だ」
ルシの声が低くなる。
「噂そのものだな」
ロアンはジルを見た。
「出ていけとは言わない」
ジルの目が少し動く。
庇うとも言わない。
信じているとも。
ロアンは続けた。
「だが、店の中で客を殺すな」
「殺さない」
「ならいい」
それだけだった。
詮索しない。
責めもしない。
店から遠ざけて、自分だけ安全な位置へ下がることもしない。
ただ、自分の店で守る線を引く。
ジルはわずかに目を伏せた。
「助かる」
ロアンが少しだけ眉を上げた。
「珍しい言葉を聞いたな」
「忘れろ」
「難しいな」
隣でルシが息を漏らしかけた。
ジルが視線を向けると、口元を押さえて黙る。
その時、足元でクロが小さく鳴いた。
「きゅ」
ジルは下を見る。
クロの耳が、階段の方へ向いている。
鼻先がわずかに上がり、黒い毛並みが小さく膨らんでいた。
何があるのかを特定したわけではない。
だが、店の空気が沈んだ瞬間に、クロは階段へ反応した。
ルシもそちらへ視線を向ける。
「二階か」
「まだ上がるな」
「分かってる。先に下を拾う」
ルシは軽く肩をすくめると、酒を運ぶ店員へ自然な顔で声をかけた。
まるで以前からの知り合いのように笑い、酒や客の話から入る。視線は相手の顔だけではなく、手の止まり方や返事までの間を見ていた。
オスカーが誰と来たか。
いつからジルの名を出しているか。
どの酒を頼み、何を持ち込んだか。
問いを問いに見せず、拾っていく。
ジルは入口近くへ立ったまま、店内を見ていた。
視線。
声。
酒杯の置き方。
誰が名を出し、誰がそれに乗り、誰が聞き流しているふりをしているか。
白梟は、こういう空気を作るのが上手い。
誰かの罪を断言しない。
ただ、そうかもしれないと思わせる。
正しい記録ではなく、疑う理由だけを先に渡す。
それだけで、人は勝手に距離を取る。
情報を出さなくなる。
味方だった者が、保身のために黙る。
最後には、最初から孤立していたような形だけが残る。
ジルは胸の奥へ、冷えたものが沈むのを感じた。
懐の黒銀の仮札へ、指が一瞬だけ触れる。
黒燈の札。
自分で持ったもの。
自分で返せると説明されたもの。
首輪ではないと、まだ言い切れないもの。
疑いは消えていない。
廃庭園で聞いた噂だけでなく、こうして店内へ広がった視線まで見れば、なおさらだった。
ジルはすぐに手を離す。
自分の指が触れたという事実まで、誰かに読まれたくなかった。
その時、ルシが戻ってくる。
「オスカーは二階。連れは一人。途中で席を外したらしい。酒は店のものだけど、香を持ち込んでる」
「香」
「白弦商会の扱う品に似てるってさ」
ジルの目が細くなる。
香料。
隠すための匂い。
運ぶための名目。
白梟が別の匂いを覆う時にも使う。
「クロ」
「きゅ」
「黒燈へ戻れ。カインかゼルさんを呼べ」
クロは一度、ルシを見た。
ルシは懐から薄い伝令札を抜き、「月燈館、二階。応援」とだけ書きつけ、首輪脇の小さな伝令札入れへ収める。
続いて指が、首輪の黒銀の《黒燈登録札》をなぞった。ちり、と鳴る直前、ほんの一拍だけ止まる。
「無理するなよ。伝令だけでいい」
「裏口から出たら、寄り道するな。変な匂いがしても追うな」
黒銀札が金具へ戻る音に、クロは耳を立て、裏口へ顔を向けた。
「きゅ」
クロは給仕の足元を避け、店内の端を迷わず抜けて裏口へ消えた。短い爪音が、扉の向こうへ遠ざかる。
ルシはその音が聞こえなくなるまで見送ってから、ジルへ向き直る。
「上がる?」
「まだだ」
「まだ?」
「オスカーが噂を流しているだけなら、ここで押さえても意味がない。誰が切り捨てるかを見る」
ルシの表情が険しくなった。
「切り捨てる?」
「使い終わった噂流し役を、白梟が放っておくと思うか」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、二階から悲鳴が上がった。
短い悲鳴。
続いて、椅子が床へ倒れる音。
酒杯が割れ、硬い破片が散る。
店内のざわめきが、一気に恐慌へ変わりかける。
ジルはすでに階段へ向かっていた。
ルシも隣を走る。
「オスカーか」
「おそらく」
二階へ続く階段の途中で、甘い香が鼻を刺した。
花の匂い。
その底に、金属のような苦み。
ジルは足を止めない。
「毒だ」
ルシの目が鋭くなる。
「殺すためか?」
「違う」
ジルは短く答えた。
「量が中途半端だ。苦しませて、騒ぎを大きくするための毒だ」
「つまり」
「罪を着せるためだ」
赤い部屋の扉は半開きだった。
中では、男が床に倒れている。
オスカーだろう。
顔色は悪く、喉を押さえ、荒く息をしていた。
テーブルの上には酒杯が二つ。
片方だけが倒れ、濡れた跡が木目へ広がっている。
白弦商会のものに似た香入れが、わざとらしいほど卓の中央へ置かれていた。
窓は細く開いている。
床には白い紙片が一枚。
部屋の隅では、若い給仕が震えていた。
ジルは部屋へ入った瞬間に、それらの位置を拾う。
倒れたオスカー。
酒杯。
香入れ。
窓。
白い紙片。
逃げた連れ。
給仕の手には何もない。
出口は廊下と窓。
窓枠へ足をかけた痕は薄い。
逃走者は、窓を使っていない可能性が高い。
「ルシ」
「何」
「証拠を拾え。香入れ、酒杯、紙片、窓枠。触る前に位置を覚えろ」
「了解」
ルシの声から軽さが消えた。
すぐに香入れへ触れず、部屋の入口から全体を見る。
ジルは倒れたオスカーのそばへ膝をついた。
オスカーが濁った目でジルを見る。
唇が動く。
「お、まえ……が……」
ジルは冷たく返した。
「喋るな。死にたいなら別だが」
背後でルシが呟く。
「言い方」
「黙れ」
ジルはオスカーの首元と瞳孔を確認し、袖から細い針を抜く。
脈は速い。
喉が狭まり始めている。
だが、毒の回り方に対して量が足りない。
即死させる調合ではない。
なら、まだ間に合う。
白梟はオスカーを殺したいのではない。
少なくとも、最初から死なせるための量ではなかった。
欲しいのは、別の事実だ。
ジルがいた場所で。
ジルの名を噂していた客が。
毒に苦しみ、ジルを指さした。
それだけでいい。
元白梟のアサシン。
機密文書を持つ逃亡者。
黒燈に匿われている危険人物。
その噂へ、毒で倒れた客を添える。
客が助かっても構わない。
助かれば、本人の口から「ジルにやられた」と言わせられる。
死ねば、死人は否定しない。
どちらへ転んでも噂は育つ。
ジルは息を吐いた。
腹立たしいほど、白梟らしい。
「ジル」
ルシが呼んだ。
「逃げた連れ、窓からじゃない。廊下だ。足跡が二つ。香入れに細工あり」
「追うな」
「分かってる。今は証拠」
ジルはわずかに顔を上げた。
ルシは廊下へ飛び出していない。
逃げた人間を追えば、さらに情報を拾えるかもしれない。
だが、追跡より先に、ここに残った証拠と証人を保全している。
以前なら、止める前に走り出した可能性もある。
今は、自分が何を優先するかを分かったうえで残っていた。
「なら拾え」
「はいはい」
ジルは解毒薬の包みを開く。
「俺は客を死なせない」
ルシの動きが一瞬だけ止まった。
振り向いた口元に、短い笑みが浮かぶ。
緊張を軽くするための笑いとは、少し違って見えた。
「了解。相棒」
その呼び方を拒む言葉は、すぐには出なかった。
今は任務中だ。
互いに別の役割を持ち、同じ結果を残そうとしている。
ジルはオスカーの口元へ解毒用の薬を押し当てながら、低く返した。
「任務中だけだ」
「今、任務中だろ」
「調子に乗るな」
ルシはもう答えなかった。
香入れの位置を紙へ写し、白い紙片へ触れずに影と折れ方を確認する。酒杯の濡れ跡と、給仕の立っていた位置も拾っていた。
階下では、店のざわめきが膨らんでいる。
誰かが医師を呼べと叫ぶ。
ロアンの低い声が、客を下がらせていた。
外では、ノクティルムの夜が黒い灯りを揺らしている。
噂は、もう放たれた。
店へ入った瞬間の視線が、その証拠だった。
今からすべてを止めることはできない。
誰の耳にも入らなかったことにはできない。
だが、白梟の刃が深く刺さる前に、拾えるものはある。
位置。
匂い。
毒。
証人。
逃げた者の足跡。
そして、まだ生きている噂流し役。
ジルはオスカーの喉元へ指を当て、毒の回りを押さえながら静かに目を伏せた。
黙って消えない。
疑うなら言う。
揺れるなら、止まる前に知らせる。
そのどれも、上手くできるとは思えない。
努力すると口にしただけで、できるようになるわけでもない。
黒銀の仮札が、急に首輪でなくなるわけでもなかった。
それでも今は、逃げるより先にやることがある。
この客を死なせない。
白梟の噂へ、都合のいい死体を添えさせない。
オスカーの喉が、ひゅう、と嫌な音を立てた。
廊下から、複数の足音が近づいてくる。
黒燈の救援か。
店の者か。
あるいは、もう一度証拠を消しに来た敵か。
ジルは耳で距離を測りながら、針を構えた。
オスカーの呼吸。
喉の動き。
脈の速さ。
針を入れる角度を決める。
白梟の噂という刃は、すでに抜かれている。
だが、少なくとも今夜、その刃へ死体まで握らせるつもりはなかった。
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自分の才能を誰よりも信じ、欲しいものは自分の力で手に入れてきた美少年。
一度は離れた芸能界へ、未来は再び戻る。
ドラマ、映画、舞台。
そして、アイドル。
夢を追いかける中で、たくさんの人と出会い、たくさんの経験を重ね、未来は少しずつスターへの道を駆け上がっていく。
仕事なら、思い通りにできた。
努力すれば結果が出る。
才能があれば認められる。
夢を追えば、いつか叶えられる。
未来は、そう思っていた。
――恋をするまでは。
好きという気持ちだけは、自分の思い通りにならない。
誰を好きなのか。
誰と一緒にいたいのか。
そして、自分が本当に望んでいるものは何なのか。
成功していくほど、未来の心には答えの出せないものが増えていく。
これは、人気絶頂のアイドルが突然ステージを降りた「現在」と、
一人の天才少年が夢を追い、スターへと駆け上がっていく「過去」の物語。
過去を辿るほど、現在の未来へと近づいていく。
そして――
過去と現在が交わるとき、未来が休業を選んだ本当の理由が明らかになる。
呪われ薬師、最強の仲間たちと旅に出る~美味しそうだと思っているのは秘密です~
10年前、禁じられた呪術を執り行ったダークエルフの村が滅んだ。
「食らいなさい。死にたくなければ、食らい続けるの。」
生き残ったただひとりの少年が、アイザックだった。
時は流れ、アイザックは魔王城へ向かう旅に出る。人間化してしまったこの体を戻す薬を作るため、材料となる魔物を狩りに行くのだ。だが、戦闘のできない非力な人間になったアイザックひとりでは厳しい。
冒険者として登録し、パーティーメンバーを募ることにしたのだった。
0時更新
以前pixivで掲載していた『背徳gluttony』マオルートの加筆、完結版になります。
二章から腐ります。
三章から少しシリアス魔獣編。
ちゃんとハッピーエンドなのでご安心を。2026/4/21の投稿で完結予定。
2026/3/29 表紙画像 変更
登場人物
アイザック・スティール
今や人間の薬師。訳あって魔王城を目指す。
ジュアン・パインリブ
ギルドで暇を持て余す少年。まだまだ未熟な魔族。アイザックの最初のパーティーメンバー。
魔王ハーゲン(マオ)
次代の魔王。暇を持て余していたところ、アイザックたちに出会い、旅に同行する。
亡霊ハロ
災厄の魔女の弟子。アイザックの呪いや振る舞いに興味を持ち、パーティーに加わる。変態。
氷の王子先輩がお世話係(忠犬)になりました ー僕は戦う!君の未来を守るために‼︎ー
『第2回青春BLカップ』応援ありがとうございました!!
名家に生まれたが汚い子と蔑まれる春陽。
かつてヒーローを夢見る少年だったが、今は目立たないように生きていた。
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氷のように冷たい関係から始まる二人だけの部屋。
しかし、この最悪の出会いが、春陽の運命を大きく動かすことになる。
なぜ兄は、春陽を嫌う蒼月を推薦したのか。
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じれじれピュアラブ学園生活は待ったなし!?
犬猿の仲から始まると淡い恋の物語。
氷の王子と呼ばれる忠犬×ヒーローを夢見ていた男の子
無能と呼ばれた婚約者は王を完成させる〜替え玉婚約者のはずが、強すぎる王太子に手放してもらえません〜
兄の身代わりとして王太子の婚約者になった伯爵家次男リュシー。
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本物になりたいと願う替え玉と、完成された王太子の静謐な王宮ロマンス。
現在は王となったリオンとリュシーの関係を中心に、独占欲強めの溺愛が進行中。
『惚れ薬』が効きすぎるなんて、令和の時代にアリですか⁉
☆バレー部モテ男子 鵜飼虎太郎×平凡普通男子 花崎佑二☆
高校二年の花崎は、成績真ん中・運動そこそこ・平均身長の平凡男子。目立たずに教室の端に存在している。
しかしある日突然、バレー部のイケメン男子、鵜飼から「化学のノート、貸してくんない?」と声を掛けられた。
――ええ?なんで僕?
そう焦る花崎だが、それはだたの人間違いだった。
「化学が得意なのは隣のクラスの花菱くん。これは普通の花崎くん」
そんな風にクラスメイトに笑われてしまう。
目立たずに生きてきた花崎にとって、教室の中で恥をかかされたことはショックな出来事。
――鵜飼め‼ 覚えていろよ!
イライラがおさまらない花崎は、図書室で「中世魔女の妙薬レシピ」という怪しげな本を見つけ、「惚れ薬」を鵜飼に使うことを決意して…⁉
惚れ薬の効果なのか溺愛♥高校生活に突入!
花崎はバレーボールに汗を流す鵜飼の姿をカッコいいじゃん、と思い始めたけれど。
『惚れ薬』の効果がきれたら…?
☆第2回青春BL小説カップにエントリー作品です(*^^*)投票・お気に入り登録・♡などで応援いただけますと大変嬉しいです‼よろしくお願いいたします☆
不定期更新です💦スミマセン💦
失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが
魔王討伐の為の勇者召喚に巻き込まれた蕪木透。その勇者は苦い思い出のある高校時代の同級生井上朝陽だった。すれ違いから疎遠になった2人が異世界に召喚される話。当て馬的な女の子が出てきますしわりと性悪です。プチざまぁあり。途中主人公があまりいい目にあっていませんがハッピーエンドなので安心してください♪( ´θ`)同性婚ありな世界線です。※他サイトにも掲載あり


