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第1部 魔族王都編
第16話 文書保管庫の影
黒燈ギルドへ戻る頃には、ノクティルムの夜はさらに深くなっていた。
裏通りの魔石灯が低く揺れ、濡れた石畳へ黒い光を落としている。
赤い部屋に残っていた毒の匂いは、歩くうちに外套からほとんど消えた。代わりに黒燈ギルドの入口へ近づくほど、乾いた紙と封蝋、雨を吸った革の匂いが混じり始める。
ジルの指先にはまだ、オスカーの細い脈を繋ぎ止めていた感触が残っていた。
死体にされるはずだった男。
噂という刃を完成させるため、白梟が用意した終わり。
それを壊した。
だが、まだ終わってはいない。
毒で人を消す次は、紙で事実を消す。
白梟らしい順番だった。
黒燈ギルドの奥、ギルド長室には、すでに明かりが入っている。
扉を開けると、机の上へ王都中心部の地図が広げられていた。黒い木目の上に、貴族議会、行政棟、文書保管庫、周囲の裏道、水路、鐘楼が細かく書き込まれている。
その一角。
貴族議会に隣接する文書保管庫の周囲には、赤い印。
ダリウスが地図の前に立っていた。
カインは壁際で腕を組み、ゼルは机の端へ連絡符と封紙の写しを並べている。封紙が触れ合うたび、乾いた音が黒い卓へ落ちた。
クロは椅子の下から顔を出し、ジルを見るなり耳を立てる。
「きゅう」
「騒ぐな」
「きゅ」
クロは椅子の下から半歩だけ出て、立てた耳をそのままジルへ向けた。
ルシが横で小さく笑った。
「クロ、ジルが帰ってきて嬉しいってさ」
「都合よく訳すな」
「今のは分かりやすかっただろ」
「黙れ」
いつものやり取りで、部屋の空気がわずかに緩む。
けれど、地図の上に置かれた赤い印は、何も軽くしなかった。
ダリウスが低く言う。
「オスカーは生きている。月燈館側の協力で一時的に隠した。黒燈の手の者がついている」
「喋れるか」
ジルが問う。
「まだ無理だ。だが死なせはしない」
「ならいい」
それ以上は言わなかった。
生きているなら、証言も選択もまだ残る。
ジルの声が冷たく聞こえたのか、ルシがこちらを見た。だが、何も言わずに視線を地図へ戻す。
ゼルが連絡符の一枚を指先で押さえた。
小さな符が、低く震える。
「赤い部屋で捕らえた男が持っていたものだよ。表向きは香の納品記録。けれど、折り目と数字の並びを読み替えると、次の中継地点が出た」
ルシが地図を覗き込む。
「貴族議会の文書保管庫って、本気ですか」
「本気だ」
ダリウスは頷いた。
「グレイル家の印も確認された」
ジルは地図を見下ろす。
「文書保管庫には何がある」
ゼルが答える。
「王都貴族の契約書、土地所有記録、議会へ出す前の草案、資金監査の控え。表向きは行政文書だよ」
机の上で、封紙の写しが一枚ずれた。
「けれど、誰が誰に金を流し、どの名義で土地を動かし、どの棚から何が消えたかを見れば、別のものが見える」
「記録を並べ替えれば、人を潰せる情報ばかりだな」
ルシの声から軽さが消えていた。
ダリウスは机へ指を置く。
「白梟は、グレイル家筋を通して、ノクティルム側の内部文書も押さえようとしている」
ジルは目を細めた。
「二つを合わせる気か」
カインが短く頷く。
「白梟側の断片と、黒い王都側の貴族情報。両方を持てば、複数の勢力を脅せる」
「あるいは、王都同士を疑わせることもできるね」
ゼルが静かに続けた。
「証拠の出し方を操作されれば、どちらの王都にも火がつく」
ルシが小さく舌打ちする。
「ジルと文書を追うために、ノクティルム側の記録まで使う気か」
ジルは黙っていた。
オスカーの毒殺未遂。
白弦商会筋の香。
グレイル家の印。
文書保管庫。
白梟の手は、自分を追って黒い王都の奥へ入り込んでいる。
この街へ来なければ。
自分が別の場所へ逃げていれば。
そこまで考えたところで、ルシの声が割り込んだ。
「ジル」
「何だ」
「今、自分のせいだって顔した」
ジルは視線だけを向ける。
「勝手に読むな」
「顔に出てた」
「出ていない」
「出てた」
ルシの口調は軽い。
だが、赤みのある目は逸れなかった。
「敵が勝手に広げてるだけだ。お前がこの街を巻き込んだんじゃない」
ジルは答えなかった。
否定できる言葉も、受け入れる言葉も、すぐには出てこない。
ルシはそれ以上踏み込まず、地図へ視線を戻した。
答えを急かさない。
代わりにダリウスが、机へ置いた指をわずかに動かす。
「ルシの言う通りだ。白梟がグレイル家筋を使ってノクティルムの文書保管庫を狙っているなら、それは我々の問題でもある」
カインも続ける。
「お前一人の問題ではない」
ゼルが穏やかに言った。
「だから、今回は黒燈として動く」
黒燈として。
その言葉は、保護される側に回れという意味ではなかった。
黙って一人で片づけるなという線引き。
ジルはゆっくりと息を吐く。
「……分かった」
ルシが目を細めた。
「最近、“分かった”って言うの増えたな」
「黙れ」
「はいはい」
クロが足元で「きゅう」と鳴く。
ジルは見下ろした。
「お前も黙れ」
「きゅ」
クロは素直に口を閉じ、ジルの靴先へ尾を寄せた。
ダリウスは地図を指した。
「今夜、文書保管庫そのものへ踏み込むことはできない。警備隊と議会管理官の管轄だ。こちらが正面から動けば、逆にグレイル家へ口実を与える」
ルシが地図の裏路地を指す。
「なら、裏から見る。保管庫に直接入らず、出入りする文書や人間を追う」
「そうだ」
ダリウスは頷いた。
「ジル、ルシ。お前たちは保管庫周辺の外側を見ろ。白梟の手口が混ざっているなら、ジルが気づける。王都内の連絡経路はルシが読める」
カインが低く言う。
「俺は別方向から警戒する」
ゼルも地図の別地点を指した。
「私は議会管理官側へ接触して、表向きの記録を確認する。もちろん、黒燈の名は出さない」
ジルは地図を見ていた。
「罠だろうな」
「だろうね」
ルシが隣で言う。
「ジルが来ると読んでる。いや、来させたいんだろうな」
ジルは短く頷く。
「俺が文書保管庫へ忍び込めば、噂を補強できる」
ルシの眉間がわずかに寄った。
「元白梟のアサシンが、ノクティルムの公的文書を盗みに入った。そこへ黒燈の影。噂としては最悪、白梟としては最高だな」
「だから入らない」
ジルが静かに言った。
ルシがこちらを見る。
目がわずかに開いたあと、口元だけが緩む。
「お」
「何だ」
「いや。先に言ってくれて安心した」
「俺を何だと思っている」
「放っておくと一人で中に入る奴」
「……否定しきれないのが不快だ」
「そこは自覚あるんだな」
ジルはルシを睨んだ。
ダリウスの喉から、低い笑いが一度だけ落ちる。
「やることは決まったな。入るな。見る。追う。証拠を持ち帰る」
ジルは短く答えた。
「了解した」
ルシも続く。
「了解」
クロが元気よく鳴いた。
「きゅう!」
カインがクロを見る。
「クロは伝令待機だ」
「きゅう……」
「不満でも駄目だ」
ジルが低く言う。
「危険区域には連れていかない」
クロはジルを見上げた。
「きゅ」
ルシが小声でぼやく。
「オレよりジルの方が効くな……」
「日頃の行いだろ」
「そればっかりだな」
*
文書保管庫周辺は、ノクティルムの中でも空気が違っていた。
裏通りの猥雑さはない。
石造りの建物が整然と並び、魔石灯の光も明るい。貴族議会へ続く広場では、夜でも警備兵が巡回していた。
腰の鍵束が、歩幅に合わせて小さく鳴る。
通りを、貴族家の馬車が時折走り抜けた。
どこかの窓の奥からは、紙束を揃える乾いた音。
酒場の笑い声も、荷車の軋みも遠い。
ここにあるのは、記録を閉じ込めるための静けさだった。
その外周。
古い鐘楼の影に、ジルとルシは身を潜めている。
塔の石壁は夜気を含んで冷たい。足元には風で寄せられた落ち葉が薄く積もり、遠くから水路の流れる音が続いていた。
ルシが低い声で言う。
「正面警備は四人。巡回は八分間隔。裏口は管理官用と搬入口がひとつずつ」
ジルは目を細めた。
「屋根に一人いる」
「警備?」
「違う。白梟の見張りだ」
ルシの顔から軽さが消える。
「見えるのか」
「肩の角度と退路の取り方で分かる」
「相変わらず便利だな」
「便利扱いするな」
ジルは鐘楼の影から視線を動かした。
文書保管庫の屋根の端。
魔石灯の光が届かない境目に、薄い影が沈んでいる。
警備兵なら立たない位置だった。
裏口と搬入口を同時に見下ろせるうえ、背後には隣棟へ渡れる屋根がある。見つかった時の退路まで確保された場所。
白梟の実働員が好む立ち方だ。
「奴らも中へは入っていない。誰かを待っている」
「グレイル家か」
「あるいは、保管庫側の協力者」
二人はしばらく動かなかった。
夜風が鐘楼の陰へ入り込み、ルシの黒髪を揺らす。
最初は、ただ軽い男だと思っていた。
今も口は軽い。
だが、任務中の目は別だった。
街の音を聞き分け、人の流れを読み、何気ない扉の開閉から危険を拾う。刃を振るうわけではない。それでも、ジルが見ていない方向を埋めるには十分な目だった。
そこまで考えてから、ジルはわずかに眉を寄せる。
ルシが横目で見た。
「何?」
「何でもない」
「今、変な顔した」
「していない」
「した」
「黙れ」
「はいはい」
その時、文書保管庫の裏口が開いた。
痩せた中年の男がひとり、紙束を抱えて出てくる。
高価ではないが、丁寧に整えられた上着。
胸元には管理官用の小さな札。
護衛はいない。
紙束を抱える腕には、必要以上の力が入っていた。
逃げるために持ち出した者の抱え方ではない。
落とせば何かが終わると知っている者の手つき。
胸元の管理官札が、夜気に触れて小さく揺れる。
屋根の白梟見張りが、わずかに身を動かした。
ジルの声が低くなる。
「あいつだ」
「管理官?」
「文書を持ち出している」
「正規手続きじゃないな。夜に一人で出るのはおかしい」
管理官は広場ではなく、細い横道へ入った。
ルシが動こうとする。
ジルはその腕を掴んで止めた。
「屋根の見張りが先に動く」
言葉どおり、屋根の影が滑るように動き、管理官を追う。
ルシが小さく舌打ちした。
「監視付きか」
「逃がす気も、生かす気もないかもしれない」
「嫌な読みだな」
「白梟だ」
「納得したくないけど、納得した」
二人は距離を取り、管理官のあとを追った。
貴族街の裏道は狭く、左右の石壁が高い。昼間なら使用人や記録運びの者が通る道なのだろう。
夜更けの今は、足音が妙に響く。
管理官は何度も振り返りながら進んでいた。
罪を隠す者の怯え方。
同時に、背後から来る何かを恐れている足取りでもあった。
やがて、男は小さな橋へ向かう。
橋の下には古い水路。
黒い水が、魔石灯の光を細く揺らしている。
ルシが呟いた。
「また水路か」
ジルが淡々と返す。
「裏取引は水路を好む」
「最近、湿気と縁がありすぎる」
「文句を言うな」
「言うくらい許せ」
管理官が橋の下へ降りていく。
そこには、馬車が一台止まっていた。
御者台に座る男は、外套で顔を隠している。
そして馬車の脇には、白い外套の男。
レヴィだった。
ジルの指先が冷える。
短剣の柄へ触れるより先に、ルシが小声で言った。
「乗るなよ」
「分かっている」
「今の声、少し危なかった」
「黙れ」
レヴィは管理官から紙束を受け取る。
「これで全部か」
管理官は震える声で答えた。
「今夜持ち出せる分は……これだけです」
「グレイル家の命令は?」
「議会監査記録と、王族派貴族の資金移動記録を優先しろと……」
ルシの目が鋭くなる。
「かなり重要文書だ」
ジルは静かに頷いた。
レヴィは紙束を確認し、管理官へ小さな袋を投げる。
金属が触れ合う音。
金だ。
管理官はそれを受け取ろうとして、途中で手を止めた。
「約束では……これで、妻と娘は返すと」
レヴィは薄く笑う。
「約束は守る。お前が余計なことをしなければな」
管理官の顔から血の気が引いた。
隣で、ルシが小さく息を吐く。
「脅されてる方か」
「だが、文書は渡した」
「黒だけど、切り捨てるには早いな」
ジルはルシを見た。
声に同情はない。
だからといって、罪だけを見て切ろうともしていなかった。
家族を人質に取られた管理官。
罪はある。
だが、利用されてもいる。
白梟は、こういう者を最後に切る。
罪を着せ、記録を整え、口を閉ざさせる。
何度も見た。
その中には、自分が見過ごした者もいたのかもしれない。
ジルは低く言う。
「管理官は生かして捕る」
「同感」
その時、レヴィがふと顔を上げた。
「……いるな」
ジルの瞳が細くなる。
気づかれた。
レヴィの視線が、こちらの影へ向く。
「出てこい、ジル」
ルシが小さく舌打ちする。
ジルは動かなかった。
レヴィは笑う。
「隠れているつもりか。白梟で学んだ気配の殺し方を、白梟相手に使うとはな」
「安い挑発だ」
ジルは影の中から、声だけを返した。
「なら、安い挑発に乗るなよ、《銀羽》」
その呼び方だけが、水路の音の中で白く浮いた。
肩の奥が強張り、左鎖骨下が薄く冷える。
短剣の柄へ指が触れかけた。
その袖を、ルシの手が掴む。
強くはない。
引き戻しもしない。
ただ、そこにいると伝わる程度の力だった。
進むか止まるかは、ジルへ残されている。
レヴィは紙束を馬車の中へ投げ入れ、肩をすくめた。
「白梟長から伝言だ」
水路の音が、ひどく遠くなる。
レヴィは続ける。
「まだ間に合う。戻れ、ジル。お前は黒燈の札を持とうが、黒い灯りの下に立とうが、白梟の刃だ」
「白梟は相変わらずだな」
ジルの声は低い。
「人を刃にしか見ない」
レヴィの笑みが薄くなる。
「違うとでも?」
「ああ」
「では何だ」
ジルは影から一歩出た。
水路の魔石灯が、銀髪の端を淡く照らす。
名をつけてやる必要はない。
まして、白梟の者へ説明する義理もない。
「少なくとも、今お前に答える必要はない」
レヴィの目が冷えた。
その瞬間、御者台の男が馬を動かそうとする。
ルシが先に動いた。
袖口から細い針が飛び、馬車の車輪留めへ絡む。
金属が硬く鳴った。
車輪が半歩で止まり、馬が短く嘶く。
「悪いな。持ち逃げは困る」
レヴィが短剣を抜く。
ジルも刃を抜いた。
二本の刃がぶつかる。
高い音ではない。
水路の石壁へ吸われるような、短く硬い音。
レヴィの動きは速かった。
真正面から斬り込むのではなく、退路を残しながら斜めに入る。ジルの足を止め、御者に文書を逃がさせるための動きだ。
倒すことが目的ではない。
文書を運び出すまでの時間を作るつもりだった。
ジルも、それを読んでいる。
踏み込みは浅く。
刃を深く入れない。
レヴィの手首を狙いながら、視界の端で紙束と馬車の位置を追う。
「ルシ」
「分かってる」
ルシは管理官の肩を掴み、橋脚の陰へ引き込んだ。
その直後、屋根から降りてきた白梟の見張りが、管理官の背へ細い刃を投げる。
空気を裂く音。
ジルはレヴィの刃を受け流し、そのまま腕を返した。
投げ刃を弾く。
金属片が水路へ落ち、小さな水音を立てた。
管理官が膝から崩れる。
「な……なぜ」
「黙っていろ」
ジルは短く言う。
「死にたいなら別だが」
「言い方」
ルシが管理官を押さえながら呟いた。
「生きてるだけありがたいと思え」
「そういうとこだぞ、ジル」
「黙れ」
背後から、レヴィの笑い声が落ちた。
「罪人まで庇うのか。黒燈の真似事が板についてきたな」
「白梟の後始末をしているだけだ」
ジルの刃が、レヴィの袖を裂く。
白い布が闇へ舞った。
レヴィは舌打ちし、懐から小さな札を取り出す。
転移符。
ジルが踏み込む。
その一瞬、御者台の男が馬車の中から文書束を放った。
白い紙が視界いっぱいに散る。
乾いた紙音が重なり、水路の風に煽られた。
「右!」
ルシの声が飛ぶ。
ジルは考えず、身を捻った。
レヴィの刃が、頬の横を掠める。
熱が走り、薄く血が滲んだ。
ジルは構わず、散った紙束の中心へ刃を滑らせる。
切るためではない。
下から弾き上げ、風に持っていかれる前に動きを変えるため。
紙束が空中で崩れた。
ジルは数枚を掴む。
ルシも管理官を橋脚へ座らせると、飛び込んで別の束を押さえた。
だが、レヴィは一番薄い封筒だけを拾っている。
「全部は返さない」
レヴィは笑った。
「長は、お前がどこまで黒燈に預けるか、見ておられる」
「見物料にしては安いな」
ジルは刃を向ける。
レヴィの足元で、転移符が白く燃えた。
「また会おう、ジル。次は、その情報屋が隣にいない時に」
光が弾ける。
ジルは踏み込んだ。
だが、刃は白い残光を裂いただけだった。
レヴィの姿は消えている。
あとには、焦げた符の匂い。
水路の音が、遅れて戻ってきた。
馬車は止まっている。
御者は、カインに押さえ込まれていた。
いつの間にか橋の上から降り、男の腕を背後へ固定している。骨は折っていない。だが、逃げようとすれば肩が外れる角度だった。
「遅れたか」
「十分だ」
ジルは短く答える。
ゼルも反対側の路地から姿を見せた。
手には、細い封紙の写し。
「表向きの記録と食い違っている。今夜、管理官が外へ出る手続きは残っていない」
管理官は橋脚の下で震えていた。
「家族が……」
ルシが膝をつき、管理官と目線を合わせる。
「場所は?」
問いは短い。
責める響きも、慰める響きもなかった。
今、必要な情報だけを求める声。
管理官は唇を震わせる。
「古物商通りの裏……使われていない染物倉庫に……妻と娘が……」
カインの片目が動く。
ゼルが静かに頷いた。
「カイン」
「ああ」
カインは御者の腕を背へ回したまま、動きを封じる。
ゼルは手にしていた封紙の写しを内ポケットへ収めた。
右腕輪の刻線に、暗い藍紫の光が灯る。
手首のすぐ上へ薄い術式輪が低く水平に浮かび、銀筆が外環を半目盛りだけ回した。
対象は一人。
両手首。
拘束具を掛けるまでの一拍だけ、皮膚へ食い込まない強さで止める。
目盛りが噛み合うと、術式輪は右腕輪へ沈んだ。
次の瞬間、ゼルの指先から暗い藍紫の《影糸》がほどける。糸の内側を走る青紫の光が、御者の両手首をまとめた。
きつくはない。
だが、逃れようと力を入れれば、その動きだけを拾って張る。
御者の身体が止まった一拍で、カインが両手首へ黒銀の拘束札を打つ。
留め具が、硬い音を立てて閉じた。
物理拘束が固定されたのを確かめ、ゼルの《影糸》は手首からほどける。暗い藍紫の線は指先へ戻り、そのまま消えた。
「ルシ、ジル」
カインが言う。
「管理官と御者を連れて戻れ。俺たちは人質救出に向かう」
ルシが即座に答えた。
「了解」
ゼルはジルへ視線を向ける。
「文書を持ち帰って。今回の証拠は大きい」
ジルは頷いた。
「分かった」
ゼルの口元がわずかに緩む。
「また増えたね」
「何が」
「“分かった”の回数」
ルシが横で吹き出した。
「数えられてるぞ」
「最悪だ」
ジルは眉を寄せ、確保した文書を外套の内側へしまう。
そこに、自分が持ち出した機密文書はない。
あれは、まだ隠したままだ。
話す条件も、預ける条件も決めていない。
だが、今夜確保した文書は違う。
黒燈へ持ち帰り、保全卓へ置くためのものだった。
以前なら、必要な部分だけを自分で抜き、残りの所在を伏せたかもしれない。
今は、最初から持ち帰るつもりでいる。
完全に信用したわけではない。
ただ、任せる情報が増えている。
ジルは無意識に、懐の黒銀の札へ触れた。
ルシの視線が、その手元へ一度だけ落ちる。
だが、指摘はしなかった。
「行こう、ジル」
ジルは冷たい目を向ける。
「何だ、その間は」
「いや。名前で呼んだだけだろ」
「いつも呼んでいる」
「今のはちょっと違った」
「違わない」
「はいはい」
ルシは管理官を立たせた。
管理官の膝は、まだ震えている。
文書を盗み出した手で、今は家族の名を握りしめていた。
ジルはその顔を見て、短く言う。
「死ぬな」
管理官が息を呑む。
「お前には話すことがある」
優しい言葉ではない。
だが、死なせる気もなかった。
背後では、カインとゼルが染物倉庫の方角へ向かっている。
カインの足音が低く石を踏み、ゼルの長い影がその左側へ重なる。
二人の姿は、すぐに路地の奥へ消えた。
レヴィは逃げた。
重要な封筒も、すべては取り戻せていない。
だが、管理官は生きている。
文書の一部も、ここにある。
家族の居場所も分かった。
白梟が整えようとした記録は、またひとつ崩れた。
ルシが管理官の歩幅を確かめながら、隣を歩く。
しばらくして、低く言った。
「ジル」
「何だ」
「さっき、よく止まったな」
「何の話だ」
「レヴィの挑発」
「乗る価値がなかっただけだ」
「そういうことにしとく」
ルシは、それ以上追及しなかった。
水路沿いの夜風が、頬の傷を冷やす。
痛みは浅い。
だが、レヴィの言葉は浅くない。
その情報屋が隣にいない時に。
こちらがルシを切り離せば、ジルを揺らせると思っている。
白梟は、また人を役割と弱点へ置き換える。
ルシは前を見たまま言った。
「オレは、お前の主じゃない」
ジルの足が、ほんの一瞬だけ遅れる。
「当然だ」
「うん」
「分かっているなら言うな」
「言っときたかった」
ルシは笑わなかった。
歩幅も変えない。
ジルの前へ回り込まず、逃げ道を塞ぐように近づきもしなかった。
「オレは、お前が黙って消えそうになったら止める。けど、どこに立つかはお前が決めろ」
重い誓いではない。
甘い言葉でもない。
それでも、その言葉はジルの進む方向を決めなかった。
引き戻しも、押し出しもしない。
選ぶ余地だけを残す。
白梟では、与えられなかったもの。
「……お前は、本当に面倒な男だ」
ルシの口元へ、ようやく笑みが戻る。
「それ、今日もいただきました」
「喜ぶな」
「無理」
ジルは深く息を吐いた。
前方には、黒燈ギルドの黒い灯りが待っている。
白梟の噂はまだ消えていない。
レヴィは逃げた。
文書の一部も奪われた。
それでも今夜、死体にされるはずだった者が、またひとり生きている。
ジルは管理官の背を見る。
罪のある者。
けれど、まだ声を残せる者。
白梟なら切り捨てただろう。
黒燈は、どう扱うのか。
まだ見極める必要はある。
だが、そのために戻る方向を選んでいるのは、ジル自身だった。
逃げるためではない。
白い記録の棚からこぼれ落ちた声を、黒い灯りの下まで持ち帰るために。
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氷のように冷たい関係から始まる二人だけの部屋。
しかし、この最悪の出会いが、春陽の運命を大きく動かすことになる。
なぜ兄は、春陽を嫌う蒼月を推薦したのか。
家の呪縛と兄の影から、春陽は抜け出すことができるのか。
じれじれピュアラブ学園生活は待ったなし!?
犬猿の仲から始まると淡い恋の物語。
氷の王子と呼ばれる忠犬×ヒーローを夢見ていた男の子
無能と呼ばれた婚約者は王を完成させる〜替え玉婚約者のはずが、強すぎる王太子に手放してもらえません〜
兄の身代わりとして王太子の婚約者になった伯爵家次男リュシー。
嘘の名を名乗ったはずが、冷静で誠実な王太子リオンは彼を「力の装置」としてではなく、対等な伴侶として扱おうとする。
本物になりたいと願う替え玉と、完成された王太子の静謐な王宮ロマンス。
現在は王となったリオンとリュシーの関係を中心に、独占欲強めの溺愛が進行中。
『惚れ薬』が効きすぎるなんて、令和の時代にアリですか⁉
☆バレー部モテ男子 鵜飼虎太郎×平凡普通男子 花崎佑二☆
高校二年の花崎は、成績真ん中・運動そこそこ・平均身長の平凡男子。目立たずに教室の端に存在している。
しかしある日突然、バレー部のイケメン男子、鵜飼から「化学のノート、貸してくんない?」と声を掛けられた。
――ええ?なんで僕?
そう焦る花崎だが、それはだたの人間違いだった。
「化学が得意なのは隣のクラスの花菱くん。これは普通の花崎くん」
そんな風にクラスメイトに笑われてしまう。
目立たずに生きてきた花崎にとって、教室の中で恥をかかされたことはショックな出来事。
――鵜飼め‼ 覚えていろよ!
イライラがおさまらない花崎は、図書室で「中世魔女の妙薬レシピ」という怪しげな本を見つけ、「惚れ薬」を鵜飼に使うことを決意して…⁉
惚れ薬の効果なのか溺愛♥高校生活に突入!
花崎はバレーボールに汗を流す鵜飼の姿をカッコいいじゃん、と思い始めたけれど。
『惚れ薬』の効果がきれたら…?
☆第2回青春BL小説カップにエントリー作品です(*^^*)投票・お気に入り登録・♡などで応援いただけますと大変嬉しいです‼よろしくお願いいたします☆
不定期更新です💦スミマセン💦
失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが
魔王討伐の為の勇者召喚に巻き込まれた蕪木透。その勇者は苦い思い出のある高校時代の同級生井上朝陽だった。すれ違いから疎遠になった2人が異世界に召喚される話。当て馬的な女の子が出てきますしわりと性悪です。プチざまぁあり。途中主人公があまりいい目にあっていませんがハッピーエンドなので安心してください♪( ´θ`)同性婚ありな世界線です。※他サイトにも掲載あり


