銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第20話 夜明け前の仮眠



 作戦室を出る頃には、地下の魔石灯も夜更けの明るさへ落ちていた。

 廊下の石壁には、四人と一匹の影が低く伸びている。

 ルシの足取りは、普段よりわずかに遅い。

 笑えば隠せる程度の違いだったが、地図を畳んでいた指も、一度だけ動きを止めていた。

 少し前を歩くカインも、残った片目を何度か細めている。ゼルは銀筆をしまったあと、魔力疲労を散らすように指先を静かに握り直した。

 誰も疲れを口にはしない。

 だが、判断の遅れは目元や手へ出る。

 ジル自身も例外ではなかった。

 傷は塞がり始めている。

 それでも肩の奥には、何日も監視と照合を重ねた鈍い重さが残り、指先からは紙と封じ布を扱い続けた乾いた感覚が抜けていない。

 慈善夜会は、明日の夜。

 その疲れを抱えたまま入れば、白梟はくきょうの用意した盤面へ自分から足を置くことになる。

 廊下の分岐へ差しかかった時、背後からダリウスの低い声が落ちた。

「全員、仮眠を取れ」

 足音が止まる。

 ルシが振り返り、わざと軽く肩をすくめた。

「ギルド長、今から寝ろって? 明日の夜会、なかなか性格悪い相手が待ってるんだけど」

「だから寝ろ」

 短い返答だった。

 石壁に声が沈む。

「疲労したまま入れば、罠に気づく前に判断が鈍る。白梟はくきょう相手に、それを許すほど余裕はない」

 ジルは黙っていた。

 正しい。

 正しいから、余計に口を挟みにくい。

 白梟はくきょうでは、疲労は報告するものではなかった。動けるなら動く。刃が折れるまでは任務の内側にいる。そう教えられたわけではない。ただ、そういうものとして身体に残っている。

「俺は必要ない」

 言った瞬間、ルシがこちらを見た。

 カインも、片目を細める。

 ダリウスの表情は変わらなかった。

「必要かどうかを、お前一人で決めるな」

 低い声だった。

 責める響きではない。

 だが、退かない声でもあった。

「黒燈は、使い潰した刃を誇らん。明日の夜、必要なのは動ける人員だ。倒れるまで動いた者ではない」

 ジルの指が、外套の内側で止まる。

 黒銀の仮登録札がある場所へ触れかけて、やめた。

 ルシが小さく息を吐く。

「ほら、ジル。ギルド長公認で寝ろってさ」

「お前もだ」

 ジルが返すと、ルシは目を丸くした。

「え、オレ?」

「足取りが遅い」

「見てた?」

「見なくても分かる」

「それ、ちょっと怖いんだけど」

「情報屋が気づかれて困る動きをするな」

「はいはい。戦力管理ね」

「そうだ」

「便利な言葉だなあ」

 ルシは笑った。

 だが、いつもの軽さほどは弾まない。笑い終えた後の息が、少し深い。

 カインが低く言う。

「ルシ、お前も寝ろ」

「兄貴まで」

「目元に出ている」

「兄弟で見る場所が細かい」

「お前は疲れている時ほど喋る」

「それ、悪口?」

「事実だ」

 ゼルが銀筆を懐へしまい直しながら、静かに頷いた。

「私も少し休むよ。指先の震えが残っている。術式を見るには、いまのままだと精度が落ちる」

 その言葉に、カインがわずかにゼルを見る。

「先に言え」

「言うほどではないと思っていた」

「言うことだ」

「うん。次からは先に言う」

 短い会話だった。

 叱責でも、甘さでもない。

 補うための確認。

 ジルはその横顔を見て、視線を外した。

 白梟はくきょうなら、弱い部分は隠す。

 弱みを見せれば、誰かがそこを管理する。あるいは利用する。

 黒燈では、疲労を申告することが作戦の一部になるらしい。

 面倒な組織だ。

 そう思うのに、悪くはない。

「部屋は空けてある」

 ダリウスが言った。

「実働員用の仮眠室を使え。先に食堂で温かいものだけ腹へ入れろ。そのあと二刻休め。本食は起きてからだ」

「二刻だけ?」

 ルシが顔をしかめる。

「明日の準備を考えれば十分だ」

「短いなあ」

「足りない分は、起きてから香草茶で誤魔化せ」

「黒燈式、けっこう雑」

「文句を言う体力があるなら歩け」

「はいはい」

 廊下の足元で、クロが小さく鳴いた。

「きゅう」

 ジルの外套の裾を、くい、と咥える。

「引くな」

「きゅ」

「仮眠室はそっちじゃない」

「きゅう」

 クロはもう一度、裾を引いた。


 向かう先は食堂側の廊下だった。

 ルシが笑う。

「先に何か飲ませる気だな。クロ、優秀」

「都合よく訳すな」

「でも合ってるだろ。寝る前に温かいもの飲んだ方が寝やすい」

「必要ない」

「出た」

 ルシが隣に並ぶ。

 近すぎない。

 けれど、クロが間にいるせいで、離れる理由も作りにくい距離だった。

「ジル」

「何だ」

「明日、自分で選んだ足で行くんだろ」

 ジルは返事をしなかった。

 ルシは続ける。

「なら、その足を今休ませるのも、お前の判断に入れとけ」

 軽い声だった。

 だが、内容は軽くない。

 ジルは足元のクロを見る。

 黒い毛玉は、外套の裾を咥えたまま、期待するように耳を立てていた。首輪の黒銀札が、廊下の灯りを受けて小さく光る。

「……食堂までだ」

「お、譲歩」

「仮眠前の補給だ」

「はいはい、任務前の補給ね」

「笑うな」

「笑ってない」

「顔が笑っている」

「じゃあ、ちょっとだけ」

 ルシの笑い声が、夜更けの廊下へ低く落ちた。

 カインの足音が後ろで重く続き、ゼルの歩幅がその左側へ自然に重なる。クロの爪が石床を小さく叩き、黒銀札が、ちり、と鳴る。

 白梟はくきょうの手は、明日の夜も伸びてくる。

 だが今は、黒い灯りの下にいる。

 休めという言葉は、作戦上の命令だった。

 それでも、所有するためでも、使い潰すためでもない。

 明日の任務へ動ける状態で立たせ、生きて戻すために休めと言われる場所。

 ジルはそれを、まだ居場所とは呼ばない。

 ただ、外套の裾を咥えるクロを振り払わず、食堂へ向かう足を止めなかった。

     *

 夜更けの食堂には、まだ灯りが残っていた。

 大きな鍋は火から下ろされている。それでも、蓋の隙間から香草と肉の匂いが薄く漏れ、石造りの部屋へ温かさを広げていた。壁際の棚には焼き直した黒麦パンが置かれ、茶器の横では、湯気の細い香草茶が待っている。

 食堂番の年配の女が、こちらを見るなり無言で椀を並べた。

「寝る前に重いものは出さないよ。飲めるだけ飲んで、食べられるだけ食べな」

「ありがと」

 ルシが軽く手を上げる。

 ジルは返事をしないまま、出口の見える端の席を選んだ。

 背後に壁。

 右に通路。

 左には、クロが先に椅子へ飛び乗ろうとして失敗し、前足だけを座面へ掛けている。

「乗るな」

「きゅう」

「乗れないなら諦めろ」

「きゅ……」

 ルシが横から抱き上げる。

「はいはい、毛玉様専用席」

「甘やかすな」

「じゃあ、床で踏まれるかもしれない場所に置く?」

 ジルは黙った。

 クロはルシの腕から当然のようにジルの隣へ下ろされ、椅子の上で丸くなる。尾が座面から少しはみ出し、黒銀札が椅子の縁へ触れて小さく鳴った。

 ちり。

 音が、食堂の静けさへ落ちる。

 ジルはその音を聞きながら、椀を見下ろした。

 澄んだスープに、刻んだ香草と小さな肉片。匂いは強くない。疲れた身体でも受け付けるように、塩気も油も抑えてある。

「食え」

 カインが短く言った。

「命令か」

「確認だ」

「似ている」

「違う」

 ゼルが向かいに座り、椀を両手で包んだ。

「ここでは、食事も作戦準備だよ」

「便利な言い方だな」

「君もよく使うだろう?」

「使っていない」

 ルシがすかさず口を挟む。

「戦力管理、任務前の補給、毛玉の管理。今日だけで三つは聞いた」

「数えるな」

「情報屋だからな」

「うるさい」

 言い返しながら、ジルは匙を取った。

 温かいスープが喉を通る。

 熱すぎない。

 薬草ほど苦くもない。

 腹に落ちて、そこでようやく、自分が空腹だったことに気づく。

 不快だった。

 気づかなかったことが、不快だった。

 白梟はくきょう時代なら、それでも任務が終わるまでは無視した。身体は使うものだった。整えるものではない。

 けれど、黒燈の食堂では、黙っていても椀が出てくる。

 食べろと言われる。

 寝ろと言われる。

 それは鎖ではない。

 だが、慣れない。

「味、変か?」

 ルシが聞いた。

「普通だ」

「普通は褒め言葉?」

「食べられる」

「ジル式だと高評価だな」

「勝手に訳すな」

「クロ、今の高評価だぞ」

「きゅう」

「お前も返事をするな」

 クロは椅子の上で丸くなったまま、満足そうに目を細めている。

 好きな匂いが近くにあると、尾の動きが柔らかくなる。

 ルシの匂い。

 ジルの薬草と紙埃の匂い。

 食堂の香草茶。

 黒燈の石壁に染みついた灯りの匂い。

 クロには、それで十分らしい。

 ゼルが香草茶を一口飲み、ゆっくり息を吐いた。

「夜会では、術式具の匂いが混ざるだろうね。香料で隠すだろうけれど」

「貴族の夜会なら、香料は多い」

 ジルが答える。

「白梟はくきょうが紛れるには都合がいい。血の匂いも、金属の匂いも、香木で薄められる」

「嫌な場所だな」

 ルシが椀を置く。

「だが、向こうが慣れた場所でもある」

 カインが言った。

「人が多い。音も多い。見られていると思え」

「分かってるって」

「お前は分かっている時ほど余計なことをする」

「それさっきも聞いた」

「何度でも言う」

「兄貴、心配性」

「経験だ」

 ゼルが笑う。

「カインが同じことを何度も言う時は、本当に危険な時だよ」

「ゼルさんまで」

「私も経験で言っている」

 ルシは降参するように両手を上げた。

「はいはい。無茶しません。深追いしません。捕まりません。ジルを一人にしません」

 最後の言葉で、ジルの手が止まる。

「勝手に足すな」

「必要事項だろ」

「俺は一人で動ける」

「知ってる」

 ルシの返事は早かった。

「でも、向こうはお前を一人にしたがる。だから一人にしない」

 所有の言葉ではなかった。

 守ってやる、でもない。

 作戦上の判断のように言っている。

 ジルが普段使う言い訳に、少し似ていた。

「……足を引っ張るな」

「了解」

「前にも出すぎるな」

「それは状況次第」

「おい」

「情報屋だからな」

「便利に使うな」

「お互い様だろ」

 ルシが笑う。

 ジルは返さなかった。

 否定する言葉が、少し遅れたからだ。

 その遅れを、ルシは見逃さなかったらしい。

 だが、何も言わない。

 何も言わず、香草茶を飲む。

 湯気の向こうで、赤銅の目が少しだけ柔らかく見えた。

 クロが椅子の上で寝返りを打つ。

 太い尾がジルの外套へ触れた。

「邪魔だ」

「きゅ……」

「寝るなら落ちるな」

「きゅう」

「返事だけはいい」

 ルシが小さく笑った。

「ジル、もう完全にクロの世話係だな」

「任務前の伝令獣管理だ」

「出た、四つ目」

「数えるな」

「情報屋――」

「黙れ」

「はいはい」

 食堂番が空になった椀を下げ、代わりに小さな包みを置いた。

「仮眠室へ持っていきな。目が覚めたら食べる用だよ」

 黒麦パンと干し果実。

 包み紙には、黒燈の簡素な印が押されている。

 ジルはそれを見下ろす。

「……準備がいいな」

「ここで倒れられる方が面倒だからね」

 女はあっさり言った。

「黒燈の連中は、放っておくと飯も寝床も削る。だからこっちが先に置くんだよ」

 ジルは何も言えなかった。

 カインが短く頷く。

「行くぞ」

 ゼルは椀を置き、指先を軽く開閉した。

「少し温まった。これなら眠れそうだ」

「無理に寝ようとするな。目を閉じろ」

 カインが言う。

「君もね」

「ああ」

 短い応酬。

 ゼルの視線が、カインの左側へ一瞬だけ落ちる。

 補うことと、縛ることは違う。

 ジルはその二人を見ながら、なぜかそう思った。

 誰かの弱い場所を知ること。

 その位置へ立つこと。

 逃げ道を奪うこと。

 それらは、似ているようで同じではない。

 白梟はくきょうでは、その境目がいつの間にか消えていた。

 黒燈では、まだ線が残っている。

 少なくとも、ジルにはそう見えた。

     *

 仮眠室は、食堂から廊下を二つ曲がった先にあった。

 厚い木の扉。

 内側には、低い寝台がいくつか並んでいる。任務帰りの実働員が短時間だけ身体を休めるための部屋らしく、余計な装飾はない。けれど、布は清潔で、壁際には水差しと灯りを落とした魔石灯が置かれていた。

 窓はない。

 地下だから当然だ。

 その代わり、扉の留め金は内側から簡単に外せる作りになっている。閉じ込めるための部屋ではない。

 ジルは最初にそれを確認した。

 ルシが横で言う。

「出口確認、完了?」

「黙れ」

「はいはい」

 カインは奥の寝台を選び、外套を畳んで横になる。ゼルはその左側に自然と座り、銀筆を細い保護筒へ戻して枕元へ置いた。

 ルシは入口に近い寝台へ腰を下ろす。

 ジルはその向かい、壁に背を預けられる位置を選んだ。

「寝る気ある?」

 ルシが聞く。

「ある」

「その座り方で?」

「目は閉じる」

「器用だな」

「お前も寝ろ」

「はいはい」

 ルシは外套を丸め、枕代わりにした。

 疲れているのは本当だったらしい。

 横になると、軽口の数が減る。

 クロはしばらく部屋の中を歩き回り、全員の位置を確認していた。

 カインの寝台の下。

 ゼルの足元。

 ルシの寝台の横。

 最後に、ジルの前へ来る。

「ここは寝床じゃない」

「きゅう」

「聞け」

「きゅ」

 クロはジルの膝へ前足をかけようとした。

「乗るな」

「きゅ……」

「重い」

「三キロしかないだろ」

 ルシの声が寝台から飛んでくる。

「寝ろ」

「今のは突っ込むところだろ」

「寝ろ」

「はいはい」

 クロは諦めたように膝から下り、ジルとルシの寝台の間で丸くなった。

 ちょうど二人の間。

 黒い尾を身体へ巻き、長い耳を伏せる。


 数呼吸もしないうちに、小さな寝息が聞こえ始めた。

 ジルはそれを見下ろす。

「勝手な毛玉だ」

「安心してるんだろ」

 ルシは目を閉じたまま言った。

「好きな匂いが近いから」

「都合よく訳すな」

「これはたぶん合ってる」

「寝ろ」

「はいはい」

 短い沈黙。

 魔石灯の低い音が、壁の内側から小さく響いている。火ではない。けれど、灯りがある音だった。

 ジルは壁へ背を預けたまま、目を閉じる。

 眠れるとは思わなかった。

 夜会の見取り図。

 旧迎賓館の馬車寄せ。

 厨房口。

 裏手の水路。

 白梟はくきょうの刃。

 ラザロ・グレイル。

 機密文書。

 引き渡し。

 自分を荷札のように数える声。

 思考は止まらない。

 それでも、扉の外には黒燈の気配がある。

 食堂の温かい匂いが残っている。

 足元にはクロがいる。

 向かいには、ルシの浅い寝息があった。

 規則正しい。

 少し疲れている。

 けれど、まだ乱れてはいない。

 ジルは薄く目を開けた。

 ルシは横を向き、片腕を枕の下へ入れて眠っている。右腕の包帯は、もう細い。指先には、地図と短札を扱い続けた跡が残っていた。

 情報屋の手。

 刃を握る手ではない。

 だが、必要な時に一拍を作る手。

 白梟はくきょうの記録では、そういう手は残らない。

 誰が誰の視線を逸らしたか。

 誰が逃げ道を残したか。

 誰が隣に立ったか。

 そういうものは、整えられた記録には書かれない。

 黒燈は、それを見ている。

 少なくとも、ルシは見ている。

「見る対象だろ。情報屋」

 自分で言った言葉を思い出し、ジルは眉を寄せた。

 余計なことを言った。

 だが、撤回する気にもなれなかった。

 クロが寝返りを打ち、ジルの靴先へ背を押しつける。

「きゅ……」

 夢の中の声らしい。

 ジルはため息をつき、外套の裾を少しだけ引いて、クロの背へ掛けた。

 寒くないように。

 それだけだ。

 それだけのつもりだった。

 向かいの寝台から、低い声がした。

「見てない」

 ルシだった。

 目は閉じたまま。

 ジルの手が止まる。

「寝ろ」

「寝てる」

「寝ている奴は喋らない」

「寝言」

「都合がいいな」

「便利だろ」

 ルシは薄く笑った気配だけを残し、それ以上は何も言わなかった。

 見ていない、と言った。

 その言葉が妙に残った。

 見ていたくせに、見ていないと言う。

 隠したいものを、無理に暴かない。

 見られたくない動きを、なかったことにする。

 所有しない距離。

 ジルは目を閉じた。

 今度は、さっきより少しだけ深く息が入った。

 眠りは浅かった。

 けれど、完全に起きているわけでもなかった。

 黒い灯りの底で、紙の匂いと香草茶の匂いが薄く混じる。

 遠くで誰かが扉を閉める音がした。

 カインの低い寝息。

 ゼルが身じろぎした布の音。

 ルシの呼吸。

 クロの小さな寝言。

 白い王都の香木は、ここにはない。

 整えられた記録棚の冷たさもない。

 ジルはその音の中で、短い眠りへ落ちた。

     *

 起こされたのは、夜明け前だった。

 黒燈本部の地下に朝日は入らない。

 それでも、魔石灯の明るさが少しだけ変わる。夜更けの低い灯りから、早朝任務のための淡い灯りへ。石壁の影が薄くなり、廊下の向こうから食器の触れる音が聞こえ始めていた。

 ジルは目を開ける前に、周囲の気配を数えた。

 扉。

 通路。

 寝台。

 カイン。

 ゼル。

 ルシ。

 足元のクロ。

 異常はない。

 目を開けると、クロが真正面でこちらを見ていた。

「きゅう」

「近い」

「きゅ」

「起きている」

「きゅう」

「顔を舐めるな」

 クロは不満そうに尾を揺らした。

 向かいの寝台で、ルシが寝返りを打つ。

「クロ、起こし方が雑……」

「お前の相棒だろ」

「今はジル担当」

「押しつけるな」

 ルシは目をこすりながら起き上がった。髪が少し乱れている。普段なら整えてから人前へ出るのだろうが、寝起きの今は隠しきれていない。

 ジルはそれを見て言った。

「顔がひどい」

「第一声それ?」

「事実確認だ」

「もうちょっと優しさを覚えてほしい」

「任務前だ。必要ない」

「任務外でもないけどな」

 ルシは肩を回し、息を吐いた。

 包帯のある右腕を一度だけ確かめる。

 ジルの目がそこへ向いた。

「痛むのか」

「少しな」

「夜会前に巻き直せ」

「ジルさん、急に医務担当?」

「情報屋が会場で腕を庇えば目立つ」

「はいはい。戦力管理」

「そうだ」

 ルシは笑った。

 寝る前より、いくらか目の色が戻っている。

 疲れは消えていない。

 だが、判断が落ちるほどではない。

 カインもすでに起きていた。

 短く外套を整え、左側に立つゼルの指先を一度だけ見る。

「震えは」

「取れたよ」

「本当か」

「触って確かめる?」

 ゼルが穏やかに言う。

 カインは一瞬黙り、視線を逸らした。

「任務前だ」

「そうだね」

 ゼルは微笑み、保護筒ごと銀筆を懐へ戻した。

 ルシが小声で言う。

「兄貴、負けたな」

「聞こえている」

「はい」

 クロが元気よく鳴いた。

「きゅう!」

「お前も張り切りすぎるな」

 ジルが言うと、クロは胸を張った。

「きゅ」

「伝令房と作戦室だけだ」

「きゅう」

「会場へは来るな」

「きゅ……」

「返事が弱い」

 ルシが笑う。

「クロ、そこは自信ないんだな」

「笑うな。お前もだ」

「オレも会場には行くけど?」

「余計な場所へ行くな」

「はいはい」

 仮眠室の扉が叩かれた。

 外から若い実動員の声がする。

「起床確認です。食堂に軽食、作戦室に更新分の短札が届いています」

「分かった」

 カインが答える。

 ジルは外套を整え、仮札の位置を確かめた。

 黒銀の冷たい感触が、布越しに指へ返る。

 身体へ刻まれた印ではない。

 自分で持ち、自分でしまえる証。

 それはまだ仮のものだった。

 けれど、白梟はくきょうの印とは違う。

 誰かの所有を示すために肌へ残されたものではない。

 ジルは指を離した。

 扉を開けると、廊下には早朝の黒燈が動き始めていた。

 伝令房へ走る実動員。

 保全室へ向かう者。

 食堂から香草茶の匂い。

 遠くで、紙束を揃える音と、革紐を締める乾いた音が聞こえる。

 眠っている間にも、黒燈は止まっていなかった。

 だが、誰かを使い潰すために動いているわけではない。

 証拠を残すため。

 証人を消させないため。

 そして、今夜の夜会で、ジルを取引材料にする手を潰すため。

 ジルは廊下へ一歩出る。

 その横へ、ルシが並んだ。

 クロが二人の間を歩く。首輪の黒銀札が、爪音に混じって小さく鳴った。

「眠れたか?」

 ルシが聞く。

「少しはな」

「お、正直」

「事実だ」

「高評価」

「何が」

「聞いたら怒る?」

「怒る」

「じゃあ黙る」

「そうしろ」

 ルシは笑い、少しだけ声を落とした。

「少しでも寝たならいい。今夜は長いぞ」

「分かっている」

「敵の言葉だけで決めるなよ」

「何度も言うな」

「何度でも言う」

 その返しに、ジルは一瞬だけルシを見る。

 ルシは軽く笑っていた。

 だが、その目は真面目だった。

 自分を信じろとは言わない。

 黒燈を信じろとも言わない。

 ただ、敵の言葉だけで決めるなと繰り返す。

 それは、命令ではない。

 選択を奪わないための、しつこい確認だった。

「なら、お前も忘れるな」

「何を?」

「俺は、見て決める」

 ルシの足が、ほんの一瞬だけ遅れた。

 すぐに笑う。

「了解」

「笑うな」

「これは無理」

「殴るぞ」

「仮眠明けで暴力反対」

「黙れ」

「はいはい」

 前方でカインの足音が低く鳴る。

「浮かれるな」

「兄貴、今のオレだけ?」

「二人ともだ」

 ゼルが穏やかに続けた。

「でも、目は覚めたみたいだね」

「私語が増えたからか」

 ジルが言うと、ゼルは小さく笑った。

「それもあるかな」

 黒燈本部の奥で、作戦室の扉が開く。

 中には、旧迎賓館の見取り図。

 更新された短札。

 白弦商会の荷路。

 ラザロ・グレイルの名。

 そして、白梟はくきょうへ繋がる線。

 夜会はまだ始まっていない。

 だが、盤面はもう動いている。

 ジルは一度だけ足元を見た。

 自分の足。

 まだ重さは残っている。

 それでも、眠る前よりは軽い。

 誰かに引きずられている足ではない。

 誰かの命令で向かう足でもない。

 今夜、慈善という名の灯りの下へ立つ。

 誰が誰を差し出すのか。

 誰が誰の名を消そうとするのか。

 それを、自分の目で見るために。

 ジルは顔を上げた。

 黒い灯りの下、作戦室へ踏み入れる。

 今度は、眠らないためではなく。

 自分で選んだ足を、きちんと動かすために。
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『第2回青春BLカップ』応援ありがとうございました!! 名家に生まれたが汚い子と蔑まれる春陽。 かつてヒーローを夢見る少年だったが、今は目立たないように生きていた。 父の命令で入学させられたのは、未来の日本を担う者だけが集う超エリート学園。 春陽に待っていたのは、希望ではなく絶望だった。優秀な兄を神のように崇拝し、春陽を心の底から憎む男、北蒼月がルームメイト兼世話係に指名されたのだ。 ただ静かに卒業することだけを考えていたが、蒼月からは強烈な拒絶を浴びせられる。 氷のように冷たい関係から始まる二人だけの部屋。 しかし、この最悪の出会いが、春陽の運命を大きく動かすことになる。 なぜ兄は、春陽を嫌う蒼月を推薦したのか。 家の呪縛と兄の影から、春陽は抜け出すことができるのか。 じれじれピュアラブ学園生活は待ったなし!? 犬猿の仲から始まると淡い恋の物語。 氷の王子と呼ばれる忠犬×ヒーローを夢見ていた男の子
BL 完結 長編
文字数:85,735
無能と呼ばれた婚約者は王を完成させる〜替え玉婚約者のはずが、強すぎる王太子に手放してもらえません〜 表紙

無能と呼ばれた婚約者は王を完成させる〜替え玉婚約者のはずが、強すぎる王太子に手放してもらえません〜

兄の身代わりとして王太子の婚約者になった伯爵家次男リュシー。 嘘の名を名乗ったはずが、冷静で誠実な王太子リオンは彼を「力の装置」としてではなく、対等な伴侶として扱おうとする。 本物になりたいと願う替え玉と、完成された王太子の静謐な王宮ロマンス。 現在は王となったリオンとリュシーの関係を中心に、独占欲強めの溺愛が進行中。
BL 完結 長編 R15
文字数:268,687
『惚れ薬』が効きすぎるなんて、令和の時代にアリですか⁉ 表紙

『惚れ薬』が効きすぎるなんて、令和の時代にアリですか⁉

☆バレー部モテ男子 鵜飼虎太郎×平凡普通男子 花崎佑二☆  高校二年の花崎は、成績真ん中・運動そこそこ・平均身長の平凡男子。目立たずに教室の端に存在している。  しかしある日突然、バレー部のイケメン男子、鵜飼から「化学のノート、貸してくんない?」と声を掛けられた。  ――ええ?なんで僕?  そう焦る花崎だが、それはだたの人間違いだった。 「化学が得意なのは隣のクラスの花菱くん。これは普通の花崎くん」  そんな風にクラスメイトに笑われてしまう。  目立たずに生きてきた花崎にとって、教室の中で恥をかかされたことはショックな出来事。  ――鵜飼め‼ 覚えていろよ!  イライラがおさまらない花崎は、図書室で「中世魔女の妙薬レシピ」という怪しげな本を見つけ、「惚れ薬」を鵜飼に使うことを決意して…⁉   惚れ薬の効果なのか溺愛♥高校生活に突入!  花崎はバレーボールに汗を流す鵜飼の姿をカッコいいじゃん、と思い始めたけれど。  『惚れ薬』の効果がきれたら…?  ☆第2回青春BL小説カップにエントリー作品です(*^^*)投票・お気に入り登録・♡などで応援いただけますと大変嬉しいです‼よろしくお願いいたします☆  不定期更新です💦スミマセン💦
BL 完結 長編
文字数:84,218
失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが 表紙

失恋相手に魔王討伐のご褒美にされてたんだが

魔王討伐の為の勇者召喚に巻き込まれた蕪木透。その勇者は苦い思い出のある高校時代の同級生井上朝陽だった。すれ違いから疎遠になった2人が異世界に召喚される話。当て馬的な女の子が出てきますしわりと性悪です。プチざまぁあり。途中主人公があまりいい目にあっていませんがハッピーエンドなので安心してください♪( ´θ`)同性婚ありな世界線です。※他サイトにも掲載あり
BL 完結 短編
文字数:9,900