銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

第21話 慈善夜会の灯り



 ラザロ・グレイルが押さえている旧迎賓館は、ノクティルムの貴族街東端に淡い石肌を浮かべていた。

 蔦の絡む柱廊。磨き上げられた大階段。庭園には青白い魔石灯が吊られ、その光が噴水の水面で細かく揺れている。

 馬車寄せでは、車輪が黒い石畳の継ぎ目を越えるたび、低い音を響かせていた。扉の金具が鳴り、艶やかな外套をまとった客が次々と降り立つ。

 絹の衣擦れ。

 香料の甘さ。

 杯と笑い声。

 冷たい夜気の中に、美しく整えられた華やかさが広がっている。

 ジルが最初に見たのは、大階段の装飾ではなかった。

 正面玄関脇の護衛。庭園へ抜ける細道。使用人が行き来する建物の側面。混み合った馬車寄せから外周路へ戻るまでの距離。

 逃げ道はある。

 ただし、客が一斉に動けば正面は塞がる。

 表向きは、孤児院と戦災遺族のための慈善夜会。

 寄付と支援を口にする者たちの声は穏やかで、どの笑みもよく磨かれている。

 美しい夜だった。

 少なくとも、そう見えるように整えられている。

 その奥に、金と値踏みと、刃を隠した微笑みがある。

 ジルには、あまりにも馴染み深い空気だった。

 カインは外周へ回っている。

 ゼルは庭園側の導線から、館に仕込まれた術式の流れを見る手はずだ。クロは伝令房で待機。ここへ来たがった黒い毛玉の耳が、最後まで不満そうに伏せられていたことだけは、余計に思い出さないようにした。

 深い黒を基調とした礼装の上には、光を受けた時だけ淡く浮く銀糸が刺されている。肩を少し越える銀髪は後ろで緩く整えられ、白い灯りの下でも、かつてのように背を流れる目印にはならない。

 それでも、十分に人目を引いていた。

 向けられる視線の数は多い。

 好奇心。値踏み。見覚えがあるような気がするという、曖昧な探り。

 今のところ、白梟はくきょうの合図を含む視線はない。

 礼装の袖内では、細い鞘が腕に沿って収まっている。腰の内側に短剣。靴底には薄刃。

 見せるためだけの服ではない。

 生きて戻るための礼装だ。

 隣を歩くルシは、濃紺の礼装を軽やかに着こなしていた。

 黒燈が用意した偽装身分では、ジルは西方商会の代理人。ルシは案内役兼通訳である。

 だが、赤みを帯びた目が見ているのは客の顔だけではない。

 警備の立ち位置。馬車寄せから庭へ抜ける使用人。招待状を受け取る手。何度も同じ扉を開ける給仕。

 笑っているように見せながら、会話の隙間で人の流れを拾っていた。

「ジル」

「何だ」

「思った以上に目立ってる」


「黙れ」

「貴族の奥方も若旦那も見てるぞ」

「任務に関係ない」

「あるだろ。目立つと動きにくい」

「お前が選んだ衣装だ」

「似合うとは思ったけど、ここまでとは思わなかった」

 ルシは招待状を持つ指を、ごく短く止めた。

 笑っている口元とは別に、赤みを帯びた目だけが客の視線を数え直している。

 冗談に見せた言葉の奥で、警戒だけが残っていた。

 ジルは冷たい目を向ける。

 ルシの口元は、隠す気の薄い笑みを作っていた。

「楽しんでいるな」

「少し」

「隠せ」

「努力はしてる」

「足りない」

 軽口を交わしていても、二人の歩調は乱れない。

 ルシは客の視線を笑顔で受け流しながら、入口脇の護衛を数えている。ジルは石段を上がる足取りの中から、戦闘に慣れた者の重心を拾っていた。

 右側に二人。

 どちらも館の護衛。

 左の柱廊に立つ男だけは、礼装の下で肩が軽い。給仕や私兵ではない可能性がある。

 迎賓館の入口で、ルシが招待状を差し出す。

 厚手の紙が開かれ、受付係の指が偽造された商会印の上をなぞった。

「西方商会代理人のジル様。案内役兼通訳のルシです」

 ルシの声には、いつもの軽さを薄く残した丁寧さがある。

 受付係は招待状とジルの顔を見比べ、一拍遅れて頭を下げた。

「ようこそお越しくださいました」

 ジルは短く頷く。

 ルシが横で声を落とした。

「こういう時は、少し笑った方が怪しまれないぞ」

「お前が笑っていろ」

「役割分担?」

「そうだ」

「了解」

 ルシの表情が変わる。

 人懐こく、警戒を抱かせず、相手にもう一言話してもいいと思わせる笑み。

 受付係の肩から、わずかに力が抜けた。

 その変化を、ジルは見逃さなかった。

 ルシは、場に合わせるのが上手い。

 相手へ近づきすぎず、退きすぎず、気分よく口を開かせる距離を知っている。

 軽いだけではない。

 その軽ささえ、相手の警戒を下げるために使っている。

 ジルが不得手なものを、ルシは平然とやってのける。

「何?」

 視線に気づいたルシが、小声で聞く。

「何でもない」

「今、褒めかけた顔だった」

「していない」

「した」

「黙れ」

 ルシは笑いを堪えながら、大広間へ足を進めた。

     *
 
大広間には、眩しいほどの光が満ちていた。

 宝石をまとった婦人。銀縁の杯を手にした老紳士。寄付名簿の頁をめくる商人。

 孤児院の名を口にしながら、隣の者がいくら差し出すかを測る男たち。

 音楽隊の弦が柔らかな旋律を奏で、杯の縁が触れ合う細い音が、その合間に混じっている。

 出入口は三つ。

 正面の大扉。

 庭園へ抜ける硝子扉。

 東側廊下へ続く細い扉。

 ジルは順に確認し、それから壁際に置かれた慈善用の寄付箱へ視線を移した。

 硬貨が落ちるたび、木箱の底から乾いた音が返る。

 白弦商会の印が入った寄付品目録も並べられていた。

 ジルは目録を一瞥する。

 紙、薬、毛布、保存食。

 美しい筆跡で書かれた商会名の下に、別の金と物資の流れが隠れている。

 白弦商会の裏経路は、刃を握らない。

 紙と名義と荷車を渡し、握る者の顔を商人や護衛の中へ隠す。

 だから、汚れた手だけが見えにくい。

 ルシが口元の笑みを崩さず囁く。

「右奥。杯を持ってない二人が帳簿係だ。片方は、同じ使用人を三度呼び止めてる」

「もう一人は」

「寄付名簿じゃなく、庭へ抜ける扉ばかり見てる。帳簿より出入りが気になるらしい」

「左は」

「グレイル家側。話してるのは寄付額。でも見てるのは、誰がどの封筒を持ってきたかだな」

「よく喋る」

「必要な情報だろ」

「声を落とせ」

「はいはい」

 ルシは給仕から杯を受け取る。

 酒には口をつけず、指先だけで自然に持ち替えた。

 会話を続けるための道具として持っているだけで、飲むつもりはないらしい。

 その時、ジルの懐で薄い札が一度だけ温んだ。

 位置共有札。

 ゼルが会場内へ入ったらしい。

 声も方角も伝えない。ただ、近くにいると知らせるだけの短い熱。

 冷たく呼び戻す白梟はくきょうの札とは違う。

 ジルは一瞬だけ意識を向け、すぐに人の流れへ視線を戻した。

「外周は」

 ルシの袖の内側で、通信符がごく小さく震えた。

 笑顔のまま指先で触れ、短い報告を読む。

「庭園側と屋根の見張りが二人、持ち場から消えた。兄貴が止めたな」

「殺したのか」

「まさか」

 ルシは杯を軽く掲げる。

「武器を落として、静かに休んでもらったらしい」

「回りくどい」

「貴族の夜会だからな。上品に言わないと」

 ジルは返さなかった。

 庭園側の硝子扉の向こうで、黒い影が一瞬だけ動いた。

 カインだ。

 夜会の光が届かない庭木の陰で、低い重心のまま護衛の腕を押さえている。その左側に、ゼルの影があった。

 ゼルの右腕輪の刻線に、淡い琥珀が灯った。

 外套の陰、手首のすぐ上へ小さな二重環が低く水平に浮かぶ。銀筆が内環を一目盛りだけ絞ると、円環はすぐに右腕輪へ沈んだ。

 次の瞬間、ゼルの指先から細い琥珀線が伸び、カインの左耳裏へ静かに届く。

 外から見れば、魔石灯の反射が一瞬流れたようにしか見えない。

 カインは左を見ない。

 それでも、左側から回り込もうとしたもう一人の護衛へ迷いなく反応し、武器を抜かせる前に肘を封じた。

 押さえつけられているのではない。

 カインの動きは、カイン自身のものだった。

 ゼルはただ、見えにくい側へ必要な線を置いている。

 ジルは、その一瞬を目に留めた。

 補う。

 縛らない。

 言葉にすれば簡単だが、実際にやるのは難しい。

 視線が大広間の中央へ戻る。

 そこに、ラザロ・グレイルがいた。

 白髪交じりの髪を整え、品のよい礼装を身につけている。客と杯を合わせ、慈善の意義について穏やかに語っていた。

 笑みも礼儀も崩れない。

 だが、話し相手が変わるたび、目だけが別のものを測っている。

 寄付額。

 家名。

 連れている者。

 持ち込んだ封筒。

 使える相手か、切り捨てられる相手か。

 自分で刃を握らず、他人の手と血で道を作ろうとする者の目だった。

「来たな」

 ルシが小さく言う。

 ラザロがこちらへ歩いてくる。

 周囲の客が、意識せず道を空けた。

「西方商会代理人のジル殿ですな」

 ラザロは優雅に微笑む。

「今宵はお越しいただき、感謝いたします」

「招待を受けた」

 ジルが短く答える。

「遠路ご苦労でした。こちらは?」

 ラザロの視線がルシへ移った。

 ルシは柔らかく頭を下げる。

「案内役兼通訳のルシです。ジル様は、この街の夜会にはまだ不慣れでして」

「なるほど。よい案内役をお持ちだ」

「恐縮です」

 ルシの笑顔は崩れない。

 ただ、ラザロの視線がジルの外套の内側を測った瞬間だけ、目元の温度がわずかに下がった。

 ジルには、ラザロの視線がどこを測っているか見えていた。

 顔。

 手元。

 外套の内側。

 腰の位置。

 文書を持っているか。

 刃を隠しているか。

 そして、二人のどちらが先に動くか。

 ラザロは声を少し落とした。

「人目のある場所では扱いにくい話でしょう。寄付者向けの応接室がございます。そちらでお話を」

「応接室?」

 ルシが笑顔のまま問い返す。

 踏み込みたい問いを、夜会用の声に包んで飲み込んだ顔だった。

「ええ。静かな部屋です」

 ジルが答えるより先に、大広間の反対側で白い手袋が動いた。

 杯の縁を、曇りひとつ残さないように指先が整える。

 その手の持ち主は、白灰色の礼装をまとった長身の男だった。

 隙なく撫でつけられた灰銀の髪。その下から、冷たい灰色の目がまっすぐジルを捉えている。

 弦の音が、急に遠くなった。

 白い手袋。

 整えられた袖口。

 曖昧さを許さない目。

 ジルの呼吸が一拍だけ浅くなる。

「ジル」

 ルシの声は低い。

 笑みはもうなかった。

 ジルの呼吸が浅くなった一拍を、見逃していない顔だった。

「……問題ない」

「今、呼吸が止まったぞ」

「黙れ」

 男は白い手袋の指を杯から離し、ゆっくり近づいてきた。

 ヴェイン。

 ジルはその名を口にしなかった。

 白い王都の記録棚。

 封緘具。

 任務札。

 誰の名を残し、誰の名を消すかを、刃が動く前に決めていた男。

「久しいね」

 穏やかな声だった。

 大広間のざわめきへ紛れるほど静かなのに、その一語だけは耳の奥へ冷たく届く。

「《銀羽》」

 名前ではない。

 任務で使う刃につけられた符牒。

 左鎖骨下が、布の下でごく浅く冷えた。

 ジルの指先が、袖の内側でわずかに硬くなる。

 隣で、ルシの目から笑いが消えた。

「ジルだ」

 低い声だった。

 夜会のざわめきに紛れる程度の音量。

 けれど、その一語だけは、刃のようにまっすぐ落ちた。

 ヴェインの視線が、ゆっくりルシへ移る。

 ルシの口元だけは夜会用の形を保っていたが、目だけは少しも笑っていない。

 ジルは表情を変えない。

「人違いだ」

「そういうことにしておこう」

 ヴェインは杯の位置を、もう一度だけ整える。

「今は」

 ラザロの指が、持っていた杯を強く握った。

 杯の脚が、指輪へ触れて小さく鳴る。

 その音だけで、誰がこの場を握っているかは十分に分かった。

 ヴェインの方が明らかに上だった。

「お知り合いですか?」

 ルシが笑みを少しだけ薄くする。

 踏み込みたい問いを、夜会用の声に包んで飲み込んだ顔だった。

「昔の仕事場で、少しね」

 ヴェインが答えた。

「彼はとても優秀だった」

「それはそれは」

 ルシは笑う。

「ですが今夜は、オレが案内している客人なので」

 自分の客とは言わない。

 案内している客人。

 ルシはジルを自分の側へ囲い込む言葉を使わなかった。

「君が噂の情報屋か」

 ヴェインの視線が、ルシの顔から立ち位置へ滑る。

「軽い顔をしている」

「よく言われます」

「軽い者は、重いものを持つには向かない」

 ルシの口元には笑みが残っている。

 目だけが、冷えた。

「重いからといって、勝手に持ち主を決めていいわけでもないでしょう」

 空気が薄く張る。

 ジルは横目でルシを見る。

 踏み込みすぎるなと言う前に、ルシは半歩退いた。

 逃げ道を塞がない。

 それでも、隣から消えはしない。

 ヴェインは、その距離まで見ていた。

「面白い」

 ラザロが小さく咳払いをする。

「では、詳しい話は奥で」

 ジルは頷いた。

 罠があることは、入る前から分かっている。

 それでも今は、相手の言葉を残す方が先だった。

 ルシも隣を歩き出す。

 触れない。

 前にも出ない。

 懐の位置共有札が、体温に紛れる程度の熱を残していた。

     *

 東側廊下へ入ると、大広間の音が絨毯へ吸われていった。

 白い花の香りが濃すぎる。

 香りの下に、蝋と金属の薄い匂いがある。

 隠すための香りだ。

 壁には古い肖像画。足音を沈める厚い絨毯。廊下の奥にある両開きの扉。

 扉の金具には、閉じた後に内側から噛み合う細い刻線。

 絨毯の縁には、踏んだ重みを一拍遅れて拾う白い糸。

 蝶番の脇には、音を廊下へ逃がさないための薄い蝋が塗られている。

 白梟はくきょうで何度も見た仕込みだった。

 見慣れているからこそ、見落とせない。

 ルシが扉の前で小さく呟く。

「嫌な部屋だな」

「今さらか」

「言ってみただけ」

 ラザロが扉を開く。

 小応接室には、低い白卓と四脚の椅子が置かれていた。庭園側の窓は厚い幕に半ば隠されている。

 部屋の隅には、茶器を載せた盆を抱えた若い使用人が立たされていた。

 退出を許されていないらしい。

 視線を伏せたまま、盆を支える指を強張らせている。茶器の受け皿が、ごく小さく震えていた。

 厚い幕の向こうには、二つの呼吸。

 浅いものと、長く抑えたもの。

 ジルは数えたが、そちらを見なかった。

 ヴェインは当然のように、窓寄りの奥席へ腰を下ろす。


 ラザロは白卓の横。

 ジルとルシは扉に近い位置へ立ったまま、椅子には座らない。

「警戒深いね」

 ヴェインが言う。

「白梟はくきょうの罠がある部屋で座るほど、鈍くはない」

「ここはグレイル家の迎賓館だ」

「白梟はくきょうの匂いがする」

 ラザロの眉間に皺が寄る。

「言葉に気をつけたまえ」

 ジルはラザロを見た。

「お前にか?」

 静かな声だった。

 それだけで、ラザロの喉が詰まる。

 ヴェインが小さく笑った。

「変わらないな」

「お前もな」

「いや、君は変わった」

 ヴェインの冷たい目が、ルシへ向く。

「隣に余計なものを置くようになった」

 ルシの笑みが完全に消えた。

「余計かどうかは、本人が決めることですよ」

「本人?」

 ヴェインは楽しげに繰り返す。

「白梟はくきょうの刃に、本人などという言葉が必要だったかな」

 刃。

 鍵。

 役目を果たすためのもの。

 そこに本人という言葉は要らない。

 白梟はくきょうでは、何度もそう扱われた。

 ジルの指が外套の内側へ滑る。

 短剣の柄に触れる。

 抜かない。

 まだだ。

 ルシが一歩、前へ出かける。

 ジルはその袖を掴んだ。

 布越しに腕の動きが止まる。

「動くな」

「……分かってる」

「分かっていない顔だ」

「今だけは分かってる」

 指を離す。

 任務上の制止。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 ルシは前へ出なかった。

 だが、扉側へ退いてジルから距離を取ることもしない。

 ラザロは焦れたように口を開く。

「取引の話をしましょう」

 ルシが袖口を整える。

 布の陰で、録音魔石が淡く光った。

「こちらが求めるのは二つです」

 ラザロはジルへ向けて言う。

「あなたの身柄。そして、あなたが持っている機密文書」

 ルシの指が止まる。

 それまで衣擦れに紛れていた小さな音が、一瞬だけ消えた。

 だが、口は挟まなかった。

 ジルは懐から黒い封筒を取り出した。

 黒燈の保全卓で用意した封筒だ。

 厚みも重さも、白梟はくきょうが欲しがる文書に似せてある。だが、本物なら、こんな場所へ持ち込むはずがない。

  ジルはそれを白い卓へ置いた。

「文書はこれだ」

 黒い封筒が、白い卓上で異様なほど濃く見える。

 ラザロの視線が吸い寄せられた。

 ヴェインは微笑んだまま、封筒とジルの指先を見ている。

「開けても?」

「封蝋を切れば、中の薄紙が焦げる」

 ジルは即答する。

「封じた状態で渡す」

「随分と用心深い」

「お前たちほどではない」

 ラザロの指が、黒い封筒へ伸びる。

 その瞬間、ヴェインの白い手袋がわずかに持ち上がった。

 絨毯の下で、低い音が鳴る。

 床板ではない。

 術式が噛み合った音。

 縫い目から白い糸が立ち上がり、ジルの足首へ巻きつこうと走った。

「右へ半歩」

 ジルはルシの腕を引く。

 白い糸が二人の間を掠め、ルシの袖布が乾いた音を立てて裂けた。

「床、二つ目」

 ルシの指から細針が滑り落ちる。

 針先が絨毯の奥の術式核へ触れ、小さな金属音を響かせた。

 白い光が一瞬だけ乱れる。

 完全には消えない。

「情報屋にしては悪くない」

 ヴェインが言った。

「褒められても嬉しくないですね」

 ルシは息を整えながら返す。

 声に軽さは残っていても、目は笑っていない。

 ジルは短剣を抜いた。

 首元へ伸びた糸をかわし、白卓の脚に貼られた封蝋片を刃先で砕く。

 硬い音とともに、魔力が細かな火花となって散った。

 だが、次の糸が床から跳ね上がる。

 数が多い。

 絨毯だけではない。卓の脚、椅子の飾り釘、暖炉飾りの裏。

 室内全体が罠だった。

 ヴェインは、最初から話だけをするつもりではない。

 それでも話はした。

 ルシの袖口で録音魔石が光っていても、ヴェインの笑みは揺れない。

 録音されることさえ、想定の内なのだろう。

 必要なのは、ジルがここへ来たこと。

 黒い封筒を持参したこと。

 その事実さえ残れば、内容が偽物でも利用できる。

「後ろも来る」

 ルシが低く告げる。

「なら扉を見ろ」

 ジルは振り向きざまに短剣を投げた。

 刃は床の小さな白い飾り釘を貫く。

 術式が一拍だけ止まった。

 扉の外で、ゼルの右腕輪に暗い藍紫の光が灯った。

 手首のすぐ上へ薄い術式輪が低く開く。銀筆が外環を半目盛りだけ回し、白い拘束術式へ触れる一本だけを残した。

 円環が右腕輪へ沈む。

 次の瞬間、ゼルの指先から暗い藍紫の《影糸》がほどけ、扉の下の隙間から室内へ滑り込んだ。糸の内側を、青紫の細い芯が走る。

 白い拘束糸を消すのではない。

 流れをわずかに外側へずらし、踏み込むための一拍を作る。

 続いて、右腕輪の刻線が淡い青灰へ変わった。

 低く浮いた波紋状の術式輪を銀筆が一段だけ絞る。必要な足音と声は残し、破砕音と悲鳴だけを大広間へ届かせない範囲。

 術式輪が腕輪へ沈む。

 ゼルが掌を低く開くと、《静域》が廊下へ薄く広がった。

 同時に、カインの左耳裏へ沈んでいた琥珀の線が一度だけ震える。

 扉の向こうにある人の位置と、左側へ回る一人の輪郭が、一拍分だけ届いた。

 次の瞬間、扉が内側へ砕ける。

 破砕音は、扉の外へ薄く張られた《静域》に包まれ、大広間へ届く前に鈍く沈んだ。
 黒い外套の裾を翻し、カインが踏み込んでくる。

 片目だけの視線が、室内の術式、ラザロ、ヴェイン、ジル、ルシ、そして隠れていた護衛を瞬時に測った。

「遅い」

 ジルが言う。

「黙れ」

 カインは短く返す。

 厚い幕の陰から護衛が飛び出した。

 一人は正面。

 もう一人は、カインの左側。

 眼帯のある側へ回り込む、分かりやすい動きだった。

 カインは振り向かなかった。

 左耳裏に沈んだ琥珀の線が、一拍だけ淡く震える。

 護衛の肩。

 刃の角度。

 踏み込む足の浅さ。

 見えているわけではない。

 だが、左側へ線が置かれている。

 カインは正面の男の武器を持つ手首を叩き下ろし、そのまま左へ半歩沈んだ。

 背後へ回ろうとした護衛の膝裏を、短剣の柄が打つ。

 短剣が絨毯へ落ち、鈍い音を立てた。

 もう一人は肩関節を外され、声を上げる前に床へ沈む。

 殺さない。

 それでも、二人とも立てない。

 黒燈式の制圧だった。

 ゼルも廊下側から入った。

 指先から伸びた暗い藍紫の《影糸》が、白い拘束術式の流れを拾い、外側へずらした状態を維持している。

 銀筆はすでに右腕輪脇の収納具へ戻されていた。

「カイン、窓は開けないで。外側の札が、追う者を拾う」

「分かった」

 返事に迷いはない。

 窓へ踏み込もうとしていたカインの足が止まる。

 ゼルが渡したのは、必要な情報だけだった。

 カインの腕を引くことも、立つ位置を強制することもない。

 カインは一瞬でそれを受け取り、自分の足を止める。

 ジルは、その連携を視界の端に捉えた。

 誰かの死角を補う距離。

 背後に立ちながら、首輪にはならない関係。

 白い王都で聞いた声が、記憶の奥を一瞬だけ掠める。

 守る。

 君のためだ。

 そう言いながら、逃げ道を狭めていった声。

 だが、そこへ沈む時ではない。

 ヴェインが動いた。

 白卓の上から、黒い封筒を取る。

 ラザロが叫んだ。

「まだ取引は――!」

「終わりだよ、ラザロ卿」

 ヴェインの声は変わらない。

「君の役目は終わった」

 部屋の空気が、冷たく静まる。

 ラザロの顔から血の気が引いた。

 ヴェインが窓へ向かう。

 カインが踏み込もうとした瞬間、白い袖から細い刃が放たれた。

 狙いはカインではない。

 部屋の隅で身を縮めていた使用人。

 逃走のために、黒燈側の選択を縛る一手。

 風を裂く細い音が走る。

 室内へ張られていた暗い藍紫の《影糸》が、飛来する細刃へ横から触れた。

 糸の内側を走る青紫の芯が一度だけ強まり、刃の軌道を使用人の外側へ弾く。

 細刃は使用人の頬を掠めることなく、壁へ突き立った。

 使用人が盆を落とした。

 茶器が絨毯へ崩れ、陶器同士のぶつかる音が重なる。

 その一拍で、ヴェインは窓を開けた。

 庭園の闇で、白い外套の影が二つ動く。

 伏兵。

 カインが低く舌打ちする。

 ジルは窓へ向かった。

 追えない距離ではない。

 だが、窓枠の内側で追跡札が淡く明滅している。

 そこを越えれば、追う側の魔力と足取りを拾われる。

 背後では、使用人が床に崩れたまま息を乱していた。

 ラザロも、録音魔石も、この部屋に残っている。

 ヴェインを追う。

 証言を残す。

 両方を選べるだけの時間はない。

 ジルの足は、窓枠の手前で止まりかけた。

「ジル、罠だ」

「見えている」

「追うな」

「命令するな」

 ルシの声から、最後の軽さが消える。

 一拍の沈黙。

 次に来た声は、先ほどより低かった。

「……頼んでる」

 命令ではない。

 ジルの代わりに選ぶ言葉でもない。

 ルシは窓への道を塞がず、ジルの返事を待っていた。

 ジルは窓の外を見る。

 逃げるヴェイン。

 追跡札。

 背後に残る人間と証言。

 追わない理由は、もう自分の目で選び終えている。

 短剣を下ろした。

 ルシに従ったのではない。

 それでも、命令ではなく頼んだ声を、判断の外へ捨てもしなかった。

 ヴェインは窓の向こうで振り返る。

 白い手袋の指先が、黒い封筒を軽く掲げた。

「偽物でも、君が持ってきたという事実は残る」

 ジルは冷たく見返す。

「使えるならな」

「強がりかな」

「違う」

 ルシが隣へ立つ。

 ジルより前へは出ない。

 窓への道も塞がない。

「ジルは、誰のものにもならない」

 静かな声だった。

 大きくはない。

 だが、部屋の中へはっきり落ちる。

 所有を、別の所有で塗り替える言葉ではなかった。

 ルシは自分を選べとは言わない。

 決める権利を、ジルへ返している。

 ヴェインの目が、ルシへ向いた。

 ルシは笑っていない。

 軽口に逃がせる場面ではないと分かっている顔だった。

「決めるのはジルだ。あんたらじゃない」

「情報屋が、ずいぶん言う」

「情報屋だから言うんですよ」

 ルシは一歩も前へ出なかった。

 ただ、隣にいる。

 ヴェインはしばらくルシを見ていた。

 そして、わずかに微笑む。

「覚えておこう」

 白い外套の影が庭園の闇へ溶けた。

 ヴェインも窓の向こうへ消える。

 追えない距離ではない。

 それでも、ジルは追わなかった。


     *

 背後で、ラザロが床へ座り込んだ。

「待て……待ってくれ。私は、白梟はくきょうに協力しただけで――」

「その協力の内容は、録れている」

 ルシが袖口から録音魔石を取り出した。

 掌の上で淡い光が明滅している。

 ラザロの顔が歪んだ。

「貴様……!」

「案内役兼通訳って言っただろ。聞くのも仕事だ」

 ルシは笑っていた。

 だが、目だけは笑っていない。

 ジルを値踏みした者の声を、逃がす気はない顔だった。

 扉の外から、低く重い足音が近づく。

 絨毯に沈みながらも、隠しきれない足音だった。

 ダリウスが小応接室へ入る。

 黒い外套をまとった姿は、白い廊下にも、整えられた室内にも似合わない。

 後ろには黒燈の者が数名。

 大広間の客を騒ぎから遠ざけ、戦闘が広がらないよう導いていた者たちだ。

 ダリウスは室内を一度見回す。

 倒された護衛。

 床へ崩れた使用人。

 開かれた窓。

 そして、座り込むラザロ。

「ラザロ・グレイル」

 低い声に、ラザロの肩が跳ねる。

「黒燈は、お前をここで裁かない」

 ラザロの顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。

「だが、逃がさない」

 安堵が消える。

「証言は残してもらう」

「私は利用されただけだ!」

 ジルが短剣を鞘へ戻す。

 硬い音が、ラザロの言葉を断った。

「なら、生きて証言しろ」

 ラザロは言葉を失う。

 ダリウスが黒燈の者へ目配せした。

「拘束しろ。客は順に帰せ。使用人と怪我人を見ろ」

「了解」

 黒燈の者たちが動き出す。

 手首を固定する革具が締まり、金具が小さく鳴った。

 ゼルは床へ崩れた使用人の前に膝をつく。

「大丈夫。もう刃は来ない」

 穏やかな声で呼吸を整えさせながら、震える手から割れた茶器を遠ざけていく。

 カインは窓際に立ち、庭園の闇を見ていた。

 片足はいつでも踏み出せる位置にある。

 だが、ゼルが追跡札を指摘してから、その足は窓枠を越えていない。

 カインの左耳裏へ沈んでいた琥珀の線は、もう消えている。

 ゼルの右腕輪も、戦闘前の暗い黒銀へ戻っていた。

 それでも、ゼルはカインの左側から離れなかった。

 近すぎず、遠すぎず。

 カインの進路を塞がず、必要な時だけ届く距離。

 カインも、そこにゼルがいることを当然のように置いている。

 ジルはその背を見る。

 次に、自分の足元へ視線を落とした。

 昔なら、標的だけを追った。

 証言も、退路も、誰かの命も、任務の外へ置いて。

 今は違う。

 追跡札がある。

 ヴェインは、追わせることまで利用する。

 何より、ここには残すべき声がある。

 ジルは短く息を吐いた。

「戻る」

 ルシがこちらを見る。

「いいのか」

「追えば、こちらの退路が割れる」

「それだけ?」

 問い詰める声ではなかった。

 正解を要求する目でもない。

 ジルが何を選んだのか、確認しようとしているだけだった。

 ジルは横目を向ける。

「それで十分だ」

 ルシの表情が、わずかに緩んだ。

「そっか」

「何だ」

「別に」

「言いたそうな顔をするな」

「言わない努力をしてる」

「続けろ」

「はいはい」

 ルシは廊下側へ顎を向ける。

「戻ろうぜ、相棒」

 ジルは睨んだ。

「誰が相棒だ」

「任務中だけの」

 ジルは一拍、黙る。

 白い窓。

 逃げたヴェイン。

 残した証言。

 隣で、返事を急かさず待っている男。

「……任務中だけなら、呼んでもいい」

 ルシは珍しく、すぐには答えなかった。

 赤みを帯びた目が、わずかに見開かれる。

 その一拍の間だけ、目元が柔らかくなる。

 すぐに茶化すには惜しいものを受け取ったような顔だった。

 その一拍を、ジルは見た。

「了解」

 声はいつもより少しだけ低かった。

 それから、ルシの口元だけが緩む。

「そこで笑うな」

「笑ってない」

「口元が笑っている」

「気のせい」

「録音魔石を出せ」

「なんで?」

「今の台詞が入っていたら割る」

「任務の大事な証拠なんだけど」

「なら消せ」

「冗談だって。そもそも今はもう止めてる」

「信用できない」

「ひどいな、相棒」

 軽く言った後、ルシの笑みが少し遅れて消えた。

 その呼び方を許された線の中へ、きちんと戻すような間だった。

「任務中だけだ」

 カインが窓際から低く言う。

「浮かれるな。まだ任務中だ」

「兄貴、今の空気で言う?」

「言う」

 ゼルが使用人を黒燈の者へ預け、静かに立ち上がった。

「帰るまで気を抜かないで。外側の札は、まだ生きている」

 ダリウスが頷く。

「裏手から出る。固まるな」

 小応接室を出ると、大広間の音楽が壁越しに戻ってきた。

 何事もなかったように続く弦の音。

 白い灯り。

 慈善を語る声。

 その裏で、黒燈の者たちがラザロを移送し、客を騒ぎから遠ざけている。

 誰かをその場で裁くためではない。

 証拠と証言を、生きたまま黒い灯りの下へ運ぶために。

 ジルたちは、人目の少ない裏手回廊へ入った。

 冷たい空気が、開いた細窓から流れ込む。

 回廊の先には、ノクティルムの黒い夜が見えていた。

 白い手袋に持ち去られた黒い封筒。

 逃げたヴェイン。

 残されたラザロの証言と録音魔石。

 まだ終わってはいない。

 ジルは一人で窓を越える代わりに、黒燈と同じ方向へ歩き出す。

 その背を、ルシが一度だけ見る。

 ジルがこちらを見ていない間だけ、目元が少し柔らかくなった。

 前を行くダリウスの足音。

 外周を警戒するカイン。

 その左を補う位置に立つゼル。

 そして、ルシが隣へ並ぶ。

「行くぞ、任務中だけの相棒さん」

 ルシの声は軽い。

 けれど、次の一歩だけがいつもより半歩遅れた。

 任務中だけ。

 その線を越えないよう、自分で足場を確かめるような間だった。

「任務中だけだ」

「はいはい」

 返事は軽い。

 ただ、ルシはジルより先へ出なかった。

 その言葉を否定されなかったことを、口には出さず、同じ歩幅の中へしまっていた。

「調子に乗るな」

「まだ乗ってないって」

 ジルはそれ以上返さなかった。

 軽口を切り捨てることも、足を速めて引き離すこともしない。

 ただ、隣に並ぶ足音を拒まない。

 白い灯りの続く回廊の先で、黒い王都の夜が待っていた。
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