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第1部 魔族王都編
第21話 慈善夜会の灯り
ラザロ・グレイルが押さえている旧迎賓館は、ノクティルムの貴族街東端に淡い石肌を浮かべていた。
蔦の絡む柱廊。磨き上げられた大階段。庭園には青白い魔石灯が吊られ、その光が噴水の水面で細かく揺れている。
馬車寄せでは、車輪が黒い石畳の継ぎ目を越えるたび、低い音を響かせていた。扉の金具が鳴り、艶やかな外套をまとった客が次々と降り立つ。
絹の衣擦れ。
香料の甘さ。
杯と笑い声。
冷たい夜気の中に、美しく整えられた華やかさが広がっている。
ジルが最初に見たのは、大階段の装飾ではなかった。
正面玄関脇の護衛。庭園へ抜ける細道。使用人が行き来する建物の側面。混み合った馬車寄せから外周路へ戻るまでの距離。
逃げ道はある。
ただし、客が一斉に動けば正面は塞がる。
表向きは、孤児院と戦災遺族のための慈善夜会。
寄付と支援を口にする者たちの声は穏やかで、どの笑みもよく磨かれている。
美しい夜だった。
少なくとも、そう見えるように整えられている。
その奥に、金と値踏みと、刃を隠した微笑みがある。
ジルには、あまりにも馴染み深い空気だった。
カインは外周へ回っている。
ゼルは庭園側の導線から、館に仕込まれた術式の流れを見る手はずだ。クロは伝令房で待機。ここへ来たがった黒い毛玉の耳が、最後まで不満そうに伏せられていたことだけは、余計に思い出さないようにした。
深い黒を基調とした礼装の上には、光を受けた時だけ淡く浮く銀糸が刺されている。肩を少し越える銀髪は後ろで緩く整えられ、白い灯りの下でも、かつてのように背を流れる目印にはならない。
それでも、十分に人目を引いていた。
向けられる視線の数は多い。
好奇心。値踏み。見覚えがあるような気がするという、曖昧な探り。
今のところ、白梟の合図を含む視線はない。
礼装の袖内では、細い鞘が腕に沿って収まっている。腰の内側に短剣。靴底には薄刃。
見せるためだけの服ではない。
生きて戻るための礼装だ。
隣を歩くルシは、濃紺の礼装を軽やかに着こなしていた。
黒燈が用意した偽装身分では、ジルは西方商会の代理人。ルシは案内役兼通訳である。
だが、赤みを帯びた目が見ているのは客の顔だけではない。
警備の立ち位置。馬車寄せから庭へ抜ける使用人。招待状を受け取る手。何度も同じ扉を開ける給仕。
笑っているように見せながら、会話の隙間で人の流れを拾っていた。
「ジル」
「何だ」
「思った以上に目立ってる」
「黙れ」
「貴族の奥方も若旦那も見てるぞ」
「任務に関係ない」
「あるだろ。目立つと動きにくい」
「お前が選んだ衣装だ」
「似合うとは思ったけど、ここまでとは思わなかった」
ルシは招待状を持つ指を、ごく短く止めた。
笑っている口元とは別に、赤みを帯びた目だけが客の視線を数え直している。
冗談に見せた言葉の奥で、警戒だけが残っていた。
ジルは冷たい目を向ける。
ルシの口元は、隠す気の薄い笑みを作っていた。
「楽しんでいるな」
「少し」
「隠せ」
「努力はしてる」
「足りない」
軽口を交わしていても、二人の歩調は乱れない。
ルシは客の視線を笑顔で受け流しながら、入口脇の護衛を数えている。ジルは石段を上がる足取りの中から、戦闘に慣れた者の重心を拾っていた。
右側に二人。
どちらも館の護衛。
左の柱廊に立つ男だけは、礼装の下で肩が軽い。給仕や私兵ではない可能性がある。
迎賓館の入口で、ルシが招待状を差し出す。
厚手の紙が開かれ、受付係の指が偽造された商会印の上をなぞった。
「西方商会代理人のジル様。案内役兼通訳のルシです」
ルシの声には、いつもの軽さを薄く残した丁寧さがある。
受付係は招待状とジルの顔を見比べ、一拍遅れて頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました」
ジルは短く頷く。
ルシが横で声を落とした。
「こういう時は、少し笑った方が怪しまれないぞ」
「お前が笑っていろ」
「役割分担?」
「そうだ」
「了解」
ルシの表情が変わる。
人懐こく、警戒を抱かせず、相手にもう一言話してもいいと思わせる笑み。
受付係の肩から、わずかに力が抜けた。
その変化を、ジルは見逃さなかった。
ルシは、場に合わせるのが上手い。
相手へ近づきすぎず、退きすぎず、気分よく口を開かせる距離を知っている。
軽いだけではない。
その軽ささえ、相手の警戒を下げるために使っている。
ジルが不得手なものを、ルシは平然とやってのける。
「何?」
視線に気づいたルシが、小声で聞く。
「何でもない」
「今、褒めかけた顔だった」
「していない」
「した」
「黙れ」
ルシは笑いを堪えながら、大広間へ足を進めた。
*
大広間には、眩しいほどの光が満ちていた。
宝石をまとった婦人。銀縁の杯を手にした老紳士。寄付名簿の頁をめくる商人。
孤児院の名を口にしながら、隣の者がいくら差し出すかを測る男たち。
音楽隊の弦が柔らかな旋律を奏で、杯の縁が触れ合う細い音が、その合間に混じっている。
出入口は三つ。
正面の大扉。
庭園へ抜ける硝子扉。
東側廊下へ続く細い扉。
ジルは順に確認し、それから壁際に置かれた慈善用の寄付箱へ視線を移した。
硬貨が落ちるたび、木箱の底から乾いた音が返る。
白弦商会の印が入った寄付品目録も並べられていた。
ジルは目録を一瞥する。
紙、薬、毛布、保存食。
美しい筆跡で書かれた商会名の下に、別の金と物資の流れが隠れている。
白弦商会の裏経路は、刃を握らない。
紙と名義と荷車を渡し、握る者の顔を商人や護衛の中へ隠す。
だから、汚れた手だけが見えにくい。
ルシが口元の笑みを崩さず囁く。
「右奥。杯を持ってない二人が帳簿係だ。片方は、同じ使用人を三度呼び止めてる」
「もう一人は」
「寄付名簿じゃなく、庭へ抜ける扉ばかり見てる。帳簿より出入りが気になるらしい」
「左は」
「グレイル家側。話してるのは寄付額。でも見てるのは、誰がどの封筒を持ってきたかだな」
「よく喋る」
「必要な情報だろ」
「声を落とせ」
「はいはい」
ルシは給仕から杯を受け取る。
酒には口をつけず、指先だけで自然に持ち替えた。
会話を続けるための道具として持っているだけで、飲むつもりはないらしい。
その時、ジルの懐で薄い札が一度だけ温んだ。
位置共有札。
ゼルが会場内へ入ったらしい。
声も方角も伝えない。ただ、近くにいると知らせるだけの短い熱。
冷たく呼び戻す白梟の札とは違う。
ジルは一瞬だけ意識を向け、すぐに人の流れへ視線を戻した。
「外周は」
ルシの袖の内側で、通信符がごく小さく震えた。
笑顔のまま指先で触れ、短い報告を読む。
「庭園側と屋根の見張りが二人、持ち場から消えた。兄貴が止めたな」
「殺したのか」
「まさか」
ルシは杯を軽く掲げる。
「武器を落として、静かに休んでもらったらしい」
「回りくどい」
「貴族の夜会だからな。上品に言わないと」
ジルは返さなかった。
庭園側の硝子扉の向こうで、黒い影が一瞬だけ動いた。
カインだ。
夜会の光が届かない庭木の陰で、低い重心のまま護衛の腕を押さえている。その左側に、ゼルの影があった。
ゼルの右腕輪の刻線に、淡い琥珀が灯った。
外套の陰、手首のすぐ上へ小さな二重環が低く水平に浮かぶ。銀筆が内環を一目盛りだけ絞ると、円環はすぐに右腕輪へ沈んだ。
次の瞬間、ゼルの指先から細い琥珀線が伸び、カインの左耳裏へ静かに届く。
外から見れば、魔石灯の反射が一瞬流れたようにしか見えない。
カインは左を見ない。
それでも、左側から回り込もうとしたもう一人の護衛へ迷いなく反応し、武器を抜かせる前に肘を封じた。
押さえつけられているのではない。
カインの動きは、カイン自身のものだった。
ゼルはただ、見えにくい側へ必要な線を置いている。
ジルは、その一瞬を目に留めた。
補う。
縛らない。
言葉にすれば簡単だが、実際にやるのは難しい。
視線が大広間の中央へ戻る。
そこに、ラザロ・グレイルがいた。
白髪交じりの髪を整え、品のよい礼装を身につけている。客と杯を合わせ、慈善の意義について穏やかに語っていた。
笑みも礼儀も崩れない。
だが、話し相手が変わるたび、目だけが別のものを測っている。
寄付額。
家名。
連れている者。
持ち込んだ封筒。
使える相手か、切り捨てられる相手か。
自分で刃を握らず、他人の手と血で道を作ろうとする者の目だった。
「来たな」
ルシが小さく言う。
ラザロがこちらへ歩いてくる。
周囲の客が、意識せず道を空けた。
「西方商会代理人のジル殿ですな」
ラザロは優雅に微笑む。
「今宵はお越しいただき、感謝いたします」
「招待を受けた」
ジルが短く答える。
「遠路ご苦労でした。こちらは?」
ラザロの視線がルシへ移った。
ルシは柔らかく頭を下げる。
「案内役兼通訳のルシです。ジル様は、この街の夜会にはまだ不慣れでして」
「なるほど。よい案内役をお持ちだ」
「恐縮です」
ルシの笑顔は崩れない。
ただ、ラザロの視線がジルの外套の内側を測った瞬間だけ、目元の温度がわずかに下がった。
ジルには、ラザロの視線がどこを測っているか見えていた。
顔。
手元。
外套の内側。
腰の位置。
文書を持っているか。
刃を隠しているか。
そして、二人のどちらが先に動くか。
ラザロは声を少し落とした。
「人目のある場所では扱いにくい話でしょう。寄付者向けの応接室がございます。そちらでお話を」
「応接室?」
ルシが笑顔のまま問い返す。
踏み込みたい問いを、夜会用の声に包んで飲み込んだ顔だった。
「ええ。静かな部屋です」
ジルが答えるより先に、大広間の反対側で白い手袋が動いた。
杯の縁を、曇りひとつ残さないように指先が整える。
その手の持ち主は、白灰色の礼装をまとった長身の男だった。
隙なく撫でつけられた灰銀の髪。その下から、冷たい灰色の目がまっすぐジルを捉えている。
弦の音が、急に遠くなった。
白い手袋。
整えられた袖口。
曖昧さを許さない目。
ジルの呼吸が一拍だけ浅くなる。
「ジル」
ルシの声は低い。
笑みはもうなかった。
ジルの呼吸が浅くなった一拍を、見逃していない顔だった。
「……問題ない」
「今、呼吸が止まったぞ」
「黙れ」
男は白い手袋の指を杯から離し、ゆっくり近づいてきた。
ヴェイン。
ジルはその名を口にしなかった。
白い王都の記録棚。
封緘具。
任務札。
誰の名を残し、誰の名を消すかを、刃が動く前に決めていた男。
「久しいね」
穏やかな声だった。
大広間のざわめきへ紛れるほど静かなのに、その一語だけは耳の奥へ冷たく届く。
「《銀羽》」
名前ではない。
任務で使う刃につけられた符牒。
左鎖骨下が、布の下でごく浅く冷えた。
ジルの指先が、袖の内側でわずかに硬くなる。
隣で、ルシの目から笑いが消えた。
「ジルだ」
低い声だった。
夜会のざわめきに紛れる程度の音量。
けれど、その一語だけは、刃のようにまっすぐ落ちた。
ヴェインの視線が、ゆっくりルシへ移る。
ルシの口元だけは夜会用の形を保っていたが、目だけは少しも笑っていない。
ジルは表情を変えない。
「人違いだ」
「そういうことにしておこう」
ヴェインは杯の位置を、もう一度だけ整える。
「今は」
ラザロの指が、持っていた杯を強く握った。
杯の脚が、指輪へ触れて小さく鳴る。
その音だけで、誰がこの場を握っているかは十分に分かった。
ヴェインの方が明らかに上だった。
「お知り合いですか?」
ルシが笑みを少しだけ薄くする。
踏み込みたい問いを、夜会用の声に包んで飲み込んだ顔だった。
「昔の仕事場で、少しね」
ヴェインが答えた。
「彼はとても優秀だった」
「それはそれは」
ルシは笑う。
「ですが今夜は、オレが案内している客人なので」
自分の客とは言わない。
案内している客人。
ルシはジルを自分の側へ囲い込む言葉を使わなかった。
「君が噂の情報屋か」
ヴェインの視線が、ルシの顔から立ち位置へ滑る。
「軽い顔をしている」
「よく言われます」
「軽い者は、重いものを持つには向かない」
ルシの口元には笑みが残っている。
目だけが、冷えた。
「重いからといって、勝手に持ち主を決めていいわけでもないでしょう」
空気が薄く張る。
ジルは横目でルシを見る。
踏み込みすぎるなと言う前に、ルシは半歩退いた。
逃げ道を塞がない。
それでも、隣から消えはしない。
ヴェインは、その距離まで見ていた。
「面白い」
ラザロが小さく咳払いをする。
「では、詳しい話は奥で」
ジルは頷いた。
罠があることは、入る前から分かっている。
それでも今は、相手の言葉を残す方が先だった。
ルシも隣を歩き出す。
触れない。
前にも出ない。
懐の位置共有札が、体温に紛れる程度の熱を残していた。
*
東側廊下へ入ると、大広間の音が絨毯へ吸われていった。
白い花の香りが濃すぎる。
香りの下に、蝋と金属の薄い匂いがある。
隠すための香りだ。
壁には古い肖像画。足音を沈める厚い絨毯。廊下の奥にある両開きの扉。
扉の金具には、閉じた後に内側から噛み合う細い刻線。
絨毯の縁には、踏んだ重みを一拍遅れて拾う白い糸。
蝶番の脇には、音を廊下へ逃がさないための薄い蝋が塗られている。
白梟で何度も見た仕込みだった。
見慣れているからこそ、見落とせない。
ルシが扉の前で小さく呟く。
「嫌な部屋だな」
「今さらか」
「言ってみただけ」
ラザロが扉を開く。
小応接室には、低い白卓と四脚の椅子が置かれていた。庭園側の窓は厚い幕に半ば隠されている。
部屋の隅には、茶器を載せた盆を抱えた若い使用人が立たされていた。
退出を許されていないらしい。
視線を伏せたまま、盆を支える指を強張らせている。茶器の受け皿が、ごく小さく震えていた。
厚い幕の向こうには、二つの呼吸。
浅いものと、長く抑えたもの。
ジルは数えたが、そちらを見なかった。
ヴェインは当然のように、窓寄りの奥席へ腰を下ろす。
ラザロは白卓の横。
ジルとルシは扉に近い位置へ立ったまま、椅子には座らない。
「警戒深いね」
ヴェインが言う。
「白梟の罠がある部屋で座るほど、鈍くはない」
「ここはグレイル家の迎賓館だ」
「白梟の匂いがする」
ラザロの眉間に皺が寄る。
「言葉に気をつけたまえ」
ジルはラザロを見た。
「お前にか?」
静かな声だった。
それだけで、ラザロの喉が詰まる。
ヴェインが小さく笑った。
「変わらないな」
「お前もな」
「いや、君は変わった」
ヴェインの冷たい目が、ルシへ向く。
「隣に余計なものを置くようになった」
ルシの笑みが完全に消えた。
「余計かどうかは、本人が決めることですよ」
「本人?」
ヴェインは楽しげに繰り返す。
「白梟の刃に、本人などという言葉が必要だったかな」
刃。
鍵。
役目を果たすためのもの。
そこに本人という言葉は要らない。
白梟では、何度もそう扱われた。
ジルの指が外套の内側へ滑る。
短剣の柄に触れる。
抜かない。
まだだ。
ルシが一歩、前へ出かける。
ジルはその袖を掴んだ。
布越しに腕の動きが止まる。
「動くな」
「……分かってる」
「分かっていない顔だ」
「今だけは分かってる」
指を離す。
任務上の制止。
それ以上でも、それ以下でもない。
ルシは前へ出なかった。
だが、扉側へ退いてジルから距離を取ることもしない。
ラザロは焦れたように口を開く。
「取引の話をしましょう」
ルシが袖口を整える。
布の陰で、録音魔石が淡く光った。
「こちらが求めるのは二つです」
ラザロはジルへ向けて言う。
「あなたの身柄。そして、あなたが持っている機密文書」
ルシの指が止まる。
それまで衣擦れに紛れていた小さな音が、一瞬だけ消えた。
だが、口は挟まなかった。
ジルは懐から黒い封筒を取り出した。
黒燈の保全卓で用意した封筒だ。
厚みも重さも、白梟が欲しがる文書に似せてある。だが、本物なら、こんな場所へ持ち込むはずがない。
ジルはそれを白い卓へ置いた。
「文書はこれだ」
黒い封筒が、白い卓上で異様なほど濃く見える。
ラザロの視線が吸い寄せられた。
ヴェインは微笑んだまま、封筒とジルの指先を見ている。
「開けても?」
「封蝋を切れば、中の薄紙が焦げる」
ジルは即答する。
「封じた状態で渡す」
「随分と用心深い」
「お前たちほどではない」
ラザロの指が、黒い封筒へ伸びる。
その瞬間、ヴェインの白い手袋がわずかに持ち上がった。
絨毯の下で、低い音が鳴る。
床板ではない。
術式が噛み合った音。
縫い目から白い糸が立ち上がり、ジルの足首へ巻きつこうと走った。
「右へ半歩」
ジルはルシの腕を引く。
白い糸が二人の間を掠め、ルシの袖布が乾いた音を立てて裂けた。
「床、二つ目」
ルシの指から細針が滑り落ちる。
針先が絨毯の奥の術式核へ触れ、小さな金属音を響かせた。
白い光が一瞬だけ乱れる。
完全には消えない。
「情報屋にしては悪くない」
ヴェインが言った。
「褒められても嬉しくないですね」
ルシは息を整えながら返す。
声に軽さは残っていても、目は笑っていない。
ジルは短剣を抜いた。
首元へ伸びた糸をかわし、白卓の脚に貼られた封蝋片を刃先で砕く。
硬い音とともに、魔力が細かな火花となって散った。
だが、次の糸が床から跳ね上がる。
数が多い。
絨毯だけではない。卓の脚、椅子の飾り釘、暖炉飾りの裏。
室内全体が罠だった。
ヴェインは、最初から話だけをするつもりではない。
それでも話はした。
ルシの袖口で録音魔石が光っていても、ヴェインの笑みは揺れない。
録音されることさえ、想定の内なのだろう。
必要なのは、ジルがここへ来たこと。
黒い封筒を持参したこと。
その事実さえ残れば、内容が偽物でも利用できる。
「後ろも来る」
ルシが低く告げる。
「なら扉を見ろ」
ジルは振り向きざまに短剣を投げた。
刃は床の小さな白い飾り釘を貫く。
術式が一拍だけ止まった。
扉の外で、ゼルの右腕輪に暗い藍紫の光が灯った。
手首のすぐ上へ薄い術式輪が低く開く。銀筆が外環を半目盛りだけ回し、白い拘束術式へ触れる一本だけを残した。
円環が右腕輪へ沈む。
次の瞬間、ゼルの指先から暗い藍紫の《影糸》がほどけ、扉の下の隙間から室内へ滑り込んだ。糸の内側を、青紫の細い芯が走る。
白い拘束糸を消すのではない。
流れをわずかに外側へずらし、踏み込むための一拍を作る。
続いて、右腕輪の刻線が淡い青灰へ変わった。
低く浮いた波紋状の術式輪を銀筆が一段だけ絞る。必要な足音と声は残し、破砕音と悲鳴だけを大広間へ届かせない範囲。
術式輪が腕輪へ沈む。
ゼルが掌を低く開くと、《静域》が廊下へ薄く広がった。
同時に、カインの左耳裏へ沈んでいた琥珀の線が一度だけ震える。
扉の向こうにある人の位置と、左側へ回る一人の輪郭が、一拍分だけ届いた。
次の瞬間、扉が内側へ砕ける。
破砕音は、扉の外へ薄く張られた《静域》に包まれ、大広間へ届く前に鈍く沈んだ。
黒い外套の裾を翻し、カインが踏み込んでくる。
片目だけの視線が、室内の術式、ラザロ、ヴェイン、ジル、ルシ、そして隠れていた護衛を瞬時に測った。
「遅い」
ジルが言う。
「黙れ」
カインは短く返す。
厚い幕の陰から護衛が飛び出した。
一人は正面。
もう一人は、カインの左側。
眼帯のある側へ回り込む、分かりやすい動きだった。
カインは振り向かなかった。
左耳裏に沈んだ琥珀の線が、一拍だけ淡く震える。
護衛の肩。
刃の角度。
踏み込む足の浅さ。
見えているわけではない。
だが、左側へ線が置かれている。
カインは正面の男の武器を持つ手首を叩き下ろし、そのまま左へ半歩沈んだ。
背後へ回ろうとした護衛の膝裏を、短剣の柄が打つ。
短剣が絨毯へ落ち、鈍い音を立てた。
もう一人は肩関節を外され、声を上げる前に床へ沈む。
殺さない。
それでも、二人とも立てない。
黒燈式の制圧だった。
ゼルも廊下側から入った。
指先から伸びた暗い藍紫の《影糸》が、白い拘束術式の流れを拾い、外側へずらした状態を維持している。
銀筆はすでに右腕輪脇の収納具へ戻されていた。
「カイン、窓は開けないで。外側の札が、追う者を拾う」
「分かった」
返事に迷いはない。
窓へ踏み込もうとしていたカインの足が止まる。
ゼルが渡したのは、必要な情報だけだった。
カインの腕を引くことも、立つ位置を強制することもない。
カインは一瞬でそれを受け取り、自分の足を止める。
ジルは、その連携を視界の端に捉えた。
誰かの死角を補う距離。
背後に立ちながら、首輪にはならない関係。
白い王都で聞いた声が、記憶の奥を一瞬だけ掠める。
守る。
君のためだ。
そう言いながら、逃げ道を狭めていった声。
だが、そこへ沈む時ではない。
ヴェインが動いた。
白卓の上から、黒い封筒を取る。
ラザロが叫んだ。
「まだ取引は――!」
「終わりだよ、ラザロ卿」
ヴェインの声は変わらない。
「君の役目は終わった」
部屋の空気が、冷たく静まる。
ラザロの顔から血の気が引いた。
ヴェインが窓へ向かう。
カインが踏み込もうとした瞬間、白い袖から細い刃が放たれた。
狙いはカインではない。
部屋の隅で身を縮めていた使用人。
逃走のために、黒燈側の選択を縛る一手。
風を裂く細い音が走る。
室内へ張られていた暗い藍紫の《影糸》が、飛来する細刃へ横から触れた。
糸の内側を走る青紫の芯が一度だけ強まり、刃の軌道を使用人の外側へ弾く。
細刃は使用人の頬を掠めることなく、壁へ突き立った。
使用人が盆を落とした。
茶器が絨毯へ崩れ、陶器同士のぶつかる音が重なる。
その一拍で、ヴェインは窓を開けた。
庭園の闇で、白い外套の影が二つ動く。
伏兵。
カインが低く舌打ちする。
ジルは窓へ向かった。
追えない距離ではない。
だが、窓枠の内側で追跡札が淡く明滅している。
そこを越えれば、追う側の魔力と足取りを拾われる。
背後では、使用人が床に崩れたまま息を乱していた。
ラザロも、録音魔石も、この部屋に残っている。
ヴェインを追う。
証言を残す。
両方を選べるだけの時間はない。
ジルの足は、窓枠の手前で止まりかけた。
「ジル、罠だ」
「見えている」
「追うな」
「命令するな」
ルシの声から、最後の軽さが消える。
一拍の沈黙。
次に来た声は、先ほどより低かった。
「……頼んでる」
命令ではない。
ジルの代わりに選ぶ言葉でもない。
ルシは窓への道を塞がず、ジルの返事を待っていた。
ジルは窓の外を見る。
逃げるヴェイン。
追跡札。
背後に残る人間と証言。
追わない理由は、もう自分の目で選び終えている。
短剣を下ろした。
ルシに従ったのではない。
それでも、命令ではなく頼んだ声を、判断の外へ捨てもしなかった。
ヴェインは窓の向こうで振り返る。
白い手袋の指先が、黒い封筒を軽く掲げた。
「偽物でも、君が持ってきたという事実は残る」
ジルは冷たく見返す。
「使えるならな」
「強がりかな」
「違う」
ルシが隣へ立つ。
ジルより前へは出ない。
窓への道も塞がない。
「ジルは、誰のものにもならない」
静かな声だった。
大きくはない。
だが、部屋の中へはっきり落ちる。
所有を、別の所有で塗り替える言葉ではなかった。
ルシは自分を選べとは言わない。
決める権利を、ジルへ返している。
ヴェインの目が、ルシへ向いた。
ルシは笑っていない。
軽口に逃がせる場面ではないと分かっている顔だった。
「決めるのはジルだ。あんたらじゃない」
「情報屋が、ずいぶん言う」
「情報屋だから言うんですよ」
ルシは一歩も前へ出なかった。
ただ、隣にいる。
ヴェインはしばらくルシを見ていた。
そして、わずかに微笑む。
「覚えておこう」
白い外套の影が庭園の闇へ溶けた。
ヴェインも窓の向こうへ消える。
追えない距離ではない。
それでも、ジルは追わなかった。
*
背後で、ラザロが床へ座り込んだ。
「待て……待ってくれ。私は、白梟に協力しただけで――」
「その協力の内容は、録れている」
ルシが袖口から録音魔石を取り出した。
掌の上で淡い光が明滅している。
ラザロの顔が歪んだ。
「貴様……!」
「案内役兼通訳って言っただろ。聞くのも仕事だ」
ルシは笑っていた。
だが、目だけは笑っていない。
ジルを値踏みした者の声を、逃がす気はない顔だった。
扉の外から、低く重い足音が近づく。
絨毯に沈みながらも、隠しきれない足音だった。
ダリウスが小応接室へ入る。
黒い外套をまとった姿は、白い廊下にも、整えられた室内にも似合わない。
後ろには黒燈の者が数名。
大広間の客を騒ぎから遠ざけ、戦闘が広がらないよう導いていた者たちだ。
ダリウスは室内を一度見回す。
倒された護衛。
床へ崩れた使用人。
開かれた窓。
そして、座り込むラザロ。
「ラザロ・グレイル」
低い声に、ラザロの肩が跳ねる。
「黒燈は、お前をここで裁かない」
ラザロの顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。
「だが、逃がさない」
安堵が消える。
「証言は残してもらう」
「私は利用されただけだ!」
ジルが短剣を鞘へ戻す。
硬い音が、ラザロの言葉を断った。
「なら、生きて証言しろ」
ラザロは言葉を失う。
ダリウスが黒燈の者へ目配せした。
「拘束しろ。客は順に帰せ。使用人と怪我人を見ろ」
「了解」
黒燈の者たちが動き出す。
手首を固定する革具が締まり、金具が小さく鳴った。
ゼルは床へ崩れた使用人の前に膝をつく。
「大丈夫。もう刃は来ない」
穏やかな声で呼吸を整えさせながら、震える手から割れた茶器を遠ざけていく。
カインは窓際に立ち、庭園の闇を見ていた。
片足はいつでも踏み出せる位置にある。
だが、ゼルが追跡札を指摘してから、その足は窓枠を越えていない。
カインの左耳裏へ沈んでいた琥珀の線は、もう消えている。
ゼルの右腕輪も、戦闘前の暗い黒銀へ戻っていた。
それでも、ゼルはカインの左側から離れなかった。
近すぎず、遠すぎず。
カインの進路を塞がず、必要な時だけ届く距離。
カインも、そこにゼルがいることを当然のように置いている。
ジルはその背を見る。
次に、自分の足元へ視線を落とした。
昔なら、標的だけを追った。
証言も、退路も、誰かの命も、任務の外へ置いて。
今は違う。
追跡札がある。
ヴェインは、追わせることまで利用する。
何より、ここには残すべき声がある。
ジルは短く息を吐いた。
「戻る」
ルシがこちらを見る。
「いいのか」
「追えば、こちらの退路が割れる」
「それだけ?」
問い詰める声ではなかった。
正解を要求する目でもない。
ジルが何を選んだのか、確認しようとしているだけだった。
ジルは横目を向ける。
「それで十分だ」
ルシの表情が、わずかに緩んだ。
「そっか」
「何だ」
「別に」
「言いたそうな顔をするな」
「言わない努力をしてる」
「続けろ」
「はいはい」
ルシは廊下側へ顎を向ける。
「戻ろうぜ、相棒」
ジルは睨んだ。
「誰が相棒だ」
「任務中だけの」
ジルは一拍、黙る。
白い窓。
逃げたヴェイン。
残した証言。
隣で、返事を急かさず待っている男。
「……任務中だけなら、呼んでもいい」
ルシは珍しく、すぐには答えなかった。
赤みを帯びた目が、わずかに見開かれる。
その一拍の間だけ、目元が柔らかくなる。
すぐに茶化すには惜しいものを受け取ったような顔だった。
その一拍を、ジルは見た。
「了解」
声はいつもより少しだけ低かった。
それから、ルシの口元だけが緩む。
「そこで笑うな」
「笑ってない」
「口元が笑っている」
「気のせい」
「録音魔石を出せ」
「なんで?」
「今の台詞が入っていたら割る」
「任務の大事な証拠なんだけど」
「なら消せ」
「冗談だって。そもそも今はもう止めてる」
「信用できない」
「ひどいな、相棒」
軽く言った後、ルシの笑みが少し遅れて消えた。
その呼び方を許された線の中へ、きちんと戻すような間だった。
「任務中だけだ」
カインが窓際から低く言う。
「浮かれるな。まだ任務中だ」
「兄貴、今の空気で言う?」
「言う」
ゼルが使用人を黒燈の者へ預け、静かに立ち上がった。
「帰るまで気を抜かないで。外側の札は、まだ生きている」
ダリウスが頷く。
「裏手から出る。固まるな」
小応接室を出ると、大広間の音楽が壁越しに戻ってきた。
何事もなかったように続く弦の音。
白い灯り。
慈善を語る声。
その裏で、黒燈の者たちがラザロを移送し、客を騒ぎから遠ざけている。
誰かをその場で裁くためではない。
証拠と証言を、生きたまま黒い灯りの下へ運ぶために。
ジルたちは、人目の少ない裏手回廊へ入った。
冷たい空気が、開いた細窓から流れ込む。
回廊の先には、ノクティルムの黒い夜が見えていた。
白い手袋に持ち去られた黒い封筒。
逃げたヴェイン。
残されたラザロの証言と録音魔石。
まだ終わってはいない。
ジルは一人で窓を越える代わりに、黒燈と同じ方向へ歩き出す。
その背を、ルシが一度だけ見る。
ジルがこちらを見ていない間だけ、目元が少し柔らかくなった。
前を行くダリウスの足音。
外周を警戒するカイン。
その左を補う位置に立つゼル。
そして、ルシが隣へ並ぶ。
「行くぞ、任務中だけの相棒さん」
ルシの声は軽い。
けれど、次の一歩だけがいつもより半歩遅れた。
任務中だけ。
その線を越えないよう、自分で足場を確かめるような間だった。
「任務中だけだ」
「はいはい」
返事は軽い。
ただ、ルシはジルより先へ出なかった。
その言葉を否定されなかったことを、口には出さず、同じ歩幅の中へしまっていた。
「調子に乗るな」
「まだ乗ってないって」
ジルはそれ以上返さなかった。
軽口を切り捨てることも、足を速めて引き離すこともしない。
ただ、隣に並ぶ足音を拒まない。
白い灯りの続く回廊の先で、黒い王都の夜が待っていた。
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