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第1部 魔族王都編
第22話 偽文書の行方
旧迎賓館の裏手回廊には、大広間の音が薄く漏れていた。
弦楽器の柔らかな旋律。杯が触れ合う細い音。絹の衣擦れと、途切れることのない笑い声。
白い灯りの下では、今も何事もなかったように慈善と善意が語られているのだろう。
その壁一枚向こうで、ラザロ・グレイルの両手には逃走防止の革具が回されていた。
黒燈の者が左右を固め、裏口から連れ出す準備を進めている。先ほどまでまとっていた貴族の余裕は消え、顔色は蝋のように白い。
ルシの袖口では、録音魔石が淡く明滅していた。
ラザロの視線が、その光へ落ちる。唇が引きつり、革具の金具が腕の動きに合わせて小さく鳴った。
「貴様……卑怯な真似を」
「案内役は、話も聞くんですよ」
ルシは軽く返した。
声にはいつもの調子が残っている。
だが、軽口の後、笑みは少し遅れて消えた。
ラザロの声を逃がす気のない目だけが、録音魔石の淡い光を見ている。
ダリウスが低く告げる。
「ラザロは連れて戻る」
「裏稼業の者が、私を裁くつもりか」
「ここでは裁かん」
短い声だった。
「口も塞がせない。生きたまま戻し、声と記録を残す」
録音魔石だけで、すべてが決まるわけではない。
だが、ラザロ自身がジルの身柄と機密文書を求め、白梟へ渡そうとした声は残る。保全された証言や金の流れと照らすための一片にはなる。
「カイン」
「ああ」
カインがラザロの腕を取った。
荒くはない。だが、抗う余地もない。
ラザロが身を捩りかけた瞬間、カインの片目が冷たく動く。黒い礼装の靴が一歩、低い音を立てて置かれた。
それだけで、ラザロの足が止まる。
「裏口の者へ渡す。表向きは体調不良で退席だ」
ダリウスの指示に、カインがラザロを促す。
廊下の奥へ、低い足音が遠ざかっていった。
ジルは、その背を見ていなかった。
視線は庭園の闇へ向いている。
ヴェインが持ち去った黒い封筒。
偽文書そのものに、核心的な価値はない。
だが、ジルがそれを持って取引の場へ現れたという事実だけを切り取れば、白梟は好きな記録へ整えられる。
内通者。
裏切り者。
黒燈を欺き、白梟へ文書を戻そうとした元実働員。
白い記録は、都合のいい部分だけを残す。
不要な声を削り、整った文面に直してしまう。
ジルの指が、外套の内側で短剣の柄へ触れた。
「ジル」
ルシが呼ぶ。
「何だ」
「今は抜くなよ」
「抜かない」
「なら、そのまま聞け。まだこっちにも手がある」
ルシは笑っていなかった。
ジルが短剣の柄へ触れたことに気づいている目だった。
ジルの目がわずかに動く。
「手?」
小応接室の罠を封じ終えたゼルが、庭側の扉から戻ってきた。外した手袋を帯へ差し込み、右腕の黒銀腕輪へ指を添えている。
「最初から逃がすつもりだったのか」
「逃げられる可能性も見ていた、かな」
ゼルはジルの返答を急かさず、腕輪へ添えた指を下ろした。
持たせた封筒へ、本人に告げず《影糸》の反応点を仕込んだ。
気に入る方法ではない。
だが、ジル自身を追跡する糸ではない。偽文書の封が開いた時、その方角を一度だけ返す細い保険だった。
ジルは数秒、ゼルを見る。
「……悪くない」
ゼルの目元がわずかに和らいだ。
「ありがとう」
ルシが即座に横から覗き込む。
「ゼルさんには素直に言うんだな」
軽く言ったはずのルシの返事が、ほんの一拍だけ遅れた。
ジルが誰かの判断を認めたことを、茶化す前に拾った顔だった。
「お前より落ち着いているからな」
「ひどい」
「否定できるのか」
「……できないけど」
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
足元から「きゅう」と割り込む声はない。
クロは旧迎賓館から離れた黒燈の待機所で、伝令札入れを背負ったまま待っている。
「クロがいたら、今ごろジルの靴に張りついてるな」
「任務外の毛玉を数えるな」
「思い浮かべたの、お前だろ」
「黙れ」
ダリウスが二人を見る。
「遊ぶのは戻ってからだ」
空気が締まった。
「録音魔石はルシが持て。複製せずに戻す。複製は保全室で作る」
「了解」
「ゼルは残った拘束術式を封じろ。使用人が誤って踏まない状態にする」
「分かった」
「ラザロの移送が済み次第、カインも戻す」
ダリウスは最後にジルへ目を向けた。
「反応が来るまでは動くな」
「分かっている」
「焦れば、向こうの盤面に乗る」
ヴェインを追って窓を越えれば、今頃どこを走っていたか。
考える必要はなかった。
あの男は追わせる場所まで用意する。
追跡を急ぐことと、敵の用意した退路へ踏み込むことは同じではない。
ジルは短剣の柄から指を離した。
「分かっていると言った」
ダリウスはそれ以上言わなかった。
*
旧迎賓館の大広間は、まだ白い光を揺らしていた。
ラザロ・グレイルが姿を消しても、客たちはすぐに別の話題へ移ったらしい。音楽隊は次の曲を奏で、花で飾られた寄付箱の前では、善意の額が笑顔で語られている。
誰かが裏で拘束されていても、杯が満たされている限り、夜会は続く。
ルシは、隣を歩くジルを横目で見た。
壁に沿って並ぶ白い柱。
整えられた花。
濃すぎる香料。
ジルの足取りは乱れていない。視線も、回廊の先と庭園側の柱の陰を順に拾っている。
ただ、呼吸が浅い。
白い館へ入ってから、何度か見た変化だった。
「こういう場所、嫌いそうだな」
ルシが言った。
「嫌いだ」
「即答」
「隠す理由がない」
「まあ、オレも好きじゃない」
ジルが横目を向ける。
「お前はうまく笑っていた」
「笑うのが上手いのと、好きなのは別だろ」
「情報屋らしいな」
「褒めた?」
「感想だ」
「はいはい」
庭園へ開いた場所まで来ると、冷たい夜風が入り込んだ。
濃い花の香りが薄れ、ジルの肩を少し越える銀髪が外套へ触れる。柱の向こうには、ノクティルムの黒い夜が広がっていた。
白い館の灯りとは違う、雑多な魔石灯の瞬き。
ジルは手すりの前で足を止める。
ルシも隣に立ったが、顔を覗き込むことはしなかった。
大広間から漏れる旋律を聞くふりをして、続きを待つ。
「少し、息が詰まった」
ジルが言った。
ルシは一瞬だけ目を瞬く。
聞き返しかけた言葉を、喉の奥で止めた。
その目元だけが、ジルが見ていない間にほんの少し柔らかくなる。
ジルが、自分から話した。
理由を問われたからでも、報告を求められたからでもない。
それだけで、今は十分だった。
「そうか」
ルシはそれだけ返した。
笑わない。
からかわない。
その沈黙を、ジルが自分で続きを置けるだけの余白として残した。
軽口へ変えれば、ジルはすぐに口を閉ざす。
問い詰めれば、逃げ道を探す。
だから、次を話すかどうかはジルへ残した。
ジルの眉がわずかに寄る。
沈黙を埋めなかったことを、かえって面倒がっているようにも見えた。
「ヴェインは、白梟の奥で記録を見ていた」
ジルは庭の向こうを見たまま続ける。
「誰かへ命じるより先に、逃げ道を削る男だ。必要な時だけ、他人に残酷な選択をさせる」
「アルドリックに近い側か」
「ああ」
返事までの間が短い。
だが、声は先ほどより低かった。
「俺が白梟の本部へ移った頃から、あいつは見ていた。手を出さず、止めもせず、記録だけを残して」
「見守ってた、とは言えないな」
「観察だ」
「もっと嫌だ」
短い沈黙。
夜風の中で、ジルの銀髪が揺れる。
「俺を白梟へ戻せるか、確かめに来たんだろう」
戻せる。
また物のような言い方をする。
ルシの声から温度が落ちた。
「戻せるって、物みたいに言うな」
「白梟にとってはそうだ」
「でも、お前が決めることだ」
ルシはジルを見る。
真正面から。
今度は、返答を軽口へ逃がさせない。
ただし、どちらを選べとも言わない。
「戻るのか」
ジルは白い館ではなく、その外にある黒い王都を見た。
返事までの時間は、長くなかった。
「戻らない」
ルシの表情が、一瞬だけ止まった。
喜びに変えるには早すぎる答えだと分かっている顔だった。
胸の奥へ、静かに何かが落ちる。
喜ぶ場面ではない。
ルシが引き留めた結果でもない。
ジル自身が見て、決めた答えだ。
「聞いた」
声は軽くなかった。
「忘れるな」
「忘れない」
ルシは短く答えた。
その目だけが、いつもの情報屋のものより少しだけ静かだった。
小さな変化を覚えておくのは、情報屋の仕事だった。
戻らない。
今は、その言葉を余計な意味へ広げず、そのまま覚えればいい。
回廊の奥から、静かな足音が近づいた。
ゼルだった。
右腕の腕輪へ指を置き、表情を引き締めている。
「開かれた」
ルシの意識が切り替わる。
ジルもすぐに手すりから目を離した。
「場所は」
「北西。反応が返った向きと残響から、水路と古い倉庫街が重なる辺りまでは絞れる」
腕輪の刻線に残った熱は、すでに薄れ始めていた。
「揺れは一度だけだ。もう追えない」
「十分だ」
ジルは手すりから離れる。
「旧水門」
ルシもすぐに袖口の通信符を確かめた。
「そこで開けたか」
「おそらくな」
「すぐ動くぞ」
ジルが歩き出す。
足取りに迷いはない。
だが、単独で廊下の先へ消えるような速さでもなかった。
「一人で先に行くなよ」
ルシが背へ言う。
笑みはない。
追いかける準備ではなく、隣へ戻る前提で置いた声だった。
ジルは足を止めない。
「当然だ」
ルシは一瞬、次の軽口を忘れた。
赤みを帯びた目がわずかに見開かれる。
すぐに笑みに戻すには、少しだけ惜しい返事だった。
以前なら返ってこなかった言葉だ。
言われなくても一人で動く。追う方が遅れれば置いていく。
それがジルだった。
その男が、今は一人で行かないことを当然だと言った。
「その当然、最近よく効くな」
軽口の後、ルシの笑みが少し遅れて消えた。
ジルが一人で行かないことを、口に出さずに受け止める顔だった。
「任務だ。黙って動け」
「はいはい」
ルシは笑いを声へ乗せすぎないよう抑え、ジルの隣へ追いついた。
ゼルが細い通信符を開く。
カインとダリウスへ、旧水門の名が送られる。
白い夜会の音楽を背に、次の追跡が始まった。
*
旧水門は、ノクティルム北西の外れに沈んでいた。
かつて王都の古い排水と物資運搬に使われていた水路施設だ。
使われなくなった倉庫の裏から、湿った石段が水門前の広い石床へ下りている。頭上には水路を跨ぐ細い橋梁。陸へ戻る出口は東側にひとつ。反対には黒い水路が口を開け、その脇の錆びた杭へ小舟が一艘繋がれていた。
荷と人を人目につかず移すには都合のよい、忘れられた施設。
出口は東の石段。
水路側には舟。
橋梁の上からも陸へ移れるが、足場は細く、崩れた箇所がある。
ジルは最初に退路を数えた。
水滴が苔むした石を打っている。
流れに引かれた鉄鎖が、不規則な軋みを返す。湿った石と古い木材、水底の泥が混ざった匂い。
貴族街の白い香料は、もう残っていなかった。
ジルとルシは礼装の上に黒い外套を羽織り、倉庫裏の石段を下りる。
礼装の裾が普段よりわずかに脚へ絡む。
動けないほどではない。
だが、いつもの任務装束より一歩の幅が狭い。
ジルは外套の内側へ指を滑らせた。
腰の短剣。
袖の薄刃。
腰裏の隠し刃。
靴底の刃。
すべてある。
外へ戻る道も、視界に収めた。
「反応は?」
ルシが囁く。
「もうない。封を閉じたか、《影糸》を切った」
「でも、ここまでは掴んだ」
「ああ」
二人は倉庫脇の崩れた石壁へ身を寄せた。
前方、水門脇の石床に五人いる。
白灰色の礼装を乱さず立つヴェイン。
苛立ちを隠そうともしないレヴィ。
白弦商会の名義を使って雇われたらしい協力者が二人。
そして、黒い封筒から取り出した紙を調べる、細身のエルフが一人。白梟側の封緘確認役だろう。顔に覚えはないが、紙の角を揃え、封蝋の欠けを指先でなぞる手つきは、記録を扱う者のものだった。
ヴェインの背後には、水路へ向けて小舟が用意されている。
逃走路。
最初から、そのつもりで選ばれた場所だ。
封緘確認役が、文書を魔石灯へ透かす。
紙を返す音が、水音の間に乾いて響いた。
「偽物です」
レヴィが舌打ちする。
「精巧ですが、要所が抜けています。表の印は似せてありますが、書いた痕と封の重なりが噛み合っていません。核心へも繋がっていません」
「想定どおりだ」
ヴェインは驚かなかった。
差し出された文書を受け取り、折り目を正確に重ね直す。白手袋の指が黒い紙の角を揃えた。
「分かっていて持ち出したのですか」
レヴィの声には、露骨な苛立ちがある。
「《長の銀羽》がこれを持って取引の場へ現れた。その事実だけ残ればいい」
「アルドリック様への報告のためか」
「報告材料の一つにはなる」
ジルの指が、石壁の縁へわずかに食い込む。
横からルシの視線が触れた。
だが、問いは来ない。
ジルは動かなかった。
ヴェインは黒い封筒を革筒へ戻す。
「封を開いた時、補助型の反応糸が切れた。黒燈にも、慎重に保険を残す術者がいるらしい」
ルシが息だけで囁く。
「ゼルさんの《影糸》に気づかれた」
「開けた後だ」
ジルはヴェインを見据える。
「こちらの場所は割れている」
ヴェインの声が、水門へ落ちた。
「ラザロは切り離す。グレイル側もしばらく表立っては動けない。ノクティルムでの工作は、ここで一度畳む」
「畳む?」
レヴィが顔を上げる。
「サイラスを失い、ラザロも使えない。文書の改竄も露見した。これ以上続ければ、白梟の痕跡を増やすだけだ」
人の失敗も、切り捨てるべき名も、書類の項目のように語る声。
ヴェインは淡々としている。
「ただし、確認できたこともある」
冷たい灰色の目が、闇のどこかを探るように細くなる。
「《長の銀羽》は、黒燈を選ぶ側へ傾いている。特に、あの情報屋との連携は想定より進んでいる」
隣で、ルシの呼吸が一度だけ止まる。
目から軽い色が消えた。
今度はジルが、その袖を軽く押さえた。
布越しに、一度だけ。
まだだ。
ルシは目だけで返し、息を吐く。
踏み込みたい顔だった。
けれど、袖を振り払わない。
前へ出ない。
レヴィが低く笑った。
「なら、情報屋を消せばいい」
ジルの指に力が入る。
押さえられた袖の下で、ルシの腕も硬くなった。
それでも、ジルは飛び出さない。
短剣にも触れない。
ヴェインがレヴィへ視線を向ける。
「今は不要だ」
「なぜです」
「今ここで壊せば、《長の銀羽》の回収が難しくなる」
人を殺すかどうかさえ、損得で決める声だった。
胸の奥へ広がった冷たいものを、ジルはまだ怒りとは呼ばない。
ただ、刃を向ける相手は、はっきりした。
ルシがごく小さく言う。
「今は聞け」
「分かっている」
「斬るより先に、あいつらの声を持ち帰るぞ」
ルシの声は低い。
止めるためではなく、ジルが選び直せる一拍を置くための声だった。
今度はルシが、ジルへ判断を返した。
止めるのではない。
何を先に残すかを示している。
ジルは短く息を吐く。
「ああ」
返事と同時に、別方向で影が動いた。
陸側の出口。
カインが壁際へ立っている。片目の視線で敵の人数と武器、水路側の小舟までを測っていた。
頭上の橋梁にはゼル。
ゼルの右腕輪へ、暗い藍紫の光が灯った。
手首のすぐ上に、枝分かれする細線を持つ薄い術式輪が低く水平に浮かぶ。銀筆が外環を半目盛りだけ回した。
範囲は水門内の石床、橋脚、右側の石壁。
触れる強さを落とし、荷重と術式の引っ掛かりだけを拾う感度へ整える。
術式輪が右腕輪へ沈んだ。
次の瞬間、ゼルの指先から暗い藍紫の《影糸》がほどける。糸の内側を青紫の細い光が走り、石の継ぎ目と橋脚の亀裂へ音もなく枝分かれした。
古い術式の残りと、崩れかけた石の状態を拾っていく。
続いて、右腕輪の刻線が淡い琥珀へ変わった。
手首のすぐ上へ、瞳の絞りを思わせる小さな二重環が低く浮かぶ。
銀筆が内環を一目盛りだけ絞った。
渡すのは景色ではない。
水音、石床の傾き、左側から回り込む余地。その輪郭だけ。
二重環が重なり、右腕輪へ沈む。
次の瞬間、ゼルの指先から細い琥珀線が伸びた。
線は水音へ紛れるように走り、下にいるカインの左耳裏へ静かに沈む。
カインの肩は動かない。
左を見ることもない。
ただ、足の置き方が半歩だけ変わった。
ゼルが拾った水音、石床の傾き、橋脚の亀裂、左側から回り込む余地。
景色ではなく、必要な輪郭だけがカインへ渡る。
ジルはそれを、石壁の陰から見た。
あれは視界を奪う術ではない。
命令でも、支配でもない。
左側へ、線を置くだけの補助。
動くのは、カイン自身だ。
橋梁の下で、《影糸》が不意に震える。
ゼルの目が細くなった。
指先が、橋脚の亀裂から右側の石壁へゆっくり動く。
補強用ではない刻線が、橋脚の古い亀裂と右側の石壁、錆びた留め具を一本に繋いでいるらしい。
ゼルは橋梁の陰から、ダリウスへ指先だけで警告を送った。
低い声が、水路へ反響する。
「そこまでだ」
ダリウスが石段から姿を現した。
「陸の逃げ道は押さえた」
レヴィが最初に短剣を抜く。
協力者二人も腰の刃へ手をかけた。
ヴェインだけが、薄い微笑を崩さない。
「想定より早かったですね」
ゼルが橋梁の上から答える。
「あなたが封を開けてくれたからね」
「なるほど。やはり仕込まれていましたか」
「気づかれれば終わりの、細い糸だよ」
「次は、開封前に除くとしましょう」
カインの足が石床を低く鳴らす。
「次を作らせるつもりはない」
封緘確認役が、水路側へ走ろうとした。
ダリウスが一歩で間合いへ入る。
白い袖を掴み、腕を背へ回した。短い息が石壁へぶつかり、封緘確認役の膝が床へ落ちる。
協力者二人がカインへ向かった。
一人目の短剣が斜めに走る。
カインは下がらない。
肘で刃の軌道を外し、手首を捻る。武器が石床へ落ち、低く硬い音を立てた。
二人目はカインの左側から踏み込む。
眼帯のある側。
浅い水たまりの上を、足音を殺して回り込んでいる。
その瞬間、カインの左耳裏に沈んでいた琥珀の線が、わずかに震えた。
痛みではない。
声でもない。
敵の肩。
刃の角度。
水で滑る石床。
左側に必要な輪郭だけが置かれる。
カインは振り向かない。
踵を滑らせ、相手の膝裏を払う。男の身体が崩れたところへ肩を落とし、関節を封じた。
骨は折らない。
命も取らない。
だが、立ち上がる余地は残さない。
「左、助かった」
カインが低く言う。
橋梁の上で、ゼルがわずかに目を細めた。
「いつものことだよ」
「分かっている」
「なら、それでいい」
ジルの前では、レヴィの小型弩が鳴った。
弦が弾ける鋭い音。
毒矢が頬を掠め、背後の木箱へ突き刺さる。鏃から黒い液が一滴、古木へ染みた。
ジルは身体を沈め、そのまま間合いへ入る。
レヴィが短剣を抜いた。
刃同士が触れる。
高い音ではない。水門の石壁に吸われるような、低く硬い音だった。
「ずいぶん変わったな、ジル」
レヴィの口元が歪む。
「仲間に止められなければ動けないのか」
ジルは刃を外へ流し、レヴィの手首へ柄を当てる。
「止められていない」
レヴィが身を引き、空いた手で拘束符を開いた。
白い紙が乾いた音を立てる。
ジルの薄刃が袖から滑り、符の中心を貫いた。術式が立ち上がる前に光が消え、紙片が水気を含んだ石へ落ちる。
「相棒と合わせている」
少し離れた位置で、ルシの表情が一瞬だけ止まった。
口にした言葉が、自分の耳へもはっきり届いた。
白梟の符牒ではない。
誰かに与えられた役名でもない。
自分で認めた、任務中だけの呼び方だった。
「任務中だけだが」
「今それ言うかよ」
返しは軽かった。
けれど、その笑みはすぐには戻らない。
許された呼び方の重さを、ルシも分かっている顔だった。
同時に、細針がレヴィの外套の裾を貫き、ふくらはぎを浅く掠めた。
「手を止めるな」
「止めてない!」
眠り薬は、すぐには効かない。
だが、レヴィの次の踏み込みが半歩だけ鈍る。
その遅れへ、ジルが入った。
短剣を跳ね上げ、脇腹へ柄を打ち込む。
レヴィの息が詰まる。
ジルは退かせた足を追い、喉元へ刃を止めた。
ルシの拘束糸がレヴィの左腕へ絡み、外套ごと引く。
完全には縛られていない。
だが、もう短剣を振るえる姿勢ではなかった。
「黒燈の犬になったか、《銀羽》」
名前ではない声が、水音の中へ落ちる。
ジルの目が冷える。
刃は、喉へ触れる寸前で止まったまま。
白梟なら、ここで切った。
声を残す必要がなければ、立ち上がる余地ごと奪った。
今は違う。
「吠えているのはお前だ」
ジルはレヴィの手首を打ち、短剣を落とした。
金属が石床を跳ねる。
一方、水門の縁では、ヴェインとダリウスが向かい合っていた。
「逃げられると思うな」
ダリウスの声は重い。
「今夜の処理は、ここまでです」
ヴェインの白手袋に、小さな黒い魔石が挟まれていた。
橋梁上のゼルの表情が変わる。
「ダリウス!」
ヴェインの親指が、魔石の表面を押す。
「それは転移具じゃない。崩落術式の起動具だ!」
《影糸》が橋脚の刻線へ走った。
だが、ほどくための動きではない。
どこが落ちるかを読むため、糸が亀裂の形をなぞっていく。
ヴェインの指先で、魔石が砕ける。
乾いた音がした。
まず、足元の奥から低い唸りが返る。
次に、橋脚の亀裂から細かな砂が落ちた。
水面へ幾重もの波紋が走り、錆びた鉄鎖が強く引かれて鳴る。
右側の石壁に、黒い裂け目が広がった。
「橋脚と右壁が落ちる!」
ゼルの声が響く。
同時に、ゼルの右腕輪の上へ淡い琥珀の二重環が再び低く浮かんだ。
銀筆が内環を素早く絞る。
落石。
出口前の石。
左側の捕縛者。
足を置ける幅。
必要な情報だけを残して二重環が噛み合い、右腕輪へ沈んだ。
カインの左耳裏に沈んでいた琥珀線が、細く鋭く震える。
カインの肩が、ごくわずかに沈んだ。
「多い」
「削った」
「足りる」
「うん」
続いて、右腕輪の刻線が暗い藍紫へ切り替わった。
枝分かれする術式輪が一瞬だけ浮かび、銀筆が張力を一段上げる。範囲は、倉庫側の退路へ絞った。
円環が沈むと、ゼルの手の甲へ暗い藍紫の細い光が一度だけ走った。
高い負荷を受けた《影糸》が、出口へ向かう者たちの上へ張り直される。
ダリウスの命令が、水門内を貫く。
「倉庫側へ退け!」
カインは拘束した協力者二人を一本の縄で繋ぎ、倉庫側の石段へ引く。片方が転びかけると、襟を掴んで立たせた。
「走れ。死にたいなら別だ」
封緘確認役は、ダリウスが腕を取ったまま退路へ押し出している。
捕らえた者も、崩落の中へ置き去りにはしない。
ジルはレヴィの襟を掴んだ。
その瞬間、拘束の浅かった右腕が動く。
袖口から、最後の隠し刃が滑った。
狙いはジルではない。
こちらへ駆け寄るルシ。
考えるより先に、ジルの柄打ちがレヴィの腕を横から叩いた。
薄刃が回転し、石床へ落ちる。
「ルシ、糸を寄越せ」
「もう出してる!」
黒い拘束糸がレヴィの両腕と胴へ回る。
今度こそ、外套ごと動きを封じた。
頭上で石が割れた。
橋脚の一部が傾き、拳ほどの石が降る。
ルシは一度だけ落下位置と倉庫側の石段を見比べ、それからレヴィの反対側へ回った。
「片側を持つ」
ルシの顔に笑みはない。
ジルの無理を見抜いた目だけが、少しも逸れなかった。
「離れろ。落ちる」
「見えてる。だから二人で運ぶんだろ!」
強い声だった。
けれど、命令ではない。
一人で背負うなと、そこだけを譲らない顔だった。
一人でも引ける。
少なくとも、そう判断していた。
だが、一人で引くことと、二人で生きて運び出すことは同じではない。
ジルは拒絶の言葉を飲み込んだ。
二人はレヴィの腕をそれぞれ肩へ回す。
気を失いかけた身体の重みが、同時に腕へかかった。
「行くぞ」
「ああ」
足を合わせる。
一歩。
次の一歩。
出口側へ張り直された《影糸》が、拳ほどの落石へ横から触れた。
止めることはできない。
暗い藍紫の糸が強く張り、落下の軌道を半歩だけ外へずらす。
誰かが通り抜ける一瞬を作るだけで精一杯だった。
「ゼル!」
「左は大丈夫。前へ!」
迷いのない声に、カインが踏み込む。
左側を見ないまま、捕らえた二人を石段へ引き上げた。
ダリウスも封緘確認役を外へ押し出す。
崩れ始めた橋梁の向こうで、小舟の綱が外れた。
ヴェインが櫂を水へ差し込む。
白手袋の片手には、黒い封筒がある。
ジルと目が合った。
「また会いましょう、ジル」
石の割れる音の中でも、その穏やかな声だけは届いた。
「その前に、一点だけ」
ヴェインの灰色の目が、ジルの短剣から袖口、足元へ静かに移る。
「あなたは今夜、一度もその目を使っていない」
ジルの指が、レヴィの腕を支えたまま、わずかに止まった。
「使う必要がなかった」
「いいえ」
ヴェインは薄く笑う。
「使えなかったのではない。使わずに、ここまで来た」
水音と崩落の轟きの間で、ほんの一瞬だけ空気が冷えた。
「……黙れ」
「ええ。今は、それで十分です」
白手袋の手が櫂を引く。
「次は白い王都で」
白い王都。
その言葉は、古い傷へ触れる位置を正確に知っていた。
ジルは答えない。
レヴィの拘束を離さず、身体を倉庫側の石段へ向ける。
ルシと足を合わせ、一段ずつ引き上げた。
背後で、小舟の櫂が水を掻く。
追える距離だった。
それでも、ジルは振り返らない。
ヴェインを追うより先に、レヴィの腕を持ち直す。
今、残すべきものを選んだ。
水門が崩れる轟音の中、小舟の音が暗い水路へ遠ざかっていった。
*
全員が石段を上がった直後、橋梁の一部が中央水路へ崩れ落ちた。
轟音とともに水柱が上がる。
飛び散った水と石粉が夜気を押し、倉庫の壁まで細かな泥を叩きつけた。
崩れたのは旧水門の一角だけだ。
周辺の倉庫や街区まで巻き込むものではない。
それでも、足元には振動が長く残った。
ルシはレヴィの腕を放し、膝へ手をついて荒い息を吐く。
濃紺の礼装の袖は裂け、外套には土埃がこびりついている。
ジルも呼吸を整えた。
指には浅い擦り傷。黒い礼装の裾は泥に濡れている。
足元には、両腕を縛られたレヴィ。
少し離れた場所では、カインが協力者二人の拘束を確認し、ダリウスが封緘確認役を黒燈の者へ引き渡していた。
全員、生きている。
それを確認してから、ジルは短剣の柄から指を離した。
協力者を黒燈の者へ預けたカインが、レヴィのそばへ膝をつく。
袖口。腰の内側。靴底。髪留め。
折れた拘束符。追跡札。空になった毒矢筒。
だが、転移符だけがない。
「離脱具なし」
ルシが、崩れた水門の向こうへ目を向けた。
小舟の櫂が水を掻く音は、もう聞こえない。
「最初から、逃げ道はあの舟ひとつだったってことか」
レヴィの閉じた瞼が、かすかに動いた。
答えはない。
ただ、眠り薬に鈍った呼吸が、一度だけ浅く乱れる。
少なくとも、レヴィの身体には撤収用の道具が残されていなかった。
ヴェインは偽文書と小舟を確保していた。
レヴィの分まで用意していたかは分からない。
だが、結果として白い実働員はここに残り、上位者だけが水路へ消えた。
尋ねるべきことはある。
それは、生きたまま黒燈へ持ち帰った後だ。
ヴェインと偽文書は逃した。
レヴィは捕らえた。
勝ち切ってはいない。
だが、何も残せなかったわけでもない。
ゼルが|橋梁《きょうりょう》から降りてくる。
カインの左耳裏へ沈んでいた琥珀の線は、もう消えていた。ゼルの右腕輪も、戦闘前の暗い黒銀へ戻っている。銀筆は保護筒ごと袖の内へ収められていた。
カインはそれを見ずに言った。
「左、少し多かった」
「途中で削ったよ」
「ああ」
「肩に残ってる」
「問題ない」
「戻ったら見る」
「任務後だ」
「うん。だから戻ったら」
短いやり取りだった。
甘さを表へ出す言葉ではない。
だが、カインは拒まなかった。
ただ、左肩をわずかに回し、次の確認へ移る。
ジルはそれを横目で見る。
ゼルはカインの身体を勝手に奪わない。
気づいても、今すぐ触れない。
戻ってから見る。
許された距離で補う。
白い王都の誰かが言った、守るという言葉とは違う。
ダリウスが周囲を見回す。
負傷の程度。
捕縛者の人数。
崩落の範囲。
すべてを確かめてから、短く言った。
「戻るぞ」
誰も異を唱えなかった。
安全確保の札が待機所へ回ってしばらくすると、倉庫街の路地から足音が近づく。
黒燈の若い伝令員が、腕の中に暴れる黒い毛玉を抱えていた。
「待機所で抑えきれなくなりまして……安全確認後ならと」
「きゅう!」
地面へ下ろされたクロは、石畳を細かく鳴らして走った。
最初に向かったのはジルの足元だった。
黒い頭を靴先へ押しつけ、鼻先を上げる。
「きゅう……」
ジルは見下ろす。
鼻先が外套の裂け目と指の擦り傷を忙しなく行き来している。黒い尾は下がったままだ。
「留守番と言った」
「きゅう」
「返事だけはいいな」
クロは次にルシへ走り、前脚をかける。
ルシが抱き上げると、ふわふわの身体が胸元へ勢いよくぶつかった。
「おい、先にジルかよ。オレの相棒だろ」
「きゅう!」
「心配した?」
「きゅ」
ルシの表情が少しだけ緩む。
「ありがとな。ちゃんと連れてきてもらったのも偉いぞ」
クロは鼻先をルシの頬へ押しつけたあと、腕の隙間からジルを見る。
血の匂いが強くないことは、確認できたらしい。
ジルの肩から、ごくわずかに力が抜けた。
「無事ならいい」
ルシが目を向ける。
返事が、ほんの一拍だけ遅れた。
その間だけ、目元が柔らかくなる。
「今の、クロに言った?」
「任務状況の確認だ」
「はいはい」
「その返事をやめろ」
「検討する」
「する気がないな」
クロが腕の中で「きゅう」と鳴いた。
ダリウスが先に歩き出す。
カインとゼルが続き、捕縛者たちは黒燈の者が分担して運ぶ。
レヴィも、拘束されたまま担架へ移された。
ジルは外套の内側へ手を入れた。
短剣。
位置共有札。
黒銀の仮登録札。
身体へ刻まれたものではない。
どれも、自分の意思で持っている。
位置共有札は、役目を終えれば折れる。
黒銀の仮札も、返そうと思えば返せる。
それでも今、ジルの指はどちらも外へ捨てなかった。
「ジル」
隣からルシが呼ぶ。
「何だ」
「行くぞ」
返事を求めるだけの声だった。
ジルが歩けることを確かめてから置いた、短い声だった。
進む方向を決めつける言葉ではない。
ジルは黒い王都の奥へ視線を向ける。
魔石灯の低い光が、濡れた道の先に続いていた。
「ああ」
ルシが隣へ並ぶ。
ジルが見ていない横顔だけ、ほんの少し柔らかかった。
クロを抱えたままの足取りは、疲労の分だけ普段より重い。それでも、ジルより前へ出ることも、後ろから追い立てることもしなかった。
夜明け前の水路沿いを、二人は黒い灯りのある方角へ歩き出す。
背後では、崩れた旧水門の水音だけが、いつまでも暗がりに響いていた。
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