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第1部 魔族王都編
第23話 鍵と残響
黒燈ギルドへ戻った頃、ノクティルムの空は夜明け前の色へ薄まり始めていた。
地下へ続く階段を、濡れた靴底が擦っていく。
旧水門の泥と石粉の匂い。担架を支える金具が段差へ触れ、短い音を返す。旧水門の崩落に巻き込まれかけた者たちは、誰もが服を汚し、袖や頬に細かな傷を負っていた。
それでも、本部の動きは止まらない。
負傷者は医務室へ。
捕縛者は互いに口を合わせられないよう、それぞれ別の拘束室へ。
ラザロ・グレイルもすでに別室へ移され、白弦商会名義で動いていた協力者たちは、黒燈の者による確認を受けている。
レヴィだけが、手足を拘束されたまま尋問室へ運ばれていった。
回収品は保全室へ集められ、黒い作業台の上へ一つずつ置かれていく。
保全卓。
証拠や封書を勝手に触れさせず、改竄されない形で一時保管するための黒燈の作業台だ。
白い封蝋や破損した札が黒木へ触れるたび、乾いた音が低い魔石灯の下に落ちる。封じ布が掛けられ、記録係の筆が走り、回収場所と回収者が一つずつ書き残されていた。
黒燈本部は、戦闘のあとも組織として機能している。
誰か一人の判断へ証拠を集めない。
負傷者と捕縛者を分け、声を残す者と記録を扱う者を分ける。ひとつが失われても、すべてが消えないように。
ジルは廊下の端で、その動きを無言で見ていた。
袖には乾き始めた泥。肩口には、石片が掠めて裂けた跡。外套の裾は水路の汚れを吸い、いつもより重い。
旧水門の崩落音は、まだ耳の奥に残っていた。
捕縛者も回収品も持ち帰った。
それでも、暗い水路へ遠ざかった櫂の音だけは、まだ頭の中から切り離せずにいる。
隣へ、ルシが並んだ。
その肩にはクロが乗っている。黒い毛並みのあちこちに灰が残り、鼻先を小刻みに動かして、地下へ運び込まれた知らない匂いを確かめていた。
「きゅう」
ジルが横目で見る。
「騒ぐな」
「きゅ」
クロはルシの肩で身を低くし、鼻先だけを灰の匂いへ向け直した。
「それ、オレにも言ってる?」
「お前は返事まで軽い」
「ひどくない?」
「事実だ」
いつものやり取り。
だが、自分の声に疲労が混じっていることくらい、ジルにも分かった。
いつもなら、そこへもう一つ軽口が重なる。
ルシは口を開きかけたものの、何も言わなかった。代わりに、ジルの裂けた肩口と濡れた裾へ一度だけ視線を走らせる。
問いも、手も伸びてこない。
ただ、隣からは離れなかった。
尋問室の前で、ダリウスが足を止める。
「ジル」
「何だ」
「入るか」
「当然だ」
答えは迷いなく返った。
ルシがその横顔を見る。
「無理するなよ」
「していない」
「即答の時は怪しいんだよな」
「黙れ」
「はいはい」
ダリウスは扉へ手をかける前に、カインへ視線を向けた。
カインは短く頷く。
「口内、袖、靴底、髪留め、爪。毒も自害札も確認した。拘束具にも異常はない」
「全部とは限らん」
「ああ」
カインの返事に迷いはなかった。
捕縛者を痛めつけるためではない。
死なせず、逃がさず、言葉を残させるための確認。
ゼルがその左側に立った。
右腕輪の琥珀は、もう消えている。銀筆も袖の内へ収められていた。だが、さっきまで《共感視》で重ねていた線の名残を、ゼルはまだ覚えているらしい。
「左肩、残っているね」
カインは扉から目を逸らさない。
「問題ない」
「問題があるとは言っていないよ」
「なら言うな」
「戻ったら見る」
「尋問後だ」
「うん。だから、尋問後」
短いやり取りだった。
カインは拒まない。
ただ、左肩を一度だけ小さく回した。
湿った礼装と外套の下、崩落の時に捕縛者二人を引いた筋肉がまだ硬く残っているのだろう。ゼルはそれを勝手に読み続けているわけではない。戦闘中に繋いだ線の残りと、共に動いた時間から、無理をした場所だけを拾っている。
触れない。
今は、聞くだけ。
カインもそれを分かっているから、左側のゼルを退けなかった。
ジルはその一瞬を見た。
補うが、縛らない。
黒燈の中では、それが言葉ではなく、立ち位置や沈黙で続いている。
ダリウスが扉を押す。
蝶番が低く鳴った。
*
尋問室は、冷たい石造りだった。
中央には背の低い椅子がひとつ。
レヴィはそこへ拘束されている。両腕の封印具は椅子へ固定され、足枷から伸びた短い鎖が床の環へ通されていた。
必要以上に締めつける形ではない。だが、立ち上がることも、袖や靴へ手を伸ばすこともできない。
正面には、小机を挟んでダリウス。
カインは椅子の左後方で、拘束具と呼吸を見ている。
ジルは扉脇の壁際へ立った。ルシはその半歩右。手を伸ばしてもすぐには届かず、ジルが退こうと思えば退ける距離だった。
クロは室内へ入れず、廊下で待たせている。
レヴィが顔を上げる。
薄い金髪は乱れ、頬には旧水門で受けた細い傷。唇の端には乾いた血がこびりついている。
笑みが形になるまでに、一拍かかった。
眠り薬の残りか、脇腹へ受けた柄打ちの痛みか。呼吸は浅く、指先が動くたび、拘束輪が椅子の肘へ細く触れる。
「ずいぶん大勢で来るものだな」
ジルは入口から動かない。
「お前に割く人員としては過剰だ」
「相変わらず口が悪い」
「お前に礼儀を使う理由がない」
レヴィの喉から低い笑いが漏れる。
「黒燈の連中といるうちに、少しは柔らかくなったかと思ったが」
「余計な観察だ」
「ヴェイン様も言っていた。ジルは変わった、と」
ジルの目が細くなる。
隣で、ルシの足が半歩だけ動いた。
それ以上は近づかない。
ジルの前へ出ず、扉への道も塞がない。ただ、声が届く位置へ移っただけだった。
ダリウスが小机の前へ立つ。
「レヴィ。聞くことがある」
「答えると思うか」
「答えるかどうかは、お前が決めろ」
ダリウスの声が石壁へ沈む。
「だが、沈黙も記録する」
室内の隅で、記録係が筆を紙へ下ろした。
さらり、と乾いた音が走る。
レヴィの笑みがわずかに歪んだ。
「ラザロ・グレイルとの接触経路。白弦商会名義の運用。旧水門の逃走路。ヴェインから受けた指示」
「裏稼業の者が、ずいぶん綺麗な言葉を使う」
「綺麗にする気はない。残すだけだ」
「残す?」
「お前たちが消そうとしたものをな」
ジルの指が、ごく小さく動く。
白梟なら、残さない。
使い終えた者を切り、都合の悪い声を消し、最後には整った記録だけを残す。
目の前の男も、その手順の中で動いてきた。
そして、同じ手順の外へ置かれた可能性に、まだ気づいていない。
レヴィはダリウスから視線を外し、ジルを見る。
「今さら証人の顔をしているのか、ジル」
「俺は証人じゃない」
「では、何だ」
「お前を黙らせるために来たわけじゃない。それだけだ」
レヴィの目が冷える。
「白梟を捨てて、今度は黒燈の命令を待つのか。銀羽」
その呼び方が落ちた瞬間、胸の奥に古い冷気が差し込む。
だが、ジルは動かなかった。
「その呼び方をやめろ」
「白梟にいた頃のお前なら、そんな言葉で済ませなかった」
「知ったように言うな」
「知っているさ」
レヴィが枷を鳴らした。
「お前が何を斬ってきたか。誰の命令で動いていたか。何を持って逃げたか」
「俺は命令を待たない」
短い返答。
レヴィの口元が引き上がる。
「長の銀羽が、自由を語るか」
空気が冷えた。
外套の内側で、ジルの指が短剣の柄へ触れる。
革と布が擦れ、かすかな音を立てた。
レヴィの目が、その位置へ一瞬だけ落ちる。
待っている。
ジルが刃を抜き、白梟にいた頃と何も変わらないと示す瞬間を。
この部屋へ持ち込まれた声を、ジル自身の手で途切れさせる瞬間を。
ジルは柄へ触れたまま、刃を抜かなかった。
「その名で呼ぶな」
声だけが、硬く削れる。
レヴィがもう一度、何かを言おうとする。
それまで小机を軽く叩いていたルシの指が止まった。
音が消える。
「ジルだ」
声に軽さはなかった。
レヴィの視線がルシへ移る。
所有を主張する言葉ではない。
白梟が役目の名で削った場所へ、本人の名前を返しただけだった。
「情報屋が、随分と――」
小机を指が一度叩いた。
乾いた音が会話を断つ。
「挑発はそこまでだ」
ダリウスの声は荒くない。
だが、レヴィへ話題を逸らす余地を与える温度もなかった。
「質問へ答えろ」
「怖いな、黒燈の長は」
「怖がる余裕があるなら、使え」
レヴィは黙った。
記録係の筆が、再び紙を走る。
その沈黙も、答えとして残されていった。
*
扉が二度、短く叩かれた。
ダリウスが目を向ける。
「入れ」
扉は半分だけ開いた。
立っていたのはゼルだった。
室内へは踏み込まない。
背後の廊下には、黒い受け台が置かれている。その上に封じ布を掛けられた細長い札が一本。布の隙間から覗く縁だけが、魔石灯を冷たく返していた。
「回収品の仕分け中に、白梟式の札が見つかった」
ゼルの手は、札から離れた位置にある。
「まだ開いていない。直接触れてもいないよ」
ジルの視線が止まった。
「開くな」
低い声だった。
ゼルの表情が引き締まる。
「見覚えがある?」
「札そのものにはない」
ジルは扉口へ進んだ。
数歩の距離を残し、足を止める。
文字を読む必要はない。
見るのは、札の縁へ重ねられた印と、権限の層、開封条件だけ。
魔石灯を受けた銀色の縁が、妙に沈んで見える。表の管理印とは別に、薄い刻線が幾重にも重なっていた。
ジルは一度、呼吸を止めた。
視線を細く絞る。
淡い灰銀の虹彩へ、細い銀が差した。
瞳のすべてが染まるわけではない。
薄い月光のような色が、奥へ一本通っただけ。
表の管理印。
その下へ重ねられた偽装。
開封者の魔力へ触れる層。
触れた魔力の一部を、あらかじめ用意された接続先へ返す細い経路。
通常の文字も、札の内容も読んでいない。
重ねられた印の真偽と、開いた際に何が起こるかだけを照合する。
視界の奥が、わずかに白く霞んだ。
ジルは数呼吸で視線を切る。
「反響札だ」
「追跡用か?」
カインが問う。
「追い続ける札じゃない」
ジルは銀色の札から目を離さない。
「開いた者の魔力を薄く写し取り、用意された接続先へ一度だけ返す」
ゼルの目が細くなる。
「会話や記憶までは送れない?」
「送れない。位置を追い続けることもできない」
「だが、誰が開いたかは分かる」
「ああ」
ジルの声は冷えていた。
「尋問役か、解析役か。誰が回収品へ触れているかを見分ける程度には使える」
ダリウスは即座に判断を下す。
「封じろ」
ゼルが黒い布を札へ被せる。
直接触れず、細い補助具で布の端を揃え、その上へ黒燈の封札を重ねた。
最後にダリウスが封札を押さえる。
紙が布へ吸いつく、乾いた音。
「接続先を追うな。解析は外側から見るだけにしろ」
「分かった」
「保全卓へ戻せ。触れる者も限定する」
「そうするよ」
ジルの瞳から、銀が引いていく。
元の淡い灰銀へ戻った直後、左鎖骨の下で古い痕が熱を持った。
痛みというほど強くはない。
眠っていたものが、皮膚の下で一度だけ身じろぎするような感覚。
視界の端が、ごく短く暗くなる。
耳の奥で、さっきまで聞こえていた筆の音が一瞬だけ遠のいた。
ジルの指が胸元へ向かいかけた。
途中で止まり、外套の襟へ触れる。
ルシの視線が、その手へ落ちた。
だが、問いかけは来なかった。
廊下から、小さな鳴き声が届く。
「きゅう……」
ジルは扉の外へ目を向ける。
「お前まで変な声を出すな」
「きゅ」
クロは扉の外で伏せ、片耳だけを室内へ向けた。
わずかに緩みかけた空気を、レヴィの声が切った。
「隠しているんだな」
ジルが振り返る。
レヴィは札ではなく、ジルの顔と胸元を見ていた。
「文書だけじゃない。お前自身も、まだ何かを隠している」
「お前に話すことはない」
「俺に話す必要はないさ」
レヴィは薄く笑う。
「いずれ戻る」
「戻らない」
即答だった。
尋問室の空気が止まる。
レヴィの目が細くなった。
「そう言えるようになったか」
「何度聞かれても答えは同じだ」
声は揺れていない。
逃げるための拒絶でもない。
誰かに言わされた答えでもない。
ジル自身が見て、選び、言い切った言葉だった。
「なら、どうする」
レヴィが身を起こそうとし、枷を鳴らす。
「黒燈の連中に全部話すのか。お前の目を。持って逃げたものを。あの方がお前を――」
ジルが一歩踏み出した。
石床へ靴底が触れ、低い音が落ちる。
カインの重心が動いた。
だが、それより先にルシの手が届く。
ジルの袖を、指先で掴んだ。
強く引かない。
進む足を力で奪うのではなく、今ここにいると知らせるだけの接触。
「ジル」
名前が呼ばれる。
外套越しに伝わる指の力は弱い。
振り払おうと思えば、いつでも振り払える。
ジルの呼吸が一つ落ちた。
短剣の柄から指を離す。
止まると決めたのは、自分だった。
「分かっている」
「ならいい」
ルシの指は、すぐに袖から離れた。
それ以上、身体へ触れない。
ジルは自分の足で立っている。
レヴィが低く笑う。
「随分と扱いやすくなったものだな」
ルシの目から、最後の軽さが消えた。
「違うな」
「何が」
「こいつが自分で止まったんだ」
ルシはジルの前へ出ない。
ただ、隣に立った。
「お前たちと一緒にするな」
レヴィの笑みが消える。
ダリウスが小机へ手を置いた。
「ラザロを回収する命令はあったか」
レヴィは答えない。
記録係の筆が、沈黙を書き留める。
「白弦商会名義で動いた者は」
再び沈黙。
今度は、足枷が椅子の脚へ触れた。
ごく小さな金属音。
ダリウスは、その音を聞いて問いを変える。
「ヴェインは、お前を連れ戻す手順を残したか」
レヴィの呼吸が、一拍だけ止まった。
視線はダリウスへ向いたまま、答えだけが出てこない。
ジルが冷たく言う。
「知らされていないんだろ」
レヴィの目が動く。
それだけだった。
だが、それで足りる。
ラザロも。
白弦商会名義で動いた者たちも。
そしてレヴィ自身も。
少なくとも、旧水門でヴェインが使った撤収手順には含まれていなかった。
「知ったように言うな」
「知っている」
ジルの声が低くなる。
「白梟は、都合の悪い声を残さない」
「なら、なぜお前は残っている」
レヴィが睨み返す。
「消されなかったのは、必要だったからだ。お前は文書を持っているから追われているんじゃない。お前が、まだ使えるから――」
胸の奥へ、冷たい言葉が刺さる。
以前なら、否定するより先に刃を抜いたかもしれない。
だが、短剣が鞘を離れることはなかった。
代わりに、ダリウスが記録係へ視線を向ける。
「ここで切る」
レヴィが目を上げた。
「まだ何も答えていない」
「話さなかったことは残った」
「それで何が分かる」
「お前は、ヴェインの次の動きを知らない」
ダリウスの声は変わらない。
「ラザロたちを回収する命令もない。お前自身を連れ戻す手順も残されていない」
レヴィの顎が硬くなる。
「それ以上は、挑発しか出ん」
ダリウスは椅子へ背を向けた。
「尋問終了だ」
カインが拘束具を確かめる。
封印具の金具が一度だけ鳴った。
傷つけるためではない。
死なせず、逃がさず、次の尋問まで生かすための確認。
レヴィは黙っていた。
先ほどまで浮かんでいた、相手の反応を誘う笑みはもうない。
視線だけが、小机の縁へ落ちている。
少なくとも、次の挑発を探す沈黙には見えなかった。
*
尋問室を出たところで、ジルの指が一度だけ胸元へ向かった。
すぐに外套の襟へ戻される。
ルシは、その動きを見ていた。
《反響札》を見た直後、ジルの目へ銀が差した。
その銀が消えたあと、呼吸がわずかに浅くなった。
左鎖骨下へ向かいかけた手。
話していない何か。
情報として拾えるものは、いくつもある。
それでも今、問いへ変えるべきものはひとつもなかった。
ここで聞けば、ジルは答えない。
答えないだけならまだいい。
逃げ道を探す目へ戻るかもしれない。
扉の外で待っていたクロが石床へ飛び降り、小さな爪をかすかに鳴らした。
「きゅう……」
ジルはその声を無視するように、保全卓の方へ歩き出す。
足取りは普段より少し重い。
だが、壁へ手をつくことも、一人で別の通路へ消えることもしなかった。
ルシは何も言わず、その半歩後ろにつく。
近づきすぎず、遅れすぎない距離。
ジルは振り返らない。
それでも、ついてくるなという言葉も出なかった。
ルシは、その拒まれなかった半歩を、今はそれ以上広げないことにした。
廊下の向こうでは、ゼルがカインを呼び止めていた。
「カイン」
「後でと言った」
「尋問は終わったよ」
「搬送確認が残っている」
「それは右側でもできる」
カインが足を止める。
振り返らないまま、わずかに息を吐いた。
「今、読むな」
「読まない」
ゼルの声は穏やかだった。
「ただ、左肩を庇ったまま歩くと、明日の踏み込みが半拍遅れる」
「戦力管理か」
「君がよく使う言葉で言うならね」
短い沈黙。
カインの左側へ、ゼルは一歩だけ近づいた。
触れない。
右腕輪も灯さない。
銀筆も抜かない。
ただ、隣に立つ。
「戻ったら、触れていい?」
カインは廊下の先を見たまま答えた。
「任務記録の後だ」
「うん」
「長くはするな」
「必要なところだけ」
「……分かった」
それは許可だった。
甘い言葉ではない。
けれど、ゼルの目元がわずかに和らぐ。
ジルはそのやり取りを横目で見た。
読めるから触れるのではない。
分かっていても、許可を待つ。
黒燈の大人組は、そういう距離を当然のように保っている。
白梟で見た手とは違う。
そこに気づくことが、今はひどく厄介だった。
*
ノクティルムの外縁。
水路のさらに先を、夜明け前の霧が低く這っていた。
古い小舟が、黒い水路の奥へ滑り込んでいく。
櫂が霧の下へ入り、水を押す。船底へ入り込んだ水が揺れるたび、湿った木材が鈍い音を立てた。
ヴェインは外套の裾についた水滴を払わず、小舟の縁へ腰を下ろしている。
旧水門での崩落術式は、予定より粗く発動した。
だが、逃走路を切り離す役目は果たしている。
ラザロは捕らえられた。
レヴィも生きたまま黒燈へ。
白弦商会を経由したノクティルム側の連絡路も、当面は使えない。
報告すべき損失は多い。
それでも、持ち帰れる観察もあった。
ヴェインは懐から小さな通信石を取り出す。
深い緑の石。
ただの通信石ではない。白梟長と限られた幹部だけが持つ、一対の遠話石だ。片方の石へ落とした声は、もう片方へだけ届く。距離が遠いほど石は熱を持ち、使える時間も短い。
ヴェインは指先で表面を撫でた。
石の内側へ、白い梟紋の欠片のような光が灯る。
しばらく、何も聞こえなかった。
やがて、遠い場所の呼吸だけが、薄い雑音の向こうで繋がる。
『報告を』
穏やかな声だった。
声を荒らげずとも、返答を待たせない響き。
ヴェインは微笑む。
「ノクティルムでの工作は失敗しました。ラザロは捕縛。レヴィも生きたまま黒燈へ。白弦商会の経路も、当面は使えません」
短い間があった。
『ジルは』
作戦の損失より先に、その名が出る。
「生きています。目立った負傷もありません」
通信の向こうで、呼吸が一度だけ深くなった。
『目は』
「確認できませんでした。反響札からの返りもありません。おそらく、黒燈側が開く前に封じたのでしょう」
しばらく、通信の向こうから返事はなかった。
『そうか』
穏やかな声だった。
ただ、次の言葉が出るまでには、わずかな間がある。
ヴェインは、その沈黙へ意味を足さなかった。
「黒燈との距離は、想定より近い」
『どの程度だ』
「情報屋のルシという男と足を合わせています。単独で動く場面も減った」
通信の向こう側が静まる。
『止められているのか』
「いいえ」
ヴェインは霧の先を見る。
「ジル自身が、合わせることを選び始めているように見えました」
今度の沈黙は、少し長い。
櫂が水を押す音だけが続く。
『レヴィは生きているか』
「はい」
『なら、今は動くな』
声の温度は変わらない。
『黒燈は口を封じない。こちらが慌てて手を出せば、レヴィまで処理対象に見せることになる』
「救出の機会は残しますか」
『記録が動くまでは』
救出するとも、見捨てるとも言わない答えだった。
ヴェインは通信石の淡い光を見る。
気遣いと計算のどちらが重いのかは、そこからは読めない。
「ノクティルムでの直接工作は、ここで引きますか」
『ああ。白い王都へ戻る準備を進めろ』
ヴェインは通信石を見下ろす。
「ジルへの伝言は」
一拍。
通信の向こう側の声が、わずかに柔らかくなる。
『いつまでも逃げていなくていい、と』
その言葉には、問いがなかった。
まるで、帰りの遅い者を静かな部屋で待つような声音。
けれど、その言葉は帰る場所を尋ねてはいない。
戻る先を、最初から決めている。
「戻ると思いますか」
『文書は隠せても、印の綻びを見れば目を逸らせない』
穏やかな確信だった。
『そこは、変わっていない』
通信が切れる。
石の内側から、淡い光が失われた。
ヴェインはしばらく、暗くなった通信石を見下ろしている。
黒燈は、ジルを刃として前へ押し出してはいなかった。
情報屋は隣に立つが、進む方向を代わりに決めない。
片目のアサシンと補助役は、互いの判断を奪わずに戦う。
黒燈の長は、捕縛者を殺さず、言葉も沈黙も記録へ残す。
ジル本人だけを追えば済む段階ではない。
ヴェインは通信石を懐へ戻した。
ジルがどこに立ち始めたのか。
何を捨てずに戦うのか。
誰と足を合わせるようになったのか。
それを知ることはできた。
ノクティルムで動かしていた手は、一度引かれる。
だが、白梟との決着がついたわけではない。
次に待つのは、白い王都。
ジルが逃げた場所。
かつて彼を刃と呼び、その名を記録の中へ閉じ込めた場所。
そして今なお、帰還を疑っていない男が待つ場所。
小舟が、霧の奥へ進んでいく。
水路の先で、夜明けが白く滲み始めていた。
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