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第1部 魔族王都編
第24話 話さないという信頼
同じ頃、黒燈本部では、保全卓へ続く廊下の途中でジルが足を止めていた。
地下の石壁は、夜を吸ったように冷たい。
旧水門の湿った匂いは消えているはずなのに、袖口の奥にはまだ水路の冷気が残っている。崩落する石壁の唸り。鉄鎖が鳴る音。レヴィが口にした、古い呼び名。
耳の奥へ沈んだものは、簡単には消えない。
左鎖骨下に残るのは、細い疼き。
傷が開いたわけではない。毒でもない。ただ、忘れたふりをしていた古い棘が、そこにあると知らせる程度の痛みだった。
先ほど胸元へ向かいかけた手は、もう外套の脇へ下ろしている。
隣には、ルシがいた。
見られたくはない。
だが、見られていたことも分かっている。
ルシはこういう時、妙に勘がいい。普段は軽口ばかり叩くくせに、相手が隠そうとした場所だけは外さない。
しかも、気づいたからといって、すぐに抉ってくるわけではなかった。
それが、かえって厄介だ。
問い詰められれば、拒める。
踏み込まれれば、突き放せる。
だが、待たれると、突き放すための理由の方が薄くなる。
「ジル」
ルシが声をかけた。
「何だ」
「水」
差し出された水筒の革紐で、小さな金具が触れた。
ジルは水筒と、それを持つルシの手を順に見る。
手はそれ以上近づいてこない。
受け取るかどうかを、ジルへ残したまま止まっていた。
「尋問かと思えば、水か」
「尋問してほしい?」
「したら黙る」
「知ってる。だから水」
ルシの声は軽い。
けれど、視線はジルの胸元へ向かなかった。
少しの間を置き、ジルは水筒を受け取る。
冷えた金属。黒い革紐。蓋の縁に残る水の匂い。
指先で留め具を確かめ、蓋を半回転させた。薬草も、甘い香りも、舌を痺れさせる気配もない。
一拍だけ確認してから、ジルは水を口に含む。
冷たさが、乾いた喉をゆっくり通っていった。
「確認した?」
ルシが聞く。
「癖だ」
「知ってる」
それだけだった。
信用がないとも、傷ついたとも言わない。
ジルは水筒を口元から離す。
「……礼は言わない」
「言わなくていい。飲んだので十分」
「変な男だな」
「それも聞き慣れた」
足元で、小さな爪が石床を鳴らした。
「きゅう」
クロはルシの肩ではなく、ジルの靴の横に座っている。黒い尾を床へ沿わせ、鼻先をわずかに上げていた。
ジルは見下ろす。
「お前も何か言いたいのか」
「きゅう」
「分からない」
ルシが勝手に訳した。
「無理するな、だって」
「都合よく訳すな」
「じゃあ、オレが言ってる」
ジルは目だけを向ける。
ルシは笑っていた。
だが、その声は先ほどより低い。
「無理するな」
「していない」
「倒れるまで問題ないで通す奴は、だいたいそう言う」
「お前は俺を何だと思っている」
「自分の傷だけ報告から外す奴」
ジルの指が、水筒の革紐の上で止まった。
ルシの視線が、その指先へ一度だけ落ちる。
それでも、追及の言葉は来なかった。
「……勘がいいのは嫌われるぞ」
「情報屋だからな」
「便利に使うな」
「便利なんだよ」
いつもの返し。
けれど、その先に続きそうだった言葉を、ルシは口にしなかった。
反響札を見た時、なぜジルの目が銀を帯びたのか。
なぜ、その直後に胸元を押さえかけたのか。
《銀羽》とは何なのか。
白い王都に何を残してきたのか。
問いにできるものはいくつもある。
ルシの目が、それらを拾っていないはずはなかった。
それでも、口にはしない。
黙ったまま保全卓へ向かうこともできた。
ルシは、無理に止めないだろう。
だからこそ、今ここで話すかどうかを決めるのは、ジル自身だった。
ジルは長く息を吐く。
「ひとつだけ言う」
ルシの笑みが消えた。
だが、身体を寄せることも、先を促すこともしない。
「うん」
「文書は隠してある。場所は言わない」
「分かった」
短い返事だった。
疑う声でも、納得したふりでもない。
聞いた事実だけを受け取る声。
「まだ続きがある」
「どうぞ」
ジルは手の中の水筒へ視線を落とす。
黒い革。小さな金具。黒燈で使われている、ごく普通の道具。
白い封蝋のように、何かを美しく閉じ込めるためのものではない。
「ただの紙束じゃない。封を解く順を誤れば、触れた側の魔力痕を拾う仕掛けがある」
ルシの目から、残っていた軽さが消えた。
「だから、黒燈にも場所を言わない?」
「まだな」
「黒燈を疑ってるからだけじゃない」
ジルは答えなかった。
否定もしない。
ジルは水筒を返した。
ルシは受け取った水筒の蓋を指先で軽く回し、短く息を吐く。
情報屋なら、今の言葉だけでも、さらにいくつもの問いを作れる。
どんな封なのか。
誰が魔力痕を拾うのか。
文書を開ける条件は何か。
白梟が文書そのものだけではなく、ジルまで追っている理由。
だが、ルシはそのどれも口にしなかった。
「全部は分かってない」
ジルが眉を寄せる。
「なら聞け」
「危険が増えるなら聞く」
ルシは閉じた尋問室の扉へ一度だけ目を向けた。
「でも、今は聞かない」
今は。
二度と聞かないと約束する言葉ではない。
疑問を捨てたわけでも、何もかも信用したふりをする言葉でもなかった。
ただ、踏み込む順番を選んだ言葉。
ジルが話せる場所まで、答えを奪いに来ないという選択だった。
ルシは水筒の蓋を閉める。
返事を急かす様子もない。
ジルは視線を逸らした。
「……面倒な男だ」
「よく言われる」
「だろうな」
クロが靴先へ頬を押しつけた。
「きゅう」
「お前も面倒だ」
「きゅ」
「返事だけはいい」
ルシが低く笑う。
その時、背後で尋問室の扉が開いた。
金具が擦れる音とともに、ゼルが廊下へ出てくる。穏やかな顔は変わらないが、目元には薄い疲労が見えた。
「ここまでだね」
ゼルは扉を閉める。
向こう側で、レヴィの枷が椅子へ触れる細い音がした。
「これ以上は、挑発しか出ない」
「ヴェインは」
ジルが問う。
「もうこの街にはいない可能性が高い。レヴィも、それだけは確信しているようだった」
「逃げたか」
「おそらくね」
ジルの指が、水筒の革紐を強く握りかける。
冷えた金具が掌へ食い込む前に、力を抜いた。
追える材料はない。
それでも、ヴェインが白い王都へ持ち帰る観察はある。
黒燈の動き。
ルシとの連携。
ジルが、単独ではなくなりつつあること。
何を守り、何を捨てなかったのか。
「追うか?」
ルシの問いに、ジルは答えなかった。
廊下の奥から、小さな羽音が近づいてくる。
クロはジルの靴の横から廊下の端へ寄り、通り道を空けた。
黒羽の小伝令獣が低く飛び、ゼルの腕へ止まった。脚環に巻かれた札が、魔石灯の光を鈍く返している。
ゼルは札を外し、素早く目を通した。
「別働が倉庫を押さえた。中にいた者も生きている。証拠品は封じたまま運ばせているよ」
詳しい数も、品目も言わない。
今ここで必要なのは、誰も消されなかったという事実だけだった。
「そうか」
ジルは短く返す。
その声を、背後からダリウスが拾った。
「ヴェインは追わん」
重い足音が近づき、廊下の空気が締まる。
ジルは振り返った。
「追えば、白梟本体へ近づける」
「今は、残った証人と証拠を動かす」
「逃げ切られるぞ」
「分かっている」
ダリウスの声は揺れない。
「分かっていて、順番を決める」
ジルは反論しかけた。
その時、廊下の向こうを二人の黒燈員が通り過ぎる。封じ布に包まれた箱を運び、足早に保全室へ向かっていた。
別の扉からは、負傷者を確かめる治療師の声が聞こえる。
誰もヴェインを忘れたわけではない。
捕らえた者を生かす。
奪われかけた証拠を残す。
負傷した者を治療する。
そのすべてを踏み越えてまで、逃げた一人を追わない。
白梟なら、標的を優先したかもしれない。
残された者の声より、逃げた者の背を追ったかもしれない。
黒燈は、そうしない。
命じられたから納得するのではない。
そう判断する理由が、目の前に残されていた。
「……そうか」
ジルは閉じた尋問室から目を離す。
すべてに納得したわけではない。
それでも、順番を選ぶ理由は見えた。
ダリウスはそれ以上説明しなかった。
ゼルも、ルシも何も言わない。
沈黙の中で、小伝令獣が羽を震わせる音だけが残った。
*
夜明け前。
ジルは黒燈本部の屋上へ出ていた。
地上階の屋根裏から細い梯子を上がった先にある、監視と伝令のための場所。
広くはない。
見張り用の低い壁。隣の建物へ渡るための狭い足場。雨樋の横には退避用の縄と鉤を収めた木箱が置かれている。
ジルは屋上へ出るなり、無意識に退路を数えた。
梯子。
北側の雨樋。
隣の倉庫屋根へ渡る足場。
三つ。
ノクティルムの空は、まだ黒い。
東の端だけが薄く青み、濡れた屋根には魔石灯の赤紫が細く残っている。遠くで朝の荷車が軋み、水路を流れる水の音が低く届いていた。
白い王都の朝とは違う。
眩しさで影を消そうとはしない朝。
夜の名残を抱えたまま、街がゆっくりと動き始める。
背後で、靴底が石へ触れた。
隠す気のない、あえて立てられた足音。
「こんな所にいた」
ルシの声だった。
「足音がうるさい」
「無音で近づいたら刺すだろ」
「分かっているなら来るな」
「分かってるから鳴らしたんだよ」
ルシはジルの隣へ来た。
近すぎない。
梯子へ戻る道も、雨樋へ向かう線も塞がない位置。
少し遅れて、屋根裏側の小さな昇降口から軽い爪音が続く。
「きゅう!」
クロが屋上へ飛び出し、黒い毛並みを揺らしながらジルの靴先へ駆け寄った。
「騒ぐな」
「きゅ」
ルシが低い壁へ片肘を預け、黒い屋根の向こうを見る。
「終わったな」
「まだだ」
「全部じゃない」
風が二人の外套を擦った。
「でも、この街での仕事は一区切りだろ」
ジルは答えない。
ヴェインは逃げた。
白梟本体も残っている。
アルドリックも、白い王都も、まだ何も終わってはいない。
それでも、ノクティルムへ伸びていた手の多くは断たれた。
話していないことは、まだ多い。
文書の場所。
銀色に変わる目。
左鎖骨下の古い痕。
白梟で何があったのか。
アルドリックとの間に何が残っているのか。
そのどれも明かしてはいない。
それでも、今すぐ吐けとは言われなかった。
沈黙を、即座に裏切りとも判断されていない。
話せないことがある状態のまま、話せる範囲を選ばせている。
その事実だけが、妙に重く胸に残る。
「ダリウスから話がある」
ルシが言った。
「何の」
「分かってるくせに」
「知らない」
「嘘下手」
「黙れ」
ルシは小さく笑った。
「正式加入の話」
ジルの指が、外套の内側へ触れる。
そこには、任務中の照合に使っていた黒銀の仮札が入っていた。
まだ正式なものではない。
借りた印。
必要がなくなれば返せるもの。
返す時期も、持ち続ける理由も、自分で決められる札。
「俺はまだ、全部話していない」
「知ってる」
「文書の場所も言わない」
「それも知ってる」
「能力のことも、白梟のことも、全部は話さない」
ルシは一度だけ瞬きをした。
「それを決めるのは、オレじゃない」
ジルは横目で見る。
ルシは夜明け前の街を見たまま続ける。
「オレは、残ってくれたら嬉しいけどな」
強くはない声だった。
所属を迫る命令でも、恩を着せる言葉でもない。
黒燈を選べと決めつける声でもなかった。
ただの願い。
断る余地が残されているからこそ、ジル自身が答えを選ばなければならない。
だから、扱いに困る。
「決めるのは俺だ」
「知ってる」
ルシは即答した。
答えを急かす気配もない。
「ただ、出るなら言え」
赤みのある目が、ようやくジルへ向く。
「黙って消えるのはなしだ」
「お前に許可を取る気はない」
「許可はいらない。知らせろって言ってる」
「面倒な男だな」
「よく言われる」
「兄にか」
「主に兄貴に」
「納得だ」
「そこで納得する?」
その時、クロがルシの靴先を嗅いだ。
それからジルの靴先へ戻り、もう一度ルシを見る。小さな鼻先が、夜風の中で忙しなく動いた。
「何だ、クロ」
「きゅう」
クロは答えにならない声を出し、二人の間へ入り込んだ。
小さな爪が屋上の石を、かり、と鳴らす。
右にルシ。
左にジル。
その真ん中で、黒い毛玉が当然のように腰を下ろした。太い尾を前足へ沿わせ、二つの匂いを確かめるように鼻を鳴らす。
ルシが目を細めた。
「真ん中、取られたな」
「元から空いていた」
「ひどいな。オレ、隣にいたつもりなんだけど」
「距離の認識が甘い」
「ジルさん、厳しい」
クロが「きゅう」と鳴いた。
どちらの味方をしたつもりなのかは分からない。そもそも、味方というものを考えているかも怪しい。
ただ、クロはそこを動かなかった。
ルシの足元と、ジルの靴先。
二つの匂いの間。
それが当然の場所だと言うように、黒い身体を丸めている。
クロの首輪についた黒銀の登録札が、夜風で小さく鳴った。
ちり、と。
その音が消えたあと、ルシはクロを見ずに言った。
「クロは関係ない。オレが言ってる」
「余計に面倒だ」
「知ってる」
風が吹き、ジルの肩下の銀髪を揺らす。
切り揃えられていない毛先が、頬へ触れた。
ジルはそれを指で払い、夜明け前の街を見る。
ノクティルムへ来た時、この街は逃げ込むための場所だった。
今も退路は確認している。
屋上へ上がれば、どこから降りられるかを先に数える。
背後へ誰かが立てば、足音と呼吸を確かめる。
その癖が消えたわけではない。
それでも、ルシを追い払おうとは思わなかった。
クロが靴先へ寄ることも。
隣に一人分の気配が残ることも。
そこにあるだけなら、もう拒絶する理由が出てこない。
クロは二人の間で、小さく鼻を鳴らした。
好きな匂いが、両方近い。
クロにとっては、それで十分なのだろう。
「正式加入の話は」
ジルが口を開く。
ルシの眉がわずかに上がった。
「聞くだけ聞く」
明るくなりかけたルシの顔を、ジルは冷たく見る。
「決めるとは言っていない」
「分かってる」
「本当か」
「そこまで信用ない?」
「ない」
「即答つらいな」
口ではそう言いながら、ルシの口元には笑みが残っている。
「でも、聞くんだろ」
「ああ」
「十分」
「勝手に満足するな」
「情報屋は小さな前進も拾うんだよ」
「便利に使うな」
「便利なんだって」
ルシは先に梯子へ向かった。
答えを取り立てず、振り返りもしない。
ただ、ジルが自分で歩き出すための間だけを残している。
梯子へ向かう道も、屋上に残る選択も、どちらも塞がない。
ジルはその背を見た。
足元で、クロが「きゅう」と鳴く。
「急かすな」
クロは片耳だけをジルへ向け、先へは出なかった。
ジルは低い壁から背を離した。
一歩を踏み出す。
クロの爪が、そのすぐ後ろで石床を小さく鳴らした。昇降口の手前まで来ると、慣れたように足を緩める。
ジルは梯子へ手をかけ、黒い灯りの下へ、話を聞くために下りていく。
正式加入を決めたわけではない。
すべてを明かしたわけでもない。
それでも少なくとも今、その足は外へ向いていなかった。
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