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第1部 魔族王都編
第25話 正式加入
夜明けから、半日が過ぎていた。
黒燈ギルド本部の地下会議室では、ノクティルムへ伸びていた白梟の手が、証拠として黒い卓上へ並べられている。
白弦商会名義の荷札と荷差配札。ラザロ側の資金へ繋がる帳簿。夜会でラザロの言葉を拾った録音魔石。黒い封じ布に包まれた反響札。
その間に落ちた白い封蝋の欠片だけが、低い魔石灯を冷たく返していた。
黒い卓上では、その白さがやけに目につく。
かつては整って見えた色。
今は、誰の声を消し、誰の名を残すかを勝手に決める色だった。
クロは保全卓の手前で足を止め、卓の脚へ前足だけをかけた。鼻先をひくつかせた途端、白い封蝋の残り香を嫌うように耳が伏せられる。
「きゅう……」
「触るな」
ジルが言うと、クロは前足を下ろした。
「きゅ」
クロは前足を揃えて座り直し、伏せた耳だけをジルへ向けた。
椅子の背にもたれたルシは、その耳を一度見たが、何も訳さなかった。
軽口が途切れる。
ダリウスは押収品の向こう側に立ち、手元の報告書を閉じた。紙が重なる乾いた音に、会議室の視線が集まる。
「この街で、白梟が使っていた足場は崩した」
レヴィは捕縛。
ラザロと、白弦商会の名義で動いていた協力者も拘束されている。
帳簿と証言は保全され、必要な写しを残したうえで王都側の監査へ渡された。グレイル家も白弦商会も、少なくともノクティルムでは同じ経路を使えない。
それで白梟そのものが消えたわけではない。
だが、この街で続いていた工作には、ひとまず区切りがついた。
「ヴェインは」
ジルが問う。
「逃げた。追跡に使える痕跡は残してある」
ダリウスは、報告書を押収品の横へ置いた。
「今は、この街に残したものを片づける」
ジルはそれ以上問わなかった。
その順番を選ぶ理由は、昨夜すでに見ている。
ヴェインは、ただ逃げたのではない。
旧水門で黒燈の連携を見ている。
ルシがどこまで踏み込むか。
クロが何へ反応するか。
カインとゼルがどう補い合うか。
ダリウスが何を残し、何を追わないか。
そして、ジルが誰を捨てず、どこで追跡を諦めたのか。
あの男は、それを持ち帰った。
「面倒な古参だ」
ジルが低く言う。
ルシが短く笑った。
「お前が面倒って言う相手、だいたい本当に面倒なんだよな」
「お前ほどではない」
「そこでオレ?」
「当然だ」
「即答つらい」
クロが片耳をルシへ向け、小さく「きゅう」と鳴いた。次いでジルの靴先へ寄り、そこへ腰を落ち着ける。
ジルは片手で黒い頭を軽く押さえた。
「お前も面倒だ」
「きゅう」
「褒めていない」
ゼルの口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
その空気を切り替えるように、ダリウスが呼んだ。
「ジル」
ジルは顔を上げる。
ダリウスは懐から、小さな黒銀の札を取り出した。
黒銀が黒い木へ触れ、低い音がひとつ落ちる。
表面に刻まれているのは、闇の中へ灯りを抱く、小さなランタンの紋。
「黒燈ギルドの正式所属証だ」
会議室が静まった。
ルシの軽口も止まる。
いつもの笑みが、少し遅れて消えた。
茶化せば、この場の重さをジルから奪うと分かっている顔だった。
カインは壁際で腕を組んだまま、何も言わない。ゼルも穏やかな目を向けているだけで、答えを促そうとはしなかった。
クロだけが、札を見て片耳を動かした。保全卓へは上がらず、脚元から鼻先だけを少し伸ばす。
「きゅう?」
「待て」
「きゅ」
クロはその場へ座り直した。
声はいつもどおりだった。
けれど、ジルの視線は黒銀の札から離れない。
白梟で与えられたものは、名簿や記録、役割名、時には肌の側から離せないものだった。
誰が誰を使うのか。
誰の命令で刃を振るうのか。
誰の側にいる者として記録されるのか。
それらは、ジルが選ぶ前に白い紙の上で整えられていた。
目の前の札は違う。
ダリウスは手に握らせようとしない。
黒い卓の上に置き、手を離している。
ジルから札まで、腕を伸ばせば届く距離。
同じだけ、背を向ければ届かなくなる距離でもある。
取ることができる。
取らずに立ち去ることもできる。
「俺に渡していいものか」
「判断した」
「まだ、全部を話していない」
「知っている」
ダリウスの声は動かない。
ジルは黒銀の札を見たまま、息をひとつ吸った。
「条件がある」
「言え」
あまりに早い返答だった。
拒むとも、まず秘密を差し出せとも言わない。
条件の中身を聞く前から、ジルが条件を出すこと自体は認められている。
その一言が、かえって喉へ引っかかった。
守るためだと告げられ、選択肢を閉ざされることもない。
条件を口にする前に、断る権利ごと整えられることもなかった。
会議室の誰も、次の言葉を急かさない。
「ひとつ。機密文書の所在は、今は明かさない」
「ああ」
「ふたつ。俺の能力についても、必要以上には話さない」
「ああ」
「みっつ」
ジルは一度、ダリウスを正面から見た。
「黒燈が白梟と同じ道を進むと判断したら、俺はここを出る」
ルシの眉がわずかに動く。
言いかけた何かを、喉の奥で止める。
だが、口を挟まなかった。
「止めても無駄だ」
「同じ道へ入ったなら出ろ」
ダリウスの声が、黒い石壁へ低く沈む。
「その前に、俺たちが気づく」
絶対に腐らないという誓いではない。
黒燈だけは間違えないという保証でもない。
ただ、間違えた時にジルの足を縛らないという線だった。
カインが短く続ける。
「気づかず、お前一人に背負わせたなら、その時点で黒燈の失敗だ」
ゼルも静かに頷いた。
「出ていく前に言えとは求めるけれど、出るなとは言わないよ」
ジルは視線を落とす。
黒燈も、刃と脅しを使う裏の組織だ。
血を流すこともあれば、表へ出せない仕事も引き受ける。
綺麗な場所ではない。
白い王都より黒いから、正しいわけでもない。
それでも、今まで目の前で見てきた選び方は、白梟と違っていた。
証人を消さなかった。
巻き込まれた者を切り捨てなかった。
捕らえた敵にも自害を許さず、口を塞がず、沈黙まで記録した。
ヴェインを追うより、生きている者と残された証拠を先にした。
そして今も、出ていく自由まで奪おうとはしない。
「最後だ」
ジルはルシを見ずに続けた。
「ルシを囮にする作戦は許可しない。正式加入後もだ」
言葉が落ちた直後、会議室へ妙な間が生まれる。
ルシの眉が上がった。
一拍だけ、目元が柔らかくなる。
けれど、すぐにいつもの軽口の形へ戻した。
「今、正式加入後って言った?」
ジルの指が止まる。
「言葉の綾だ」
「かなりはっきり言ったけど」
「聞き間違いだ」
「クロも聞いたよな?」
「きゅう!」
ジルは足元を睨んだ。
「お前は証人にならない」
「きゅ」
「返事だけはいい」
ルシが口元を押さえている。
笑いを隠すには遅い。
「いやあ、ジルって本当に嘘下手だな」
「黙れ」
「はいはい」
軽口は、そこで切れた。
ダリウスが黒銀の札へ目を落とす。
「条件は受ける」
ジルは顔を上げた。
「機密文書も能力も、任務に必要な情報は求める。話せないなら、話せる条件を言え」
「ああ」
「黒燈の作戦として、ルシを囮には組み込まん」
「オレが自分で言い出した場合は?」
ルシが聞く。
カインの片目が鋭くなる。
「単独で動くな」
「まだ何もしてないだろ」
「する前に言っている」
ゼルが穏やかに補う。
「本人の同意と退路、それから別働との連絡。最低でもそれは必要だね」
「話を増やすな」
ジルが冷たく言う。
「オレにも作戦を選ぶ権利はあるだろ?」
「死に急ぐ権利はない」
「戦力管理?」
「情報が途切れると困る」
「はいはい。そういうことにしておく」
ルシの笑みが、先ほどより少しだけ柔らかくなる。
だが、踏み込まない。
その柔らかさを見せすぎないように、すぐ口元だけの笑みに戻した。
ジルは無視した。
黒銀の札は、まだ卓上にある。
ダリウスは押しつけない。
ルシも、カインも、ゼルも答えを促さない。
ルシはいつもなら何か言うはずの間にも、黙っていた。
言葉を足せば、ジルの選択に自分の色が混じる。
そう分かっている顔だった。
残れとも、取れとも言わない。
取ることもできる。
取らずに立ち去ることもできる。
ここに残らない理由なら、いくらでもあった。
白梟はまだ残っている。
ヴェインは戻るだろう。
遠い白い王都には、アルドリックがいる。
機密文書の所在も、目のことも、胸元に残る古い痕のことも、ジルは話していない。
自分がここにいれば、黒燈へ危険を引き寄せる。
そう考えた時、古い答えが喉元まで上がってきた。
自分だけが消えればいい。
誰かと繋がる前に、自分から切ればいい。
持たなければ奪われない。
残らなければ壊されない。
いつもそうしてきた。
だが、今は誰もその考えを言葉で止めようとはしない。
逃げ道を塞ぎ、ここに残る理由を並べる者もいない。
会議室には、魔石灯のかすかな唸りと、紙の端が擦れる音だけが残っている。
決めるのを待っている。
他の誰でもない、ジルが。
ジルは黒銀の札へ手を伸ばした。
指先に触れた金属は冷たい。
白い封蝋の冷たさとは違う。
紙の上へ押しつけられるものではない。
血の内側へ刻まれるものでもない。
誰かの手で身につけさせられるものでもなかった。
自分の手で取り、自分の手でしまえるもの。
ジルは札を持ち上げる。
黒銀のランタンが、魔石灯の光を鈍く返した。
「形式は」
ダリウスが問う。
「ペンダントでいい。外には出さない」
「好きにしろ」
札の横へ、細い黒紐が置かれる。
それも、手渡されはしなかった。
ジルは自分で取り、黒銀の輪へ通した。指先へ紐の硬い繊維が擦れる。
結び目を締め、外套の内側へ滑り込ませる。
小さな金属が衣服の下へ沈み、胸元に硬い重みを残した。
左鎖骨下の奥が、一度だけ疼く。
古い痕と、新しく選んだ黒銀の札は、同じものではない。
ジルは表情を変えなかった。
黒銀の重みを確かめるように、外套の上から指を触れさせる。
「ここに残る」
声は大きくない。
それでも、会議室の全員へ届いた。
すぐに返す者はいなかった。
歓声も、拍手もない。
決断を黒燈側の手柄に変える言葉もなかった。
ほんの短い沈黙のあと、ダリウスが頷く。
「受理する。今日から黒燈の所属員だ」
「ああ」
ルシが何かを言いかける。
唇が開き、けれど声はすぐに出なかった。
赤みを帯びた目が、ジルの胸元へ沈んだ黒銀の札を一度だけ見る。
いつもの軽口が出るまでに、一拍の間があった。
最初に出たのは、短い返事だった。
「了解」
声は、いつもより少し低かった。
それから、口元を緩める。
「正式所属員さん」
「やめろ」
「一回くらいいいだろ」
「よくない」
クロが卓の下から飛び出し、短い足で石床を忙しく鳴らしながら、ジルの足元で跳ねた。
「きゅう!」
「騒ぐな」
「きゅう!」
「騒ぐなと言った」
ジルが反射的に抱き上げると、クロは当然のように腕の中へ収まった。
黒い毛並みが外套を擦る。
首輪に下がった小さな登録札が揺れ、黒銀の澄んだ音を鳴らした。懐へしまったばかりの所属証が、衣服の下でかすかに触れ合う。
「クロも歓迎してる」
ルシが言う。
ジルがクロを抱く手つきから目を逸らす前、一瞬だけ目元が柔らかくなった。
ジルは言葉の代わりに、ルシを冷たく睨んだ。
「でも嬉しそうだろ」
軽口の後、ルシの笑みが少し遅れて消えた。
ジルが見ていない間だけ、その目が静かに和らぐ。
「毛玉はいつも騒がしい」
「今、抱き方かなり優しいけど」
「落とすと面倒だからだ」
「はいはい」
ゼルが穏やかに言った。
「正式所属おめでとう、ジル」
ジルは視線を外す。
「大げさだ」
「大げさではないよ」
カインが壁際から一歩だけ離れた。
「任務割りは変わる」
「分かっている」
「無断単独行動は認めない」
「お前に言われる筋合いはない」
「ある。黒燈所属員ならな」
ジルは黙った。
カインの口調は硬い。
だが、そこに所有はない。
保護対象として囲う言葉でも、逃亡者を見張る言葉でもない。
正式な所属員へ、同じ組織の責任を求める線引きだった。
守られるだけではない。
これからは、黒燈の判断と、自分の判断の双方へ責任を持つ。
その重みまで含めて、自分で取った札だった。
ジルは小さく息を吐く。
「面倒なギルドだ」
ダリウスが低く返した。
「今さらだ」
会議室へ、小さな笑いが落ちる。
ジルは笑わなかった。
けれど、出ていかなかった。
ルシはそれを見て、何も言わない。
ただ、笑みを作る前のほんの一瞬だけ、肩の力を抜いた。
*
その夜。
白い王都の回廊を、細い風が抜けていた。
アルドリックは執務机の前で、ノクティルムから届いた短い追報を読んでいる。
工作経路を失ったことも、ラザロとレヴィが捕らえられたことも、すでに報告を受けていた。
今夜、新たに届いたのは、王都側の監査へ渡された保全記録の追補だった。
旧水門で確保された証言と押収品。その保全に関わった者の名が、黒い文字で列記されている。
最後に加えられた所属区分の欄で、アルドリックの指先が止まった。
ジル――《黒燈ギルド》所属員。
それだけの記載だった。
いつ、どのように札を受け取ったのか。
どのような条件を交わしたのか。
そこまでは書かれていない。
机の片隅では、深い緑色の通信石が淡い光を宿していた。
『監査側へ回った保全記録から、追報が入りました』
ヴェインの声が、石の内側から低く響く。
『ジルは外部協力者ではなく、《黒燈ギルド》の所属員として記されています』
アルドリックは報告書から目を上げなかった。
「そうか」
怒りを示す声音ではなかった。
古い名を、久しぶりに舌へ載せるような柔らかさがある。
『意外ではありませんか』
「いいや」
アルドリックは、ジルの名が書かれた一文を指でなぞる。
「ジルは、自分で選ぶ」
穏やかな声。
かつて、その意志の強さへ惹かれた頃と変わらない声音だった。
「昔から、そういう男だ」
『彼らは、ジルを回収対象として扱っていません』
「そうだろうね」
『命令で縛ることも、秘密をすべて差し出させることもしていない。ジルは、その違いを見ています』
アルドリックの指は、報告書の上から動かない。
否定の言葉もなかった。
「それでも、ジルは来る」
通信石の向こうで、短い沈黙が落ちた。
『確信しておられるのですか』
「ジルは、消された真実を見つければ目を逸らせない」
迷いのない断定だった。
黒燈を選んだという新しい記録さえ、ジルの次の行動を変えるものとは数えていない。
アルドリックは報告書を閉じた。
紙が重なる音が、白い部屋へ小さく落ちる。
「ノクティルムでの件は、ここで畳む」
『次は』
「白い王都で迎える準備をしよう」
声は、帰りの遅い恋人を待つように柔らかい。
けれど、帰るかどうかを尋ねる響きではなかった。
「ジルは、必ず戻る」
通信石の光が、ゆっくりと消えていく。
窓の外では、白い回廊が月光を受けている。
整い、美しく、どこまでも静かな夜。
アルドリックの指は、閉じた報告書の上へ置かれたままだった。
黒い王都でジルが自分の手に取った小さな灯りを、まだ自分の知らない選択とは認めないように。
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