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第1部 魔族王都編
最終話 第26話 灯りのある場所
ノクティルムに、夜を越えた朝が来た。
黒い石畳は夜明けの光を受け、濡れたように鈍く輝いている。裏通りにはまだ酒と煙の匂いが残っていたが、屋台の鉄板からは焼いたパンと香草肉の香りが立ちのぼり、港の方角では荷車の車輪が石を軋ませていた。
誰かが戸を開ける。
誰かが鍋へ火を入れる。
夜の事件を知らない者も、知りながら口を閉ざす者も、同じ朝の中で働き始めている。
黒い王都は、いつもどおりに目を覚ましていた。
ただ、その足元では、昨夜までとは違う動きが始まっている。
*
黒燈ギルド本部の会議室には、朝一番の報告札が並んでいた。
白弦商会ノクティルム支部は閉鎖され、営業停止。
裏帳場、偽装荷札、白梟用の封書と術具を扱った者は拘束と聴取へ回された。一方で、表の売り場の店員や通常便の御者、裏経路を知らなかった倉庫係は、荷と証言を照合したうえで順に帰されている。
ラザロに関わるグレイル家側の記録には王都側の監査が入り、提供された名義、資金、迎賓館の使用記録が押さえられた。
旧水門には見張りが立ち、残された術式具と白い封書の欠片が回収されている。
ゼルが最後の短札を読み終え、保全卓へ戻した。
「王都側への引き渡しは、これで一区切りだね」
「黒燈が渡したのは、記録と証言だけだ」
ダリウスが低く言う。
「誰をどう裁くかは、王都の仕事だ」
ジルは卓上の報告札を見た。
「白弦商会そのものを潰すわけじゃないのか」
「関与した者と、知らずに働いていた者を同じには扱わん」
「黒燈らしくないほど丁寧だな」
「雑に切れば、白梟と同じだ」
短い返答だった。
卓上には、白弦商会の帳簿写し、ラザロの供述札、旧水門で押さえた指示書がある。
黒燈はそれを握った。
だが、自分たちだけで判決へ変えようとはしない。
白梟なら、正しさを名乗って刃を振り下ろした。
黒燈は、刃を持ちながら、振るう場所を選ぶ。
「ヴェインの足取りは」
カインが問う。
「王都外へ抜けた可能性が高い」
ルシは壁際へ寄りかかり、腕を組んでいた。
「白梟本体へ戻るか、別の中継所を使うか。どっちにしても、ノクティルム内で追える痕は切れてる」
「逃がしたな」
ジルが言う。
「逃げられた、だろ」
「同じだ」
「違うね。次に拾うためには、失敗を正確に言った方がいい」
ルシの声は軽い。
だが、逃げた相手を過小評価してはいなかった。
ヴェインは生きている。
白い王都には、アルドリックと白梟本体が残っている。
すべてが終わったわけではない。
それでも、ノクティルムへ伸びていた白い手は、大きく退いた。
ダリウスが報告札を閉じる。
「今日の確認は終わりだ」
カインとゼルが席を立つ。
ジルも続こうとしたところで、ダリウスの声が止めた。
「ジル」
「何だ」
「今日から、お前は正式所属員だ」
「昨日聞いた」
「なら、所属員として動け」
保護対象でも、外部協力者でもない。
責任を持つ者として扱うということだ。
ジルは一拍置いてから頷いた。
「ああ」
*
黒燈ギルドの朝は、ジルが想像していたより騒がしかった。
廊下の奥では、誰かが報告書の束を落とした。紙が石床へ散る乾いた音に続き、拾えと叱る声が飛ぶ。
食堂からは焼いたパンと香草茶の匂い。
階段下では、若い所属員が先輩に寝癖を指摘されている。
沈黙と刃だけでできた暗殺者の巣窟とは、ずいぶん違う。
ジルは左右の通路と、行き交う者の位置を視界の端へ収めながら歩いた。
前方には受付卓。
右の階段は地上へ続き、左の奥には保全室と会議室。
背後から近づく足音は二人分。どちらも急いではいない。
外套の内側には、黒い紐へ通した黒銀の所属証。
歩くたび、硬い縁が服の内側へかすかに触れた。
金属そのものは小さい。
それなのに、まだ重い。
「おはようございます、ジルさん」
廊下の角で、書類を抱えた受付係が声をかけてきた。
ジルは一拍遅れて足を止める。
「……俺か」
「ほかにジルさんはいませんよ」
受付係は少し不思議そうな顔をして、抱えていた札を一枚抜いた。
「今日から任務割りの確認をお願いします」
薄い札が受付卓へ置かれる。
乾いた、小さな音。
警戒する視線も、過去を探ろうとする気配もない。
ただ朝の挨拶をし、今日の仕事を渡そうとしている顔だった。
白梟で名前を呼ばれる時は、たいてい何かが始まる前だった。
呼び出し。
任務。
処分。
あるいは、穏やかすぎる声で役割を与えられる時。
ただの朝の挨拶として名前を呼ばれた記憶は、ほとんどない。
「ようこそ黒燈へ、正式所属員サマ」
横から、楽しそうな声が割り込んだ。
軽口の後、ルシの笑みが少し遅れて消えた。
茶化しているようで、その目だけはジルが名前を呼ばれた一拍を見逃していなかった。
振り向かなくても分かる。
足音は相変わらず軽いくせに、声と顔を隠す気はないらしい。
ルシはジルの隣へ並び、外套の胸元へ視線を向けた。
「黒銀の札、似合ってるぞ」
「見えていないだろう」
「雰囲気で分かる」
「適当なことを言うな」
「大ごとだなあ」
ルシは笑っていたが、目元は少しだけ柔らかい。
「所属が変わっただけだ」
「それを大ごとって言うんだよ」
「面倒だ」
「はいはい」
ジルはルシの足を踏もうとした。
ルシが半歩で避ける。
「危なっ。朝から暴力反対」
「無駄口を減らそうとした」
「まだ減ってないから未遂だな」
受付係が、笑いを堪えるように肩を震わせている。
「何だ」
「いえ。もう馴染んでいらっしゃるなと」
「馴染んでいない」
「そこは断言するんだ?」
「黙れ、ルシ」
返す声は冷たい。
だが、廊下の空気は重くならない。
低い声を出せば相手が黙り、目を向ければ距離を取る。それが当然だったはずなのに、ここでは軽口がひとつ返ってくるだけだ。
「きゅう」
足元で声がした。
クロがルシの足元から離れ、行き交う者の靴を慣れたように避けながら、ジルの踵へ回り込んでいる。
黒い鼻先を上げ、太い尾を揺らした。
「……お前はなぜここにいる」
「きゅ」
「質問に答えろ」
「きゅう」
「答える気がないな」
クロはジルの足首へ頬を擦りつける。
ルシが大げさに胸を押さえた。
「またそっちか」
「飼い主の管理不足だ」
「クロ、こっち来い。オレの相棒だろ」
「きゅう」
クロはルシの指へ鼻先を寄せたあと、またジルの足元へ戻った。
「……今、オレ振られた?」
「日頃の行いだな」
クロが前足を伸ばし、ジルの脚を軽く叩く。
抱き上げろと言っているらしい。
ジルは数秒見下ろした。
「歩けるだろう」
「きゅう」
「返事になっていない」
もう一度、前足が触れる。
ジルは低く舌打ちし、クロを抱き上げた。
「今回だけだ」
「きゅう!」
「勝ち誇るな」
黒い毛並みが外套へ沈み、クロは当然のように胸元へ収まった。
「初日から懐かれすぎじゃない?」
「お前の管理不足だと言った」
「そこ、今日だけで二回言われてる」
廊下の向こうから、低い声が落ちた。
「朝から騒ぐな」
カインだった。
片目でジルとルシを見比べ、最後にジルの腕の中へ収まったクロを見る。
その左側には、ゼルが自然な歩調で並んでいた。
「おはよう、ジル」
「望んでいないが、朝だな」
「それは否定できないね」
ゼルが穏やかに笑う。
カインは弟へ視線を向けた。
「ルシ。任務割りを確認しろ」
「はいはい」
それから、ジルを見る。
「困ることがあれば言え」
必要最低限の短い言葉だった。
近づきすぎず、世話を焼くとも言わない。
ただ、必要になった時の入口だけを残す言い方。
「……今のところはない」
「ならいい」
カインはそれ以上聞かず、先へ歩き出した。
その左側を、ゼルが当然のようについていく。
カインの歩幅が、ほんのわずかに遅れた。
旧水門で捕縛者を引き上げた時の左肩の力みが、まだ残っているのだろう。ジルにも分かる程度の、微細な重さだった。
ゼルは気づいていた。
だが、右腕輪を灯すことも、銀筆を抜くこともしない。ただ、カインの左側へ半歩寄り、声だけを落とす。
「あとで、昨日の続き」
「分かっている」
「触れていいと言ったの、忘れてないよね」
「忘れていない」
「ならいい」
ゼルはそれ以上、追及しなかった。
カインも左側の距離を拒まない。
補われている。
けれど、縛られていない。
旧記録運搬詰所でも、慈善夜会でも、旧水門でも、何度も目にしてきた距離だった。
ジルは、胸元の黒銀札が衣擦れの奥で揺れるのを感じる。
身体へ刻まれていない所属の証。
必要なら自分で外せるもの。
その重みが、左鎖骨下に残る古い痕とは違うことを、あらためて知る。
ゼルはカインの左側へ追いついた。
「急がなくていいよ」
「何をだ」
「いろいろと、かな」
ジルが眉を寄せるより先に、ゼルはカインの隣へ戻った。
「大人組、たまに刺さること言うよな」
「お前も少しは見習え」
「オレにはオレの良さがあるから」
「自分で言うな」
「じゃあ、ジルが言ってくれる?」
「言わない」
「即答」
腕の中でクロが「きゅう」と鳴いた。
*
正式所属員としての初日は、拍子抜けするほど普通に進んだ。
午前中、ジルは任務部屋で登録確認を受ける。
使用武器。
得意な侵入経路。
扱える毒と解毒薬。
単独行動時の連絡方法。
複数任務へ入った際の役割。
担当者の手元にあるのは、所属員用の記録紙だけだった。
白梟時代の任務。
持ち出した文書の所在。
白い王都で誰の指揮下にいたか。
そうした問いは出ない。
必要な情報だけを求められている。
それでも、ジルは答えを削りすぎた。
「短剣」
「ほかには?」
「必要なら使う」
「何をです?」
「使えるものを」
担当者の筆が紙の上で止まった。
隣からルシが口を挟む。
「鍵開けと高所移動。薄刃と投げ刃も――」
「俺が答える」
「じゃあ、ちゃんと答えろよ」
「余計なことを言うな」
「任務に必要な情報だって」
「情報屋の範囲を越えている」
「黒燈では新人なんだから、先輩の言うことを聞け」
ジルは黙った。
そこを突かれると返しにくい。
白梟では長い間、実働員として扱われた。
だが、黒燈では新人。
不慣れな響きだった。
次の質問へ、ジルはわずかな間を置いて答えた。
短剣以外に扱える刃。
開けられる鍵の種類。
毒を識別できる範囲。
必要な分だけではあるが、先ほどよりは長い。
止まっていた筆が動き出す。
「できるじゃん」
「黙れ」
昼には食堂へ入った。
ジルは壁を背にでき、入口と配膳口を視界へ収められる席を選ぶ。
ルシは向かいへ座った。
クロは当然のように隣の椅子へ飛び乗る。
「そこは席じゃない」
「きゅ」
「降りろ」
「きゅう」
クロは椅子の上で丸くなった。
ジルはパンをちぎる。
小さな端が、クロの前へ置かれた。
「今、普通に分けたよな」
「落ちそうだった」
「手の上から?」
「黙れ」
クロが満足そうにパンを食べる。
食堂の隅で、誰かが声を抑えて笑った。
ジルが視線を向けると笑いは小さくなったが、誰も席を立たない。
怯えて遠ざかる者もいない。
落ち着かない。
それでも、立ち上がる理由まではなかった。
*
午後、ジルは正式に割り当てられた私室を確認した。
寝台、机、椅子、収納棚。
窓はなく、天井近くに細い換気口がある。扉の鍵は二重。脇の簡易防護印も、侵入を遅らせるためのものにすぎない。
ジルは扉を開けたまま室内を一巡した。
換気口の格子。
石壁の継ぎ目。
床石の浮き。
机の下。
防護印の接続。
監視用の術式はない。
外から閉じ込める仕組みも見当たらなかった。
ようやく、持ってきた荷物を収納棚へ置く。
最低限の衣類と、武器の手入れ道具。
棚の大半は空いたまま。
これ以上、自分の物を増やす気にはまだなれない。
増やせば、置いていくものが増える。
出る時の手順が重くなる。
古い判断が先に立つ。
それでも、置いた荷物をすぐに取り出そうとはしなかった。
扉を閉じようとした瞬間、黒い影が足元をすり抜ける。
「クロ」
「きゅう」
小さな爪が石床を細かく鳴らす。
クロは寝台の下へ鼻先を入れ、机の脚へ頬を擦りつけ、換気口の下で匂いを確かめた。
警戒しているというより、自分の知っている場所を増やしているように見える。
最後には枕へ飛び乗り、当然のように丸くなった。
「降りろ」
「きゅう」
「そこは俺の寝床だ」
「きゅ」
クロは尾を鼻先へ巻き、目を閉じる。
片手で持ち上げ、廊下へ出せばいい。
任務なら、もっと難しい判断も迷わずできる。
それなのに手が動かない。
開いた扉の向こうから、ルシが顔を覗かせた。
「いたいた。クロ、探したぞ」
「また見失ったのか」
「一瞬、目を離しただけ」
ルシは枕を占拠したクロを見て、目を細める。
「完全に気に入ってるな」
「回収しろ」
「クロ、帰るぞ」
「きゅ」
クロは片耳だけを向け、動かなかった。
「……聞こえないふりを覚えた?」
「飼い主に似たな」
「オレ、そんなことしないだろ」
ジルは無言で見る。
「……たまにしかしない」
「している」
「追い出す?」
ジルは枕の上を見た。
クロは薄く片目を開け、こちらの反応を窺っている。
「……明日からだ」
「負けてるなあ」
「黙れ」
ルシは笑った。
だが、部屋へは入らない。
扉から半歩離れた廊下で、出入口を空けたまま立っている。
踏み込まない。
室内を覗き込みすぎない。
茶化しはしても、許可なく境界を越えようとはしなかった。
入れと命じる気はない。
出ていけと言う理由もない。
「入らないのか」
声に出したあとで、ジルは自分の言葉に気づいた。
廊下に残っていたルシの足音が、そこで止まる。
半歩分の間。
踏み込むには近く、遠慮するにはもう遅い距離だった。
「招待?」
軽く返した声だけが、いつもより少し遅れて届いた。
「違う。廊下に立たれると邪魔だ」
「はいはい。お邪魔します」
「邪魔なら出す」
「了解」
ルシは室内へ足を踏み入れた。
机にも棚にも触れず、寝台から距離を取り、机脇の椅子へ腰を下ろす。
換気口を隠さず、扉への道も塞がない位置。
遠い廊下の足音。
食堂から響く食器の音。
枕の上から聞こえ始めた、小さな寝息。
ジルは懐へ手を入れ、黒銀の所属証を取り出した。
黒い紐が指の間へ落ちる。
魔石灯を受け、黒い灯火の紋が鈍く浮かんだ。
クロが片目を開き、鼻先を動かす。
ルシも見ている。
それでも、近づこうとも、手を伸ばそうともしなかった。
見たいものを見るだけに留め、触れない顔だった。
「変な感じか?」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「人の顔を読むな」
「仕事だからな」
「今は任務中じゃない」
「任務じゃなくても、見えるものは見える」
ジルは所属証の縁を親指でなぞる。
冷たい金属。
肌へ刻まれたものではない。
自分で取り出せる。
自分でしまえる。
持つのも、外すのも、自分で決められる。
左鎖骨の下にある古い痕が、ふと意識の奥へ浮かんだ。
触れれば、まだそこにある。
身体へ残されたもの。
選べなかったもの。
けれど、今、掌にある黒銀は違う。
外そうと思えば、外せる。
しまおうと思えば、しまえる。
持つと決めたのは、ジル自身だった。
「まだ慣れない」
ルシの口元から、からかう気配が消えた。
「何に?」
「全部だ」
ルシの笑みが、そこで消えた。
踏み込む言葉を探して、結局、何も足さない顔だった。
朝の挨拶。
任務割り。
食堂の席。
空いた棚のある私室。
枕を占拠する毛玉。
そして、頼んでもいないのに扉の外へ立つ情報屋。
「まだ、全部を話す気もない」
「知ってる」
返事は早かった。
「聞きたいことはあるけどな」
「なら聞け」
「今はいい」
言いかけた何かを、ルシは飲み込んだ。
今聞けば、ジルが閉じると分かっている顔だった。
短い沈黙。
ルシは椅子へ座ったまま、距離を詰めない。
「ただ、黙って消えるな」
何度も聞いた言葉だった。
鬱陶しく、しつこく、ひどく面倒な言葉。
だが、鎖ではない。
ここを出るなとは言わない。
自分だけを切り捨てるように消えるな、と言っているだけだ。
今までなら、返事を拒んだ。
面倒だと切り捨てれば済んだ。
だが今は、自分からこの男を部屋へ入れている。
ジルは黒銀の札を自分の手で懐へ戻した。
黒い紐と硬い縁が、衣擦れの奥へ沈む。
「……今は消えない」
ルシの目が、わずかに見開かれた。
返事が、一拍遅れる。
その間だけ、目元が静かに柔らかくなった。
「それで十分」
声は低く、けれど軽くない。
「勝手に決めるな」
「はいはい」
枕の上でクロが寝返りを打つ。
「きゅ……」
二人の視線が同時に向いた。
クロはジルの枕を抱えるようにして、さらに丸くなる。
「完全に泊まる気だな」
「明日には追い出す」
「今日じゃないんだ?」
「黙れ」
今度こそ、ルシが肩を震わせた。
ジルは壁へ背を預ける。
まだ馴染まない。
何もかもを信じたわけでもない。
それでも今日、ここで名前を呼ばれ、仕事を受け取り、食事をし、部屋へ戻った。
棚には、自分の荷物。
枕には毛玉。
扉の内側には、呼んでもいない情報屋がいる。
見張られているのではない。
出入口を残したまま、誰かが隣にいる。
逃亡者の夜とは違う静けさだった。
*
その夜、ジルは月燈館へ行くとだけ告げた。
同行はいらない、とも。
ルシは何かを言いかけ、最後には肩をすくめる。
「話には入らない。クロと入口で待つ」
「待たなくていい」
「クロの管理だよ」
「管理できていないだろ」
「だから行くんだって」
「意味が分からない」
「オレには分かる」
ジルはそれ以上言い返さず、黒燈本部を出た。
背後には、軽い足音と小さな爪音。
近づきすぎず、離れすぎない距離。
月燈館へ近づく頃、その二つの音は遠ざかった。
約束どおり、距離を取ったらしい。
振り返らなくても、どの角の向こうに二人がいるかは分かっていた。
ノクティルムの夜は、今日も騒がしい。
魔石灯が石畳へ滲み、酒場から笑い声が漏れる。
ジルはその中を、足音を殺して歩いた。
懐では、黒銀の所属証が歩調に合わせて小さく揺れる。
まだ慣れない重み。
だが、捨てるためのものではない。
月を模した淡い看板の前で足を止める。
《月燈館》。
ノクティルムへ逃げ込んだ直後、身を隠しながら働いていた場所。
救われた場所ではない。
家族になった場所でもない。
金と仕事を交換し、余計なことを聞かれずに夜を越せた場所。
あの頃のジルには、それが必要だった。
扉を開けると、鈴が小さく鳴る。
磨かれた床。
香の匂い。
低く抑えられた笑い声。
受付の男が顔を上げ、目を瞬かせた。
「ジル? 今日は出勤日じゃないよな」
「違う。ロアンはいるか」
「いる。呼ぶ?」
「いや、行く」
慣れた廊下を進む。
どの床板が軋むか。
どの窓が裏路地へ抜けるか。
どの扉が、立てつけの悪い音を立てるか。
すべて覚えている。
追手が来た時に逃げるため。
店の者を巻き込まず、自分だけが姿を消すため。
今日は出口を確認しないわけではない。
それでも、以前のように床板の音を一枚ずつ数えてはいなかった。
ロアンは奥の小部屋で帳簿を開いていた。
顔を上げ、ジルを見る。
「珍しいね。客として来た顔でもなさそうだ」
「挨拶だ」
「座れば?」
「すぐ済む」
「君の“すぐ済む”は、だいたい重い話の前置きだよ」
ジルは無言で見返した。
ロアンは理由を聞かない。
ただ、続きを待っている。
昔から変わらないやり方だった。
「もう、ここで働くことはない」
魔石灯の淡い光が、壁の上で揺れた。
ロアンの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「決まったんだね」
「何が」
「行き先」
ジルは答えなかった。
だが、否定もしない。
ロアンはそれ以上聞かず、引き出しから小さな封筒を出した。
「未払い分と、少しばかりの支度金」
「いらない」
「退職金だよ」
「正式な従業員ではなかった」
「働いた分は働いた分だ。それに、面倒な客を何度か黙らせてくれただろう」
「勝手に騒いだ客を止めただけだ」
「店では、それを用心棒代と言う」
ロアンは封筒を机へ置いた。
手渡そうとはしない。
「借りは作らない」
「借りじゃない。精算だ」
「……」
「私に未払いを抱えたまま、君を送り出せと?」
ジルは眉を寄せた。
「言い方が悪い」
「君には、この方が効くだろう?」
「性格が悪いな」
「店主だからね」
しばらく封筒を見たあと、ジルは手を伸ばした。
借りではない。
働いた分だと言われれば、拒む理由は薄い。
「余計な金なら返す」
「律儀だね」
「面倒を残したくないだけだ」
「君らしい」
ロアンは少しだけ間を置いた。
「ここは、君にとっていい場所だったかい?」
ジルはすぐには答えなかった。
柔らかな灯り。
作った笑み。
客の視線。
隠した刃。
夜明け前の静かな廊下。
いい場所だったかと聞かれれば、違う。
悪い場所だったかと聞かれても、違う。
「必要な場所だった」
「それで十分だ」
遠くから客の笑い声が届く。
ロアンは立ち上がり、棚から小さな月形の魔石灯を取った。
手に収まるほどの、古い飾り灯。
特別な術式はない。ただ、薄い月の形をした石が淡く光っている。
「餞別だよ」
「いらない」
「即答は傷つくな」
「なぜ俺が店の物を持っていく」
「もう使っていない。君が持っていけばいい」
「理由になっていない」
ロアンは灯りを机へ置く。
「この店は、逃げ込む者を責めない。出ていく者も引き止めない」
ジルの視線が、小さな月へ落ちた。
「君が必要としていた間、ここはここにあった。それだけだよ」
「……」
「逃げ場所を出ていくことは、裏切りじゃない」
慰めを押しつける声ではない。
事情を暴こうとする者の言葉でもない。
必要な間だけ場所を渡し、何人もの夜を見送ってきた者の声だった。
ジルは小さな灯りを手に取る。
淡い光が指の間へ落ちた。
「……借りるだけだ」
「そういうことにしておこう」
その時、扉の外で小さな爪が床を掻いた。
指一本分ほど開いた隙間から、黒い鼻先が滑り込む。
「きゅう」
「クロ」
黒い毛玉はジルの足元へ駆け寄り、靴先へ身体を擦りつけた。
扉の外では、ルシが廊下の壁から離れた位置に立っている。
室内を覗き込める場所ではない。
「入口で待ってたんだけど、こいつが隙を抜けた。回収に来ただけ。話には入らない」
「もう入っている」
「だから止めに来た」
「止められていないだろ」
「それは認める」
ロアンは、扉の外へ踏み込まないルシを一度だけ見た。
「入ってこないんだね」
「話には入らないと言ったからな」
ルシが軽く肩をすくめる。
笑ってはいるが、線を越えないと決めている顔だった。
ロアンはそれ以上、何も聞かなかった。
ジルは月形の灯りを外套の内側へ収める。
それから、ロアンへ手を差し出した。
ロアンの目が、わずかに見開かれる。
すぐに、その手が握り返された。
柔らかくはない手。
この店を長く守ってきた手だった。
「世話になった」
ジルは、はっきりと言った。
ロアンは一度だけ瞬き、静かに笑う。
「こちらこそ」
握手は長く続かなかった。
ジルは手を離し、扉へ向かう。
「行く」
「うん」
ロアンはそれだけ言った。
引き止めない。
*
月燈館の前で、ジルは一度だけ振り返った。
看板は変わらず、夜の中で淡く灯っている。
逃げ込む者を責めず、出ていく者を引き止めない灯り。
必要だった場所。
もう必要ではないと切り捨てるつもりはない。
ただ、今のジルが戻る先ではなくなった。
隣にルシが並ぶ。
「寂しい?」
軽く聞いたあと、ルシの笑みが少し遅れて消えた。
答えを急かすつもりはない顔だった。
「違う」
「早い」
「違うからな」
「じゃあ、すっきりした?」
ジルは答えなかった。
外套の内側へ手を入れ、月形の灯りを確かめる。
そのすぐ近くには、黒銀の所属証。
二つの硬い縁が触れ、小さな音を立てた。
違う役目を持つ、二つの灯り。
一方は、逃げる間だけ場所を貸してくれたもの。
もう一方は、自分で選び、自分の手で持ったもの。
ルシはそれ以上聞かない。
代わりに、クロが肩の上で鳴いた。
「きゅう」
「お前も勝手に答えるな」
「きゅ」
ジルは月燈館へ背を向け、歩き出す。
ルシも隣へ並んだ。
前へ出ず、後ろにも下がらない。
クロはルシの肩からジルの方へ身を乗り出し、移動する隙を狙っている。
「おい、落ちるぞ」
ルシが肩越しに言う。
「きゅう」
「ジルの方行きたいってさ」
「都合よく訳すな」
ジルは前を向いたまま返した。
「来るな」
「きゅう」
「来るなと言った」
「きゅ」
「毛玉に決定権はない」
「じゃあ、誰にあるんだよ」
「俺だ」
「はいはい」
次の角で、クロはとうとうルシの肩から石畳へ降りた。
小さな爪が、かり、と夜の道を鳴らす。
そのままジルの外套の裾を咥えた。
「引くな」
「きゅ」
「ルシのところへ戻れ」
クロは離さなかった。
それどころか、外套の裾を咥えたまま、鼻先だけをルシへ向ける。
ルシが笑う。
「両方近くにいろってさ」
ルシは笑っていた。
けれど、ジルが外套を振り払わなかったことだけは、茶化しきれない目で拾っていた。
「だから都合よく訳すな」
「でも、外れてないだろ」
ジルは答えなかった。
本気で振り払えば、外套の裾くらいすぐに取り戻せる。クロの歯は小さく、引く力も強くはない。
それでも、ジルは足を止めなかった。
クロは満足したように尾を揺らし、二人の足元へ戻る。
右に、ルシの軽い足音。
左に、ジルの静かな足音。
その間を、黒い毛玉の小さな爪音がついていく。
かり、かり、と石畳を鳴らしながら。
好きな匂いが二つ、同じ方へ歩いている。
クロはそれだけで、ひどく満足そうだった。
月燈館の灯りは、少しずつ背後へ遠ざかった。
ルシが前を向いたまま、いつもの軽い声を落とす。
「ジル」
「何だ」
「帰ろうぜ」
ルシの声は軽かった。
けれど、笑みはなかった。
行き先を押しつけるのではなく、隣に同じ方向を見るための声だった。
ジルの足が、ほんの一拍だけ止まった。
帰れと命じる声ではない。
黒燈へ戻れと押しつける言葉でもない。
ルシも同じ方角へ足を向けたまま、隣に残るための言葉だった。
ジルは前方を見る。
黒い王都の奥。
石畳へ低く落ちる魔石灯の向こうに、黒燈本部へ続く道がある。
逃げ道は、今もいくつも見える。
右の路地を抜ければ港へ出られる。
屋根へ上がれば外周へ向かえる。
どの道も塞がれていない。
誰も、ジルの背を押していない。
誰も、腕を掴んで引き戻そうとしていない。
それでも、隣に足音がある。
黒い毛玉の爪音がある。
懐には、月形の灯りと黒銀の所属証。
どちらも、身体へ刻まれたものではない。
自分で持ち、自分でしまい、自分で選んだもの。
「……勝手にしろ」
ルシの返事が、一瞬だけ遅れた。
ジルがその言葉を拒まなかったことを、すぐには軽口にできなかった。
「はいはい」
クロが二人の間で「きゅう」と鳴いた。
「騒ぐな、毛玉」
けれど、歩幅は変えなかった。
ルシも、先へ出すぎなかった。
夜の裏通りへ、二人と一匹の影が長く伸びた。
背後には、逃げていた夜を越すための灯り。
前方には、黒い王都の奥で低く灯る、黒燈の明かり。
白い王都に残る夜は、まだ終わっていない。
それでも、ジルの足は止まらなかった。
ルシとクロの気配を隣に置いたまま、自分で選んだ黒い灯りの方へ歩いていく。
逃げるためではなく。
戻るために。
第1部「魔族王都編」 完
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