銀の目の逃亡者 第1部 魔族王都編【完結】

桃源ハルト

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第1部 魔族王都編

最終話 第26話 灯りのある場所



 ノクティルムに、夜を越えた朝が来た。

 黒い石畳は夜明けの光を受け、濡れたように鈍く輝いている。裏通りにはまだ酒と煙の匂いが残っていたが、屋台の鉄板からは焼いたパンと香草肉の香りが立ちのぼり、港の方角では荷車の車輪が石を軋ませていた。

 誰かが戸を開ける。

 誰かが鍋へ火を入れる。

 夜の事件を知らない者も、知りながら口を閉ざす者も、同じ朝の中で働き始めている。

 黒い王都は、いつもどおりに目を覚ましていた。

 ただ、その足元では、昨夜までとは違う動きが始まっている。

     *

 黒燈ギルド本部の会議室には、朝一番の報告札が並んでいた。

 白弦商会ノクティルム支部は閉鎖され、営業停止。

 裏帳場、偽装荷札、白梟はくきょう用の封書と術具を扱った者は拘束と聴取へ回された。一方で、表の売り場の店員や通常便の御者、裏経路を知らなかった倉庫係は、荷と証言を照合したうえで順に帰されている。

 ラザロに関わるグレイル家側の記録には王都側の監査が入り、提供された名義、資金、迎賓館の使用記録が押さえられた。

 旧水門には見張りが立ち、残された術式具と白い封書の欠片が回収されている。

 ゼルが最後の短札を読み終え、保全卓へ戻した。

「王都側への引き渡しは、これで一区切りだね」

「黒燈が渡したのは、記録と証言だけだ」

 ダリウスが低く言う。

「誰をどう裁くかは、王都の仕事だ」

 ジルは卓上の報告札を見た。

「白弦商会そのものを潰すわけじゃないのか」

「関与した者と、知らずに働いていた者を同じには扱わん」

「黒燈らしくないほど丁寧だな」

「雑に切れば、白梟はくきょうと同じだ」

 短い返答だった。

 卓上には、白弦商会の帳簿写し、ラザロの供述札、旧水門で押さえた指示書がある。

 黒燈はそれを握った。

 だが、自分たちだけで判決へ変えようとはしない。

 白梟はくきょうなら、正しさを名乗って刃を振り下ろした。

 黒燈は、刃を持ちながら、振るう場所を選ぶ。

「ヴェインの足取りは」

 カインが問う。

「王都外へ抜けた可能性が高い」

 ルシは壁際へ寄りかかり、腕を組んでいた。

「白梟はくきょう本体へ戻るか、別の中継所を使うか。どっちにしても、ノクティルム内で追える痕は切れてる」

「逃がしたな」

 ジルが言う。

「逃げられた、だろ」

「同じだ」

「違うね。次に拾うためには、失敗を正確に言った方がいい」

 ルシの声は軽い。

 だが、逃げた相手を過小評価してはいなかった。

 ヴェインは生きている。

 白い王都には、アルドリックと白梟はくきょう本体が残っている。

 すべてが終わったわけではない。

 それでも、ノクティルムへ伸びていた白い手は、大きく退いた。

 ダリウスが報告札を閉じる。

「今日の確認は終わりだ」

 カインとゼルが席を立つ。

 ジルも続こうとしたところで、ダリウスの声が止めた。

「ジル」

「何だ」

「今日から、お前は正式所属員だ」

「昨日聞いた」

「なら、所属員として動け」

 保護対象でも、外部協力者でもない。

 責任を持つ者として扱うということだ。

 ジルは一拍置いてから頷いた。

「ああ」

     *

 黒燈ギルドの朝は、ジルが想像していたより騒がしかった。

 廊下の奥では、誰かが報告書の束を落とした。紙が石床へ散る乾いた音に続き、拾えと叱る声が飛ぶ。

 食堂からは焼いたパンと香草茶の匂い。

 階段下では、若い所属員が先輩に寝癖を指摘されている。

 沈黙と刃だけでできた暗殺者の巣窟とは、ずいぶん違う。

 ジルは左右の通路と、行き交う者の位置を視界の端へ収めながら歩いた。

 前方には受付卓。

 右の階段は地上へ続き、左の奥には保全室と会議室。

 背後から近づく足音は二人分。どちらも急いではいない。

 外套の内側には、黒い紐へ通した黒銀の所属証。

 歩くたび、硬い縁が服の内側へかすかに触れた。

 金属そのものは小さい。

 それなのに、まだ重い。

「おはようございます、ジルさん」

 廊下の角で、書類を抱えた受付係が声をかけてきた。

 ジルは一拍遅れて足を止める。

「……俺か」

「ほかにジルさんはいませんよ」

 受付係は少し不思議そうな顔をして、抱えていた札を一枚抜いた。

「今日から任務割りの確認をお願いします」

 薄い札が受付卓へ置かれる。

 乾いた、小さな音。

 警戒する視線も、過去を探ろうとする気配もない。

 ただ朝の挨拶をし、今日の仕事を渡そうとしている顔だった。

 白梟はくきょうで名前を呼ばれる時は、たいてい何かが始まる前だった。

 呼び出し。

 任務。

 処分。

 あるいは、穏やかすぎる声で役割を与えられる時。

 ただの朝の挨拶として名前を呼ばれた記憶は、ほとんどない。

「ようこそ黒燈へ、正式所属員サマ」

 横から、楽しそうな声が割り込んだ。

 軽口の後、ルシの笑みが少し遅れて消えた。

 茶化しているようで、その目だけはジルが名前を呼ばれた一拍を見逃していなかった。

 振り向かなくても分かる。

 足音は相変わらず軽いくせに、声と顔を隠す気はないらしい。

 ルシはジルの隣へ並び、外套の胸元へ視線を向けた。

「黒銀の札、似合ってるぞ」

「見えていないだろう」

「雰囲気で分かる」

「適当なことを言うな」

「大ごとだなあ」

 ルシは笑っていたが、目元は少しだけ柔らかい。

「所属が変わっただけだ」

「それを大ごとって言うんだよ」

「面倒だ」

「はいはい」

 ジルはルシの足を踏もうとした。

 ルシが半歩で避ける。

「危なっ。朝から暴力反対」

「無駄口を減らそうとした」

「まだ減ってないから未遂だな」

 受付係が、笑いを堪えるように肩を震わせている。

「何だ」

「いえ。もう馴染んでいらっしゃるなと」

「馴染んでいない」

「そこは断言するんだ?」

「黙れ、ルシ」

 返す声は冷たい。

 だが、廊下の空気は重くならない。

 低い声を出せば相手が黙り、目を向ければ距離を取る。それが当然だったはずなのに、ここでは軽口がひとつ返ってくるだけだ。

「きゅう」

 足元で声がした。

 クロがルシの足元から離れ、行き交う者の靴を慣れたように避けながら、ジルの踵へ回り込んでいる。

 黒い鼻先を上げ、太い尾を揺らした。

「……お前はなぜここにいる」

「きゅ」

「質問に答えろ」

「きゅう」

「答える気がないな」

 クロはジルの足首へ頬を擦りつける。

 ルシが大げさに胸を押さえた。

「またそっちか」

「飼い主の管理不足だ」

「クロ、こっち来い。オレの相棒だろ」

「きゅう」

 クロはルシの指へ鼻先を寄せたあと、またジルの足元へ戻った。

「……今、オレ振られた?」

「日頃の行いだな」

 クロが前足を伸ばし、ジルの脚を軽く叩く。

 抱き上げろと言っているらしい。

 ジルは数秒見下ろした。

「歩けるだろう」

「きゅう」

「返事になっていない」

 もう一度、前足が触れる。

 ジルは低く舌打ちし、クロを抱き上げた。


「今回だけだ」

「きゅう!」

「勝ち誇るな」

 黒い毛並みが外套へ沈み、クロは当然のように胸元へ収まった。

「初日から懐かれすぎじゃない?」

「お前の管理不足だと言った」

「そこ、今日だけで二回言われてる」

 廊下の向こうから、低い声が落ちた。

「朝から騒ぐな」

 カインだった。

 片目でジルとルシを見比べ、最後にジルの腕の中へ収まったクロを見る。

 その左側には、ゼルが自然な歩調で並んでいた。

「おはよう、ジル」

「望んでいないが、朝だな」

「それは否定できないね」

 ゼルが穏やかに笑う。

 カインは弟へ視線を向けた。

「ルシ。任務割りを確認しろ」

「はいはい」

 それから、ジルを見る。

「困ることがあれば言え」

 必要最低限の短い言葉だった。

 近づきすぎず、世話を焼くとも言わない。

 ただ、必要になった時の入口だけを残す言い方。

「……今のところはない」

「ならいい」

 カインはそれ以上聞かず、先へ歩き出した。

 その左側を、ゼルが当然のようについていく。

 カインの歩幅が、ほんのわずかに遅れた。

 旧水門で捕縛者を引き上げた時の左肩の力みが、まだ残っているのだろう。ジルにも分かる程度の、微細な重さだった。

 ゼルは気づいていた。

 だが、右腕輪を灯すことも、銀筆を抜くこともしない。ただ、カインの左側へ半歩寄り、声だけを落とす。

「あとで、昨日の続き」

「分かっている」

「触れていいと言ったの、忘れてないよね」

「忘れていない」

「ならいい」

 ゼルはそれ以上、追及しなかった。

 カインも左側の距離を拒まない。

 補われている。

 けれど、縛られていない。

 旧記録運搬詰所でも、慈善夜会でも、旧水門でも、何度も目にしてきた距離だった。

 ジルは、胸元の黒銀札が衣擦れの奥で揺れるのを感じる。

 身体へ刻まれていない所属の証。

 必要なら自分で外せるもの。

 その重みが、左鎖骨下に残る古い痕とは違うことを、あらためて知る。

 ゼルはカインの左側へ追いついた。

「急がなくていいよ」

「何をだ」

「いろいろと、かな」

 ジルが眉を寄せるより先に、ゼルはカインの隣へ戻った。

「大人組、たまに刺さること言うよな」

「お前も少しは見習え」

「オレにはオレの良さがあるから」

「自分で言うな」

「じゃあ、ジルが言ってくれる?」

「言わない」

「即答」

 腕の中でクロが「きゅう」と鳴いた。

     *

 正式所属員としての初日は、拍子抜けするほど普通に進んだ。

 午前中、ジルは任務部屋で登録確認を受ける。

 使用武器。

 得意な侵入経路。

 扱える毒と解毒薬。

 単独行動時の連絡方法。

 複数任務へ入った際の役割。

 担当者の手元にあるのは、所属員用の記録紙だけだった。

 白梟はくきょう時代の任務。

 持ち出した文書の所在。

 白い王都で誰の指揮下にいたか。

 そうした問いは出ない。

 必要な情報だけを求められている。

 それでも、ジルは答えを削りすぎた。

「短剣」

「ほかには?」

「必要なら使う」

「何をです?」

「使えるものを」

 担当者の筆が紙の上で止まった。

 隣からルシが口を挟む。

「鍵開けと高所移動。薄刃と投げ刃も――」

「俺が答える」

「じゃあ、ちゃんと答えろよ」

「余計なことを言うな」

「任務に必要な情報だって」

「情報屋の範囲を越えている」

「黒燈では新人なんだから、先輩の言うことを聞け」

 ジルは黙った。

 そこを突かれると返しにくい。

 白梟はくきょうでは長い間、実働員として扱われた。

 だが、黒燈では新人。

 不慣れな響きだった。

 次の質問へ、ジルはわずかな間を置いて答えた。

 短剣以外に扱える刃。

 開けられる鍵の種類。

 毒を識別できる範囲。

 必要な分だけではあるが、先ほどよりは長い。

 止まっていた筆が動き出す。

「できるじゃん」

「黙れ」

 昼には食堂へ入った。

 ジルは壁を背にでき、入口と配膳口を視界へ収められる席を選ぶ。

 ルシは向かいへ座った。

 クロは当然のように隣の椅子へ飛び乗る。

「そこは席じゃない」

「きゅ」

「降りろ」

「きゅう」

 クロは椅子の上で丸くなった。

 ジルはパンをちぎる。


 小さな端が、クロの前へ置かれた。

「今、普通に分けたよな」

「落ちそうだった」

「手の上から?」

「黙れ」

 クロが満足そうにパンを食べる。

 食堂の隅で、誰かが声を抑えて笑った。

 ジルが視線を向けると笑いは小さくなったが、誰も席を立たない。

 怯えて遠ざかる者もいない。

 落ち着かない。

 それでも、立ち上がる理由まではなかった。

     *

 午後、ジルは正式に割り当てられた私室を確認した。

 寝台、机、椅子、収納棚。

 窓はなく、天井近くに細い換気口がある。扉の鍵は二重。脇の簡易防護印も、侵入を遅らせるためのものにすぎない。

 ジルは扉を開けたまま室内を一巡した。

 換気口の格子。

 石壁の継ぎ目。

 床石の浮き。

 机の下。

 防護印の接続。

 監視用の術式はない。

 外から閉じ込める仕組みも見当たらなかった。

 ようやく、持ってきた荷物を収納棚へ置く。

 最低限の衣類と、武器の手入れ道具。

 棚の大半は空いたまま。

 これ以上、自分の物を増やす気にはまだなれない。

 増やせば、置いていくものが増える。

 出る時の手順が重くなる。

 古い判断が先に立つ。

 それでも、置いた荷物をすぐに取り出そうとはしなかった。

 扉を閉じようとした瞬間、黒い影が足元をすり抜ける。

「クロ」

「きゅう」

 小さな爪が石床を細かく鳴らす。

 クロは寝台の下へ鼻先を入れ、机の脚へ頬を擦りつけ、換気口の下で匂いを確かめた。

 警戒しているというより、自分の知っている場所を増やしているように見える。

 最後には枕へ飛び乗り、当然のように丸くなった。


「降りろ」

「きゅう」

「そこは俺の寝床だ」

「きゅ」

 クロは尾を鼻先へ巻き、目を閉じる。

 片手で持ち上げ、廊下へ出せばいい。

 任務なら、もっと難しい判断も迷わずできる。

 それなのに手が動かない。

 開いた扉の向こうから、ルシが顔を覗かせた。

「いたいた。クロ、探したぞ」

「また見失ったのか」

「一瞬、目を離しただけ」

 ルシは枕を占拠したクロを見て、目を細める。

「完全に気に入ってるな」

「回収しろ」

「クロ、帰るぞ」

「きゅ」

 クロは片耳だけを向け、動かなかった。

「……聞こえないふりを覚えた?」

「飼い主に似たな」

「オレ、そんなことしないだろ」

 ジルは無言で見る。

「……たまにしかしない」

「している」

「追い出す?」

 ジルは枕の上を見た。

 クロは薄く片目を開け、こちらの反応を窺っている。

「……明日からだ」

「負けてるなあ」

「黙れ」

 ルシは笑った。

 だが、部屋へは入らない。

 扉から半歩離れた廊下で、出入口を空けたまま立っている。

 踏み込まない。

 室内を覗き込みすぎない。

 茶化しはしても、許可なく境界を越えようとはしなかった。

 入れと命じる気はない。

 出ていけと言う理由もない。

「入らないのか」

 声に出したあとで、ジルは自分の言葉に気づいた。

 廊下に残っていたルシの足音が、そこで止まる。

 半歩分の間。

 踏み込むには近く、遠慮するにはもう遅い距離だった。

「招待?」

 軽く返した声だけが、いつもより少し遅れて届いた。

「違う。廊下に立たれると邪魔だ」

「はいはい。お邪魔します」

「邪魔なら出す」

「了解」

 ルシは室内へ足を踏み入れた。

 机にも棚にも触れず、寝台から距離を取り、机脇の椅子へ腰を下ろす。


 換気口を隠さず、扉への道も塞がない位置。

 遠い廊下の足音。

 食堂から響く食器の音。

 枕の上から聞こえ始めた、小さな寝息。

 ジルは懐へ手を入れ、黒銀の所属証を取り出した。

 黒い紐が指の間へ落ちる。

 魔石灯を受け、黒い灯火の紋が鈍く浮かんだ。

 クロが片目を開き、鼻先を動かす。

 ルシも見ている。

 それでも、近づこうとも、手を伸ばそうともしなかった。

 見たいものを見るだけに留め、触れない顔だった。

「変な感じか?」

「別に」

「別にって顔じゃない」

「人の顔を読むな」

「仕事だからな」

「今は任務中じゃない」

「任務じゃなくても、見えるものは見える」

 ジルは所属証の縁を親指でなぞる。

 冷たい金属。

 肌へ刻まれたものではない。

 自分で取り出せる。

 自分でしまえる。

 持つのも、外すのも、自分で決められる。

 左鎖骨の下にある古い痕が、ふと意識の奥へ浮かんだ。

 触れれば、まだそこにある。

 身体へ残されたもの。

 選べなかったもの。

 けれど、今、掌にある黒銀は違う。

 外そうと思えば、外せる。

 しまおうと思えば、しまえる。

 持つと決めたのは、ジル自身だった。

「まだ慣れない」

 ルシの口元から、からかう気配が消えた。

「何に?」

「全部だ」

 ルシの笑みが、そこで消えた。

 踏み込む言葉を探して、結局、何も足さない顔だった。

 朝の挨拶。

 任務割り。

 食堂の席。

 空いた棚のある私室。

 枕を占拠する毛玉。

 そして、頼んでもいないのに扉の外へ立つ情報屋。

「まだ、全部を話す気もない」

「知ってる」

 返事は早かった。

「聞きたいことはあるけどな」

「なら聞け」

「今はいい」

 言いかけた何かを、ルシは飲み込んだ。

 今聞けば、ジルが閉じると分かっている顔だった。

 短い沈黙。

 ルシは椅子へ座ったまま、距離を詰めない。

「ただ、黙って消えるな」

 何度も聞いた言葉だった。

 鬱陶しく、しつこく、ひどく面倒な言葉。

 だが、鎖ではない。

 ここを出るなとは言わない。

 自分だけを切り捨てるように消えるな、と言っているだけだ。

 今までなら、返事を拒んだ。

 面倒だと切り捨てれば済んだ。

 だが今は、自分からこの男を部屋へ入れている。

 ジルは黒銀の札を自分の手で懐へ戻した。

 黒い紐と硬い縁が、衣擦れの奥へ沈む。

「……今は消えない」

 ルシの目が、わずかに見開かれた。

 返事が、一拍遅れる。

 その間だけ、目元が静かに柔らかくなった。

「それで十分」

 声は低く、けれど軽くない。

「勝手に決めるな」

「はいはい」

 枕の上でクロが寝返りを打つ。

「きゅ……」

 二人の視線が同時に向いた。

 クロはジルの枕を抱えるようにして、さらに丸くなる。

「完全に泊まる気だな」

「明日には追い出す」

「今日じゃないんだ?」

「黙れ」

 今度こそ、ルシが肩を震わせた。

 ジルは壁へ背を預ける。

 まだ馴染まない。

 何もかもを信じたわけでもない。

 それでも今日、ここで名前を呼ばれ、仕事を受け取り、食事をし、部屋へ戻った。

 棚には、自分の荷物。

 枕には毛玉。

 扉の内側には、呼んでもいない情報屋がいる。

 見張られているのではない。

 出入口を残したまま、誰かが隣にいる。

 逃亡者の夜とは違う静けさだった。

     *

 その夜、ジルは月燈館げっとうかんへ行くとだけ告げた。

 同行はいらない、とも。

 ルシは何かを言いかけ、最後には肩をすくめる。

「話には入らない。クロと入口で待つ」

「待たなくていい」

「クロの管理だよ」

「管理できていないだろ」

「だから行くんだって」

「意味が分からない」

「オレには分かる」

 ジルはそれ以上言い返さず、黒燈本部を出た。

 背後には、軽い足音と小さな爪音。

 近づきすぎず、離れすぎない距離。

 月燈館げっとうかんへ近づく頃、その二つの音は遠ざかった。

 約束どおり、距離を取ったらしい。

 振り返らなくても、どの角の向こうに二人がいるかは分かっていた。

 ノクティルムの夜は、今日も騒がしい。

 魔石灯が石畳へ滲み、酒場から笑い声が漏れる。

 ジルはその中を、足音を殺して歩いた。

 懐では、黒銀の所属証が歩調に合わせて小さく揺れる。

 まだ慣れない重み。

 だが、捨てるためのものではない。

 月を模した淡い看板の前で足を止める。

 《月燈館げっとうかん》。

 ノクティルムへ逃げ込んだ直後、身を隠しながら働いていた場所。

 救われた場所ではない。

 家族になった場所でもない。

 金と仕事を交換し、余計なことを聞かれずに夜を越せた場所。

 あの頃のジルには、それが必要だった。

 扉を開けると、鈴が小さく鳴る。

 磨かれた床。

 香の匂い。

 低く抑えられた笑い声。

 受付の男が顔を上げ、目を瞬かせた。

「ジル? 今日は出勤日じゃないよな」

「違う。ロアンはいるか」

「いる。呼ぶ?」

「いや、行く」

 慣れた廊下を進む。

 どの床板が軋むか。

 どの窓が裏路地へ抜けるか。

 どの扉が、立てつけの悪い音を立てるか。

 すべて覚えている。

 追手が来た時に逃げるため。

 店の者を巻き込まず、自分だけが姿を消すため。

 今日は出口を確認しないわけではない。

 それでも、以前のように床板の音を一枚ずつ数えてはいなかった。

 ロアンは奥の小部屋で帳簿を開いていた。

 顔を上げ、ジルを見る。

「珍しいね。客として来た顔でもなさそうだ」

「挨拶だ」

「座れば?」

「すぐ済む」

「君の“すぐ済む”は、だいたい重い話の前置きだよ」

 ジルは無言で見返した。

 ロアンは理由を聞かない。

 ただ、続きを待っている。

 昔から変わらないやり方だった。

「もう、ここで働くことはない」

 魔石灯の淡い光が、壁の上で揺れた。

 ロアンの目が、ほんの少しだけ細くなる。

「決まったんだね」

「何が」

「行き先」

 ジルは答えなかった。

 だが、否定もしない。

 ロアンはそれ以上聞かず、引き出しから小さな封筒を出した。

「未払い分と、少しばかりの支度金」

「いらない」

「退職金だよ」

「正式な従業員ではなかった」

「働いた分は働いた分だ。それに、面倒な客を何度か黙らせてくれただろう」

「勝手に騒いだ客を止めただけだ」

「店では、それを用心棒代と言う」

 ロアンは封筒を机へ置いた。

 手渡そうとはしない。

「借りは作らない」

「借りじゃない。精算だ」

「……」

「私に未払いを抱えたまま、君を送り出せと?」

 ジルは眉を寄せた。

「言い方が悪い」

「君には、この方が効くだろう?」

「性格が悪いな」

「店主だからね」

 しばらく封筒を見たあと、ジルは手を伸ばした。

 借りではない。

 働いた分だと言われれば、拒む理由は薄い。

「余計な金なら返す」

「律儀だね」

「面倒を残したくないだけだ」

「君らしい」

 ロアンは少しだけ間を置いた。

「ここは、君にとっていい場所だったかい?」

 ジルはすぐには答えなかった。

 柔らかな灯り。

 作った笑み。

 客の視線。

 隠した刃。

 夜明け前の静かな廊下。

 いい場所だったかと聞かれれば、違う。

 悪い場所だったかと聞かれても、違う。

「必要な場所だった」

「それで十分だ」

 遠くから客の笑い声が届く。

 ロアンは立ち上がり、棚から小さな月形の魔石灯を取った。

 手に収まるほどの、古い飾り灯。

 特別な術式はない。ただ、薄い月の形をした石が淡く光っている。

「餞別だよ」

「いらない」

「即答は傷つくな」

「なぜ俺が店の物を持っていく」

「もう使っていない。君が持っていけばいい」

「理由になっていない」

 ロアンは灯りを机へ置く。

「この店は、逃げ込む者を責めない。出ていく者も引き止めない」

 ジルの視線が、小さな月へ落ちた。

「君が必要としていた間、ここはここにあった。それだけだよ」

「……」

「逃げ場所を出ていくことは、裏切りじゃない」

 慰めを押しつける声ではない。

 事情を暴こうとする者の言葉でもない。

 必要な間だけ場所を渡し、何人もの夜を見送ってきた者の声だった。

 ジルは小さな灯りを手に取る。

 淡い光が指の間へ落ちた。

「……借りるだけだ」

「そういうことにしておこう」

 その時、扉の外で小さな爪が床を掻いた。

 指一本分ほど開いた隙間から、黒い鼻先が滑り込む。

「きゅう」

「クロ」

 黒い毛玉はジルの足元へ駆け寄り、靴先へ身体を擦りつけた。

 扉の外では、ルシが廊下の壁から離れた位置に立っている。

 室内を覗き込める場所ではない。

「入口で待ってたんだけど、こいつが隙を抜けた。回収に来ただけ。話には入らない」

「もう入っている」

「だから止めに来た」

「止められていないだろ」

「それは認める」

 ロアンは、扉の外へ踏み込まないルシを一度だけ見た。

「入ってこないんだね」

「話には入らないと言ったからな」

 ルシが軽く肩をすくめる。

 笑ってはいるが、線を越えないと決めている顔だった。

 ロアンはそれ以上、何も聞かなかった。

 ジルは月形の灯りを外套の内側へ収める。

 それから、ロアンへ手を差し出した。

 ロアンの目が、わずかに見開かれる。

 すぐに、その手が握り返された。


 柔らかくはない手。

 この店を長く守ってきた手だった。

「世話になった」

 ジルは、はっきりと言った。

 ロアンは一度だけ瞬き、静かに笑う。

「こちらこそ」

 握手は長く続かなかった。

 ジルは手を離し、扉へ向かう。

「行く」

「うん」

 ロアンはそれだけ言った。

 引き止めない。

     *

 月燈館げっとうかんの前で、ジルは一度だけ振り返った。

 看板は変わらず、夜の中で淡く灯っている。

 逃げ込む者を責めず、出ていく者を引き止めない灯り。

 必要だった場所。

 もう必要ではないと切り捨てるつもりはない。

 ただ、今のジルが戻る先ではなくなった。

 隣にルシが並ぶ。

「寂しい?」

 軽く聞いたあと、ルシの笑みが少し遅れて消えた。

 答えを急かすつもりはない顔だった。

「違う」

「早い」

「違うからな」

「じゃあ、すっきりした?」

 ジルは答えなかった。

 外套の内側へ手を入れ、月形の灯りを確かめる。

 そのすぐ近くには、黒銀の所属証。

 二つの硬い縁が触れ、小さな音を立てた。

 違う役目を持つ、二つの灯り。

 一方は、逃げる間だけ場所を貸してくれたもの。

 もう一方は、自分で選び、自分の手で持ったもの。

 ルシはそれ以上聞かない。

 代わりに、クロが肩の上で鳴いた。

「きゅう」

「お前も勝手に答えるな」

「きゅ」

 ジルは月燈館げっとうかんへ背を向け、歩き出す。

 ルシも隣へ並んだ。

 前へ出ず、後ろにも下がらない。

 クロはルシの肩からジルの方へ身を乗り出し、移動する隙を狙っている。

「おい、落ちるぞ」

 ルシが肩越しに言う。

「きゅう」

「ジルの方行きたいってさ」

「都合よく訳すな」

 ジルは前を向いたまま返した。

「来るな」

「きゅう」

「来るなと言った」

「きゅ」

「毛玉に決定権はない」

「じゃあ、誰にあるんだよ」

「俺だ」

「はいはい」

 次の角で、クロはとうとうルシの肩から石畳へ降りた。

 小さな爪が、かり、と夜の道を鳴らす。

 そのままジルの外套の裾を咥えた。

「引くな」

「きゅ」

「ルシのところへ戻れ」

 クロは離さなかった。

 それどころか、外套の裾を咥えたまま、鼻先だけをルシへ向ける。

 ルシが笑う。

「両方近くにいろってさ」

 ルシは笑っていた。

 けれど、ジルが外套を振り払わなかったことだけは、茶化しきれない目で拾っていた。

「だから都合よく訳すな」

「でも、外れてないだろ」

 ジルは答えなかった。

 本気で振り払えば、外套の裾くらいすぐに取り戻せる。クロの歯は小さく、引く力も強くはない。

 それでも、ジルは足を止めなかった。

 クロは満足したように尾を揺らし、二人の足元へ戻る。

 右に、ルシの軽い足音。

 左に、ジルの静かな足音。

 その間を、黒い毛玉の小さな爪音がついていく。

 かり、かり、と石畳を鳴らしながら。

 好きな匂いが二つ、同じ方へ歩いている。

 クロはそれだけで、ひどく満足そうだった。

 月燈館げっとうかんの灯りは、少しずつ背後へ遠ざかった。

 ルシが前を向いたまま、いつもの軽い声を落とす。

「ジル」

「何だ」

「帰ろうぜ」

 ルシの声は軽かった。

 けれど、笑みはなかった。

 行き先を押しつけるのではなく、隣に同じ方向を見るための声だった。

 ジルの足が、ほんの一拍だけ止まった。

 帰れと命じる声ではない。

 黒燈へ戻れと押しつける言葉でもない。

 ルシも同じ方角へ足を向けたまま、隣に残るための言葉だった。

 ジルは前方を見る。

 黒い王都の奥。

 石畳へ低く落ちる魔石灯の向こうに、黒燈本部へ続く道がある。

 逃げ道は、今もいくつも見える。

 右の路地を抜ければ港へ出られる。

 屋根へ上がれば外周へ向かえる。

 どの道も塞がれていない。

 誰も、ジルの背を押していない。

 誰も、腕を掴んで引き戻そうとしていない。

 それでも、隣に足音がある。

 黒い毛玉の爪音がある。

 懐には、月形の灯りと黒銀の所属証。

 どちらも、身体へ刻まれたものではない。

 自分で持ち、自分でしまい、自分で選んだもの。

「……勝手にしろ」

 ルシの返事が、一瞬だけ遅れた。

 ジルがその言葉を拒まなかったことを、すぐには軽口にできなかった。

「はいはい」

 クロが二人の間で「きゅう」と鳴いた。

「騒ぐな、毛玉」

 けれど、歩幅は変えなかった。

 ルシも、先へ出すぎなかった。

 夜の裏通りへ、二人と一匹の影が長く伸びた。

 背後には、逃げていた夜を越すための灯り。

 前方には、黒い王都の奥で低く灯る、黒燈の明かり。

 白い王都に残る夜は、まだ終わっていない。

 それでも、ジルの足は止まらなかった。

 ルシとクロの気配を隣に置いたまま、自分で選んだ黒い灯りの方へ歩いていく。

 逃げるためではなく。

 戻るために。




第1部「魔族王都編」 完
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