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第77話 神獣の眷属

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馬鹿なことを。

蜘蛛は混乱していた。
知性を持つ実験個体として、情報収集のために人の世に放たれたディクックは、腕の中の女を見つめた。
見かけも。筋力も。肌の柔らかさ、体温、息遣い、鼓動。全てが、腕の中の彼女は、ただの人間だと伝えてくれる。
興奮に近い感情は、腕に知らず知らずのうちに、力が込められて、腕の中の女がうめいた。
いや、まずい。

殺してしまってはまずい。

「おまえがわたしと、同じスーツを持っていたと?」
「はい。色は違いますけど。」
「ならば、なぜ、今この時に着用していないのだ。」

繰り返す。ディクックは、混乱している。
彼女は、その創造主とは異なり、人間および、人間𓀫𓀠が作り出す「社会」なるものにあまり、好意的ではなかった。
特に彼女が、気に入らなかったのは、裏切りである。
これは観念的なものではない。たとえば、彼女自身の知識と能力をもとに、「繭」と「巣」を作り上げ、その技術体系が完成したところで、彼女が人間では無いという理由で、追い出される、とかそう言ったことだ。

おそらく、命も欲しかったのだろうが、ディクックはそれを差し出すつもりは毛頭なかった。
五十年以上、おそらくは技術的な問題で途絶している、主上との交信も、いずれは復活できるだろう。
ディクックは、任務を放棄したつもりは無い。
「ああ、ボデイスーツですか。破損しているからですよ。」
ドロシーは、「収納」の中から、銀のボデイスーツを出現させた。
あまりにも特殊な素材で、出来たその残骸は、ほかの者の手に渡ってはぜったいにまずいのだ。

ディクックは、その銀のスーツをひったくるように、手にとった。
放り出されたドロシーは、当然、落下に入った。

実際、このときが最大のピンチだったかもしれない。
ドロシーはほぼ、魔力を枯渇させていて、そのまま地面に叩きつけられるところだったのだ。
ベータは、まったく抜かりなく、すばやく回り込んで彼女をキャッチしてくれた。

「どうなっている!?」
ベータは、怒鳴った。わけの分からない状況であって、これを不快に思わない者はいないだろう。
だが、怒った表情もフィオリナそっくりで、ドロシーは、遠い異国の彼女を懐かしく思った。

「攻撃は中止です、ベータ。」
ドロシーは、言った。
「あれは、あのディクックと名乗る災害級の魔物は、『踊る道化師』の知己です。討伐したら、きっとかなしみます。」
「おまえたちは、蜘蛛の魔獣にまで、知り合いがいるのか?」
ひきつった笑顔で、ベータが囁いた。
「魔獣ではありません。神獣です。」
「たしかに、噂ではかの上古の神獣ギムリウスを奉じる亜人の長がメンバーに、加わっているときいていたが。」
「噂だけです。実際のところ」

ドロシーとベータは、黒いボディスーツの美女(にみえる)が、片袈裟に大きく切り裂かれたボディスーツに、頬擦りしたり、咀嚼したりしているのを呆然と見やった。

「実際のところ?」

黒いボディスーツの美女がささやいた。
「ギムリウスさま・・・」

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