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3.「異世界エルシディア」

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真夜中の覚醒から1ヶ月が過ぎた。
  

少しずつだがエマはエマの中にいる異世界人で日本人、斉藤優奈としての記憶を受け入れつつあった。
とはいえここまで来るのも、なだらかな道ではなかった。


10年このデイアラ王国で生きてきて教育を受けたエマと、29歳まで生きた全く違う女性の記憶が、一つの器の中にいる。
冷静に考えても、やはり尋常ではない。
 

突然現れた奇っ怪な言動はその後も昼夜を問わず現れ、エマはもちろんのこと周囲を大混乱させた。


エマも家族も精神的に疲れきり寝込むことも多かった。
その奇行の苛烈さは、温厚で知られる主治医のスミス先生の後頭部に円形のハゲをいくつも作ったほどだった。


終わりのみえない奇行。


……と思われたが、なんと数日前にピタリと止まったのである。
入院し投薬治療を、との話が出た矢先のことだった。


ある朝、妙にすっきりした顔でエマが起きてくると、
 

「ごめんなさい。私、おかしくなってた。もう大丈夫。いつものエマに戻ったよ。お父さま、お母さま、赦してくれる?」


とはにかんだのだ。

あの大惨事を一言で……と思うこともないが、末娘を溺愛しているエマの父は二つ返事で赦した。


ジタバタしたってどうしようもない。
あきらめるしかない。
前世を知ってしまったのは仕方ないよね。


もともと楽天的(というより考えなし)なエマは、深く考えるのをやめた。


子供独特の浅慮で開き直ったともいうが。
そして前世の記憶を口に出すことも控えるようになった。


エマとしては不本意な死を迎えた前世の自分が、元の世界ではなかったけれど、新しい人生を得たのはうれしかった。


今度は心残りがないように生きなおせるのだから。


ただ10歳になったばっかりな❘自分《エマ》には荷が重いよね、とも思う。

エマはまだこの世界では子供だ。
子供では体験しえない、してはいけない事象が頭の中でめぐるのである。


耳年増っていうやつ?
男女のあれこれとか、……まだ知りたくなかったなぁ。


10歳と29歳。
年齢ギャップも気持ち悪い。

体が別の人格に支配されているみたいな感じがする。
ただ、これは慣れなきゃいけないと本能で感じていた。いつかは一つの記憶になるのだろう……か。


まだ子供の自分には答えは見つかりそうになかった。




テーブルの上のスマートホンがブルっとゆれた。


『エマ、この間の誕生パーティの夜、派手に騒いだんだって?』
 

メールアプリのポップアップメッセージが浮かぶ。

幼馴染のテオことテオフィルス・ソーンからだった。
一つ年上の彼は首都にある❘名門私立学校《パブリックスクール》の寮で暮らしている。

近隣に住むソーン男爵家の次男坊で、家族ぐるみの付き合いがあるため、度々、父親につれられて我が家に遊びに来ていた。
誕生パーティにも首都からわざわざ駆けつけてくれたのだ。


エマはちょっとため息をついた。
メッセージを既読してすぐに返事をするのがマナーらしい。


これって日本と変わらないんだよねぇ。
異世界というのに。
いいんだか、悪いんだか。
 

『誰に聞いたの?』と入力し、面倒くさそうな顔をしたウサギのイラストを添付し送信した。


間をおかず返事がくる。


『エマの母さん。体調も悪いって。元気になったのか?』


お母様か……。
いつの間にテオのアドレス入手してるのよ。


『元気になったよ。心配かけてごめん。ありがとう』
 
 
送信すると、スマートホンをテーブルに置き、屋敷の外に広がる美しい牧草地を眺めた。
 

初夏の日差しに緑を深くする牧草がキラキラと輝き、春に生まれた子羊をつれた母羊がのんびりと草を食む。

付近に工場などない土地柄か、空も恐ろしいほど美しく澄み渡り風も優しい。

もうしばらくすると、草いきれが苦しいほどの夏が来るのだろう。

 
この季節のこの牧歌的な風景をこの場所から眺めるのが好きだった。
 

エマは家族のためのリビングから一続きになったウッドテラスに移動した。
 
眺めているだけで幸せな気持ちに包まれる。
なにもかもが愛おしくてたまらない。
 

前世の優奈は都市部で育ったらしい。
自然は身近にあるものではなかった。夏休みに“旅行先で体験するもの”だ。

だからこの気持ちはエマだけのものだった。
自分だけのものだと思うと、とても嬉しかった。


「モーベン最高!」


大国であるデイアラ王国の秘境ともいわれる、東の果ての僻地・モーベン地方。
その中核モーベン男爵領。

産業は農業くらい。
観光名所も何も無いけれど、土地は肥え災害も少ない穏やかな穀倉地帯である。


そして何よりエマが生まれ家族とともに育った特別な土地だった。


イギリス? の田園風景に似てるのよね。


優奈の記憶をたどって思う。
 

エルシディアという世界は、斉藤優奈であったときにすごした世界とほぼ同じ発展と進化を遂げた世界であるようだった。
 
つまりかつての優奈がすごしていた前世と同じように、この世界も数世紀前に産業革命やらを経て、人類は電力を獲得し、技術を、文明を、飛躍させた世界であったのだ。
 

当然各種インフラも整備されている。
移動には自動車を使い、国土の隅々まで鉄道が敷かれており、遠隔地には飛行機を使う。
経済・文化ともにほぼ21世紀の地球と変わらない。

家電もあれば、ネットもある。


ただやはりここは異世界で、大きく違うところもあった。


前世の世界では重要アイテムだった「石油」が存在しない。
前世での石油の役割は、地下から採掘される「魔石」というアイテムを利用しまかなっているという。

大量に採掘される「魔石」は科学技術を以て精製され文明を発展させる大きな原動力になったそうだ。



であるので、文明・文化も地球と似通ってくる。
不思議なことに人々の服装も「どこかで見た」格好である。


ちょっとドレスとか憧れたんだけどなぁ。


優奈的にはその点だけが残念であった。
今日の格好もざっくりした襟付きシャツとデニム生地のショートパンツである。
 

漫画とかだとフリルいっぱいのドレスを着て、4頭だての馬車で移動する、なんて描写があったのに。


ここエシルディアではドレスは特別な行事の時のみに着る晴れ着、馬車は観光地か王室の儀式で使用されるくらいだ。
農園育ちのエマでさえ、実際の馬車に乗ったことはなかった。



まぁ便利はいいことよね。トイレが水洗じゃないのはさすがにきついし。
転生先がこの世界でよかった。
 
と暢気に思うのであった。
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