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閑話「テオフィルス・ソーン。秘めた誓いを」

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※テオフィルス目線の話です。




 テオフィルスという名には、「神に愛されている」という意味があるという。


 自分が生まれてすぐに嵐が治まり重く沈んだ厚い雲間から光がさしたのだと、家を出て行く直前の母親から聞いた。


「あなたは神に祝福された子よ。お父様とお兄様を支えてソーン家を守り立てるのよ。お母様との約束。忘れないで、あなたを愛してるわ」


 母は5歳になったばかりの俺の頬を両手でなでた。
 それまで誰よりも優しいと思っていた母の目に涙が浮かんでいた。


 お母様の目。優しくて大好きだったのに。
 あれはウソだったんだ。


 だって愛してるといって、ソーンの家もお父様もお兄様も僕も捨てていくんだ。


 俺は沸きあふれそうになる呪詛と冷めた気持ちを抑えて母親を見ていた。


 父は突然いなくなった母のことは何も言わなかったが、幼いながらも俺は理解していた。
 母は「経済的に立ち行かなくなるであろう婚家」を捨てて、ソーン家よりも余裕のある実家へ帰るのだと。



 今思えば、それも仕方の無なかったことなのかもしれない。


 ソーン領のあるモーベン地方は稀にみる肥沃な土地と気候に恵まれ、遥か昔からこの国の一次産業を支えてきた。


 だが近年、海外からの輸入作物により農作物の価格は下がり、農業の利益は下がっていく一方であった。
 このまま作物の価格が底を打ったまま上がる気配がなければ、近い将来、家を存続させることすら難しくなる。
 

 農業が主軸である以上、土地を売るわけにも行かない。
 さりとて他の業種もできるわけでもなく。
 資材費は上がるばかりで利益という利益も出せなくなった。


 それなのに父も兄も有効な手が打てていないようだった。
 いや打っていたのかもしれないが。効果が出ているようには思えなかった。
 当時子供の自分には父も兄も教えてくれることはなかった。


 母が出て行ってから数年間はなんとか凌いでやってきていたが、ある年とうとう二進にっち三進さっちもいかなくなった。
 これで最期か……と思われた時に、



 10歳年上の兄が失踪した。



 投資で失敗した多額の借金だけを残して。


 絶望で首を括ろうとする父を宥め、モーベン地方筆頭領主・モーベン男爵家を頼ろうと縋ったのは、兄が失踪して1か月もたった頃だった。




 一縷の希望を託し、父と二人、モーベン男爵邸の最寄り駅に降りたのは、初冬にしてはとても寒い日だった。


 構内から出たとたんに雪がちらつき始め、時とともに勢いを強めていく。
 足元から上がってくる冷気は身を凍らせた。


 俺と父がモーベン男爵家の敷居を跨いだのはすでに宵の口に差し掛かっていた時分だった。


「マルク、ようやく来たか。おまえは全てが遅いなぁ、子供の頃からの悪い癖だ。いつまでたってもかわらんな。さぁ外は冷えてきたぞ。中に入れ」


 開口一番モーベン男爵は人懐っこい笑顔で両手を広げた。
 父とモーベン男爵ジャック・アイビン卿は幼い頃からの親友であるという。


「ジャック……」


 父はモーベン男爵の声を聞くと、その場で泣き崩れた。
 嗚咽が漏れる。

 あの大きな、誇り高い大人の父が泣いていた。


「マルク、部屋へ行こう。体が冷えているじゃないか」


 モーベン男爵は父を支えながら立たせ、顔を上げこちらを見ると、


「さぁ、テオフィルス、君も中へ入りなさい。食事はしたかな? うん? まだな感じだな。うちの子供達といっしょに食べるといい」


 と大きな手で俺の頭をなでた。
 農作業で鍛えられたごつごつとした大きな手だった。


「ありがとうございます」


 俺は小さく答えた。
 自分が子供であることを、なぜかとても悔しく思えた。


「お父さま? お客様?」


 左手のドアが開くとキラキラと灯りを反射する淡い茶色の髪をした女の子の影がみえる。
 なかなか部屋へ戻らない父親を心配して出てきたのだろう。


「テオ!!」


 女の子は俺の顔を見つけると、屈託のない笑顔で部屋から飛び出してきた。
 コートの上から力いっぱいハグをすると、冷え切った俺の手をその手で包んだ。


「わぁ冷たいね! 外、雪降ってたでしょ? 寒かったんだねぇ。テオの手、カチコチだよ」


 まっすぐに俺を見る淡い空の色の瞳は笑う。
 春先の草原を覆う空の色……そう、エマだ。

 一つ年下のモーベン男爵の末娘。


 俺の……幼馴染。



 エマの手は暖かい。
 本当に暖かかった。


「いらっしゃい! 今日テオが来るって知らなかった。お父さまもテオも教えてくれたらいいのに」


 エマは立ち尽くす俺のコートを脱がせコート掛けにかけると、


「あれ? おじ様、どうなさったの?」


 今度は父の方に駆け寄ろうとした。


「エマ」


 モーベン男爵は末娘を制止して、


「お父様とソーン男爵は大事なお話をしなくちゃならないんだ。書斎で食事を取るからね。お母様に運んでもらえるように伝えておいてもらえるかな? それと客室の準備もしてほしいということも忘れずにね。男爵とテオには今日は泊まってもらうからね」


 と愛娘を優しく諭した。
 エマは父に仕事を頼まれ嬉しそうに頷いた。


「テオ、お部屋に行こう? ご飯まだ食べてないんでしょ? 今日はシチューだよ。お母さまの自慢のレシピなの。美味しいよ!」


 俺の手を引いて食堂ダイニングへ導いた。





 食事の後、モーベン男爵に書斎へ呼ばれると、男爵は「君はソーン男爵家の跡取りだから聞く義務がある」と子供の俺にも分かるようゆっくり言葉を選びながら説明を始めた。

 
 売るほかなかった農地……それも値段の付かない農地をモーベン家が市場価格よりもずっと高い価格で買い取り、それを借金返済にあてること。
返済後はソーン家の経済を根幹から再生させること。


「テオフィルス、この金はソーンへやったわけではない。うちにとっても少なくない金額だ。いいかい、テオ。これは君への投資だよ。君が大人になり男爵位を継いだら返してくれ。君にはその才能がある」


 エマと同じ瞳の男爵は膝を付き、俺と目線を合わせた。


「比類ないほど賢いと聞いているよ。しっかり勉強しなさい。首都のグレンロセスにいい学校がある。11歳になったらそこへ通いなさい。テオフィルスに必要な力をもたらしてくれるだろう。いいね、きついことも多いだろうが、くじけずに頑張るんだよ」

「……はいっ」


 頬に涙が伝わるのを感じた。
 袖で涙を擦り取ると、俺はまっすぐ男爵に向かう。


 母も兄も見捨てた自分たちを、この人は正面から向き合ってくれたのだ。


 俺はこの日を一生忘れることはないだろう。

 突然訪れた父子を受け入れてくれたアイビン家は、その後も死に体状態のソーン男爵家と父を暖かく迎え支えてくれた。


 あれから7年が経ち、グレンロセスで手に入れたツテを駆使して、ソーン家は前に進みつつある。
 借金も少しずつだが返済が始まった。



 俺は忘れない。
 あの絶望の中で会った空色の瞳の父子を。
 エマの手の暖かさを。
 笑顔を。
 


 俺はエマの笑顔に救われた。
 だからエマの側にいる。


 エマを害する何者からも守る。これからもずっと。
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