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第三十八章

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 十月二十四日、圭はおかしなことに気がついた。
 深谷徹の事件以来、圭は以前のように殺人事件のニュースを観ても、体調を崩すことはなくなっていた。にも関わらず、隼人はニュースをあまり観せようとはしない。
 反抗するのも、隼人の気持ちを考えると大人げなく感じられ、隼人がお風呂に入っている間だけ、音量を下げて観ていたのだが……。
「この雑誌を読んでいる時に、惨殺事件のニュースを聞くような……」
 八月は夏休み中で、昼間にテレビを点けたまま雑誌を読んでいた。そうしてまた、危うく吐きそうになったのだった。
 九月は、隼人の帰宅が遅くなったので、隼人の目を気にせずニュースを観ることができ、やはり気分が悪くなった。
「始まりは七月?」
 いや、違う。と、圭は考える。立花家で体調を崩した時は、読んでいなかった。
「あの日は隼人の誕生日の翌日で、発売日の数日前だった」
 その月の発売日には、田端聡の逆恨みで、本を読むどころでは無かった。ようやく紙袋から雑誌を取り出したのは、三日ほど経ってからだったのだが。
「私には身に覚えの無い傷を、あの男は負わされていた」
『……美さんの背中には複数の刺し傷があり、警察は怨恨のせんで捜査を……』
「田端は、青いスカートの女に頭を殴られたと証言した」
 勇一郎から聞いた話によると、田端はナンパをしてきたことでも分かるように、節操がなく、社内でもあちこちの女性に手を出しており、恨みはそうとう買っていたとのこと。目の前に田端が転がっていれば、殺さない程度に危害を加えたい女なら幾らでもいただろう。と。
 隼人が風呂から上がった様子が窺われた。チャンネルを経済ニュースに変える。深呼吸を一つして、圭は隼人に気付かれないよう、心に生まれた疑惑を奥底にしまい込む。
「明日、診察が終わる頃には俺も引けるから、一緒に帰ろう」
 予想できた誘いだった。深谷徹の件があって以来、益々隼人の神経質には磨きが掛かっている。高嶋は事件の後、実家のある北海道に帰ったらしいが、遠く離れようと、時間が経とうと感情が変わらないことを、深谷徹が知らしめたからには、警戒心を持つのは仕方が無い。
 口にはしないが、涼介のことも気にしているだろう。
「分かりました。いつも通り、自動販売機の所に行けばいいのですね?」
 そう。とばかりに、笑顔で頷く。隣に座る隼人の右腕を取ると、自分の肩に回し、そのまま凭れかかった。
 力強い、心音が聞こえる。規則正しい心音は気持ちを穏やかにさせ、安らぎを誘うはずが、今日はさっきまでの考えに引っ張られているのか、圭の心音は普段よりも激しく打ち始めた。
 この心臓を刺し、血を啜る。そんな狂気染みた行為を、涼介は求めていたのだ。
 圭が、深谷徹の死と共にトラウマを乗り越えたように、涼介も乗り越えているはずだと、言い聞かせてみるが、最後に会った時の言葉が頭から離れない。
「どうした?」
 隼人が心配そうに顔を覗き込む。
「いいえ、心音が心地良いな。と思って」
 正反対の気持ちを口にしてごまかす。
 ごまかされたのか、ごまかされた振りをしてくれたのか、隼人はなにも言わず、右腕に力を込めて、圭を引き寄せた。



 診察が終わって、圭は約束の場所に向かった。と、手前で足を止める。緑がいた。隼人になにやら話し掛けているらしい。
 隼人は表面は穏やかながら、目が全く笑っていない。少しずつ後ずさっているのも確認できた。
「いい加減にして下さい! それはセクハラですよ」
 とんでもない言葉を隼人が口にした。幸い周りに人はおらず、隼人も怒りを含ませながらも声を抑えていたので、聞いていたのは圭だけらしかったのだが……。近寄るべきか、離れるべきか。
「女性だからってなにを言ってもいいわけじゃない。常識を考えて下さい。
 保科先生に惚れてる男は大勢いるんだから、そっちに言えばいいじゃありませんか」
 これ以上放っておいたなら、誰に聞かれないとも限らない。仕方なく、重い足を踏み出す。
 近づく影に、二人の視線が注がれた。
「圭。帰ろう」
 これ幸い。とばかりに、隼人は歩き出した。緑はじっと、圭を睨み付けていた。


 なにが隼人を怒らせたのか。
 隼人は原因を口にしようとはしなかった。そうして、寝室に入るまで不機嫌な状態だったのだ。
 隼人から聞き出すのは諦めて、緑を訪ねることにした。
 次男に相談しようかと思ったが、緑の立場を考えて諦め、精神科入口付近にある自動販売機の陰で待つ。
 一時間過ぎた頃、緑が姿を見せた。
「保科先生」
 相変わらず、冷たい雰囲気だった。
「昨日のこと?」
 圭は頷いた。
「長瀬先生は言わなかったのね。
 私、抱いて下さいってお願いしたの」
 内心、これ以上ないほどに呆れていたが、面には表さずにおく。
「それは、セクハラですね。
 どうしてそんなことを」
「長瀬先生が好きだからだわ」
「噓ですね。先生の表情からは愛情は見えません」
「じゃあ、どうして私はこんなことを言ったのかしら?」
「私が聞きたいですね」
 緑は、意地悪く笑った。
「麻上君から、大事な物を奪いたいから」
 小さく囁く。
「どう……」
「麻上君、人を殺すって、どんな気持ち?」
「え?」
 質問の意味が理解できなかった。
 緑は冷たい目で、圭を睨みながら去って行った。
(どういう意味?)
 人を殺すってどんな気持ちかしら? と問われたならば、さぁ。と答えればいい。しかし、どんな気持ち? との質問は、圭が殺人を犯していること前提の質問ではないか?
 涼介の事件の後、週刊誌は挙って文化祭の写真を載せた。涼介の顔は分からぬよう加工されていたが、被害者の明、そして、元凶扱いされた圭まで、顔は全国に晒された。まさか、緑は誤解しているのでは?
(いや、未成年犯罪で顔を出すわけがないくらい、誰だって分かる。
 一つだけ分かっているのは、保科先生が私を、憎んでいるということ)
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