上 下
58 / 63

第五十八章

しおりを挟む
 「水野君は男の言葉を受け入れる振りをしたそうですが、不思議なことに、どうしても自分の名前は思い出せないにも関わらず、自分がアキではないと理解したそうです。
 そうしてとうとう、彼は自分が身代わりであること、男から愛されていないことに気付いてしまいました。
 彼が男を殺した本当の理由は、憎しみではなく、愛情だったのです。
 彼が男から受けた行為を理解するためには、男が彼を愛していなければならなかった。にも関わらず、男の愛情はアキだけに向けられていた。そんな現実に彼は、耐えられなかったのでしょう」
 圭の唇が堅く閉じられた。話は一旦、これで終わりだと思われた。
 隼人は迷った。涼介の快楽に関する事実を、圭に話させるべきか否か。
「今回の事件、被害者は何人だったんだ?」
 隼人よりも先に、勇一郎が口を出した。
「七人だそうです。はっきりとは確認していませんが、七月二十日、八月二十四日、九月二十二日、十月二十四日、十一月一日の被害者そして、保科緑、深谷徹で人数は合います。今後、警察が解明するでしょうが、おそらく。そうして、七月二十三日に頭をレンガで殴られていた田端聡も、彼の仕業でした」
「俺の見立て通り、快楽殺人だったのか?」
 動揺するかと思われたが、圭は冷静、いや、無感情のまま続けた。
「そうです。
 補足しますと、彼は男を殺した時、初めて快楽を得ました。その後、さっき申しました通り、事件の経過を、実際の時間と同じ流れで、何日にもわたって夢に見るようになったのです。
 そうして、いつも男を殺した夢を見て目が覚めると、下着が汚れているのだと言いました」
「前にうちに泊まった時下着を貸して欲しいと頼んだのは」
「はい。男を殺したのだと、後に本人から聞きました」
「夢は、環境に関係なく見ていたのか」
 そうなると、学生時代の楽しみである修学旅行や林間学校などという宿泊を伴う行事は、出席できまい。友人の前でうっかり居眠りもできはしない。常に緊張が付き纏うのだから、精神的にも辛いだろうと思わせられた。
「彼は過去を告白した際、快楽を得たいが為に人を殺さないかと不安に思っていると言いました。三年の間ずっと、誘惑に耐えていたのだと思われます」
 圭はゆっくりと視線を巡らせて、誰も口を開かないと分かると、また、視線を伏せた。今の圭は、視線と口だけが動く自動人形オートマタであった。血の気を失ったような白い肌、一切の感情を見せぬ無表情。
「もう一つの誤解は」
 形の良い唇が、リズミカルに動いた。
「水野君の私に対する感情です」
 言葉も声もなく、病室がざわついたのがわかった。誤解もなにも、涼介は圭を愛していた。少なくとも、慕っていた。それは誤解のしようもない事実だった。
「彼と私は同じ気持ちで、互いを気にし始めていました。二人は似ていたのです。
 こう言うと皆、不思議そうな顔をしました。彼は友達も多く、いつも笑顔でいる人気者でしたから、常に無表情で、ほとんど誰にも心を許さない私とでは正反対だと思われたのでしょう。
 しかし、彼の笑顔は偽物でした。人を殺して快楽を得たいと望む彼は、本音を人に知られまいと、努力して笑顔を作っていたのです。笑顔でさえいれば、誰も彼が病んでいるとは気付きませんでしたから。
 私は彼を、もう一人の自分として、客観的に自分を見たいがために、求めたにすぎませんでした。
 しかし彼は、私を同じ傷を持っていると信じて、心を探ろうとしていたのです。
 ですから、親しくなり、私の私生活を知ると、彼は私を慕う反面、憎み始めもしました」
 山上が視線を圭に向けた。
「先生、なにか仰りたいようですが」
「学園祭の辺りから、水野がお前に執着し始めたのは感じた。しかし、憎んでいたってのは、勘違いじゃないのか? それとも、憎まれるようなことをした記憶があるのか?」
 圭は焦点の定まらぬ目で、山上のいる辺りを見た。
「先生は憶えていませんか? 初めてうちに泊まった時、彼が言った言葉。(へぇ、先輩って、甘やかされてんだ)って」
「あぁ、そんなこと言ったっけな」
「なんだ? どういう意味?」
 勇一郎の疑問は尤もだった。単純な言葉には、憎しみの入る余地があるようには思えない。
「隼人が戻らない夜は、山上先生が泊まりに来てくれると言った時に、言われた言葉です。
 彼は人に愛されたかった。でも、誰も愛してはくれなかった。人を殺めたために、今まで愛してくれていた両親、姉までもが、彼を避け始めました。
 いつも人懐こく笑っているのに、彼を心の底から愛してくれる人はいませんでした。
 しかし、いつも無表情で無愛想な私には、隼人と山上先生がいました。二人に守られている私に、彼は嫉妬したのです。
 それでも、私の中に存在する彼との共通点を諦め切れなかったのでしょう、彼は慕い続けました。
 そうして、学園祭の直前、彼の部屋で互いの過去を告白し合いました。
 その結果分かったのは、私達は似ていながら、正反対であるという事実でした。
 互いの共通点は、死への感情でした。私は人と関わる度、殺されはしないかと心の底でビクビクしていました。それを隠すために、必死になって感情を殺していたのです。
 しかし彼は、反対でした。快楽を得るために死を求める。
 私達は自分に足りない物を補完し合う為に、互いを求めていたのです」
 次男が、生真面目に手を挙げ、圭は言葉を促すように顔を向けた。
「その時、水野君の過去の罪を知ったのだよね? どう思った? 本音を聞きたい」
「驚きました。性犯罪に遭っただろうとは考えていましたが人を殺めたとは思いもよりませんでしたから。
 でも、それ以上の感情はありませんでした。彼は人を殺した。とは思わなかったのです。殺さざるを得なかった。と思いました」
「恐怖は無かったのだね?」
「ありませんでした。
 どうして、恐怖しなかったのでしょう……自分でも分かりません。ただ、当時の彼が可哀想で……。
 とにかく、彼が再び手を血で染めないように、どうするべきかと考え、まずは私自身が変わることだと思い、精神科に通う決心をしました。
 これは結局、私にとって、新しい家族ができ、精神的にも落ち着き、良い結果になったのですが、彼にとってはそうではありませんでした。
 私が受け入れる人が増えることが、彼にとっては不満だったようでした。
 中でも、西島さんと二人だけで話をした時には、ひどく苛立った様子で」
 次男は何やらノートに書き留めると、顔を圭に向けた。
「西島明君は、水野君がお兄さんを殺した少年だと気付いていたのだね?」
「そうらしいです」
「その時、君と明君とはどんな話をしたのだろう?」
 圭は初めて、戸惑いを見せた。このときの話をすると、隼人の過去を知らせてしまうからだろう。
「その件に関しては、俺が」
    
しおりを挟む

処理中です...