殺された人形

岡倉弘毅

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別離

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 風呂の後、三面鏡の前で髪を梳こうとしたのだが、黒髪を見た途端、吐き気を催し、櫛を畳の上に落とした。胃の辺りがムカムカする。

 櫛を落とした手で口を押さえ、目を閉じる。瞼の裏に映るのは、乱れた黒髪。

 指先で櫛を探す。三面鏡の上に置き、鏡を閉じ、目を開いた。頭を上げて、手を口から離す。

 少しだけ体が楽になった気がした。



 あれ以来、胃の調子は良くない。

 普段は食欲旺盛な有紀が、御味御汁以外口にしない為、行彦と里美は心配し通しで、病院へ行くようにと、顔を合わせる度に言われるのだが、行ってもどうにもならぬことは分かっている。

 髪を梳くこともできず、里美に頼み、肩の辺りで三つ編みにしてもらっている。髪は見たくなかった。

 予定よりも早く家を出た。堀川伯爵邸に向かう前に、洋史に会おうと思ったのだ。あの浮浪者が見た男のことを知らせた方が良かろう。

 浮浪者は、トンビを着た男。と言ったが、インヴァネスもトンビもよく似ている。混同している人も多い。

 加えて、手袋、顔を隠すように深く被った帽子。マネキンを切り裂いた男と、人見直道は同一人物である可能性は高い。

 洋史に知らせてどうなるわけでもないだろうが、一人で抱えるには重く、そして、洋史に会う切っ掛けとして都合のいい話だとも思えた。

 あれから三日の時が過ぎている。

 有紀は『ミモザ』にも行き辛く、平助にも三月にも会っていない。

 以前、月曜日は午前九時半に家を出ていると聞いたのを覚えていたので、十分ほど早めに下宿の前で待ち構えていた。

 雲雀が賑やかに、空を舞っている。

 雀が可愛らしい声を撒き散らす。

 吞気そうな様子が羨ましく、空に向かって溜息をつく。ポケットから懐中時計を取り出すと、九時半を二分過ぎていた。

 下宿の玄関から黒い服の男が出て来た。一瞬戸惑ったがそれは、初めて見る洋史の洋装姿だった。

 最近の美術学校では、ルパシカに長髪が流行らしい。洋史は画材を持っていなければ、帝大生と変わりがない。つくづく、流行に疎い男である。

 洋史は有紀を正面から捉えながら、一向に表情を変えなかった。

 以前であれば微かながら笑みを見せていたのに、まるで見知らぬ人を見ているように、無表情だった。

「もう、会うのは止めましょう」

 溜息と共に吐き出された言葉の意味を、有紀は理解できなかった。
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