夏の思い出

岡倉弘毅

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少年

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 揺すぶられて目が覚めた。

 目の前には心配そうな表情の管理人。

「あぁ、良かった無事だったのですね」

 心底心配した様子で道夫を見ている。

 どうして生きているのだろう……

 右手を見ると、絆創膏を貼ったまま、左手には何もない……

「お母さんから電話がありましてね、昨日戻る予定だったのに戻って来ないって。

 自分も昨日まで入院していましてね、いらしてるとは知らずにいたので……」

 え? と呟いて管理人を見た。

「入院?」

「えぇ、脚立から足を踏み外しましてね、大したことはなかったんですが少々骨にひびが入って、半月ほど」

 落ち着いて見ると、ここに来てから会った管理人には頬に小さなシミがあったが、今見ると存在しない。

「もしかして管理人さんは、お祖父さんに似てるんじゃ……」

「えぇ、よくご存じですね。写真なんか見ると、われながらよく似てて少々気味悪いくらいですよ。

 そういえば道夫さんもお祖父さん似ですよね」

 道夫はかすかに笑うと、えぇ。と答えた。



  無事東京に戻ってまず、母親に心配をかけたことを詫びた。

 次にしたことは、結婚間近だった恋人との別れ話だった。

 当たり前だろうがなかなか納得してくれず、周りの人間からも非難されながら、一月かけてやっと別れることができた。

 道夫はまだ、ゆきを待っていた……



 ゆきはどうして連れて行ってくれなかったのか……

 毎年冬になると別荘に向かうが、寝室でも、掃き出し窓の向こうにも、墓にもゆきの気配はせず、成仏してしまったのだろうと認めざるを得なくなってしまっていた。

 
 あれから十五年の月日が過ぎた。

 周りの勧めを全て断って、道夫は結婚もせず、一人暮らしていた。

 母親は二年前に夫を亡くした実の姉と一緒に暮らし始めた。女同士の生活は気楽で楽しいらしく、ますます若返っている。

 仕事上がり、ゆっくりコーヒーでも飲もうと、お気に入りのカフェに向かっていた。

「おじさん、落としたよ」

 少年特有の甲高い声に振り向くと……ゆきがいた。

 髪は男の子らしく短くしてはいるが、白い肌、整った美しい顔、そして、なによりも印象的な青い瞳……

 少年の手には、サファイアの指輪が載せられていた。

「それは……私のものでは……」

「だって、おじさんのポケットから落ちたの、僕、見たよ」

 ゆきと違うのは、明るい笑顔……健康的な少年の笑顔だった……

「ポケットから?」

「うん。さっきハンカチ取り出したでしょ? その時」

 少年が困った表情を見せた。せっかくの親切を拒絶されては不安になるだろう。

 道夫は受け取るために手を差し出すと、ほっとしたように少年は指輪を載せてくれた。

 その際、手が触れ合ったのだが、少年は顔を真っ赤にして道夫を見上げた。

 道夫は指輪を左手の薬指に嵌めると、少年に向ける。

 少年は顔を赤らめたまま、嬉しそうに笑顔を見せた。

「お礼にコーヒーでも」

 少年は大きく頷くと、道夫の腕をとって並んで歩き始める。

「あ、雪だ」

 東京には珍しい、初冬の雪に少年が感嘆の声を上げた……


           完
 
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