上 下
19 / 68
第4章 深淵へ

【十全十美】

しおりを挟む
「早めに来られてても大丈夫ですよ」

スタッフさんに言われるまま、11時の予約ながら
俺は10時40分には既にお店の待合室に腰かけていた。

そしてほどなくプルプルと内線のベルが鳴る

「お客様お待たせしました、ではこちらの番号札を…」

番号札を受け取り、受付を抜けて
“楽園と外界”を隔てるカーテンの前へと向かう…

そして目の前には3週間ぶりの再会となる
さりーがあどけない笑顔で迎えてくれた。

「あぁー!」

「来たよー」

もうこれだけで他に交わす言葉など必要ない

2週間前、どことなくぎこちない感じで始まった
2人の
トークで重ねてきた“実績”は

それほどまでに関係性を昇華させていた。

開口一番、さりーは
「髪色、明るくなったの…知ってたよ」

「え?そうなんだ?」

その言葉の本当の意味を俺はまだ理解していなかった。

「はい、どうぞ!」

 前回同様さりーに促され部屋のドアを開ける、
俺は手荷物を無造作に床に置くと
再会を祝してさりーと軽くハグを交わした。

二人抱き合ったまま、さりーは耳元で
立て板に水の如く囁き始めた。

「ねえ、この前、お城行ったでしょ?」
「髪の色、変えたのも知ってるよ」
「ウナちゃん…かわいいね」

ちょ、ちょっと待て…!

それら全て、ここ1ヶ月の間に
俺がSNSに書いたり呟いたりしたこと…
ばかりじゃないか?

城山に登り、髪の毛をブリーチして
推しのプロレスラーの1人
ウナギ・サヤカについていつも呟いている

確かに小説を読みたいって言われたから
ハンドルネームは伝えたけど

まさか他のSNSまでしっかりチェックしてたとは

「マ、マ、マジで?何で知って…んんぅ」

「んんぅー!」

そう言いかけた俺の口はさりーの唇で塞がれた。

その柔らかな唇と温かいさりーの舌が
俺の中を淫らにうごめく…

え?いいのかな?

俺たちまだ、事前のシャワーすらしてないんだぞ?
なのにこんな濃厚な交わりをもう今ここで…?

さりーはそんなことを気にする様子もなく

「あれ?甘い~、何なに?」

そう言いながら更に舌を奥深くまで這わせる。

 俺は口にしていたカルピス味のキャンディーを
そのまま口移しでさりーの口の中へ送り込み
舌の上に乗せた。

「んぅ…カルピスだぁ!」

まるで子供のようにはしゃぐさりー、
明らかに前回とは接し方が変わった。

いくら生まれたままの姿で求め合うにしても
そりゃ前回は初対面、
さりーもそれなりに距離を置いていたのだろう

それを埋め合わせたのがトークならば
あの数週間のやり取りは俺たちの距離を
圧倒的に縮めさせたことになる。

「ねえ、シャワー行こ」

さりーに促されて俺は服を脱ぐ、
その間もさりーは話し続ける

「ねえ、声が若いよね?」

「え?」

「私…『かたつむり』好き!」


ー嘘、嘘だろ…おい!

「かたつむり」ってそれ…
俺のオリジナル曲のタイトルじゃないか!

それ…聴いてる…?さりーが…?

顔面から火が出るほど恥ずかしい
そしてこの場から逃げ出したいほどに
照れくさい

 確かにネット上では何度か感想を貰うことはあった
しかし面と向かって曲を聴いた本人から
称賛の言葉を貰うなんて初めてだ…!

何故なら俺は親しい友人には自作曲や
オリジナル小説は紹介しない、

友人だから知人だから、で貰う賞賛やいいねほど
惨めなものはない、

俺はそう考えている。

何処の誰か知らない人に聴かれ読まれ
評価されることでその価値は上がると言うものだ。

 俺はさりーに聴いてほしいとか観てほしいとか
当然リクエストなどしなかった。

さりーは自らの意思で俺の曲を聴き
それを少なからず良いと思ってくれた。

都合のいい解釈かも知れないが

俺はそれを“また来てほしいから”
私の評価を上げてほしいから、と言う

ビジネスライクな行為だとはとても思えなかった

何故ならその話をする時のさりーの表情が
あまりにも生き生きとしていたからだ。

「"歌ってみた"の『夢見る少女じゃいられない』好きだなぁ」

「いや、もうやめようその話、俺、そんな誉められたことないから恥ずいって…」

「えっ?そんなことないよ、私、好きだよ、光々の声」

「いやいやいや、ほんと、あんなのアカンやつやから」

「何でぇ?いいよぉ!」

嬉しいようなくすぐったいような
なんとも甘酸っぱい感情を押し殺しながら

俺たちはシャワー室へと入った。
しおりを挟む

処理中です...