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白雪姫
03 鏡の選択
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林檎は、嫌がらせのことを誰にも言い出せずにいた。心配させたくなかったし、せっかく応援してくれたみんなが出場の辞退を勧めてくるのは予想がついたからだ。本当は、朝登校した時も下駄箱に手紙が入っていて、今回はゴキブリの死骸だったから流石に気が滅入りそうになった。机の中にも同様の黒い封筒が入っていたため、怖くて読まずに捨てた。
でも、落ち込んでいる場合ではなかった。迫るところ、文化祭は翌日。実行委員から明日のコンテストの詳細は聞いた。今更取り消しなんて出来ないのだ。教室の中もいよいよ明るい装飾が施され、メイド・執事喫茶としての準備は完璧だった。
「……楽しみだなぁ」
林檎は、あとは明日を待つだけの教室の中で一人、呟いた。一人残っているのは、誰かと一緒に帰って下駄箱の中を見られでもしたら困るからだ。
林檎は時計を確認し、そろそろ大丈夫だろうと教室を出ようとした。
扉を開けたところで、
「わっ!?」
知らない男子生徒とぶつかった。
* * *
遡ること、数十分前。鏡は部室で、明らかにイライラする祥子に対峙していた。椅子に座る祥子の前にひざまずく。
「白雪林檎はまだ辞退をしないの!?」
鏡はその声音にビクリと肩を震わせた。
「……すみません」
「あなたって本当に無能ね!」
そう言うと、祥子は鏡の肩を足でぐりぐりと踏みつけた。鏡は何も言えずそれを受け止める。
本当は、もっとひどいことをする様命じられていた。白雪林檎が絶対に出場を辞めるであろうこと。あの手紙には続きがあった。
“ミス豊木コンテストの出場を辞退しろ
さもなくば、お前の大切な人間が傷つくぞ”
そして、カッターでズタズタにされた白雪林檎の友人たちや親衛隊の写真を同封する。もちろん、祥子だってそこまで実行するつもりはないだろうが、脅し文句としては充分だった。
鏡は渡された手紙を見て背筋を凍らせた。そして慌てて写真を抜き取り、偽の手紙を作り上げた。それで白雪林檎が諦めてくれたらいいと思ったのだが。
「最終手段ね。鏡」
そう言って、祥子はカラン、と床に何かを投げた。カラカラと音を立てて回ったそれは、しばらくして動きを止める。鏡はそこでようやくそれがカッターであることに気がついた。
「白雪林檎のクラスの模擬店をめちゃくちゃにしなさい」
「……っ!」
弾かれたように顔を上げる。そこには、ピクリとも顔の筋肉を動かさない祥子の姿があった。
「出来ないの?」
冷徹な声だった。当たり前のことを言うように、彼女は尋ねる。鏡は下唇を噛んだ。
情けない。彼女に従うことしか出来ない自分が。鏡は床に転がったカッターを手にして、トボトボと歩き出したのだった。
* * *
まさかターゲットと鉢合わせるとは思わなかった。ぶつかった衝撃で尻餅をついたまま、鏡は真っ青になった。立ち上がることも出来ず、ただただ林檎を見ていると、林檎から手を差し出された。
「……大丈夫ですか? お怪我は……?」
その瞳には、本気で鏡を心配する色が見えた。その手を振り払うことも出来ず、鏡は林檎の力を借りて立ち上がった。
「あの、三年生の方ですよね? うちのクラスに何か……?」
ギクリとした。模擬店をめちゃくちゃにしに来たなんて言えるわけがない。ポケットの中のカッターがずしりと重くなった気がした。鏡は青い顔を林檎から背ける。
「……顔色が悪いです。具合でも……?」
そう言うと、林檎はそっと鏡の額に触れた。
──何で……。
何でこの少女は、見ず知らずの自分の心配なんかしてるのだろう。こんな優しい少女に、自分は何をしようとしているのだろう。
祥子の下僕になろうと決めた。それでも彼女のそばにいれるのなら。それでも彼女が自分を必要としてくれるなら。無能と責められても、足蹴にされても、道具としか思われてなくても、それで良かった。それで幸せだった。
だからなのか。こんな風に自分に向けられた優しさを、無下にすることはできなかった。
「ありがとう、ございます」
鏡は深々とお辞儀をした。林檎は何のことか分からず、キョトンとする。
「白雪林檎さん」
「はい?」
「……あなたには、大切な人は居ますか?」
「え?」
林檎はびっくりしているようだった。まぁ見知らぬ男からそんなことを尋ねられたら当たり前だろうが、鏡は聞かずに居られなかった。
「僕には居るんです。大切な人が」
「そう、なんですか」
唐突に語り出した鏡のことを、林檎は真剣な瞳で眺めた。聞こうとしてくれている態度。鏡はそれがまた嬉しかった。
「幼稚園のころ、いじめられていた僕を救ってくれた人で」
「……素敵な方なのですね」
「はい」
祥子との出会いは、幼稚園のころであった。気が弱く、クラスの男子からいじめられていた鏡。彼女は何処からともなくその現場に現れ、言ったのだ。
“なさけないわね”
自分に言われたのだと思った。鏡は涙を堪えて唇を噛み締めた。すると彼女は、いじめっ子の前に立ち、言葉を続けた。
“むらがらないとなにもできないのは、じゃくしゃのしょうこよ”
いじめっ子を、弱者と言った。鏡は驚いて彼女を見つめた。その視線、その立ち姿の気高いこと。
目を奪われた。きっと、心もその時から奪われていたのだろう。
それはいじめっ子の方も同じだったらしく、何も言い返すことが出来ないまま、鏡を殴る手を止めた。手を止めた彼らを見て、彼女はそのまま立ち去ろうとした。鏡は慌てて彼らの中をすり抜け、彼女を追った。
“あのっ……たすけてくれて、ありがとうございました”
鏡がそう告げると、祥子は興味なさそうに鏡を見た。
“べつに、みていられなかっただけだわ。わたし、よわいにんげんはきらいよ。かんしゃなんていらない”
そう言ってまた行ってしまおうとする祥子を、必死で呼び止める。
“おれいがしたい、です”
眉を潜めながら振り返る祥子に、鏡はまた言葉を紡ぐ。
“なんでもゆうこと、ききます。だから、そばにいてもいいですか”
祥子は少しだけ驚いた顔で鏡を見つめていたが、やがてふふんと鼻で笑った。
“いいわ。あなたはきょうからわたしのげぼくよ”
その時は、下僕という言葉の意味はわからなかったが、祥子との繋がりが保てたことが嬉しかった。その日から、鏡は祥子の忠誠を誓った下僕になったのだ。
「大切な人の力になりたい、大切な人の期待に応えたい。そう思うんです」
鏡の言葉に、林檎はドキリとした。大切な人の力になりたい。大切な人の期待に応えたい。それはまさに、林檎が常に──そしてミスコンにむけて思っていることだ。まだ会って間もない鏡の話を、林檎は他人事とは思えなかった。
「……わかります」
林檎はにこりと微笑んだ。
「私にも居ますから。大切な人たち」
それは友人だったり、親衛隊のみんなだったり。自分と関わったすべての人が大切で。
「白雪さん」
鏡が真剣な顔で林檎を見た。林檎もそれに答えるように鏡を見つめる。
「大切な人が間違ったことをしていたら、あなたはどうしますか?」
力になりたい。そう思う気持ちは、本物で。
だからこそ。
「止めます。その人が本当に、大切な存在ならば」
林檎は微笑んだ。濁りも迷いもない、真っ直ぐな笑みだった。
「──……」
釣られて、鏡も笑った。大切だからこそ、裏切らなきゃいけないこともある。そうするのが怖くて仕方がなかった。嫌われるのが怖くて。でも、もう決めた。
「……ありがとう、白雪さん」
「え? 私は、何も──」
「ミスコン、頑張ってください」
そう言って、鏡は深々と頭を下げた。そして返事も待たず、走り出す。
明日、いろいろ言われるかもしれない。無能と罵られるかもしれない。もしかしたら、見限られてしまうかもしれない。
それでも──従わないことが、彼の彼女に対する忠誠だ。
* * *
でも、落ち込んでいる場合ではなかった。迫るところ、文化祭は翌日。実行委員から明日のコンテストの詳細は聞いた。今更取り消しなんて出来ないのだ。教室の中もいよいよ明るい装飾が施され、メイド・執事喫茶としての準備は完璧だった。
「……楽しみだなぁ」
林檎は、あとは明日を待つだけの教室の中で一人、呟いた。一人残っているのは、誰かと一緒に帰って下駄箱の中を見られでもしたら困るからだ。
林檎は時計を確認し、そろそろ大丈夫だろうと教室を出ようとした。
扉を開けたところで、
「わっ!?」
知らない男子生徒とぶつかった。
* * *
遡ること、数十分前。鏡は部室で、明らかにイライラする祥子に対峙していた。椅子に座る祥子の前にひざまずく。
「白雪林檎はまだ辞退をしないの!?」
鏡はその声音にビクリと肩を震わせた。
「……すみません」
「あなたって本当に無能ね!」
そう言うと、祥子は鏡の肩を足でぐりぐりと踏みつけた。鏡は何も言えずそれを受け止める。
本当は、もっとひどいことをする様命じられていた。白雪林檎が絶対に出場を辞めるであろうこと。あの手紙には続きがあった。
“ミス豊木コンテストの出場を辞退しろ
さもなくば、お前の大切な人間が傷つくぞ”
そして、カッターでズタズタにされた白雪林檎の友人たちや親衛隊の写真を同封する。もちろん、祥子だってそこまで実行するつもりはないだろうが、脅し文句としては充分だった。
鏡は渡された手紙を見て背筋を凍らせた。そして慌てて写真を抜き取り、偽の手紙を作り上げた。それで白雪林檎が諦めてくれたらいいと思ったのだが。
「最終手段ね。鏡」
そう言って、祥子はカラン、と床に何かを投げた。カラカラと音を立てて回ったそれは、しばらくして動きを止める。鏡はそこでようやくそれがカッターであることに気がついた。
「白雪林檎のクラスの模擬店をめちゃくちゃにしなさい」
「……っ!」
弾かれたように顔を上げる。そこには、ピクリとも顔の筋肉を動かさない祥子の姿があった。
「出来ないの?」
冷徹な声だった。当たり前のことを言うように、彼女は尋ねる。鏡は下唇を噛んだ。
情けない。彼女に従うことしか出来ない自分が。鏡は床に転がったカッターを手にして、トボトボと歩き出したのだった。
* * *
まさかターゲットと鉢合わせるとは思わなかった。ぶつかった衝撃で尻餅をついたまま、鏡は真っ青になった。立ち上がることも出来ず、ただただ林檎を見ていると、林檎から手を差し出された。
「……大丈夫ですか? お怪我は……?」
その瞳には、本気で鏡を心配する色が見えた。その手を振り払うことも出来ず、鏡は林檎の力を借りて立ち上がった。
「あの、三年生の方ですよね? うちのクラスに何か……?」
ギクリとした。模擬店をめちゃくちゃにしに来たなんて言えるわけがない。ポケットの中のカッターがずしりと重くなった気がした。鏡は青い顔を林檎から背ける。
「……顔色が悪いです。具合でも……?」
そう言うと、林檎はそっと鏡の額に触れた。
──何で……。
何でこの少女は、見ず知らずの自分の心配なんかしてるのだろう。こんな優しい少女に、自分は何をしようとしているのだろう。
祥子の下僕になろうと決めた。それでも彼女のそばにいれるのなら。それでも彼女が自分を必要としてくれるなら。無能と責められても、足蹴にされても、道具としか思われてなくても、それで良かった。それで幸せだった。
だからなのか。こんな風に自分に向けられた優しさを、無下にすることはできなかった。
「ありがとう、ございます」
鏡は深々とお辞儀をした。林檎は何のことか分からず、キョトンとする。
「白雪林檎さん」
「はい?」
「……あなたには、大切な人は居ますか?」
「え?」
林檎はびっくりしているようだった。まぁ見知らぬ男からそんなことを尋ねられたら当たり前だろうが、鏡は聞かずに居られなかった。
「僕には居るんです。大切な人が」
「そう、なんですか」
唐突に語り出した鏡のことを、林檎は真剣な瞳で眺めた。聞こうとしてくれている態度。鏡はそれがまた嬉しかった。
「幼稚園のころ、いじめられていた僕を救ってくれた人で」
「……素敵な方なのですね」
「はい」
祥子との出会いは、幼稚園のころであった。気が弱く、クラスの男子からいじめられていた鏡。彼女は何処からともなくその現場に現れ、言ったのだ。
“なさけないわね”
自分に言われたのだと思った。鏡は涙を堪えて唇を噛み締めた。すると彼女は、いじめっ子の前に立ち、言葉を続けた。
“むらがらないとなにもできないのは、じゃくしゃのしょうこよ”
いじめっ子を、弱者と言った。鏡は驚いて彼女を見つめた。その視線、その立ち姿の気高いこと。
目を奪われた。きっと、心もその時から奪われていたのだろう。
それはいじめっ子の方も同じだったらしく、何も言い返すことが出来ないまま、鏡を殴る手を止めた。手を止めた彼らを見て、彼女はそのまま立ち去ろうとした。鏡は慌てて彼らの中をすり抜け、彼女を追った。
“あのっ……たすけてくれて、ありがとうございました”
鏡がそう告げると、祥子は興味なさそうに鏡を見た。
“べつに、みていられなかっただけだわ。わたし、よわいにんげんはきらいよ。かんしゃなんていらない”
そう言ってまた行ってしまおうとする祥子を、必死で呼び止める。
“おれいがしたい、です”
眉を潜めながら振り返る祥子に、鏡はまた言葉を紡ぐ。
“なんでもゆうこと、ききます。だから、そばにいてもいいですか”
祥子は少しだけ驚いた顔で鏡を見つめていたが、やがてふふんと鼻で笑った。
“いいわ。あなたはきょうからわたしのげぼくよ”
その時は、下僕という言葉の意味はわからなかったが、祥子との繋がりが保てたことが嬉しかった。その日から、鏡は祥子の忠誠を誓った下僕になったのだ。
「大切な人の力になりたい、大切な人の期待に応えたい。そう思うんです」
鏡の言葉に、林檎はドキリとした。大切な人の力になりたい。大切な人の期待に応えたい。それはまさに、林檎が常に──そしてミスコンにむけて思っていることだ。まだ会って間もない鏡の話を、林檎は他人事とは思えなかった。
「……わかります」
林檎はにこりと微笑んだ。
「私にも居ますから。大切な人たち」
それは友人だったり、親衛隊のみんなだったり。自分と関わったすべての人が大切で。
「白雪さん」
鏡が真剣な顔で林檎を見た。林檎もそれに答えるように鏡を見つめる。
「大切な人が間違ったことをしていたら、あなたはどうしますか?」
力になりたい。そう思う気持ちは、本物で。
だからこそ。
「止めます。その人が本当に、大切な存在ならば」
林檎は微笑んだ。濁りも迷いもない、真っ直ぐな笑みだった。
「──……」
釣られて、鏡も笑った。大切だからこそ、裏切らなきゃいけないこともある。そうするのが怖くて仕方がなかった。嫌われるのが怖くて。でも、もう決めた。
「……ありがとう、白雪さん」
「え? 私は、何も──」
「ミスコン、頑張ってください」
そう言って、鏡は深々と頭を下げた。そして返事も待たず、走り出す。
明日、いろいろ言われるかもしれない。無能と罵られるかもしれない。もしかしたら、見限られてしまうかもしれない。
それでも──従わないことが、彼の彼女に対する忠誠だ。
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