桜花の道理

来条恵夢

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番外

黄昏に出逢い2

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 右京の端にある尚良ナオヨシの屋敷は、大いに荒れていた。
 元々、湿気の多い土地で荒れやすくはある。が、それにしても早い。人の手が加わっているのは明らかだった。弱みを見せれば途端に喰い付く。人というのは多くがそういうものだと、いつの頃からか尚良は知っていた。
 そもそも少なかった使用人も、全て去ったようだ。屋敷の荒廃には、余録代わりに物をあさった彼らも一役買っていることだろう。そのことを恨むような気持ちは、全く見当たらなかった。
 ただ、あまりの変わりように立ち尽くす。
「短い――夢だったな」
「寝てらしたの? 呑気な方ね」
「と――きわ…?」
「なんです、ものにでも会ったようなかおをして。あなたなら珍しくもないでしょうに」
 おっとりとした風情できっぱりと言ってのける様子は、間違いなく、十六の時以来十年以上も連れ添った妻だ。
 子どもを産んでさえ幼い女は、しかしそこで、困ったように笑った。
「そうは言っても、私もそのようなものだけれどね」
「――やはり、そう、なのか…?」
「ええ。ごめんなさい、あなたと最後まで一緒にいられなくて」
「ちがう。俺が――呪術なんて、学ばなければ良かったんだ」
 何気ないものから変化を読み取り、変える法を学ぶのは、楽しかった。人が出来ないことをやってのけるのは面白かった。陰陽寮に入ってからは、生活を支えるためにも、はりきっていた。何を囁かれようと、蔑まれようと、関係がないと思っていた。
 巫蠱ふことがで、有力貴族を呪ったとされてろうとらわれても、ここで終わりかと、悔やむだけだった。
 常磐つま太郎丸むすこが、先に死ぬなどと考えていなかった。それも、おのれの行ないによって。
「あなたは、呪ったの?」
「いいや」
「それならいいのよ。悔やまないで。あなたは、悪いことなんてしていない。どうか、生きることだけを考えて」
「俺に――お前たちがいなくなった後を、生きろと言うのか。…できるはずがないだろう」
 せめて二人に繋がる場所で、死のうと思った。
 反魂はんごんの術を使えるほどではないから、一緒にくことしかできない。
 だから、来たのに。
 死者は、まなじりを上げた。
「あなただって、同じことをしたでしょう。何、あの手紙。美濃みのへ帰れですって? そこで太郎丸タロウマルと二人で生きていけなんて、よくも言えたものね? 処刑は逃れられないから、そうなっていよいよ風当たりが強くなる前に出立しろですって? あなたを見捨てて生き延びろと、あなたのいなくなったところで生きて行けと、あなたが先に言ったのよ」
 いつものように、この十年いつだってそうだったように、怒るときでさえ見惚れてしまうほどに美しい。
「あなたに私をせめることなんてできないわ」
「…お前たちが生き延びてくれるなら、こわいものなんてなかったんだ…」
 思わず伸びた手は、常磐トキワの身体をつかめた。触れられず消えてなくなるような、まやかしではない。温かくはないが、死人のように冷え切ってもいない、不思議な感触。
 そっと、手が重ねられる。
「知ってる」
 言って、笑うように唇を上げる。しかし、目の奥が泣き出しそうで、ちっとも成功していなかった。
 いつだって素直で、感情の豊かな女だった。
「一つのことしか見えないくらいに真っ直ぐな莫迦ばかなのに、色々と勘違いされてることも、全部。あなた、何か企んでそうな顔をしてるのよ。裏で陰謀を企ててそうに。本当は、そんなこと何一つ考えてないのにね。そんなこと、考えついたって面倒だって投げ捨ててしまうのにね」
 抱きしめると、あやすように背を撫でる。仕方のない子ねと、太郎丸に言っていた声を思い出して、涙がこぼれそうになる。
 ここにいるのに、もう、いない。
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