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よあけのばん
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「ねえ、あなた名前は?」
契約を終えて部屋に戻っても、紅子は真っ直ぐにこちらを見つめた。眠ればその体は死ぬと言ったのに、動じない。その後で別の体で目覚めるとは伝えたが、恐れはないのだろうか。
疑うことなく向けられる笑みに、たじろぐ。
「これからずっと、一緒にいてくれるのでしょう? 名前を知らなければ不便だし不自然だわ」
「……名はない」
「え?」
きょとんと、目を大きく見開く。こちらで多少手を加えているとはいえ弱り切った体ではろくに動けないのだろうが、代わりのように表情は随分と豊かだ。次の瞬間にはもう、何かを思いついたように顔を輝かせている。
「それなら、私がつけてもいい? 響、なんてどうかしら。漢字一文字で」
「あ」
間抜けにも、止め損ねた。
本当に名がないわけではない。だが、この少女の言葉では正確に聞き取れるかすら怪しいものだし、相応の力がなければないとはいえ、名を知られれば縛られることにもなりかねない。名をつけられることも似たようなものだ。
ただ、この少女にそういった力はない。
それでも勝手につけられるのは据わりが悪い。気まぐれに契約を結びはしてもやり方次第でいつ終わらせることはできるだろうが、どの程度の付き合いになるのかはわからない。
例え名付けた少女に力がなくとも、長く続けば何らかの効力を持つこともあるかもしれない。
「今のなし!」
こちらが断る前に、何を思ったのか、少女は慌てたように口を開いた。
「駄目? それなら、えーと、名字はあなたが自分でつけて、それで、私にも新しい名前をつけて。そうすれば、おあいこ…に、ならない?」
「…何の話だ」
「だって、悪魔って名前を知られては駄目なんでしょう? 名付けるって、知ることと同じだし。そういうつもりじゃなかったの、そんなつもりはなくて…っ」
取り入ろうとしているのでも、悪意を持っているのでもないだろう。慌てている様が面白い。何をむきになっているのか、弱った体に負担がかかって言葉を詰まらせてさえいる。
「……晧」
「え?」
「紅に対して、白の意味を持つ晧。気に入らないか」
驚いたように動きを止めた少女は、しばらくして、ゆっくりと微笑んだ。やはり真っ直ぐに、こちらを見つめる。
「ありがとう」
――ようやく、気付いた。
ただの気まぐれではなく、もう少し一緒に居たいと思ったから、契約を結ぶことを選んだのだと。
記憶が無く、本能のように自分が何なのかはわかっても、何者なのかはわからないまま気を張る日々で、敵意も怯えもなく接するこの少女が得難いものだと思えたから。
「綺麗な名前ね。嬉しいわ。漢字にも詳しいのね」
やはり他意はなさそうに、嬉しそうに笑う。あどけないようでいて、どこか大人びている。それは、常に死を意識して生きてきたからだろうか。
思わず手を伸ばしそうになって、留める。
記憶が無いということは、いつ戻るかもわからないということだ。戻った時、それまで培った今の「自分」がどうなるのか、元の「自分」とどれほど違うのかはわからない。
もしかすると、今この時の記憶を逆に、失ってしまうかもしれない。
「それ」がいつ訪れるのかはわからない。二度と戻らないこともあるかもしれないが、ほんの数秒後ということもあっておかしくはない。「それ」は、この少女との契約中にも起こるかもしれない。
それならば――やはり、あまり深入りしない方がいい。
「名井とでもしよう」
「ない?」
「名前の名に井戸の井。名井響。お前の側にいる間の俺の名だ」
何故か少女は、笑みを一層深めた。楽しげだ。
「それなら、名井さんと呼べばいい?」
「響でいい」
「響さん」
「呼び捨てで」
わかったわ、と言って、少女はわずかに右手を持ち上げた。
「眠るから、手を握っていてくれない? 私が――私でなくなるまで、一緒に居て」
妙なことを言う。
「それは命令か」
「そうね。はじめての命令ということにして頂戴。いいかしら?」
「ああ」
少女――晧の手を取り、そっと握りしめる。熱があるのか、か細い手は妙にあたたかかった。
そうして晧は、満足そうに微笑んで目をつぶった。最期まで、何一つ疑うことなく。
何もわからないままに、つかみ取った光。
それがどれだけ大切か、本当に気付くまでにはしばらくかかった。
契約を終えて部屋に戻っても、紅子は真っ直ぐにこちらを見つめた。眠ればその体は死ぬと言ったのに、動じない。その後で別の体で目覚めるとは伝えたが、恐れはないのだろうか。
疑うことなく向けられる笑みに、たじろぐ。
「これからずっと、一緒にいてくれるのでしょう? 名前を知らなければ不便だし不自然だわ」
「……名はない」
「え?」
きょとんと、目を大きく見開く。こちらで多少手を加えているとはいえ弱り切った体ではろくに動けないのだろうが、代わりのように表情は随分と豊かだ。次の瞬間にはもう、何かを思いついたように顔を輝かせている。
「それなら、私がつけてもいい? 響、なんてどうかしら。漢字一文字で」
「あ」
間抜けにも、止め損ねた。
本当に名がないわけではない。だが、この少女の言葉では正確に聞き取れるかすら怪しいものだし、相応の力がなければないとはいえ、名を知られれば縛られることにもなりかねない。名をつけられることも似たようなものだ。
ただ、この少女にそういった力はない。
それでも勝手につけられるのは据わりが悪い。気まぐれに契約を結びはしてもやり方次第でいつ終わらせることはできるだろうが、どの程度の付き合いになるのかはわからない。
例え名付けた少女に力がなくとも、長く続けば何らかの効力を持つこともあるかもしれない。
「今のなし!」
こちらが断る前に、何を思ったのか、少女は慌てたように口を開いた。
「駄目? それなら、えーと、名字はあなたが自分でつけて、それで、私にも新しい名前をつけて。そうすれば、おあいこ…に、ならない?」
「…何の話だ」
「だって、悪魔って名前を知られては駄目なんでしょう? 名付けるって、知ることと同じだし。そういうつもりじゃなかったの、そんなつもりはなくて…っ」
取り入ろうとしているのでも、悪意を持っているのでもないだろう。慌てている様が面白い。何をむきになっているのか、弱った体に負担がかかって言葉を詰まらせてさえいる。
「……晧」
「え?」
「紅に対して、白の意味を持つ晧。気に入らないか」
驚いたように動きを止めた少女は、しばらくして、ゆっくりと微笑んだ。やはり真っ直ぐに、こちらを見つめる。
「ありがとう」
――ようやく、気付いた。
ただの気まぐれではなく、もう少し一緒に居たいと思ったから、契約を結ぶことを選んだのだと。
記憶が無く、本能のように自分が何なのかはわかっても、何者なのかはわからないまま気を張る日々で、敵意も怯えもなく接するこの少女が得難いものだと思えたから。
「綺麗な名前ね。嬉しいわ。漢字にも詳しいのね」
やはり他意はなさそうに、嬉しそうに笑う。あどけないようでいて、どこか大人びている。それは、常に死を意識して生きてきたからだろうか。
思わず手を伸ばしそうになって、留める。
記憶が無いということは、いつ戻るかもわからないということだ。戻った時、それまで培った今の「自分」がどうなるのか、元の「自分」とどれほど違うのかはわからない。
もしかすると、今この時の記憶を逆に、失ってしまうかもしれない。
「それ」がいつ訪れるのかはわからない。二度と戻らないこともあるかもしれないが、ほんの数秒後ということもあっておかしくはない。「それ」は、この少女との契約中にも起こるかもしれない。
それならば――やはり、あまり深入りしない方がいい。
「名井とでもしよう」
「ない?」
「名前の名に井戸の井。名井響。お前の側にいる間の俺の名だ」
何故か少女は、笑みを一層深めた。楽しげだ。
「それなら、名井さんと呼べばいい?」
「響でいい」
「響さん」
「呼び捨てで」
わかったわ、と言って、少女はわずかに右手を持ち上げた。
「眠るから、手を握っていてくれない? 私が――私でなくなるまで、一緒に居て」
妙なことを言う。
「それは命令か」
「そうね。はじめての命令ということにして頂戴。いいかしら?」
「ああ」
少女――晧の手を取り、そっと握りしめる。熱があるのか、か細い手は妙にあたたかかった。
そうして晧は、満足そうに微笑んで目をつぶった。最期まで、何一つ疑うことなく。
何もわからないままに、つかみ取った光。
それがどれだけ大切か、本当に気付くまでにはしばらくかかった。
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