夜明けの晩

来条恵夢

文字の大きさ
67 / 67
よあけのばん

0

しおりを挟む
「ねえ、あなた名前は?」

 契約を終えて部屋に戻っても、紅子ベニコぐにこちらを見つめた。眠ればその体は死ぬと言ったのに、動じない。その後で別の体で目覚めるとは伝えたが、恐れはないのだろうか。
 疑うことなく向けられる笑みに、たじろぐ。

「これからずっと、一緒にいてくれるのでしょう? 名前を知らなければ不便だし不自然だわ」
「……名はない」
「え?」

 きょとんと、目を大きく見開く。こちらで多少手を加えているとはいえ弱り切った体ではろくに動けないのだろうが、代わりのように表情は随分と豊かだ。次の瞬間にはもう、何かを思いついたように顔を輝かせている。

「それなら、私がつけてもいい? ヒビキ、なんてどうかしら。漢字一文字で」
「あ」

 間抜けにも、止め損ねた。
 本当に名がないわけではない。だが、この少女の言葉では正確に聞き取れるかすら怪しいものだし、相応の力がなければないとはいえ、名を知られれば縛られることにもなりかねない。名をつけられることも似たようなものだ。
 ただ、この少女にそういった力はない。
 それでも勝手につけられるのは据わりが悪い。気まぐれに契約を結びはしてもやり方次第でいつ終わらせることはできるだろうが、どの程度の付き合いになるのかはわからない。
 例え名付けた少女に力がなくとも、長く続けば何らかの効力を持つこともあるかもしれない。

「今のなし!」

 こちらが断る前に、何を思ったのか、少女は慌てたように口を開いた。

「駄目? それなら、えーと、名字はあなたが自分でつけて、それで、私にも新しい名前をつけて。そうすれば、おあいこ…に、ならない?」
「…何の話だ」
「だって、悪魔って名前を知られては駄目なんでしょう? 名付けるって、知ることと同じだし。そういうつもりじゃなかったの、そんなつもりはなくて…っ」

 取り入ろうとしているのでも、悪意を持っているのでもないだろう。慌てている様が面白い。何をむきになっているのか、弱った体に負担がかかって言葉を詰まらせてさえいる。

「……コウ
「え?」
「紅に対して、白の意味を持つ晧。気に入らないか」

 驚いたように動きを止めた少女は、しばらくして、ゆっくりと微笑んだ。やはり真っ直ぐに、こちらを見つめる。

「ありがとう」

 ――ようやく、気付いた。

 ただの気まぐれではなく、もう少し一緒に居たいと思ったから、契約を結ぶことを選んだのだと。
 記憶が無く、本能のように自分が何なのかはわかっても、何者なのかはわからないまま気を張る日々で、敵意も怯えもなく接するこの少女が得難いものだと思えたから。

「綺麗な名前ね。嬉しいわ。漢字にも詳しいのね」

 やはり他意はなさそうに、嬉しそうに笑う。あどけないようでいて、どこか大人びている。それは、常に死を意識して生きてきたからだろうか。
 思わず手を伸ばしそうになって、留める。
 記憶が無いということは、いつ戻るかもわからないということだ。戻った時、それまでつちかった今の「自分」がどうなるのか、元の「自分」とどれほど違うのかはわからない。
 もしかすると、今この時の記憶を逆に、失ってしまうかもしれない。
 「それ」がいつ訪れるのかはわからない。二度と戻らないこともあるかもしれないが、ほんの数秒後ということもあっておかしくはない。「それ」は、この少女との契約中にも起こるかもしれない。
 それならば――やはり、あまり深入りしない方がいい。

「名井とでもしよう」
「ない?」
「名前の名に井戸の井。名井響。お前の側にいる間の俺の名だ」

 何故か少女は、笑みを一層深めた。楽しげだ。

「それなら、名井さんと呼べばいい?」   
「響でいい」
「響さん」
「呼び捨てで」

 わかったわ、と言って、少女はわずかに右手を持ち上げた。

「眠るから、手を握っていてくれない? 私が――私でなくなるまで、一緒に居て」

 妙なことを言う。

「それは命令か」
「そうね。はじめての命令ということにして頂戴。いいかしら?」
「ああ」

 少女――晧の手を取り、そっと握りしめる。熱があるのか、か細い手は妙にあたたかかった。
 そうして晧は、満足そうに微笑んで目をつぶった。最期まで、何一つ疑うことなく。     
      
 何もわからないままに、つかみ取った光。
 それがどれだけ大切か、本当に気付くまでにはしばらくかかった。     
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

処理中です...