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一、新しいことと古いこと
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きょうだいか、と、ふと、今は離れて暮らす弟を思う。
見かけはよく似ていたが、中身は違った。ひとつのことを追求することに長けた、凝り性のある弟。今はアメリカに留学中だが、忘れることは決してない。
一生勉強するなんてぞっとしない、と、司ならば思う。知識のつまみ食いは好んでするが、突き詰めてはどうにも向いていない。
例えば読書でも、弟は、読んでいるものを見れば、大体どういう流れで読んでいるのかがつかめる。首をかしげるものが混じっているように思えても、理由を訊けば、この中に参考書で取り上げられてたんだ、といった返事がある。
司は、目に付いた興味を持ったものなら片端から。ただし、読むだけだ。贋作を扱った研究書を読んでいたかと思えば、笑いに重点を置いたライトノベルを読んでいたりする。
それでも多分、根っ子のところでは同じで、仲もいいのだと――思う。
「司?」
「――ん? あ。ああ、出たのか」
気付けば、古書店の部分に顔を出していた。暗くて見えはしないが、#諒__りょう__は声の通りに、怪訝そうなかおをしているのだろう。
「出たのか、って。成長したなあ、もやしっ子が」
「何それ」
「だってお前、はじめのときなんて、俺が担がなきゃ上がりきれなかったくせに」
差し出された手を断って、ほとんど腕の力だけで体を持ち上げ、地上に引き上げる。後からあの二人も上がってくるのだろうが、とりあえず、軽く蓋を載せておく。
「そりゃあ、成長もするよ。出動件数増えてるし。ここの昇り降りだって、月一としても四年だよ? 成長しなきゃ嘘でしょ」
軽口に逃げる。
諒は何も言わず、ただ、手を置くように司の頭を撫でた。肘置きか、と払いのける。
「ゲンさんに会いに行くけど、諒どうする?」
「はあ? こんな時間に?」
「だって、昼間行っても会えるとは限らないし。夜の方が率高いでしょ。遊ばれるのが厭なら、帰っていいけど?」
ゲンさんこと、源弦一郎。
橋のたもとの掘っ立て小屋に住み込む彼は、司の前任者だ。同時に諒の元相棒でもあるのだが、曰く、相性が悪い、のだそうだ。何度か二人の会話を聞いている司からすれば、同族嫌悪のきらいがある。
「あれのところに、お前一人で行かせるわけにはいかないだろ。襲われたらどうするつもりだ」
「あー、ないない。諒に襲われる方がありそう」
「…だから俺はお前の仲でどんな位置付けだ」
「エロ狐?」
「うわーさらっと言いやがったー」
「ほら行って。見えないんだから」
落ち込むふりをする諒をつつき、埃っぽい書架を抜け、店外に出る。真っ暗闇にいただけに、満月ではないとはいえ、月明かりがいやに明るく感じられる。
月光を浴びると、なんとなく司は、夜の生き物になった気分になる。闇に紛れ、日の光を浴びると縮こまって逃げ出すような。まるでそれは、海の底の深海魚のように。闇の底に沈む自分を、実感する。
そしてそれは、狩人には案外相応しい。
「諒?」
「ん?」
「こたえたくなかったらいいし今更だけど、どうして補佐をやろうと思ったの? かなり、長いって聞いてるけど」
「あー、それ」
月明かりを遮る建物内を抜ければ先導はあまり必要ではないのだが、司の手は、未だに諒の服の裾をつかんでいる。
諒が前を行くせいで表情はわからないが、声の調子で、苦笑したのはわかった。
「まーなー、長いぜ? 大体の奴は、一人受け持ったら終わるからな。俺は、まー、侍とかのさばってた頃から、休み休みやってますから?」
「長いな」
「だろ」
「つかあんたら寿命いくつだ。不死とか言わないよな?」
「それを言うかお前が」
ああそうだったざくざく殺してるよ、と、司がぼやく。物騒極まりない台詞だというのに、お互いに冗談でも言い交わしているかのようで、悲壮感が果てしなく薄く、その分空しい。
「ああ、それだけ前からならさ、諒、何かわかる?」
「何が」
「昔は、年に一回あるかないかとか、そのくらいの頻度だったって聞いたけど? 今じゃあ、月に四、五件あるのも珍しくないじゃない」
水鏡に映し出される、対処すべき対象たち。司が狩人になった間だけを振り返っても、増えているような気がする。
「それは、時代の流れも大きいだろうよ」
妖の存在をどう捉えるか、それにどう対処するか。それは、その時代の常識や武器で変わってくる。
妖怪が出た、ではあそこには近寄らないようにしよう、あるいは退治しようと出てきても蹴散らせるのなら、存在が知れ渡ってもあまり問題にはならない。一種の縄張り争いだが、それが通用するのなら、それでいい。
司の言う年に一度あるかないかだった頃は、だから、人に存在が知られることを防ぐためでなく、仲間内でも危険と見做された者への対処が主だった。
どこか忌々しげにそう説明する諒に、司は首をかしげた。懐かしむならわかるが、厭う理由がわからない。
「何に腹を立ててる?」
「お前は平気なのか? 狩人ってのは、身内殺しが厭で人に責任を押し付けただけだろ」
振り向いた瞳は、わずかな月明かりを弾き、光っていた。こういうとき、なるほど獣の眼だと、司は妙な納得をする。何しろ普段の諒は、司よりもよほど人間らしい。
「押し付けられた側も、ただじゃない。お金をもらったり生活を保障してもらったり、中には、ただ生き物を殺めたい、なんてのもあったし。自分の大事な人を護るためだったり、集落の指導者としての威厳を示すためだったり。ただの利害の一致なんだから、目くじらを立てることはないんじゃないかな」
「…どうしてそう、言い切れる?」
「え。あれ、諒は知らなかった? ――つか、もしかして、みんな知らない?」
「何だよ?」
「えっと、これ。火月」
無造作にふった司の右手に、一振りの日本刀がにぎられる。鞘のないそれは、無機物にもかからず拍動しているかのような生々しさがあり、諒が一歩引いた。その拍子に、裾をつかんでいた司の左手が離れる。
司はお構いなしに、ゆるく弧を描く峰を、指でなぞった。
「使ってると時々、前の持ち主の感情らしいのがわかるんだけど。ほら、継承式のとき、扱い方とか頭に入るでしょ。あれみたいに」
「いや、あれみたいとか言われても」
「あ、そうか。うーん…プログラムインストールするみたいな? それか、どこかに古い日記帳があって、ぱらっとその一頁が読めるみたいな」
「…聞いたことないぜ、そんなの」
「えー? じゃあ、秘密だったのかな。うっわ、言っちゃったよ」
「秘密って言うより…司、お前が特殊なんじゃないのか?」
何かを推し量るように見つめられ、司は、冗談気味に両手を上げて見せた。もっとも、刀を持ったままなのだからあまり意味がない。
しばらくの間、二人はそうやって見合っていた。
だが不意に諒が目を逸らし、司の手が下りる。そうして、司はまじまじと、闇と月明かりを反射する日本刀を見つめた。
「はい、仮説」
諒から言葉の反応はなかったが、挙手したまま勝手に続ける。
「火月、つか、御守の記憶を、同調して読み取ったってのはどう?」
「…どう、って言われてもな…」
妖側も狩人側も、「御守」と呼ぶ変幻自在の武器を、有効利用はしていても由来も原理も知りはしない。伝説めいた起源はいくつもあるのだが、ありすぎて手に負えない始末だ。
雑談ついでに司が聞いただけでも、太古の妖の成れの果てだとか、気の凝り固まったものだとか、元はありふれた武器だったものが妖の血を浴びすぎて変化しただとか、神々が練成した特殊なものだとか、実はロンギヌスの槍も三種の神器も御守だ、などなど。また、その一つ一つに長い物語が尾ひれもつけてあるのだから、一層手に負えない。
はじめの頃こそ興味本位で調べていた司だが、探求は疾うに放棄した。今となっては、昔話を聞くように、気まぐれに千変万化な物語を楽しむだけだ。
右手をひと振りして刀をしまった司は、一人で先に立って歩き始めた。
月明かりもあれば、歯こぼれしすぎた櫛並みとはいえ、水銀灯もある。例え、人工の灯りが逆に闇を際立たせてしまっているとしても、灯りは灯りだ。気をつければ、一人でも転ぶことはない。
だが、遅れてきた足音は、すぐに司に並んだ。
「だから、諒は補佐になったの?」
「だから、の中身を言え、中身を。なんだってお前はそう、理解しにくく喋るんだ」
「あー、ごめん、わざとじゃないんだけど。こう、自分の中ではつながってるもんだから」
「俺には繋がってないぞ」
「人任せにするのが厭だから、自分も片棒担ごうって思った?」
言いながら、田圃のあぜに落ちかけて諒に助けられる。危うく、レンゲを踏み潰すところだった。
「そう見えるか?」
「見えなくもないかも知れない」
「どこまで曖昧だよ」
お互いに笑って、歩き出す。落ちかけたところを咄嗟につかまれた腕はそのままで、司は安心して、空を見上げた。星が綺麗だ。
危ないと注意され、ゆっくりと視線を下ろすと、真っ暗に見える山と、山裾に広がってぽつりぽつりと立つ家々と、今はレンゲ畑と化している田圃が見える。どれも、水銀灯付近はともかく、闇にうずもれている。
駅近辺であればもう少しにぎわっているが、それでも、この地域は立派に田舎だ。司の周囲でも、すぐにでもこの町を出たいと言う者は多い。
だが司は、残るつもりだ。狩人は、その地域を離れれば、何の力も持たない。旅行程度ならさほど支障はないだろうが、引越しとなれば、後任に譲るほかない。司には、そのつもりはなかった。
つもりがないというよりも、狩人は恨まれる役目でもあるだけに、下手に非力になると、闇に葬られかねない。
幸い大学は、電車で一時間半ほどかければ通えるところにひとつだけだがある。
高校を出て就職してもいいのだが、おそらくはそれ以上の金銭を狩人の仕事で得ているのだから、急いで社会に出ることもない。いっそ人の世界で働く必要もないほどだが、それでは世間体の問題がある。時間を稼げるのなら、長い方がいい。
「あーっ、憂鬱だな、大学受験」
「何だ唐突に」
諒の呆れたような声に、肩をすくめる。
「先のこと考えてたらさ。高校はどうにか受かったけど、大学はどうかなって。あそこ、何か微妙に人気あるんだよなあ」
「細工してやろうか?」
「遠慮しとく」
人に紛れて生きる者らのコネや、特異能力などを駆使しての裏工作は便利で、数少ない司書教諭にまで収まってしまった諒という実例を目の当たりにしている分、心は揺らぐ。勉強して何か得たいものがあるわけでもないのだから、甘えてしまっても問題ないと囁く声もある。
だが、それでは納得がいかない。なんとなく、据わりが悪い。
「一応、精一杯は生きてみるつもりでいるんだよ、これでも。人生なんて死ぬまでの暇つぶしだけど、真剣にやらない暇つぶしなら、やらなくてもいいってことになりかねないし。――でも、無理だったらお願い」
「聞いた声がすると思ったら。やあ司、相変わらずかわいいね」
いつの間にか目的地に到着していたらしい。月を背に、ねずみ男に似た影が浮かび上がる。声を聞いて登ってきたものか、土手にいる。
「こんばんは。ほめてくれて嬉しいけど、ゲンさん、女の人には皆に言ってそうだから価値ないなあ」
「いやいや、僕は嘘はつかないよ」
にこにこと笑う源は、体はがりがりに痩せているが、頬がこけているといったことはない。ただの、痩せ体質らしい。もっとも今の食生活は、豊かとは言えないだろう。
司は、ポケットから饅頭を取り出し、源に手渡した。
「お土産」
「ありがとう。司はやさしいね」
「は」が強調されている。諒は、源の姿を見つけてからというもの、むっつりと明後日の方を見ている。
軽口しか言わないところや嫌がらせが好きなところが、よく似ていると司は思うのだが、少なくとも諒からは、同意が得られたことはない。
不法占拠の掘っ立て小屋に、源は二人を招き入れた。
源自身もだが、意外なほどに不清潔感はない。こぢんまりと整理整頓された小屋の中は、生活雑貨よりも本であふれていた。どれもぼろぼろなのは、古書店の捨て値コーナーやゴミ捨て場からの収集品だからということもあるだろう。
「それで、何か用かな? 送り狼が見つかった?」
電池で明かりのつくらんたんのスイッチを入れて真ん中に置き、三人は車座に座った。源一人がどうにか寝れるだけの広さしかないため、かなり狭苦しい。諒の頭には、棚から突き出た図鑑が当たっている。
「ニホンオオカミは全滅したらしいですよ。ヤマイヌだって、もう少ない」
「でもねえ。庇護者がいないと厳しいんだよ、本当」
「庇護者なしで生き延びてきたんだから、この先も大丈夫じゃない?」
「時々怖い事言うねー司は」
笑いながら、眼が笑っていない。
しかし実際、狩人の任を降りながらその地に留まり、無事なのは珍しい。もっとも、二年ほど前までは庇護者がいた。
送り狼、と現在で言うと男の性のような意味合いになってしまうが、元々は、呼び名の通りに送る狼だった。正確には、狼の他に山犬も含まれる。
日の暮れた山道で、気付くと狼が後方にいる。家にたどり着いて、礼に飯でもやれば大人しく帰る。だがこれは、転べばたちまちに食い殺されるという。つまり、隙を狙って後をつけているのだ。またあるいは、獣や妖の多い山で、死後に遺体をくれてやると約束すれば、守ってくれる。これも送り狼だ。
源が言うのは後者で、以前は一匹、源についていた。その狼が妖を牽制し、守ってくれていたのだが、病でころりといってしまった。
以来源に護りはなく、いくら狩人の力を持つ司が度々訪ねるからといって、生き延びているのは稀有な例と言える。
「ゲンさん、知り合いがいるんでしょ? 頼めばいいじゃない」
「うーん。あの子にはまだ、やることがあるからね」
「…仇、まだ見つかってないんでしたっけ」
母犬を殺された山犬。それが、源が最後に関わった件だと聞いている。そして先日までの源の守りは、つがいを殺された山犬。つまり、今は子どもだけが生き残っている。
司は、少しばかり重くなった空気を払い退けるように、挙手した。
「話変えます。明後日から学校行事で、夜久に二泊三日で出かけるんで、その間、何かあったら諒にどうぞ」
「諒は行かないのかい?」
「うん、居残り。代わりに、颯が行く」
思いっきり厭そうなかおをした諒を無視して、二人は会話を進める。
「ああ、颯君。諒の弟だったかな? 兄よりよっぽど冷静そうな」
「そうそう。愚兄賢弟ってこういうことかって思うね」
「確かに」
「颯が子どもの格好してるのって、諒が俺より年上に化けるなって言ったからとか」
「うーわー、それは最低だね」
「でしょ。炎ひとつろくに消せない実力しかないのに」
「待て。なんで俺の悪口大会になってんだよお前ら」
にっこり、と嫌がらせのように笑う二人に、しまった罠だった、と、諒が身を引きかけ、本棚に頭をぶつける。その拍子に本が落ちてきて、埃が舞った。
更に何か来るか、と身構えた諒の予想に反し、あっさりと司が声を上げる。
「ま、冗談は置いて。そろそろ帰るね、明日テストだし」
そう言って、身軽に立ち上がる。源は、やや呆気に取られたようにそれを見上げ、ああ、と、ぽつりと洩らした。
遠くにあるものを見るように、司を見つめる。表情のこそげ落ちたかおをしていた。
「学生してたんだったね、司は」
「成績は良くないけど」
「よくやるよ。狩人なんてやってて、よく、まともに振舞える」
「見本がいらっしゃいましたから」
源の感情のない眼を見つめながらの言葉は、皮肉ではない。しかし源は、どちらでも構わないようだった。
虚ろな眼を、自分の目を閉じることで一旦、視界から追い出す。
糸の切れた操り人形のようで、諒が源を避けるのはこのためでもあるだろう。体が無事でも、心までがそうとは限らない。
「お邪魔しました。また来るよ」
丁寧に頭を下げ、司と諒は、小屋を後にした。
見かけはよく似ていたが、中身は違った。ひとつのことを追求することに長けた、凝り性のある弟。今はアメリカに留学中だが、忘れることは決してない。
一生勉強するなんてぞっとしない、と、司ならば思う。知識のつまみ食いは好んでするが、突き詰めてはどうにも向いていない。
例えば読書でも、弟は、読んでいるものを見れば、大体どういう流れで読んでいるのかがつかめる。首をかしげるものが混じっているように思えても、理由を訊けば、この中に参考書で取り上げられてたんだ、といった返事がある。
司は、目に付いた興味を持ったものなら片端から。ただし、読むだけだ。贋作を扱った研究書を読んでいたかと思えば、笑いに重点を置いたライトノベルを読んでいたりする。
それでも多分、根っ子のところでは同じで、仲もいいのだと――思う。
「司?」
「――ん? あ。ああ、出たのか」
気付けば、古書店の部分に顔を出していた。暗くて見えはしないが、#諒__りょう__は声の通りに、怪訝そうなかおをしているのだろう。
「出たのか、って。成長したなあ、もやしっ子が」
「何それ」
「だってお前、はじめのときなんて、俺が担がなきゃ上がりきれなかったくせに」
差し出された手を断って、ほとんど腕の力だけで体を持ち上げ、地上に引き上げる。後からあの二人も上がってくるのだろうが、とりあえず、軽く蓋を載せておく。
「そりゃあ、成長もするよ。出動件数増えてるし。ここの昇り降りだって、月一としても四年だよ? 成長しなきゃ嘘でしょ」
軽口に逃げる。
諒は何も言わず、ただ、手を置くように司の頭を撫でた。肘置きか、と払いのける。
「ゲンさんに会いに行くけど、諒どうする?」
「はあ? こんな時間に?」
「だって、昼間行っても会えるとは限らないし。夜の方が率高いでしょ。遊ばれるのが厭なら、帰っていいけど?」
ゲンさんこと、源弦一郎。
橋のたもとの掘っ立て小屋に住み込む彼は、司の前任者だ。同時に諒の元相棒でもあるのだが、曰く、相性が悪い、のだそうだ。何度か二人の会話を聞いている司からすれば、同族嫌悪のきらいがある。
「あれのところに、お前一人で行かせるわけにはいかないだろ。襲われたらどうするつもりだ」
「あー、ないない。諒に襲われる方がありそう」
「…だから俺はお前の仲でどんな位置付けだ」
「エロ狐?」
「うわーさらっと言いやがったー」
「ほら行って。見えないんだから」
落ち込むふりをする諒をつつき、埃っぽい書架を抜け、店外に出る。真っ暗闇にいただけに、満月ではないとはいえ、月明かりがいやに明るく感じられる。
月光を浴びると、なんとなく司は、夜の生き物になった気分になる。闇に紛れ、日の光を浴びると縮こまって逃げ出すような。まるでそれは、海の底の深海魚のように。闇の底に沈む自分を、実感する。
そしてそれは、狩人には案外相応しい。
「諒?」
「ん?」
「こたえたくなかったらいいし今更だけど、どうして補佐をやろうと思ったの? かなり、長いって聞いてるけど」
「あー、それ」
月明かりを遮る建物内を抜ければ先導はあまり必要ではないのだが、司の手は、未だに諒の服の裾をつかんでいる。
諒が前を行くせいで表情はわからないが、声の調子で、苦笑したのはわかった。
「まーなー、長いぜ? 大体の奴は、一人受け持ったら終わるからな。俺は、まー、侍とかのさばってた頃から、休み休みやってますから?」
「長いな」
「だろ」
「つかあんたら寿命いくつだ。不死とか言わないよな?」
「それを言うかお前が」
ああそうだったざくざく殺してるよ、と、司がぼやく。物騒極まりない台詞だというのに、お互いに冗談でも言い交わしているかのようで、悲壮感が果てしなく薄く、その分空しい。
「ああ、それだけ前からならさ、諒、何かわかる?」
「何が」
「昔は、年に一回あるかないかとか、そのくらいの頻度だったって聞いたけど? 今じゃあ、月に四、五件あるのも珍しくないじゃない」
水鏡に映し出される、対処すべき対象たち。司が狩人になった間だけを振り返っても、増えているような気がする。
「それは、時代の流れも大きいだろうよ」
妖の存在をどう捉えるか、それにどう対処するか。それは、その時代の常識や武器で変わってくる。
妖怪が出た、ではあそこには近寄らないようにしよう、あるいは退治しようと出てきても蹴散らせるのなら、存在が知れ渡ってもあまり問題にはならない。一種の縄張り争いだが、それが通用するのなら、それでいい。
司の言う年に一度あるかないかだった頃は、だから、人に存在が知られることを防ぐためでなく、仲間内でも危険と見做された者への対処が主だった。
どこか忌々しげにそう説明する諒に、司は首をかしげた。懐かしむならわかるが、厭う理由がわからない。
「何に腹を立ててる?」
「お前は平気なのか? 狩人ってのは、身内殺しが厭で人に責任を押し付けただけだろ」
振り向いた瞳は、わずかな月明かりを弾き、光っていた。こういうとき、なるほど獣の眼だと、司は妙な納得をする。何しろ普段の諒は、司よりもよほど人間らしい。
「押し付けられた側も、ただじゃない。お金をもらったり生活を保障してもらったり、中には、ただ生き物を殺めたい、なんてのもあったし。自分の大事な人を護るためだったり、集落の指導者としての威厳を示すためだったり。ただの利害の一致なんだから、目くじらを立てることはないんじゃないかな」
「…どうしてそう、言い切れる?」
「え。あれ、諒は知らなかった? ――つか、もしかして、みんな知らない?」
「何だよ?」
「えっと、これ。火月」
無造作にふった司の右手に、一振りの日本刀がにぎられる。鞘のないそれは、無機物にもかからず拍動しているかのような生々しさがあり、諒が一歩引いた。その拍子に、裾をつかんでいた司の左手が離れる。
司はお構いなしに、ゆるく弧を描く峰を、指でなぞった。
「使ってると時々、前の持ち主の感情らしいのがわかるんだけど。ほら、継承式のとき、扱い方とか頭に入るでしょ。あれみたいに」
「いや、あれみたいとか言われても」
「あ、そうか。うーん…プログラムインストールするみたいな? それか、どこかに古い日記帳があって、ぱらっとその一頁が読めるみたいな」
「…聞いたことないぜ、そんなの」
「えー? じゃあ、秘密だったのかな。うっわ、言っちゃったよ」
「秘密って言うより…司、お前が特殊なんじゃないのか?」
何かを推し量るように見つめられ、司は、冗談気味に両手を上げて見せた。もっとも、刀を持ったままなのだからあまり意味がない。
しばらくの間、二人はそうやって見合っていた。
だが不意に諒が目を逸らし、司の手が下りる。そうして、司はまじまじと、闇と月明かりを反射する日本刀を見つめた。
「はい、仮説」
諒から言葉の反応はなかったが、挙手したまま勝手に続ける。
「火月、つか、御守の記憶を、同調して読み取ったってのはどう?」
「…どう、って言われてもな…」
妖側も狩人側も、「御守」と呼ぶ変幻自在の武器を、有効利用はしていても由来も原理も知りはしない。伝説めいた起源はいくつもあるのだが、ありすぎて手に負えない始末だ。
雑談ついでに司が聞いただけでも、太古の妖の成れの果てだとか、気の凝り固まったものだとか、元はありふれた武器だったものが妖の血を浴びすぎて変化しただとか、神々が練成した特殊なものだとか、実はロンギヌスの槍も三種の神器も御守だ、などなど。また、その一つ一つに長い物語が尾ひれもつけてあるのだから、一層手に負えない。
はじめの頃こそ興味本位で調べていた司だが、探求は疾うに放棄した。今となっては、昔話を聞くように、気まぐれに千変万化な物語を楽しむだけだ。
右手をひと振りして刀をしまった司は、一人で先に立って歩き始めた。
月明かりもあれば、歯こぼれしすぎた櫛並みとはいえ、水銀灯もある。例え、人工の灯りが逆に闇を際立たせてしまっているとしても、灯りは灯りだ。気をつければ、一人でも転ぶことはない。
だが、遅れてきた足音は、すぐに司に並んだ。
「だから、諒は補佐になったの?」
「だから、の中身を言え、中身を。なんだってお前はそう、理解しにくく喋るんだ」
「あー、ごめん、わざとじゃないんだけど。こう、自分の中ではつながってるもんだから」
「俺には繋がってないぞ」
「人任せにするのが厭だから、自分も片棒担ごうって思った?」
言いながら、田圃のあぜに落ちかけて諒に助けられる。危うく、レンゲを踏み潰すところだった。
「そう見えるか?」
「見えなくもないかも知れない」
「どこまで曖昧だよ」
お互いに笑って、歩き出す。落ちかけたところを咄嗟につかまれた腕はそのままで、司は安心して、空を見上げた。星が綺麗だ。
危ないと注意され、ゆっくりと視線を下ろすと、真っ暗に見える山と、山裾に広がってぽつりぽつりと立つ家々と、今はレンゲ畑と化している田圃が見える。どれも、水銀灯付近はともかく、闇にうずもれている。
駅近辺であればもう少しにぎわっているが、それでも、この地域は立派に田舎だ。司の周囲でも、すぐにでもこの町を出たいと言う者は多い。
だが司は、残るつもりだ。狩人は、その地域を離れれば、何の力も持たない。旅行程度ならさほど支障はないだろうが、引越しとなれば、後任に譲るほかない。司には、そのつもりはなかった。
つもりがないというよりも、狩人は恨まれる役目でもあるだけに、下手に非力になると、闇に葬られかねない。
幸い大学は、電車で一時間半ほどかければ通えるところにひとつだけだがある。
高校を出て就職してもいいのだが、おそらくはそれ以上の金銭を狩人の仕事で得ているのだから、急いで社会に出ることもない。いっそ人の世界で働く必要もないほどだが、それでは世間体の問題がある。時間を稼げるのなら、長い方がいい。
「あーっ、憂鬱だな、大学受験」
「何だ唐突に」
諒の呆れたような声に、肩をすくめる。
「先のこと考えてたらさ。高校はどうにか受かったけど、大学はどうかなって。あそこ、何か微妙に人気あるんだよなあ」
「細工してやろうか?」
「遠慮しとく」
人に紛れて生きる者らのコネや、特異能力などを駆使しての裏工作は便利で、数少ない司書教諭にまで収まってしまった諒という実例を目の当たりにしている分、心は揺らぐ。勉強して何か得たいものがあるわけでもないのだから、甘えてしまっても問題ないと囁く声もある。
だが、それでは納得がいかない。なんとなく、据わりが悪い。
「一応、精一杯は生きてみるつもりでいるんだよ、これでも。人生なんて死ぬまでの暇つぶしだけど、真剣にやらない暇つぶしなら、やらなくてもいいってことになりかねないし。――でも、無理だったらお願い」
「聞いた声がすると思ったら。やあ司、相変わらずかわいいね」
いつの間にか目的地に到着していたらしい。月を背に、ねずみ男に似た影が浮かび上がる。声を聞いて登ってきたものか、土手にいる。
「こんばんは。ほめてくれて嬉しいけど、ゲンさん、女の人には皆に言ってそうだから価値ないなあ」
「いやいや、僕は嘘はつかないよ」
にこにこと笑う源は、体はがりがりに痩せているが、頬がこけているといったことはない。ただの、痩せ体質らしい。もっとも今の食生活は、豊かとは言えないだろう。
司は、ポケットから饅頭を取り出し、源に手渡した。
「お土産」
「ありがとう。司はやさしいね」
「は」が強調されている。諒は、源の姿を見つけてからというもの、むっつりと明後日の方を見ている。
軽口しか言わないところや嫌がらせが好きなところが、よく似ていると司は思うのだが、少なくとも諒からは、同意が得られたことはない。
不法占拠の掘っ立て小屋に、源は二人を招き入れた。
源自身もだが、意外なほどに不清潔感はない。こぢんまりと整理整頓された小屋の中は、生活雑貨よりも本であふれていた。どれもぼろぼろなのは、古書店の捨て値コーナーやゴミ捨て場からの収集品だからということもあるだろう。
「それで、何か用かな? 送り狼が見つかった?」
電池で明かりのつくらんたんのスイッチを入れて真ん中に置き、三人は車座に座った。源一人がどうにか寝れるだけの広さしかないため、かなり狭苦しい。諒の頭には、棚から突き出た図鑑が当たっている。
「ニホンオオカミは全滅したらしいですよ。ヤマイヌだって、もう少ない」
「でもねえ。庇護者がいないと厳しいんだよ、本当」
「庇護者なしで生き延びてきたんだから、この先も大丈夫じゃない?」
「時々怖い事言うねー司は」
笑いながら、眼が笑っていない。
しかし実際、狩人の任を降りながらその地に留まり、無事なのは珍しい。もっとも、二年ほど前までは庇護者がいた。
送り狼、と現在で言うと男の性のような意味合いになってしまうが、元々は、呼び名の通りに送る狼だった。正確には、狼の他に山犬も含まれる。
日の暮れた山道で、気付くと狼が後方にいる。家にたどり着いて、礼に飯でもやれば大人しく帰る。だがこれは、転べばたちまちに食い殺されるという。つまり、隙を狙って後をつけているのだ。またあるいは、獣や妖の多い山で、死後に遺体をくれてやると約束すれば、守ってくれる。これも送り狼だ。
源が言うのは後者で、以前は一匹、源についていた。その狼が妖を牽制し、守ってくれていたのだが、病でころりといってしまった。
以来源に護りはなく、いくら狩人の力を持つ司が度々訪ねるからといって、生き延びているのは稀有な例と言える。
「ゲンさん、知り合いがいるんでしょ? 頼めばいいじゃない」
「うーん。あの子にはまだ、やることがあるからね」
「…仇、まだ見つかってないんでしたっけ」
母犬を殺された山犬。それが、源が最後に関わった件だと聞いている。そして先日までの源の守りは、つがいを殺された山犬。つまり、今は子どもだけが生き残っている。
司は、少しばかり重くなった空気を払い退けるように、挙手した。
「話変えます。明後日から学校行事で、夜久に二泊三日で出かけるんで、その間、何かあったら諒にどうぞ」
「諒は行かないのかい?」
「うん、居残り。代わりに、颯が行く」
思いっきり厭そうなかおをした諒を無視して、二人は会話を進める。
「ああ、颯君。諒の弟だったかな? 兄よりよっぽど冷静そうな」
「そうそう。愚兄賢弟ってこういうことかって思うね」
「確かに」
「颯が子どもの格好してるのって、諒が俺より年上に化けるなって言ったからとか」
「うーわー、それは最低だね」
「でしょ。炎ひとつろくに消せない実力しかないのに」
「待て。なんで俺の悪口大会になってんだよお前ら」
にっこり、と嫌がらせのように笑う二人に、しまった罠だった、と、諒が身を引きかけ、本棚に頭をぶつける。その拍子に本が落ちてきて、埃が舞った。
更に何か来るか、と身構えた諒の予想に反し、あっさりと司が声を上げる。
「ま、冗談は置いて。そろそろ帰るね、明日テストだし」
そう言って、身軽に立ち上がる。源は、やや呆気に取られたようにそれを見上げ、ああ、と、ぽつりと洩らした。
遠くにあるものを見るように、司を見つめる。表情のこそげ落ちたかおをしていた。
「学生してたんだったね、司は」
「成績は良くないけど」
「よくやるよ。狩人なんてやってて、よく、まともに振舞える」
「見本がいらっしゃいましたから」
源の感情のない眼を見つめながらの言葉は、皮肉ではない。しかし源は、どちらでも構わないようだった。
虚ろな眼を、自分の目を閉じることで一旦、視界から追い出す。
糸の切れた操り人形のようで、諒が源を避けるのはこのためでもあるだろう。体が無事でも、心までがそうとは限らない。
「お邪魔しました。また来るよ」
丁寧に頭を下げ、司と諒は、小屋を後にした。
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