ソールレイヴ・サガ

kanegon

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■0995■

●峡湾の民

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 どよめきが起きた。ノルウェーの地は比較的温暖な南西地方でも、土地が貧しく人口が少ない。寒さが厳しいフィヨルドの海岸沿いに点在しているのは、村と呼ぶのもおこがましいような小集落ばかりだ。そのようなノルウェーで「町」を造るというのは、若き賢者ソールレイヴでも想像し難い壮大な夢想であった。
「新たな都については、ハーコン侯を討ち倒した時からニード川の河口にて既に着手していてかなり進めている。そして、海賊王として、もっともっと強くなるためには、より強大な艦隊が必要だ。どんな凶悪な海賊船であっても蹴散らすことができるような巨大戦艦を建造する」
「きょ、巨大、戦艦だって」
 聴く者を圧倒する単語に、ソールレイヴは肝を潰した。
 ノルウェーの新しき支配者オーラヴ王は、今までの支配者とは器の大きさが違うかもしれない。
 北方では、荒くれ者の集団ヴァイキングが力を持ち、その頭領がやがて侯であるとか王であるとか称号を名乗るようになる。その王なり侯なりが死んだり倒されたりしたら、別の有力者が王となる。南の国では王位の世襲が一般的だが、北方では力こそが正義だ。
 ヴァイキングとはそもそも峡湾の者、という意味である。峡湾の民、あるいは峡谷の民というのは、普通の北方の民のことだ。つまり、普通の民のうち、力のある者が武装商人や海賊となったため、ヴァイキングという呼称が彼ら海賊たちの代名詞となったのだ。勇猛さと優れた航海術と戦いでの強さ。それがヴァイキングの力だ。
 力で支配者にのし上がった権力者は、女好きハーコン侯のように、己の欲望に走るのが普通だろう。
 新都も巨大戦艦も、ただの見栄や自己満足で造るのではない。交易を活発にし軍船の基地とするため、敵を倒して戦いに勝つため、そういった先の展開を見据えた上で、新たな王は必要な巨大事業を打ち立てているのだ。
 新たな時代の流れが来ている。いや、オーラヴ王が、新たな時代の流れを起こそうとしている。
「そしてもうひとつ。大きな強い国を造るためには、人々が心を合わせなければならない。そのために、このオーラヴ王に忠誠を誓う者は、古き神々の信仰を捨てて、キリスト教に改宗してもらう」
 ソールレイヴの胸から昂揚は消えた。大きく口を開いて、しかし言葉は出なかった。聞き間違いであってほしかった。
「宗教は一人一人の心の問題だ。だから、今この瞬間にすぐに改宗しろとは言わない。しかし、よく考えてほしい。南の諸国では、大部分がキリスト教の教えに帰依している。時代の流れなのだ。逆らっても奔流に呑み込まれて消えてゆくだけだ。俺は海賊団の首領だった頃に、イングランドで塗油を受けて改宗した。部下の者たちも、まだ全員ではないが、多くの者が既にキリスト教に改宗している。いずれはノルウェーの民全員が敬虔なキリスト教信者となるように宣教師たちに活動させる」
 勇士の国ウホルノの名が出た時の比ではない。大きな困惑が民会の男たちの間に染み渡っていった。ソールレイヴもまた顔に不安の色を貼り付けて、小動物のように周囲の顔色を窺っていた。
 オーラヴ王が言う古き信仰、つまりアースの神々の教えを捨てるなど、全く考えられなかった。ヘイムッダルの子らである峡湾の民の生活に密着している、いや、生活の一部ですらある。オージンやトール、フレイアや場合によってはロキなどといった神を信奉せずに、どう生きて行けというのだろうか。
 足元から、うすら寒さが這い昇ってくる感じだった。今はスカンジナヴィアの短い夏が終わったあたりなので、雪も氷も平地では積もっていない。岩肌がのぞいているというのに。

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