さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第1章 第二王子の夢

▼1-3 中つ国

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 ラージャー第一王子とハルシャ第二王子には年齢差があり、その年齢差分、勉強をしている期間にも差があって学力差もある。なので、ハルシャは初級の講義を受け、ラージャーは上級の講義を受ける。だが、上級の勉強をしていて壁に当たった時などは初級の内容に立ち戻って基礎を固め直す必要がある場合も出てくる。

「復習だよ。別にハルシャの勉強を邪魔するわけではないから、僕が初級の講義に参加しても悪くないだろう。そもそも、山の位置や川の存在が頻繁に変わることは無いだろうけど、そこを支配している人間の勢力図は毎日毎日刻一刻と変化しているから、そこは常に新しい情報を吸収しなければなりません。といってもまあ、僕が王位を継ぐ頃には、今勉強した情勢すら変わってしまっているでしょうけど」

 ラージャー王子の言葉は、いずれ王位を嗣ぐ者としての自覚ゆえのものだ。

ジャヤセーナ論師は、ラージャー王子の質問に対して、腕組みをして難しい表情を浮かべた。

「グプタ王朝が、エフタルという当時存在していた騎馬民族国家に滅ぼされて以降、インドは群雄割拠の時代へと突入いたしております。一つの都市とその近隣の農村を支配する藩王や藩侯が幾人も並び立っている感じです。父君、プラバーカラ陛下は、元はといえば、このタネシュワールを中心とする藩王の一人でしかありませんでした。といっても王家はアショーカ王の時代から名前が続くという名家でもありますし、グプタ王朝の血も引いているという立ち位置ではありますが。その家柄も利用しつつも、それだけではなく、たぐいまれな統率力をもって周辺の幾つかの藩侯を従属させ、今ではイラン風の呼称で『統王』と呼ばれるようにまでなっています。そして、父君の君臨する王国は、近辺ではマドャデーシャと呼ばれていることもご存じだと思います。それは『中つ国』を意味する尊称です」

「では、近隣にはもう父上に逆らえるような勢力は無いということでしょうか」

「ラージャー王子、残念ながらそうは上手くは行きません。父君は『統王』となられたとはいえ、それでも幾つかの藩王勢力を纏めただけに過ぎません。全インド統一にはまだまだ道のりは遠いですし、北インドだけに限ったとしても、まだ油断できぬ勢力はあります。カナウジを地盤とするカーニャクブジャ国のグラハヴァルマン王も、諸方の珍しい品物が集積する交易と果物が繁茂し季節に応じた農業という強い産業を持っているため、万が一敵に回すと大変厄介です。また、その東のベンガルの狡猾な虎と呼ばれるシャシャーンカ王の統治するカルナ・スヴァルナ国も、危険な国といえるでしょう。その更に東にはアッサムという地方が力をつけていると聞きます」

 ジャヤセーナ論師が『カナウジ』という都市名を発した時、ただ黙って聞いているだけだったハルシャ王子の右の瞼が軽く痙攣した。男にとって右の眼が痙攣するのは良いことの前兆といわれている。

 カナウジに、自分にとって良いことが何かあるのだろうか。

「南インドをも統一することを視野に入れるのならば、ナルマダー河を渡ってデカン高原を越えて遠征に行かなければならないので、厳しい戦いを強いられることとなるでしょう。南インドでは、チャールキヤ王朝は特に強力な戦象部隊を維持していることで知られます。なので、それを打破するのは容易ではありません。また、敵をインド内部だけだと思っていては、視野狭窄になってしまいます。騎馬民族の白フン族は、エフタルという国は今は瓦解したものの遺民たちが居なくなったわけではありませんので、インドへの侵入と略奪暴行を常々企てている面倒な連中です」

 インドと周辺に関する地理と情勢の話を聞いていると、インド統一の道程は思いのほか遠く険しいようだ。兄のラージャー王子は難しい表情で真剣に講義を聴いている。ハルシャもまた講義自体には耳を傾けているものの、先刻のカナウジのことがどうしても気になっていた。

「王子お二人のお父上は、軍隊の運用においても優れた手腕を発揮されているようですな。先日も侵入を繰り返していた白フン族に一撃を加えて後退させることに成功したということですし。ただし、敵から矢を受けて左手に怪我を負われたのはご存知だとは思いますが。また更に以前には、武力衝突を避けられなかったマーラヴァのデーヴァグプタ王を撃破して敗走させたということですし。強い軍隊を維持するのには、馬や象を飼育して戦車を整備維持しなければなりませんので、費用も人材も必要です。それだけの資源を用意できるということが、国力ということです。ただ目の前の戦いで勝てば良いというものではないのです。軍隊を維持するという準備段階で戦争は静かに始まっているのです」

 マーラヴァという国名はハルシャも以前に聞いたことがある気がした。そういう土地が存在するのだから聞き覚えがあるのは当然なのだろうが、何か重要な関わりがあったような気がするのだが、思い出すことはできなかった。思い出せないということは、さほど重要ではない、ちょっとしたことなのかもしれない。

 一日が終わり夜になり、一人になれる時間になると、ハルシャは夜空の月を見上げるのが好きだった。古来より数多の詩人たちが月を仰ぎ詩を詠んできた。ハルシャもまた、月を見た時に心の奥深くに眠っている詩情を掻き立てられるのを感じるのだ。

 だが今日は月を見上げても厚い雨雲だけしか見えなかった。星の一粒さえも無い虚しい夜空だった。その代わり夜風は涼しく心地良かった。

 自分とは一体何なのか。

 中つ国の統王の第二王子として生まれたことに何の意味を天から与えられたのか。

 枕詞としては立派な中つ国だとか統王だとかいっても、所詮は広大なインドの中の地方の一大勢力でしかない。王子といっても第一王子ではなく第二王子だ。そんな自分が、インドの地に生まれてきて、何をするというのか。

 ハルシャ王子は再び月を見上げた。やはりそこには月は見えない。見えないけれど、見えないからといって月が存在しないというわけではない。雲が切れれば金色の輝きが姿を現すはずだ。それに月を見えなくしてしまうものであっても雨雲は、過ごし易い雨季をもたらすものであり、恵みの雨を降らせて渇いた大地を潤して豊穣の時を告げてくれるのだ。

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