さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第6章 鰐の馬蹄花

▼6-1 両親のいない子

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 アーシュヴィナ月となり、もうすぐ雨季も終わるとはいえ、これまでずっと雨続きだったことを思い返すと、いい加減太陽が恋しくなることもある。それでも天からの恵みによって緑は濃くなっている。深い森の中ではヒマラヤ杉、サール、セーマルの大きな樹が競い合うように葉を茂らせて枝を伸ばしている。

 最近は騎馬民族である白フン族の動きがまた活発化していて、父の統王も忙しいらしい。統王、つまり複数の藩を統合した大きな国の王であるからには、背負っている物も重い。併合した地域に対する異民族の侵入にも対応しなければならない。タネシュワールだけが平穏で繁栄していれば良いとは行かないのだ。それぞれの地域同士の連携を取るためにも、街道の整備や、それに伴い僧院、園林、堤防、池、宿舎などを作り寝具や食べ物を備え付ける必要がある。水の乏しい道路には飲み物を支給する小屋を作る。やるべきことは尽きない。

「騎馬民族、か。きちんと交易の話し合いがつけば、無駄な戦いで無駄に血が流れることも無く済むようだけど」

 ハルシャは一人で呟きながら、タネシュワール郊外にある森の方向を眺めていた。先刻まで森の中から一筋の煙が天に立ち昇っていたが、今は消えつつあるようだ。

 森といえば最近、凶暴な虎によって被害が続出しているという話を聞く。森に入ってそのまま帰らず行方不明になってしまう人が増えているのだという。虎や毒蛇といった野生動物による被害など珍しくはない。が、民が不安を抱くからには、格好だけでも虎の駆除くらいは行わなければならないかもしれない。「民草は、正しき道を踏み行けば、民安らかに天下泰平」という言葉もジャヤセーナ論師の講義で学んだことだった。

「ハルシャお兄様。やっと見つけましたわ。探していたんですのよ」

 背後から突然声をかけられた。今日もまたやや鼻声気味の声を聞くだけでも相手が誰であるか分かる。また、ハルシャのことをお兄様と呼ぶ人物もまた一人に限られる。

「ラージャシュリー。今日も相変わらず見目麗しいけど、今日は珍しく慌てているようだね。何か問題でも起きたのかい」

 ラージャシュリーは息を切らせていた。花粉によって息苦しさに苛まれていることもあるだろうが、急いで小走りにやって来たために息切れしているのだ。彼女の背後には槍を持った長身の護衛が付き随っているが、こちらは息は上がっておらず平然としている。

「わたくし、お願いしたいことがあるのです。でも父上は遠征に出ているとのことで不在のようですし、留守中のことはラージャーお兄様に相談すべきなのですが、今回はラージャーお兄様も父上に同伴しているので。こうなってはハルシャお兄様しか頼れる人がいないのですわ」

 頼られて悪い気はしない。ハルシャは少し鼻翼を膨らませながら、鷹揚に構えた。一歳だけとはいえども年上なので、懐の広さを見せたいという見栄があった。

「ラージャー兄上が不在ならば他に誰か側近の者に相談すれば良いのに。他の誰かでは聞き入れてくれないことなのでしょうか。随分と難儀なことなのでしょうか」

「わたくし、郊外の森に行って、そこで象の子を拾ったのです。両親は死んでしまったのでしょうか、一人ぼっちでしたわ。このままでは可哀想なので、わたくしが飼ってもよろしいでしょうか」

「ま、またですか」

 鴨、黒猫に続いて今度は、淑やかな容姿に見合わぬ、大きな話だった。余裕ぶった振りをしていたハルシャだったが、その上っ面の余裕は全部吹き飛んでしまった。

 子どもがどこからか犬や猫の子を拾ってきてしまい両親に叱られる。という話はラージャシュリー以外でも頻繁に聞く。だが、象の子を拾ってきたという者が従来存在しただろうか。

「ラージャシュリー。象を飼うというのは、なかなか難しいんじゃないのかな。鴨や猫の子どもと違って部屋で飼うわけにも行かないし」

 ハルシャは最初にありきたりな正論を言った。無論これだけで説得できるとは思っていない。案の定ラージャシュリーは頬を少し紅に染めて反論を始めた。

「そんなことを言っては、戦象はどうなるのでしょうか」

 象を捕らえて訓練し諸々の作業に使役するのは古来より行われて来たことだ。

 特に近年は強大な軍事力を持つ王が、象の数を集めて、鎧を纏わせて戦いの訓練をし、戦象として戦場の一翼を担わせることが普通だった。

 ただし多数の象軍を維持するためには厖大な労力と手間暇、財力が必要だ。つまり象軍の規模はそのまま国力を反映する鏡でもある。

「そりゃあ、王国としては象軍は維持しているけど、あれは愛玩動物じゃないんだ。厳しい訓練を課しているんだ。可愛がるためだけに象を飼うことが許可されるかな。象の世話なんて、幼い女の子一人でできることじゃないし、人任せにするんだろう」

「それは勿論当然のことですわ」

 ラージャシュリーは胸を張った。威張るべき部分ではないが、そこで開き直れるということが、生まれながらにして王侯貴族ということの証だった。やはりラージャシュリーは中つ国の統王の娘であり、ハルシャの妹なのだ。

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