さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第7章 遠征の後始末

▼7-4 愛別離苦

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 福地たるタネの古戦場への帰還をもって、残党狩りマーラヴァ遠征は終了し、王への報告が済んだところでハルシャはようやく副官の任を解かれた。遠征に出発した日が遠く感じる。

「あ、ハルシャお兄様。遠征に行っておられたのですよね。無事のご帰還、お疲れ様でした」

 中庭を歩いていると、珍しいことにラージャシュリーの方からハルシャに話しかけてきた。

「ただいま、ラージャシュリー。今日もうるわしいですね」

「お兄様、目の下がくまになっていて、アンジャナ膏を塗って黒くしたみたいですわ」

「あ、そ、それは、すみません。疲れているようなので、休ませていただきます」

 ラージャシュリーとのおしゃべりすらできないくらい、自分は心身ともに損耗しているのだ、という事実を認識せずにはいられない。

 自分の弱さを見抜かれるような気がするのでラージャシュリーの顔をまともに見ることもできず、背を向けて立ち去ろうとした。

 その時ハルシャは気づいた。心身ともに消耗しているかのように弱弱しく泣いているのはラージャシュリーだ。

 現在二人が立っている位置は、中庭の隅に作った黒猫カンハシリの墓標の付近であった。仏教を信奉する心優しき妹は、黒猫のカンハシリを救うことができずに死なせてしまったことを、今も思い出すたびに悲しみを新たにしているのだろうか。

 そういう時こそ、誰かがラージャシュリーに寄り添うべきなのだ。王族であるからには侍女たちや槍を持った護衛兵も常に側に控えているが、そういう人ではなく、対等な立場で喜怒哀楽を分かち合える人が必要なのだ。ラージャシュリーは王族に生まれたのみならず、幼い頃より謎の花粉症で苦しんで、他者と身近に接することができていなかったのではないかとハルシャにも推察できる。

「ラージャシュリー、泣いているのかい。黒猫の死を悼んでいるのですか」

「違うのです。死ぬのは、生き物の定めですから、それを悲しんでもきりが無いのです。死が悲しいのではなく、別れが悲しいのです」

 それだけをつっかえつっかえ言って、ラージャシュリーは再び目元を覆って涙を流しながら嗚咽を漏らし泣いた。

 脇に控える侍女たちから事情を聞いたところ、最初に助けていた鴨の子のアールティーが逃げてしまったのだという。

 黒猫のカンハシリは拾ってすぐに死んでしまったが、鴨のアールティーは無事に育って成鳥になり、空を飛べるようになった。ラージャシュリーの私室内では、鳥籠の中で飼っていたのだが、不注意で鳥籠が開いていて、更に部屋の窓も空いていたため、アールティーは飛び出して行ってしまったのだという。その後しばらくはアールティーが部屋に戻って来る可能性を信じて窓を開けたまま待っていたのだが、残念ながら戻って来なかった。

「カンハシリを助けられなかった分、心を込めて育てていたつもりだったのですが、まさか逃げられてしまうとは。やはり翼のある鳥としては、狭い鳥籠の世界ではあきたらなかったのでしょうか」

 泣きながらラージャシュリーは悲しみに満たされた心を述べた。ハルシャとしては慰めの言葉も思いつかなかった。こういう時に上手い言葉で妹の心をぬくもりで包み込むことができれば良かったのだけれども。自分の、こういう時の不器用さが憎くもある。

「俺の率直な思いを言うと、やっぱり鴨の子を拾ったこと自体が間違いだったんじゃないかなあ。鴨はこうして、ラージャシュリーを慕ってずっと一緒に居るってことも無く、別れが来てしまったわけだし」

 ほとんど独白に近いハルシャの言葉を、ラージャシュリーは泣きながらも耳をそばだてて聞いていた。

「それにあの鴨は人間に育てられたから、空を飛ぶことはできても、野生の中で長く生きて行くことは難しいんじゃないかな。自力で餌を取ることができるかどうか、天敵から身を守ることができるかどうか、そういう、自然の中で生きていくために必要なことを鴨の母親から学ばなかったから、これからの生きる道が却って険しくなるんじゃないかと俺は思うんだ。ラージャシュリーは慈悲で鴨を助けたかもしれないけど、じゃあそれで鴨が幸せになれたかというと、それは疑問なんじゃないかな。だから」

「でも!」

 ラージャシュリーが怒鳴って兄の言葉を遮った。突然発された大声に、侍女たちも槍を持った護衛兵も一瞬びっくりして体を震わせた。

「アールティーは、鰐に食べられかけていたのですよ。助けなければ、その場で死んでいました。鴨という空を飛べる鳥としてこの世に生を享けたのに、空を飛ぶこともなく早死にしたら、何のためにこの世に生まれたのか分からなかったじゃないですか。空を飛べるまでに生かせてあげて、実際に空を飛んで俯瞰する景色を見せてあげたのだから、わたくしが助けた意義はあったと思うのです」

 涙声ながらも、精一杯力強くラージャシュリーは断言した。

「野生の鴨だって、子どもはいずれ親元から巣立って行きますよね。今回のことは、それと同じなのだと思うのです。アールティーは一人前の大人になって巣立ったのですわ。お兄様は、人間に安全に育てられたアールティーは厳しい自然の中では長生きできないと決めつけておられましたが、必ずしもそうとは思いませんわ。もしかしたら観音菩薩の御加護で強かに生き延びるかもしれませんわ」

「鴨が飛び去ったのが、大人になったがゆえの巣立ちなのだというのなら、そして、これからもちゃんと生きていけると言えるのならば、悲しんで泣くべきことじゃないのではありませんか。アールティーが大人になったことを寿ぎ、笑顔で見送るべきなんじゃないの」

 ラージャシュリーの感情的な怒鳴り声に負けないように力強い声で、ただし感情に任せて勢いで言い募るのではなく、冷静に理路整然と筋道を立てて心の裡にある気持ちを述べた。

 感情的になっていたけれども、兄の言葉をしっかり聞くだけの冷静さだけはラージャシュリーにも残っていた。

 侍女から新たに水色の手巾を受け取って、ラージャシュリーは涙を拭った。その手巾で鼻と口を隠しながらではあるが、目だけは真っ直ぐに兄のハルシャを見据えた。

「そう、ですね。お兄様の言うことは正しいと思います。観音菩薩の御加護のもとでの巣立ちなのですから、お祝いすべきことなのですね。お兄様に指摘されなければその視点は持てませんでした。わたくし、あまりにも寂しくて、別れというところばかりに心を持って行かれていました」

 手巾で鼻から下をおさえたままだが、ラージャシュリーは笑顔を浮かべた。明らかに無理矢理作った笑顔だということがハルシャにも分かった。

「改めてお礼申し上げますわ、お兄様。アールティーと別れるのは悲しいですが、その悲しみに流されてしまうことなく、アールティーのこれからの生涯が稔り多きものであることを祈念いたしますわ。そして、黒猫のカンハシリは死んで鴨のアールティーは飛び去ってしまったけど、まだ残っている象のダナパーラを大切に慈しみたいと思います」

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