さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第12章 慈悲の報い

▼12-3 和平へ

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 少しの沈黙を経て、ハルシャは耳當を括り付けた矢を見ながら答えた。

「俺は王子の義務として受ける座学の勉強は好きではなかった。が、弓矢の練習は一生懸命やってきたつもりだ。実際に上達もした。兄と比べたら互角くらいだが、一般の兵士と比べれば達人の域に近いはずだと自負している。今日はその練習の成果を見せる時が来たってことだ」

 無論ハルシャにも不安が無いわけではなかった。

「王子、そろそろ日没ですよ」

 空は薄暗くなってきていた。巡回の兵士が既に通り過ぎているのは確認済みだ。

 木の陰に隠れていたハルシャは、弓を構えて、南東隅の塔の四階に的を定めた。

 素直に最短距離で矢を射たのでは拙い。部屋の奥にラージャシュリーが居ると、矢が当たってしまう危険がある。こういう時こそ、本当に意味があるのか無いのか分からないながらも練習を続けていた、あの技法の出番だった。

 物を壊さないようにする射撃法だ。濃い緑色の陶器の壷を使って練習していた。兄のラージャーも弟のハルシャも、ほとんど成功させたことが無い、弓矢の中でも特に難しい技法だ。

 ハルシャは鏃を上空に向けた。壷を狙う時と同じ要領だ。上に向かって高く射て、前方へ向かう推進力よりも、物体が下に落ちる動きの方を頼るのだ。

 弓矢を引き絞る腕が緊張で震えた。失敗は許されない。矢が窓に入らなくても失敗だし、窓に入ったとしても自分の射た矢でラージャシュリーを傷つけてしまったりするなどは言語道断だ。

 胸の鼓動が早くなる。気持ちの糸も張り詰めて限界だ。だが、信じるしかない、水精珠の耳當が結ぶ、兄妹の絆を。

 ――観音菩薩よ、ラージャシュリーへの俺の気持ちを届けよ。

 矢は空高く舞い上がった。薄暮の空を放物線で切り開いて、斜めに落下する矢は、カナウジ南東隅の塔の四階の窓へと狙い通りに向かった。

 上空から斜め下へ進んでいた矢は、四角い窓の上辺に僅かにかすって勢いを減じて、窓の中へと落ちた。

「せ、成功しました」

 見届けたサムヴァダカの声が震えていた。

 あまりの緊張ゆえにハルシャは、今のただ一射だけで気力も体力も使い果たしてしまっていた。今はまだラージャシュリー救出のための第一段階でしかないのだが。

「王子、あ、あれを」

 サムヴァダカが指差して示すまでもなく、ハルシャの目も四階の窓を見据えていた。

 窓枠の中に人影が姿を現したのだ。遠目ではあるが、見間違えるはずもない。ラージャシュリーだ。手には矢を持っているようだった。

「ラージャシュリー様に届いた。やりましたね、王子。見事です」

 今まで幾つの緑色の壷を割ってきたことだろう。ラージャーとハルシャ二人合わせれば相当の数にのぼる。その破片を全部ここに持って来れば水堀を埋めることすらできるかもしれない。

 ただし、大成功の余韻に浸っている暇は無かった。

 甲高い、耳障りな笛の音がカナウジ城内から鳴った。

「ハルシャ王子、隠れてください。まずいですよ。今の矢、衛兵に見つかってしまったようです」

「なんだと。城壁の上の巡回兵がいない隙をきちんと狙ったじゃないか」

「多分、城壁の下の街路を巡回警備する兵士に見られてしまったのだと思います。恐らく、城壁の上と下とで巡回の時間をずらして、死角が少ないようにしていたのだろうと思われます」

 城壁の内側の街路の様子は、当然、ハルシャたちがいる城外の森からは観察することができない。そこまで想定するのは最初から無理があった。

「仕方ない。一旦撤退しよう。恐らくここもすぐに人員が差し向けられるはずだ」

 ハルシャとサムヴァダカは走って森を抜け、隊に戻った。

 輜重隊も既に本体に追い付いて合流している。ラージャー新王が親率する本隊の騎兵一〇〇〇〇は、カナウジ城を包囲している。包囲といっても完全包囲ではなく、平原に面している東側と北側に兵を展開している。

「ハルシャ王子、戻られましたか。本隊のラージャー新王がお呼びです。至急、本陣に来るようにとのことです」

 休む間も無く、持っている弓矢を置く暇も無く、ハルシャは兄と面会した。

「ハルシャよ、よく聞け。カルナ・スヴァルナのシャシャーンカ王から和平会談の提案があった。その席で、カナウジ解放についても話し合いを行う予定だ。余は今から、供の者を連れてカルナ・スヴァルナへ向かう」

 ハルシャのあずかり知らぬところで事態は急激に動いていた。まるで夜の洪水が眠っている村を押し流してしまうかのように。

「兄上、ではなくて陛下、それは危険ではありませんか。ベンガルの狡猾な虎と呼ばれるシャシャーンカ王は、デーヴァグプタ以上に奸智に長けていて油断ならない人物と聞きます。マーラヴァの奸王と呼ばれたデーヴァグプタでさえ、手玉に取られて便利に利用されて、魚を捕る時の撒き餌のように捨てられたのですから。敵の懐に自ら乗り込むのは危険です」

「しかし王たる者、危険を言っていては始まらない。白フン族の血の気の多い者たちとの交渉にも、余と一緒にハルシャも行ったではないか」

 白フン族との通商交渉は、白フン側も締結を望んでいたことだ。騙し討ちをする利点は双方にとってほとんど無かった。今とは状況が異なる。

「勿論、余とて、容易に罠に嵌るつもりは無い。いずれにせよ余が不在の間、軍を率いてカナウジ包囲を続けなければならない。その指揮をハルシャに託す」

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